2011年09月16日

〜寛政の改革をした男〜松平定信〜

寛政の改革をした男
今日見たのは・・・。

〜寛政の改革をした男〜松平定信〜です。

この時代は、いったいどんな時代だったのでしょうか?江戸は、100万人を超える世界的にも超巨大都市で、歌舞伎、相撲、川柳なが町人文化が花開いた時代でした。

この時代を作ったのは、「お主も悪よのう」でお馴染みの田沼意次でした。田沼は、農業中心から貨幣経済へと移行させていて、商人たちは潤い、本格的な貨幣経済が始まろうとしていました。
田沼意次は賄賂政治家だけではなく、実力のある優秀な老中だったのです。

しかし、悲劇が・・・。
浅間山の大噴火・天明の大飢饉によって、田沼意次は失脚します。当時の将軍は15歳の家斉。お飾りでした。その将軍を支えたのが、松平定信だったのです。

この開幕以来の危機を、農業重視、質素倹約を旨とする寛政の改革で乗り切ろうとしたのです。

伊能忠敬に日本の地図を作らせたり、間宮林蔵に国防のため北方の調査もさせました。

では、どんな幼少時代だったのでしょう。

もともと松平定信は御三卿のひとつ、田安家に生まれ、聡明な跡取り候補で、ゆくゆくは将軍も夢ではありませんでした。この御三卿、政府としては維持に莫大な費用がかかったのです。そこで、田沼意次は定信を白河藩に養子に出すことによって経費を削減しようとしたのです。

将軍に一番近い男が16歳で養子に出されたのです。定信には憎しみが残りました。

そんな中、天明の大飢饉が起こります。浅間山の噴火に、冷害による飢饉。
定信の飢饉対策は、「白河藩では餓死者を一人も出さないこと」でした。しかし、藩の米蔵はすでに空っぽでした。

そこで定信は、斬新な対策を立てるのです。
まず、凶作を免れた越後にある白河藩の飛び地から1万俵の米を送らせます。江戸では、食料品、日用品を買い漁ります。資金は定信が責任を持って借金しました。
一粒の米も無駄にしないように、民には頑丈な木の桶を配りました。なぜかというと、当時、川で米を研いでいると、盗賊に襲われたからです。あー怖いです。ΣΣ( ̄◇ ̄;)!

また、南湖公園にある沼を、人造湖にしました。これは、公共事業をして民にお金を落とすためでした。特産品も作り、白河だるま、南湖団子は今でも特産です。

養子に来ただけなのに、こんな飢饉に遭って・・・。と、家臣が言うと、「災い転じて福としたい」と、家臣に言ってねぎらったといいます。

家斉の補佐になった経緯は、異例のことでした。
もともと御三卿は、位は高いのですが、老中などの役職にはつけません。老中になるためには、奏者番→大阪城代→京都所司代→老中と、スッテップアップしていくもので、白河藩主がポッと老中になるのは有り得ないことでした。

大飢饉をきっかけにして起こった暴動、天明の打ちこわし、これによって、政治が不安定となり、田沼派は、一掃されます。

しかし、筆頭老中になりたい人はたくさん居たにもかかわらず、松平定信が力で押され、老中筆頭+将軍補佐役という地位を持つことになるのです。

中央に返り咲いた定信は、ことごとく田沼と正反対の政策を打ち立てていきます。

財政難に立ち向かう定信。。。

田沼の政策にかかわった人をことごとく失脚させます。貨幣経済から米を基本とする経済へ戻そうとしたのです。

当時は、人々は未曾有の飢饉に遭い、農業に見切りをつけ、農地をほっぽりだし、江戸へ流れ込んできていました。地方の農地は荒れ放題だったのです。

そこで、旧里帰農令を出します。江戸に来た農民が、故郷の村に帰れるようにお金を出し、農業の為の資金を与えたのです。これは、農業を立て直すだけでなく、無職者をなくし治安維持に努めたのです。

また、七分積金の制を出し、町で積立をし、飢饉に備えるようにしました。

人々は、
「田や沼や
  汚れた御世を改めて
   清く住むる 白河の水」  と詠います。

しかし、改革は意外な方向へ・・・。

飢饉と関係のない町人文化を取り締まりだしたのです。いわゆる倹約令です。まず、浮世絵を風紀を乱すといって規制しました。浮世絵に位置づけは、今でいう、アニメや漫画のようなもので、巨大ビジネスになっていました。町民の反発を買うのは必至でした。

版元は、町人文化のパトロンでした。まず、蔦屋重三郎に目をつけます。そこの喜多川歌麿の豪華絵本の出版を差し止め、蔦屋の財産を半分没収します。歌舞音曲は、華美贅沢であるとし、町人による貨幣経済を押さえ込もうとしたのです。そして、家康の頃の、かつて武士が最も輝いていた時代を懐古し、質素倹約を旨としたのです。

幕府がいつもする奢侈禁止令(質素倹約)、これに加えて行ったのが、棄えん令、これは、借金の帳消しや低金利での返済を命じたもので、借りていた武士は喜ぶものの、貸した商人はずいぶん店が潰れたようです。その踏み倒し額、118万両。

定信の基本は仁政で、義気を持って政治をなす。日本人らしく生きていこう。という理想に満ちたものでした。

これには町人も

「白河のあまりの清きに耐えかねて
     濁れるもとの田沼恋しき」

と、詠い、定信を批判し始めます。

この質素倹約によって、町人文化は衰退し、経済は停滞するのです。

でも、町人も黙っていませんでした。
蔦屋は有名絵描き職人が規制をかけられる中、新人を発掘します。
天才「写楽」です。古きよき武家社会は、豊かな生活に慣れてきていた庶民には受け入れがたいものだったのです。

また、家斉は20歳を過ぎて、贅沢を好み、定信に対し不平不満を言うようになります。定信がやった政治は、のさばる商人を懲らしめ、武士の権威を取り戻すためだったのに、将軍がこうでは・・・。Σ(T□T)

NO,1との間に出来た大きな溝。その上、一橋治済(十一代将軍家斉の父)が、将軍家に入りたい。自分も大御所になりたい。と、言い出したのです。御三家、御三卿からも疎まれだした定信。律儀な定信は、毎年進退伺いをしており、6年で引退すことになるのです。

彼には意外な一面がありました。
文化や芸術には興味のない人に見受けられますが、彼が隠居生活をしていた三重県桑名市にゆかりの品が残っています。

それは、一本の見事な掛け軸。公には厳しい倹約を行っていたものの、文化的な側面も持ち合わせていました。着物もおしゃれなものが残っており、仕事と本音は違っていて、風流心があったのです。

寛政の改革については、専門家の間でも、賛否両論ありますが、七分金積立は幕末まで受け継がれ、(1700億円になっていたらしい)渋沢栄一が中心になって管理し、森有礼によって商法講習所をつくる資金となるのです。この商法講習所は、現在の一橋大学に当たります。

日本の改革は、ことごとく失敗するようになっているのか、成功したのは、大化の改新、明治維新、戦後の改革だけです。

これは、既得権益を捨てられないという日本人の気質で、総論には賛成でも、各論には反対するという今でも変わらないのかも?!

外圧のかかった時のみ、追い込まれた時のみ、成功するようです。

晩年、定信は、外国船の絵を描いています。そこには、外国に対する警告文のようなものが記されていました。

彼は、徳川幕府の終焉を予期していたのかも知れません。その24年後に、幕末の騒ぎが始まるのです。


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posted by ちゃーちゃん at 14:23| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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