2011年10月17日

幕末。日本外交は弱腰にあらず。

あなたの常識大逆転!
BS歴史館、「幕末・日本外交は弱腰にあらず」〜黒船来航に立ち向かった男たち〜です。

本当に?って、感じですが・・・。
とかく日本は弱腰外交と言われていますが・・・本当なのでしょうか?

1853年6月3日
浦賀沖に黒船が来航します。圧倒的な軍事力を持って。

翌1854年日米和親条約締結、1858年日米修好通商条約締結、これらは日本にとっては恩恵だったというのです。

ペリーは開国に持っていくことは出来ず、日本も要求するところは要求し、話し合うところは話し合い、弱腰外交とは言えなかったのです。

当時の日本は、唯一出島で、オランダと中国のみと外交していました。そこへ、黒船が浦賀に出現、関東が大砲の射程圏内に入るのです。

ペリーは大統領の親書を持っていました。それには・・・

@漂流民の保護
A外国船への燃料や食料の供給
B貿易の開始

が書かれていました。

翌年5月に返答すると定めます。

が、ペリーは1月11日に、しかも船を9隻に増やしてやってきました。
「条約の締結が受け入れられない場合は、戦争になるかもしれない!!当方は、近海に50隻の軍艦を待たせてあり、カリフォルニアにはさらに50隻を用意している。これら100隻は20日間で到着する。」ペリーの恫喝外交の始まりでした。

これに応対したのは、昌平坂学問所の塾頭、林大学頭でした。では、何故学者が?これは、禍根を残さないため「学者のしたことだから・・・。」にしたかったようです。

が、この大学頭、死闘を繰り広げます。

2月10日第一回交渉

ペリーは@もAも守っていないので、戦争によって雌雄を決することになる!!と、砲艦外交を始めます。

林は、まず、B貿易の開始については硬く禁じられていると跳ね返します。そして、@Aについては、伝聞の誤りではないか?と、指摘します。

まず、A外国船への燃料や食料の供給は・・・。「異国船打払令」は11年前に廃止しています。代わって「薪水給与令」を出し、外国船に燃料や水の給与を認め、穏便に出国させる法令をつくっています。と、説明しました。この、異国船打払令、廃止した要因は、中国がアヘン戦争でボロボロになったのを見て、二の舞になることは避けるため、廃止していたものでした。

そしてB、漂流船の人を罪人同様に扱っているというのは・・・。
1848年、ラゴダ事件がありました。これは、漂流していたアメリカ人が、アメリカ人同士で殺人に及んだ結果、保護のためやむなく投獄したというものでした。

これを取り出し、やむなく投獄したことはありますが、非道な政治ではなく、貴国と戦争に及ぶ理由はひとつもない!!と、事実に基づいた確かな反論をするのです。

そして、これ以上言うことはないと、ペリーの脅し、恫喝に屈せず論破しました。今でもアメリカは、世界で恫喝外交をしていますが・・・これに対抗したのです。

ちなみにこの林家、江戸時代に外交文書を司っている家でした。バタビアから幕府に提供された世界情勢の報告書であるオランダ別段風説書を持っており、ペリーのことは何もかも調べ上げていたようです。

つまり、私達が思っているほど、世界情勢に対して疎くはなく・・・それは、日本としてはロシアの恐怖を感じていたからです。

ペリーまでの50年間は、日本に外国船がやってくることはしばしばで、突然のことではないのです。

で、第二ラウンド、交易については・・・。
日本にメリットがある!!外貨を稼げる!!と、アメリカは説得しますが、これも「自国の産物で十分に足りている!国法を直ちに廃することは出来ない」と、跳ね返します。

これには切実な問題がありました。。。
1840年〜42年アヘン戦争がありました。このきっかけは交易でした。交易からアヘンが入ってきたのです。中国、当時の清は、イギリスの圧倒的勢力に負け、南京条約を結び、香港を割譲することになるのです。

このようなことは、最も避けなければなりません。

これは、アメリカが@で使った、人命の尊重を逆手に取り、「第一に人命の尊重と申された。開港は人命尊重とは関係ない」と、またもや論破するのです。

2月19日第二回交渉

ここでアメリカは、長崎だけでは不便だと、開港地を要求します。これは、交易に繋がる作戦でした。これに対し日本は、だというなら、何故、親書に記さなかったのか?当方は長崎だけで、何の異論もないと思っていた。と、反論します。これ以降、交渉は林のペースになっていくのです。

2月26日第三回交渉

南は下田、北は箱館の2箇所にしてください。と、日本が申し出ます。
これは、もともと長崎一港主義でしたが、ペリーに花を持たせたのです。

2月30日

アメリカが、「港から四方へ10里は自由に行動したい」と、言ってきます。これに対し、「薪や水の供給だけならそんなに遠方まで行く理由が見当たらない。」と反論し、遊歩地は、7里の内となります。これは、林の計算でもありました。天城峠より北へは上がれないからです。なるべく日本人との接触を防ぎ、日本を守ろうとしたのです。

1854年3月3日日米和親条約締結。厳しく交易を制限するものでした。この時点では、まだ日本は開国しておらず、通商を押し返して和親の状態に止めたということで、外交上は成功。孝明天皇もお慶びになったのです。

ペリーは後に言っています。日本人がひとたび文明開化の技能を手に入れれば、強力なライバルになるだろう。と。

ペリーは日本を甘く見て、条約の専門家を連れてきていませんでした。アヘン戦争後、清と米が結んだ不平等条約であるワンシア条約をそのまま持ってきてしまっていたのです。これに、反抗できたのは、日本の目が世界に向いていたことと、日本の教育・文化が高かったことが上げられます。

では、何故和親条約が不平等条約として扱われているのか・・・。それは、和親条約と通商条約がごちゃごちゃになっているからです。

幕末の歴史は、薩長が書いたもの・・・。本当のエリートは幕臣であったなどとは書かないのです。


1856年7月21日ハリスがアメリカの領事として下田に到着します。
これは、和親条約第11条に「合衆国官吏のもの、下田に差置候儀も可有之。」という条文があり、アメリカがこれに目をつけたのです。
日本は「両国が必要とするならば・・・」と解釈していましたが、アメリカはこれを、「どちらか一方が必要とするならば・・・」と、自分達に都合のいい解釈をしたのです。そして日本が今、いかに危ないかを説くのです。

1856年清でアロー戦争勃発、次は日本が狙われていました。
ハリスはアメリカとの貿易を望みます。
「私のように和平の使者としてやってきた人間の公正な希望を聞き入れるか、イギリスの武力による不当な圧力に屈するか!!今や問題は、いかなる形で貿易を始めるかだ!」と迫るのです。

対応したのは目付岩瀬忠震。外国奉行のエリートでした。この人は、ハリスと並ぶ開国の仕掛け人です。海防掛という幕府が設置した海外問題を処理する職務についていました。ちなみに林大学頭は叔父に当たります。

この時、幕府でも危機感は感じてはいましたが、意見は分かれていました。
攘夷派VS開明派(中心が岩瀬)
岩瀬は、今の日本の軍事力では、とても欧米列強にはかなわない、一刻も早く開国して、アヘンを自由に売らせないためにも居留地を作り、将来に備えなければならない。と、思っていました。

彼のビジョンは、年貢よりも地方特産物の輸出、蝦夷地の開墾、横浜を開港しての貿易でした。

当時政府は江戸でしたが、経済的富の7〜8割を大坂に持っていかれていたというのが現状でした。岩瀬は貿易の利益を江戸に集中させようとしたのです。

では、何故横浜?紛争を防ぐため、西洋人を一定の区画に閉じ込めておこうとし、横浜を巨大な出島にしようとしていました。

1857年10月14日ハリス江戸に到着、条約草案を提示します。

しかし、日米の思惑は全くかけ離れていました。
アメリカは、大坂など8箇所の開港と京都などでの自由貿易を要求してきました。

交渉が開始されました。
「日本は国が小さいので、3港以上は開かないことに決めました。その代わり大きな港を提供しよう。その港に満足がいったなら、また開港したい。」と、日本が申し入れますが、ハリスの狙いは大坂でした。商業の中心地で大きな自由貿易がしたかったのです。

当時攘夷運動が盛んに行われていました。京都が拠点となり、流血事件も日常茶飯事でした。だから、外国人は京都・大坂には入れられない!!京都の市場開放と大坂の開港は、謀反へと繋がりかねませんでした。
御所と伊勢神宮は守らなければなりませんでした。

岩瀬は「もし、貴下の大統領が日本の親切な友人であるなら、無秩序と流血をもたらすようなことを主張できるはずが無い」と、譲りませんでした。

ハリスは京都を断念。しかし、大坂は商いに最も適しているから譲れない!日本の国益にもなると、主張します。

ここで岩瀬は攘夷運動を逆手に取り「内乱が起こるのは外国との戦争より恐ろしい。内乱をするなら外国と戦争するほうがましだ!」と、突っぱねるのです。

そして、日米修好通商条約全14条が出来ました。
岩瀬とハリスは条約の内容を現実的なところに落とし、ほぼ岩瀬のプラン通りになりました。しかし、これは日本の制度全体を変える大きな出来事でした。

開港地は横浜・長崎・新潟・兵庫(大坂が駄目だから・・・。)箱館になりました。後に不平等条約といわれるこの条約、理由は

領事裁判権の容認と、関税自主権の喪失が大きな理由ですが、岩瀬は十分対処できると思っていました。

領事裁判権は居留地だけの話だし、関税自主権の喪失は、当時は20%もあったので、不利ではなかったのです。

ハリスは後に「岩瀬は機敏で反論が上手でした。私は答弁に苦しんだばかりでなく、岩瀬に論破されてしまい修正せざるを得なかった条項が多かった。」と言っています。

あとは調印のみ!しかし、徳川斉昭ら攘夷派が反発、岩瀬は調印の勅許を受けるため京都へ赴きます。

1858年1月25日上洛、孝明天皇に謁見するも、貿易に反対する公家が天皇に進言しており、勅許が下りなかったのです。岩瀬の目論見が外れた瞬間でした。

井伊直弼は、勅許が無ければ開国しないと決定します。が、激しく調印を迫るハリス。

そこにアロー戦争の最新情報が入ります。英仏艦隊来航情報がもたらされるのです。このままでは、通商条約は不利な条約になってしまう!!今までの苦労が水の泡になってしまう!!岩瀬はハリスに「調印したら英仏の間に入ってほしい」と、誓約書を書かせ、井伊直弼の「止む終えない場合は調印してもいい」という言葉にすがるように

1858年6月19日勅許なしに調印。
しかし、9月5日井伊直弼によって左遷後永蟄居処分となるのです。

この後、安政の大獄→開国の一途をたどるのですが・・・。
1861年7月11日岩瀬忠震失意のうちに死去、享年44歳。
1862年生麦事件
1863年薩英戦争 と、攘夷に拍車がかかっていきます。
1863〜64年下関戦争
1866年関税誓約書調印
     関税20%から5%に引き下げ
この結果、日米修好通商条約は不平等な条約になってしまったのです。

岩瀬は無断調印をし、その後混乱したが、アジアで植民地化されなかったのは日本だけでした。日本の将来を考えた上での調印で、評価に値します。

では、何故勅許が下りなかったのか?当時はかなりの情報格差があり、天皇も薩長もこの情報を持っておらず、世界の情報は幕府のエリートたちが持っていたからでした。

岩瀬の甘かったところは、外国のことは解っていたが、日本のことは天皇が何を考えているかがわかっていなかったということでした。

岩瀬は左遷、幽閉され、名前もあまり知られていませんが、彼の作った
講部所は陸軍に、海軍伝習所は海軍に、アメリカに勝海舟ら人材を派遣したその人でした。

この通り、幕末外交は弱腰ではありませんでした。
彼らは(決)断と(見)識のあったのです。

幕末はお金も国力も軍事力もありませんでしたが、人材がいました。そして、この人たちが明治維新へと繋がっていくのです。

やはり、勝てば官軍ですね・・・。岩瀬が蟄居した理由も攘夷だし、苦労した条約も、不平等にしたのは薩長だったのかしら?と、思うとやはり歴史は後世の人間の作ったものだから、今は明治政府の良いように書かれているのでしょうね。

あのままの条約でいたら、日本はどうなっていたのかな・・・。
そしていつも思うのです。誰が一番ずるいかって、どう考えても公家でしょう!!と。色々画策するのに自分では手は汚さないなんて・・・。(天皇ではないのよ)


ああ、頭が痛いですね。
100年経たないと、そのときの政治がどうであったか判断は難しい。と、言いますが、今日の政治は100年後の人たちにはどう評価されるのかな・・・。<(; ̄ ・ ̄)=3 フゥ...

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posted by ちゃーちゃん at 10:24| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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