2011年09月29日

レニ・リーフェンシュタール

BS歴史館、昨日見たのは、

私はヒトラーの愛人じゃない「レニ・リーフェンシュタール」です。

1933年から12年間、独裁者として君臨した、アドルフ・ヒトラー。彼の絶大な権力の元、プロパガンダ映画を作り、協力者として非難され続けた女性です。

彼女はヒトラーの依頼で、「ナチ党党大会記録映画」を三本作ります。「信念の勝利」「意思の勝利」「自由の日」です。

なかでも「意思の勝利」はその出来栄えから、ヒトラーの神格化に最も効果を発揮したといわれています。

また、ヒトラーに気に入られたレニは、1936年、ベルリン五輪の記録映画「オリンピア(民族の祭典・美の祭典)」を二年がかりで作ります。この時ヒトラーは、ベルリン五輪を利用して、ナチスの残虐な政策から国民の目をそらそうとしたのです。その狙い通り、レニは、差別のない自由な世界を見事に表現します。「オリンピア」は、今でも記録映画の最高峰とされています。

映画監督として最高の地位を手に入れたレニ、しかし、その多くの成功の裏にはヒトラーの影がつきまといます。

1945年ナチス崩壊後、政治責任を取らされ、また、101歳まで生きたものの、ヒトラーの協力者として非難され続けます。

彼女は、プロパガンダ映画監督となったしたたかな女性だったのでしょうか?それとも、類稀な才能の持ち主、芸術家だったのでしょうか?

レニは、1923年、第一次世界大戦後、21歳でダンサーとしてデビューし、エンターテイメントの世界に登場します。この、1920年代は、ドイツ表現主義の草創期ででした。が、ひざを故障し、ダンサーを諦めます。

地下鉄で、「アルプス征服」というポスターを見て衝撃をうけます。彼女の運命が変わった瞬間でした。

その後、彼女は女優に転換。「こんなことは出来ない」なんて、絶対に言わない、根性のある努力家でした。そんな彼女を撮っていた監督、ファンクは、彼女の監督としての才能を見出します。

「青の光」では、監督・制作・脚本・主演の四役をこなします。類稀な才能があったのです。そんな彼女は、共演する数多くの男達を魅了してきました。

この頃、ヒトラーの勢力は拡大し、1932年、ヒトラーが主催する集会に出席するのです。これが、運命の出会いでした。

彼女はヒトラーに感銘を受け、ヒトラーもまた、彼女に興味を持ちます。というのも、ヒトラーはもともと絵描きになりたかったし、芸術に興味があったにもかかわらず、周りの人は芸術に興味がなく、とうの芸術家達からは何の反応も得られなかったからです。

だから、レニの存在は有難かったのです。そして、運命共同体となるのです。

レニは、ヒトラーに好かれて彼の権力と資金を借り、大規模な映画を作り、その中で自分の才能を開花させていくのです。当時の女性としては稀に見る野心家であり、芸術家でした。

1933年、ヒトラー首相に就任。宣伝大臣ゲッペルスに会い、映画制作を依頼されます。自分はヒトラーにそそのかされた?本当はやりたくなかった?でも、彼女にとってヒトラーの映画の製作はチャンスだったのです。

ヒトラーのための映画製作が始まります。それは、1933年の党大会の記録映画でした。彼女にとって初めてでしたが、それは同時にヒトラーにとっても始めてのことでした。そうしてつくられた映画が「信念の勝利」でした。が、これは、ヒトラー自身がまだ慣れておらず、かっこよく仕上がらなかったため闇に葬られ、作り直されます。

1934年、10日間しか準備期間がない中、「意思の勝利」が作られます。この「意思の勝利」は、映画史上最大のプロパガンダ映画とされ、ナチスの強大さを示すことが出来ました。主役は只ひとり、ヒトラー。国民はそのヒトラーを見上げ、見下され・・・。という構図は、人々を熱狂させます。
この「意思の勝利」は、完成度が高く、陶酔するため、教育を目的とする解説なしに上映することは禁じられています。
人々に対して、余りにもインパクトが強く、影響を受けかねないからです。
どうしてここまでの作品が出来たのか?それは、芸術に対する熱意とナチ信仰によるところが多く、だからこそこれだけの作品を作ることが出来たのでは?と、思わざるを得ません。


ヒトラーは理想の指導者として表現され、自分自身を演じます。しかし、この映画に、軍は不満でした。そこで制作されたのが「自由の日」です。これは、軍からの要望に応じ、軍事力を誇示する映画で、次々と兵器が登場します。そうして、この新兵器は、4年後実際に使われるのです。

しかし、政治に対しては無関心だったのかも知れません。年齢から行くとマレーネ・ディートリッヒと同年代です。彼女は戦争に反対で、ドイツ人なのにアメリカ軍の最前線へ慰問に行くなど、ポリシーがあるというか、ドイツの人種差別に反対を唱えていました。確か、ヒトラーは、マレーネを強制送還させるように依頼していたような・・・。彼女は老後もドイツには入国さえ拒否される時代が続き、パリで生涯を終えたように思います。


そうして、ヒトラーの人種差別政策・ユダヤ人迫害政策は日増しに激しくなり、本格化していきます。ヒトラーは、ベルリンを世界の首都にしようと目論んでいました。レニが恋人と噂されていましたが、本当のことはわかりません。ただ、寵愛を受けていたことは事実です。

レニは、ヒトラーの悪しき政策を知りつつも、フランスとの戦いに勝利すると「祝電」を打っています。

1944年、ヒトラーと別荘で会うも、これが最後になります。連合国は勝利し、共犯者・協力者は逮捕されていきます。当然レニも入っていました。

彼女は、映画でヒトラーを神格化したという罪を否定し続けたものの、ナチの同調者という判決を受けます。この判決には、主犯罪者・中度の犯罪者・軽度の犯罪者・同調者・免除者に別れていましたが、その判断は難しいのです。同調者、国民の殆どはここに入りました。というのも、当時はヒトラーに反対すること自体難しいからです。

彼女にしては、いい映画を作った以外に、逮捕されるなどとは夢にも思っていませんでした。

1950年ごろ、罪を受けた殆どの人が復帰しているものの、レニだけは戻れませんでした。何故自分だけ、批判されなければならないのか?それは、作った作品が他のものとは比較にならないぐらい・・・「下らない映画ではなく、影響力が強かったから」なのです。

また、ナチは男性社会で、その中でいるレニは浮いた存在でした。そんな、嫉妬、集団ヒステリーなんかがあったのかもしれません。

70歳を過ぎて、1973年センセーショナルに写真家として復帰します。

彼女は自分に対する批判に「ナチを否定」しています。
ヒトラーがユダヤ人に対して行ったことを悪いとは思っているが、反論も批判もしませんでした。彼女の才能は眠ることはなく、また、謝罪もすることはありませんでした。

2003年9月 死去  享年101歳。。。

今でも、ヒトラーは影響力があるというのに・・・。当時は凄かったのでしょうね。だって、日本は軍部が突っ走って太平洋戦争に突入したと言われていますが、ヒトラーは選挙で選ばれているんだからな・・・。


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posted by ちゃーちゃん at 14:02| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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