2011年12月22日

華麗なる独眼流・伊達政宗

久しぶりのBS歴史館・シリーズ激論!戦国の真実「華麗なる独眼流・伊達政宗」です。

独眼流・伊達政宗は、戦国乱世を駆け抜けた英雄で、人気も高く圧倒的、天下も取れなかった地方の一武将にもかかわらず、どうしてこんなに人気が高いのでしょうか?

伊達政宗といえば・・・一匹狼・肉食系・勇猛果敢な武勇がある一方で、料理を振舞ったり、筆まめであったり、書も書くといったような粋で教養と華麗なセンスも持ち合わせていたようです。

マルチな才能で、戦国時代の逆境を生き抜いた人でした。

1567年出羽国、米沢に伊達輝宗の長男として生まれます。当時は、30歳以上離れた信玄が活躍していた時代でした。

5歳の時、天然痘に罹り右の目の視力を失います。このハンディキャップが、己をどう見せるかというこだわりになったのではないかと思われます。

輝宗の跡取りとして鍛え上げられ、1581年、15歳で初陣を飾ります。

1582年、本能寺の変が起こり、絶え間ない天下取りの攻防戦が繰り広げられます。当時の鎧は、華美な装束が流行っていました。桃山時代という華やかで華美な時代・・・金箔が発明され、甲冑にも利用されます。

が、政宗は月の前立てと黒一色という異形でした。きらびやかに権威を示す武将の中で、政宗は実用的なもの、あえてシンプルなものにしたのです。胸は分厚い厚さ4mmの鉄板を使用、これは、火縄銃に対抗するためでした。が、現在の22口径の銃弾でも貫通しないのどの強靭なものでした。

流行に迎合せず、黒漆で塗り上げた甲冑。。。それは、逆に政宗の存在を際立たせることになりました。

家督をついで5年、1589年、23歳で南奥州制覇。その名を東北に轟かせることになりました。

その政宗の強大な敵、豊臣秀吉。秀吉は、西日本をほぼ手中に収めていました。そうして、関東に向いて来るのです。

1590年、関東の北条攻め・・・北条が5万のところ、秀吉は20万の軍勢で攻めます。それは、圧倒的な、天下統一のパフォーマンスでした。

この北条攻めの際に、秀吉から北条攻めに参加するように、参陣の命が下っていました。服従するか?挑むのか?命の危機に晒されていました。

迷った末の決断で、遅ればせながらやってきた政宗は、死に装束をまとっていました。そこには、秀吉との演出合戦があったのです。

この死に装束の意味は?北条の次は、伊達に攻め込まれるのはわかっていました。秀吉を研究していた政宗は、秀吉に直接合わせてもらうために、命を懸けて・・・という意味をこめて白装束にしたのです。

直接会ってしまった秀吉にしてみれば、殺してしまうと面子に関わるのです。そういうところを見越しての白装束でした。

政宗は、追い詰められても帰ってくる男でした。

書も一流で、歌も一流、その内容は、繊細で慎重しかもしたたかでした。現存する手紙は1300通以上。当時は右筆、という側近に書かせていましたが、自らが書きました。戦国一の筆まめだったのです。

天正13年、19歳の時に伯父最上義光に宛てた手紙では、あえてやってもいないような残虐な内容を書いています。

また、母との確執でも有名ですが、7通残っている母の手紙には母に対する愛情が溢れています。とても、母が政宗に毒を盛ったというような事件があったとは思えないような内容でした。が、史実としてそれは残っています。

政宗は、誰か。。。つまり敵が手紙を読むことを見越して書いていたようです。手紙=プロパガンダと思っていたのです。宣伝と情報操作に手紙を利用したのです。



乱世が終わり、天下泰平になった後は・・・

戦国一のグルメとなりました。美食家ではなく、実用的な・・・。発酵食品を好み、兵糧として長持ちする味噌の製造を目指します。藩直轄の製造所を作り、研究を始めました。これが、今の仙台味噌です。1年から2年かけて熟成させるので、長持ちします。

そうして、この料理を戦略として利用するのです。

1603年、家康が江戸に幕府を開きます。
徳川家三代で全国でお家断絶になった大名は100以上。謀反の噂の絶えない正宗は、贈り物攻勢にでました。

仙台の特産「子ごもり鮭」「オットセイのたたき」などの珍味、高級食材を献上しました。政宗の、生き残りをかけたグルメ戦略です。

また、様々な家臣と、コミュニケーションをとるために食事をしました。殿自ら料理を作る「おもてなしの心」これが、信頼の絆となりました。

「料理の心得がないものは、心が貧しいものである。
  一品でも自ら盛るならば、それが最高の馳走である。」

実はこの頃、茶道の発達により、会席で温かい物が食べられるようになってきました。今の日本の食事の素は、この頃にありました。

そんなおもてなしの心で、接待をして生き残ったのです。
その逸話として・・・
秀忠に自ら膳をだす機会がありました。”自ら”となると、当時は”毒を盛る?”というような疑いもありました。

そう指摘された政宗は・・・「10年前ならいざ知らず、今は上様のお命を狙うつもりなど毛頭ないわ。その10年前でさえ、毒という姑息な手段など使わず、合戦で挑む。」と、さらっと言ったといいます。
戦の世も平和の世も、楽しんでいる人でした。

国許での政宗。。。

関ヶ原の翌年、仙台を本拠地とします。
杜の都仙台・・・。東北最大の都市の原型を、400年前に造ったのは政宗でした。
晩年は、日本一の国づくりを目指します。未来を見つめるグローバルな眼を持っていました。


荒地だった仙台。。。海が近く、交通の便もよく、しかし、三方の山が要塞となり、広瀬川が堀の役割をし、堅固な城となりました。首都になってもおかしくないような設計になっていましたが、当時流行っていた天守閣は作りませんでした。

政宗は、広瀬川上流から取水し、用水路を造り、人口増加による建築材の不足に備え、成長の早い杉の木の植樹を奨励しました。

1611年10月28日、慶長三陸地震が起こります。

領内の田畑は壊滅。大津波で5000人以上が亡くなりました。政宗45歳の時に起こった大天災でした。

これに対して政宗は、津波の被害にあった地域を復興し、新田開発をしました。

そうして、起死回生の壮大な事業に挑みます。それは、太平洋航路を利用した海外貿易でした。南蛮貿易は、当時は西国大名や、堺が中心でした。仙台からスペインとの新しい貿易ルートを開拓しようとしたのです。

そこには、復旧だけでは危うい・・・。という危機感がありました。家臣や商人に夢を与えるために、慶長遣欧使節団の実現に取り組みました。

そうして、地震から1ヵ月後、江戸屋敷にスペイン人を招き、仙台藩での布教容認を条件に貿易交渉をしました。

現在、石巻港には、サン・ファン・バウティスタ号が復元されています。

この船は、1613年9月に出航。スペインやイタリアを回りました。しかし、幕府のキリシタン弾圧で交渉が決裂してしまいました。

このときに新田開発した土地は、江戸の米の三分の一を供給することになり、石高は100万石へ。
政治家としても一流の政宗でした。

政宗の句
「入りそめて 国豊かなる みぎりとや
  千代とかぎらじ 仙台の松」

「この地に来たからには、千年以上続く 豊かな国にしてみせよう」

仙人のつどう理想郷という意味をこめた「仙台」

その地は400年たった今も、杜の都として魅力的ですが、それは、伊達政宗が造ったからでしょう。



↓ランキングに参加しています。るんるん
↓応援してくれると嬉しいです。揺れるハート


にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
ラベル:独眼流 伊達 政宗
posted by ちゃーちゃん at 14:16| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。