2011年09月20日

ヒトラーの影法師と言われた男

ヒトラーの影法師と言われた男
BS歴史館。やっと見ることができました。

今回は、側近が見た独裁者ヒトラー(1)ヒトラーの影法師と呼ばれた男でした。でも、側近が見たヒトラーって。。。ヒトラーの事はあまりしなかったな・・・。どちらかというと、ナンバー2みたいな内容でした。

この主人公は、ルドルフ・へスです。この人は、ゲーリングやゲッペルスと違って、あんまり有名ではないようです。

ヘスは、ヒトラーの首相就任と共に、副総統に任命され、強大な力を手に入れますが、実質的な権力は与えられず、反ユダヤ主義暴動やポーランド侵攻では、ヘスが采配を振るうことはありませんでした。

この、ナチ党副総統、ルドルフ・へスの数奇な運命を、彼が人生を捧げたナチスドイツの知られざる側面を振り返ります。

ルドルフ・へスは、ナチスの中では目立たないですが、ヒトラーに次ぐ地位を持っていました。かれは、ヒトラーに何かあったら、次の指導者になる立場であったのに、ヒトラー個人に仕えた従僕だったのです。

何故目立たなかったのか?それは、例えばゲーリングは空軍、ゲッペルスは宣伝、でも、へスでないと語れないものはありませんでした。

もともとナチスは、トゥーレ教会のひとつのドイツ労働者党から、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)ヒトラーと共に大きくなりました。その大きくなり方、何故国民がヒトラーに惹かれ支持していったのか・・・。

ヘスは、1894年エジプトのアレキサンドリアに生まれます。裕福な貿易商の家に長男としてうまれ何不自由ない生活、父ヨハンは祖国ドイツに忠誠を誓っていました。

14歳で全寮制のドイツの学校に進学、父は貿易商を継がせたかったのですが、1914年8月ドイツが第一次世界大戦に参戦。国中が高揚感に包まれる中、親の反対を押し切って、西部戦線へ行きます。この経験が世界観を変えたのです。航空隊へ入りましたがドイツは敗戦。それを機にミュンヘン大学へ進学します。

1919年5月、暴力闘争の果てにドイツ義勇軍が共産主義者からミュンヘンを奪取。学生だったヘスはこの反共産主義闘争に加わり、人生を捧げることとなるヒトラーと会うのです。

1920年、ヒトラーのナチ党に、創立メンバーとして参加。学生を勧誘します。ヒトラーが蜂起していたミュンヘン一揆でも、最前線で戦い、二人は投獄。この、ランツベルグ刑務所で「わが闘争」を書き上げるのです。

当時のドイツは第一次世界大戦に敗戦。ベルサイユ条約で、ドイツ帝国は戦争を引き起こした責任を取らされ1320億マルクという賠償金の支払いと、領土の割譲が課せられます。

ヒトラーは、時代の不安感につけこむ天才でした。国民は、この課せられた多額の借金に苦しんでいました。この不満に乗って・・・。ヒトラーがやったミュンヘン一揆は、バイエルン州に臨時政府を樹立し国家の転覆を図るクーデターでした。失敗したものの、ドイツ国民にヒトラーを印象付けるには十分でした。

そこでのヒトラーの演説。彼の演説は天才的で、みな心酔し救世主のようにあがめるようになるのです。そこにはヒトラーの、一か八か、生か死かの鬼気迫る世界観があったのです。ヒトラーの意思の強いところに引かれる・・・「意思の勝利」でした。

そうして、帝国国民は党の方針を一切疑わず、従うようになっていったのです。党こそがヒトラーの権力の土台でした。

この頃すでに、副総裁にもかかわらず、ヘスには発言権はありませんでした。ヒトラーは、人の意見など取り入れず、独断で国を支配するようになっていったのです。その結果、帝国は独裁国家へと突き進んで行きます。

そうして、誰もが認めるヘスの誠実さは利用されていきます。

1938年11月9日、ドイツ各地で反ユダヤ主義暴動が起きますが、ヘスは権力の中枢にいたにもかかわらず、知らされていなかったこと、また、止められなかったことにショックを受けます。

しかし・・・。戦争は迫っていました。にもかかわらず、ヘスはヒトラーを信じ、「ドイツは平和を築く義務があると、総統は常に強調してこられた」と、ヒトラーが平和を演説していると訴えます。

1939年9月、ポーランド侵攻に勝利したヒトラーが呼び寄せたのは、同士ゲーリングでした。ヘスは三番目に格下げされたのです。

ヘスに部下がいなかったり、発言権がないのは、独裁するためには自分が一手に引き受けたいとヒトラーが思っていたからでした。

1940年5月フランスに侵攻し、6週間で勝利。この西部戦線がヒトラーにとってゆるぎない自信となるのです。ヒトラーはますます、助言に耳を傾けなくなります。

イギリスとの戦争にあたり、誤解から生まれた戦争と信じていたヘス。でも、チャーチルもヒトラーも、和平は望んでいませんでした。
ヒトラーは和平に対して「これ以上私に何が出来るというのだ。私が向うに飛んで行き、ひざまずいて頼むことは出来ないのだ」と言ったといいます。

このことで、ヘスは自らイギリスへ行こうと決意をします。これは、国家に対する反逆の何物でもありません。しかし、ヘスはヒトラーを信じていました。ヒトラーに対する己の純粋な信念、ロマンチシズム。

1941年5月10日へスはイギリスに単独飛行を行います。そして捕らえられ、監禁されるのです。

そのときヒトラーは、「よくもこんな事をしてくれたな!」講和条約で、「ヘスの帰国を要求する。反逆罪で裁判にかけて処刑してやる」と言ったのです。

1941年6月ドイツはバルバロッサ作戦を遂行、東方の殲滅作戦を行います。副総統がいなくても、何の不都合も生じませんでした。

捕らえられたヘスは、このことをくよくよと悩んでいたといいます。

何故、単独飛行したのか?ヘスは、東方への殲滅作戦をしたら、ソ連が攻めてくる、アメリカも参加するかもしれない、早く和平をしないと第一次世界大戦のようになって負けてしまう。それだけはなんとしても避けなければ。という気持ちからだったようです。彼にとっては裏切りではなく、英雄になりたかったのです。しかし、これは、客観的にみるとまともではありません。敵に対しても、副総裁がこうでは、国家として戦争継続能力がないのではないか?と思われるからです。

ヘスの滅私奉公は、ヒトラー政権12年のうち8年間でした。

ドイツの降伏で、ヨーロッパ戦は終わり、ナチのニュルンベルグ裁判が始まります。ヘスは、ユダヤ人虐殺やソビエト侵攻にかかわっていないにもかかわらず、すべてにおいて起訴されます。

法廷では明らかに精神が病んでいるように見えましたが、2週間後「裁判を受ける能力がないと断定されないために、ここに宣言を行います。私は法廷での戦術として記憶喪失を装っていました。」と。その結果、終身刑を受けることになります。
しかし、こうも言っています。「わが民族の歴史が生んだ最も偉大な息子の下で、長年働くことが出来たのは、名誉なことでした。たとえ可能であっても、その年月を人生から消し去ろうとは思いません。国民にお対する義務を果たすことが出来て幸せでした。ドイツ人としての義務。国家社会主義者としての義務。総統の側近としての義務。すべてを果たすことが出来ました。何一つ後悔していません。」

終身刑に服したヘスは、連合国の監視下におかれました。1969年まで家族とも面会せず、イギリスへの単独飛行は沈黙しました。最も経費のかかる受刑者でしたが、彼の釈放を阻んでいたのはソ連でした。ベルリンにあるこの刑務所を前線基地として維持していたかったからだといわれています。ヘスの釈放を求める声が上がりますが、これは、ゴルバチョフになるまで応じてくれませんでした。

1987年刑務所内で自殺。遺族は自殺とは思っていず、遺書があったにもかかわらず、イギリスが秘密保持のため、暗殺したという噂もあります。他殺だったという証拠もないが、未解決事件となっています。

ヘスの葬儀はネオナチの支持により延期されます。ネオナチにとってヘスは、裁判においてもヒトラーを否定せずに生き抜いた、ネオナチにとって鏡のような人でした。

彼の信じ続けたナチズムは、まだ葬り去られていないのです。
ただ彼は、ヒトラーに依存しすぎました。

本当に、思い込みって怖いですよね。
太平洋戦争も然り、今のイスラムの聖戦も然りです。
チャップリンの「殺人狂時代」を思い出しました。有名なあの言葉です。

「一人の殺害は犯罪者を生み、百万の殺害は英雄を生む。数が神聖化する。」

洗脳教育は、本当に恐ろしいですね。



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posted by ちゃーちゃん at 13:12| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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