2011年10月06日

剣術で天下泰平 柳生宗矩

剣術で天下泰平 将軍家指南役
先日のBS歴史館です。

柳生宗矩さんです。名前だけで、うっとりしてしまいます。(* ̄∇ ̄*)

剣術で平和を作り上げた男です。この剣術とは、ご存知柳生新陰流です。剣術とは、人を斬るためのもの、つまり凶器でしたが、この柳生新陰流は、人を殺さない剣、活人剣でした。

(命を)取らず、切らず、勝たず、負けざる剣だというのです。

将軍家兵法指南役、柳生宗矩は、戦国から平和へと流れる世の中で、殺人刀から活人剣へ、やって良い事と悪い事の仕分けを行った人物でした。剣術を人を活かす為に使ったのです。

徳川実紀にも、柳生宗矩の活躍や、人を殺めたという記録は残っていません。では、一介の剣客が、どのようにして徳川三代に仕え、閣僚になり、どのようにして大目付までに出世したのでしょうか?

この柳生宗矩、有名な柳生十兵衛の父です。天下一と謳われながら、武勇伝はありません。というのも、いわゆる機密工作(スパイ活動)に当たっていたせいか、記録は残っていないのです。

もともと、柳生の里の剣術使いでしかなかった男を変えたのは、家康との出会いでした。

関ヶ原を遡ること5年前・・・。家康は、京都にて宗矩と、父石舟斎との試合を見ました。宗矩が刀を持ち、石舟斎が素手だったこの試合、宗矩が吹っ飛んで終了します。これは、柳生新陰流、・無刀取りといわれる技ですが、それを見た家康は、石舟斎に指南してくれるよう申し入れます。

が、歳もあり、24歳の宗矩が指南することになるのです。名もなき若き剣客の、未曾有の大出世の始まりでした。

が、この時代、剣術指南役なんていませんでした。みんな、戦場で、実践で強くなるのですから・・・。でも、家康はお稽古事が大好きで、弓も剣も習っていました。だから、剣術指南役は、天下を取った家康を真似て、各大名が指南役を置きだしたのです。

話は反れましたが、宗矩は、1571年奈良市柳生町で柳生但馬守宗厳の5男として生まれます。

では、柳生新陰流とはどのような剣術なのでしょうか?この”陰流”とは、室町時代に始まった剣術の流派のひとつをついでいます。陰流とは、刀・片刃の剣を指します。当時の最高水準の剣術であったそうです。

”陰”というのは、”陽”(隙間)が入らない=刀の陰に隠れるところから始まります。相手の目線から外れ、相手が攻め込んできたところを打たせて勝つ、というもので、気を起こし、殺気を感じ、自分を守るのだそうです。

また、禅の考え方も取り入れ、沢庵に師事し、死の恐怖を克服し、悟りを開く剣術を作ろうとしたのです。

武道を通じて、人格を養う、精神的な面を大切のしました。
「兵法は人を斬るにあらず 悪を殺すなり」剣を取らない剣豪の誕生でした。

この頃はまだ、秀吉の時代、朝鮮征伐で不満が爆発し、徳川家康への期待が高まっていました。
この、一介の剣客が重用されるようになったのは、剣術以外でも、例えば諜報、スパイ活動に長じていたからでした。

宗矩の本当の武器は何だったのでしょうか?

天下分け目の関ヶ原、どうすれば石田を始末できるのか?宗矩の使命は伊賀者甲賀者と通じ、石舟斎と共に西軍の背後を撹乱する工作でした。これは、彼が、忍者との係わり合いが深く、情報収集のネットワークとして使っていたからでした。東軍、西軍、徳川の見方に引き入れる為に・・・。

この後、宗矩は1000石の旗本となります。将軍家指南役となりました。柳生新陰流が日本一のブランドとなった瞬間でした。

大坂の陣では、城の攻撃の責任者に抜擢されます。例えばお堀を埋める・・・。とか、案を出したのかも知れません。

千姫の救出作戦は、本当にあったかどうかはわかりませんが、豊臣家の家臣、大野治長が、命乞いの為に大阪城の外に出したのではないか?といわれています。

しかし、この大坂の陣で、宗矩が何をしたか?という正式な記録はありません。が、一介の剣客にはふさわしくないダイナミックな考え方で、彼は間違いなく徳川家のCIA長官だったのです。

彼が使った忍者とは?もともと、伊賀たや甲賀は山の中。米や作物はなかなか取れず、貧しい生活を送っていましたが、いつの頃からか”情報”を売って生活するようになっていたのです。そしてそのためには強くなる=忍術や剣術を使い、雇われ傭兵のようになっていったのです。

柳生家も、徳川家に仕えるまでは、組織としてフリーランスの状態でした。つまり、石舟斎が息子を家康に仕えさせたのも、石舟斎自身には色々なしがらみがあったからなのです。

江戸時代に入り、元和えん武という時代がやってきます。武器を納めて使わない、という時代です。

そんな中、坂崎出羽守の暴発が起こります。
これは、千姫の結婚について・・・
  @自分にくれるといったのに、秀忠が約束を破った
  A結婚相手を探したのに、反古にされた。

何が理由かわかりませんが、この反乱事件を一任されたのが宗矩でした。
屋敷に単身、丸腰で行き、説得します。幕府は、自害するならば、それと引き換えに家名は存続させると約束します。出羽守は切腹、この事件の解決が宗矩の評判を高めますが、幕府は家名の存続を撤回し、家はお取り潰し、所領は没収となるのです。

宗矩は、幕府が約束を反古にしたことに心を痛め、息子や家臣を引き取っています。

以前はこのような反乱があった場合、武力を持って征するのは当然でしたが、これを機会に話し合いの時代に入ったのです。まさに活人剣、柳生流の真骨頂でした。

「収まれる時 乱を忘れざる 是兵法也」
平和の時こそ火種は消さなくてはならない。これをスローガンに、忍者を使い、各地の大名の弱みを握り、ブラックリストを作ります。今後、大名の「改易」を一身に背負い、幕藩体制を支えるのです。

台風による水害で壊れた城を修理した安芸49万石の福島正則を武家諸法度違反として改易、これ以外にも、改易にされた大名は100以上に上ります。

徳川幕府は大名との連合政権でした。つまり、家康や秀忠が支配しているわけではなく、それぞれの国をお殿様が治めているわけです。つまり、すべてが仮想敵国なのです。

それを潰していくのが惣目付であり、そのためには情報ネットワークが必要でした。この仕事が戦争の目を摘むことになるのです。つまり、マキャベリズム(政治において、目的を達成するために、手段を選ばないこと。戦争よりはまし)なのです。

そうして、幕藩体制は磐石なものになって行きます。

秀忠の死と同時に惣目付(大目付)となります。

彼は、貧しく虐げられていた忍者を江戸に集めます。笄町という場所が東京にありますが、これは甲賀伊賀町がなまったものだといわれています。彼らに土地を与えて、影の軍団に市民権を与えたのです。

忍者を正当化し、情報の大切さを知らしめたのです。

彼は徳川三代に仕えます。家康には「天下取り」を、秀忠には「安定」を、家光には「治にいて乱を忘れず」という心構えを教えたのです。

この先、柳生家は残りますが、少なくとも宗矩ほど活躍はしません。十兵衛は実行部隊の隊長で家は継がなかったと思われます。まあ、影なので、輝くことはありませんね。

76歳で生涯を閉じるのですが、家光は「宗矩がいたらどうしただろう?」と、いつも言っていたそうです。

剣術だけではなく、天下の指南役だったのです。

ああ、宗矩と書くだけで、山村聰さんの顔がちらついていました。(* ̄∇ ̄*)
それは、柳生十兵衛暴れ旅でしたね。。。


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ラベル:柳生宗矩 指南役
posted by ちゃーちゃん at 13:45| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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