中国大躍進政策と文化大革命。。。
途中になってしまっていました。
1964年、文化大革命、これは、失脚させられた毛沢東の復讐劇です。
1959年に国家主席を劉少奇に譲った毛沢東、自分を失脚させた実権派を打倒するため立ち上がります。この国家体制に対して、大学生や高校生を使い始めます。
1966年6月、エリートの清華大学附属中学校壁新聞で、今の体制を厳しく批判し、これを毛沢東が支持、勢いに乗った生徒達は反乱を起こします。
自分達を「紅衛兵」と名乗り、「造反有理」がスローガンになり、今のありとあらゆる体制を潰そうとします。
8月、天安門広場に100万人の紅衛兵が集まります。これを、毛沢東が激励します。紅衛兵は熱狂し凶暴化!!改革運動に進んでいきます。
街を歩く女性の服装をチェック、パーマ・スカートは駄目、髪はおさげで化粧も駄目、男性もスーツは駄目、全国民が人民服を着ることになります。
教会・寺院を破壊しました。酷かったのは、チベットで、寺院を破壊、仏像も破壊、経典は奪われました。こんな状態がずっと続いたのです。
車も赤信号で進んだりして、あちこちで交通事故が起こりました。高級レストランもなくなりました。
1966年、北京市公安局(警察)が恐るべき通達を出します。それは、「紅衛兵による暴力、殺戮、殺害を制止してはならない」というものでした。もう怖いものはありません。紅衛兵は、毛沢東のお墨付きもあるし、やりたい放題です。
「毛沢東語録」を片手に、”これのみが真実”と、改革運動に突き進む若者達・・・。ブルジョア教育は行わなくていい!!と、学校教育をやめます。
全国で、紅衛兵達は共産党幹部の頭を坊主にしたり、暴力を振るったり、吊るし上げたり・・・。共産党員達ではなく、自分達こそが改革!正しく!と、今度は「紅衛兵」お互いがケンカをしだし殺人事件に発展するようになりました。
香港には中国大陸からの死体がたくさん流れ着きました。その人たちは、両手を縛られ、殺害されていました。大陸では何が起きているのか?それは大量殺人なのか?全くわかりませんでした。
中国国内では、過激派がまかり通って大混乱!このことで、劉少奇が失脚。毛沢東は、まんまと返り咲いたのです。そうしてこの文化大革命は、江青が強い力を持って、さらに推し進めるのです。
権力闘争に勝利した毛沢東は、「紅衛兵」が邪魔になってきます。一掃しようと考えました。
1968年12月知識青年は農民に学べと、体のいいことを言って、2000万人の若者を農村に追いやります。「下放」したのです。
そうして、この権力奪還闘争は収束を迎えるのです。
この文化大革命で50万人が処刑されました。終わりを告げるのは、1976年毛沢東の死によってでした。
こんなに混乱したものの、今でも毛沢東の肖像画が掲げられています。毛沢東を否定することは、中国共産党を否定することになるので決して出来ないのです。
そこで、毛沢東には7分の功績、3分の過失があった。全体としては、すばらしい功績を作った人、と、位置づけています。
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ラベル:池上彰 中国 毛沢東