幅10メートル以上、全長6,300kmの道が古代にあって、それがなくなってしまったという驚きのお話です。
カメラを気球に乗せて、雨上がりを撮影すると、古代の道の跡が黒い影となって浮き上がってきます。それは、幅4車線の道に匹敵する13m・・・。都と地方とを結ぶ道が、どこまでも走っていました。それは、全国のあちらこちらで発見されています。
飛鳥から奈良時代にかけて造られたもので、巨大な公共事業でした。
では、どうして雨上がりに浮き上がるのでしょう?
この道路、とても水はけがよく、その両脇にあった溝に水がたまって、それが黒く浮き上がるのです。
この道は、中央集権国家と国府を繋ぐ道でした。途中には駅家(うまや)がありました。
奈良時代にはすでに、東山道、東海道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の7つの幹線道路がありました。
1961年に撮影された航空写真には、それが写っています。
全国に張り巡らされた道・・・。全ての古代道は、平城京に通じていたのです。
それは、全国で発見された35万点ある木簡のうち、17万点が平城京から発見されているところからもわかります。この木簡には、陸路で運んだものが書かれてありました。
また、使者は、内裏で行われた出発の儀式のあと、公文書を携えて鈴を鳴らしながら遠くは大宰府まで走りました。
今やると、1兆4000億円かかる事業を、延べ3000万人で、もちろん全て人の手で作りました。
では、それは誰の命令で造られたのでしょうか?文献にはありません。
このように、時間もお金もかかるプロジェクト・・・誰が命じたのでしょうか?
有力なのは、天智天皇か、天武天皇です。
天智天皇説としては・・・。
当時の日本は、倭国、外交情勢としては百済が滅亡した頃です。
天智は、軍を出すも、663年、白村江の戦いで新羅・唐の連合軍に敗れてしまいました。
その後天智は防人を置いたり、水城、山城を造って防衛ラインを作ります。
倭国を守るため・・・そのためには、軍隊、物資の移動のできる交通網、広くてまっすぐな道が欲しかったのです。
天武天皇説としては・・・。
大友皇子との内戦に勝ち、即位した天武。国名を倭国から日本にし、中央集権国家を築きました。その時すでに、全国の役所が機能していました。
地方の人にまで権力がくまなく示せるように・・・。国家の力を示すための古代道。
規模的に、天武天皇が時間をかけてやったと思われています。というのも、誰が命じたか?記録が残っていないのです。
では、道をどう使っていたのでしょう?
そこは、駅使といわれる人が通り、大宰府から平城京まで4日で行くことが出来ました。
また、庸や、調を納めるために、通った道でもありました。
周防国は、銅で有名で、和同開珎を作ったとされる銅山・長登銅山がありますが、この銅を使って、奈良の大仏も作られたといいます。
この道は、現在の高速道路と同じようなところを通っています。最初の高速道路の総延長は北海道を除いて6,500q、古代の幹線道路の総延長は推定6,300kmと、変わらないのです。
国の考えることは、今も昔も変わらないということなのでしょうか?
人工的に計画的に、権力を誇示するために造られた古代道。100年余りで壊されることとなります。農民達の手によって、田畑とされてしまいました。それは、時代が変わって権力者としての支持がなくなってしまったことを意味していました。
今では殆どが地面の下に眠っています・・・。
私の古代の道のイメージは、狭くって、埃っぽくって・・・という感じでしたが、古代の道は全く違ったようです。道もアスファルトのように固かったとか・・・。
それを人間の力で、木の鋤や鍬で作ったというから、すごいですよね。昔の人のほうが、根気強くて逞しかったということでしょうか?

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