2011年11月25日

三成に過ぎたる猛将〜島左近〜

THEナンバー2です。

「三成に過ぎたる猛将〜島左近〜」です。

この島左近、石田三成にはもったいないと言われた家臣です。

「三成に 過ぎたるものが二つあり  
       島の左近と 佐和山の城」

と、詠われたほどです。

石田三成は、豊臣政権五奉行の一人。不器用なまでに正義を信じ、正義に准じた・・・徹底して豊臣政権に対して義を貫いた不世出の男です。

武将としての人気も高く、「しまさこにゃん」と、「いしだみつにゃん」というゆるきゃらまであります。

島左近は、武人の典型的な人手、彼がいなければ、関ヶ原で西軍があんなに頑張ることはなかったでしょう。

というもの、この主、三成は、どちらかと言うと官僚タイプの人で、合戦の指示は上手くありませんでした。「島左近なくして三成なし」だったのです。

戦国の世に名を轟かせた島左近、どんな男だったのでしょうか?

では、まず2人はどのようにして出会ったのでしょう?

もともと島左近は、大和の国人、筒井順慶の元にいました。当時、順慶は、松永久秀に苦しめられていましたが、義の人島左近の活躍により、危機から救われます。

筒井順慶と松永久秀が戦った最大のものは、

元亀2年8月辰市城の戦いです。左近の奮闘で、筒井軍が勝利、これをきっかけに、筒井と松永の関係が逆転し、松永家は衰退していきます。

筒井順慶を守った左近の名が、戦国の世に轟いた瞬間でした。

天正4年5月に織田信長の家臣となった筒井順慶は、大和一国の支配権を認められます。これには、明智の推挙があったといわれています。

天正10年6月2日、本能寺の変。
     7月2日、山崎の合戦、秀吉VS光秀の時、筒井順慶は恩人を救うかどうするか迷いますが、秀吉側につき、光秀に襲い掛かったと言われています。

このことから、「洞ヶ峠を決め込む」(ひよりみ主義を表す言葉)という言葉が出来ました。

が、実際は出陣していなかったのでは?とも言われています。

順慶の後継者とそりの合わなくなった左近は、その元を飛び出します。

左近の下へ色々な武将からお誘いがかかります。もちろん、石田三成も・・・。三成は、自分の石高4万石のうち半分を左近に差し出します。

三成は左近の召抱えに成功します。では何故三成は左近が欲しかったのでしょうか?三成は、自分が合戦に弱いことを知っていました。左近の猛将としての評価は高く、どうしても欲しかったのです。

左近が筒井家をでた理由のひとつが・・・。当時は、家臣が主君を選ぶ時代でした。「七度主家を変えて我が家を知る」といわれていました。

年下にあえて仕える理由としては、中国・宋代に確立した新しい儒学(狭義には朱子学を指す)の義を貫くというところに共鳴したからです。


豊臣政権下の五奉行「浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以」石田三成が頭角を現していきます。

佐和山城を貰った三成は、左近の禄高を上げようとします。が、左近は、「禄は不足とは思っておりません。今まで通りで結構。その代わり他の者へ分けてやってください。」と、言ったそうです。

1598年に秀吉が死去。

三成は、自分の弱点を知っていました。秀吉亡き後、合戦の指示の出来る人物・・・。それは、左近でした。

左近は、三成に対して、たびたび苦言も言いました。

三成が城下を見て
「繁盛しておる。これも太閤殿下が世に出られ、天下を平定なされたからではないか。城下の民は、秀頼公の御世を永久に続くよう祈っておる」と言った時、左近は、

「恐れながら、先ほどのお言葉は納得いきかねます。昔から、権力者の所在地に人が集まるものと決まっており、大坂城の賑わいは、秀頼公の徳とは関係なく、金儲けが出来るからに他なりませぬ。

城下を二・三里も出れば、雨も満足にしのげない粗末な家が立ち並び、衣食も十分とは言えず、餓死するものも多くいます。

城下の繁栄だけを見て、豊臣家は安泰であると考えられてはなりませぬぞ。」
と、言ったと言います。人間的には、勝つためには主君にもずけずけと遠慮をしない直接的な人間だったと言えるでしょう。

政治的すぎる三成と、実践的過ぎる左近。その信頼関係のよりどころは、大義名分、義であったのです。2人には物欲というものがなく、学友のような関係であったといえます。

2人は時代の大きな転換期を迎えます。

秀頼はわずか6歳、最大の敵は家康。。。

1599年3月3日三成襲撃事件が起こります。三成細大のピンチです。
加藤清正、福島正則、黒田長政、藤堂高虎、細川忠興、浅野幸長、蜂須賀家政らが結集し、三成を襲撃したのです。

彼らは、朝鮮出兵に対して反感を持っていました。
事実、彼らには恩賞はなく、当の秀吉は死んでいました。ぶつけるところのない苛立ちを、三成にぶつけたのです。

三成は、帰国する朝鮮出征軍を無事に帰還させる役目を担っていました。彼らの言い分は痛いほどわかりました。

このとき三成が助けを求めたのが、家康でした。

三成は五奉行の職も追われ、佐和山城へ隠居させられます。
「ここで退くことは、家康にみすみす天下を許すようなもの」左近は”家康暗殺計画”を立てます。当時は、大将の騙し討ちは武略であるとされていました。しかし、大義名分を重んじる三成にとっては、闇討ちは許せませんでした。正々堂々と、一騎打ちをしたかったのです。

NO,2には、決定権はありませんでした。

いよいよ家康との決戦前夜。。。

1600年9月14日杭瀬川の戦いが起こります。これは、関ヶ原の前哨戦に当たります。

岐阜、大垣付近でのこと。この戦、勝つだけではなく、勇気を引き出し、敵の士気を挫く必要がありました。この戦いは、西軍の勝利に終わり、家康は撤退します。

当の9月15日関ヶ原の戦い。

三成の正義が達成されようとしたその時、小早川秀秋の寝返りで総崩れ・・・。たった半日で終わってしまった戦でした。

ちなみに、関ヶ原の戦いの前哨戦は、殆どが西軍の圧勝に終わっています。当日もやる気満々だったと言えます。陣形も有利でした。

しかし、東軍の狙いは、石田三成ただ一人!!そうして、その敵を一手に引き受けたのが、島左近だったのです。

島左近は、敵をことごとく跳ね返します。鉄砲も集中する中、三成は逃げ切るのです。

もし、小早川が寝返らなかったら・・・。西軍の2,3割にもっとやる気があったら・・・。勝てたかもしれません。三成を生かすために、逃がすために、三成の西軍は、島左近行方不明、他は9割が亡くなるという壮絶な結果でした。


それは、何が何でも三成を守るため・・・。三成は、切腹はしていません。義に生きているので、何がんでも生き残って、秀頼を守る。大坂城で、正々堂々と倒したかったのでしょう。

今回みて、石田三成は、本当はいい人だったのかも知れませんね。
だって、9割の人が自分のために死んでくれたのだから。。。

やはり、歴史は勝者の歴史、徳川300年の間に悪者にされてしまったのでしょうね。

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posted by ちゃーちゃん at 14:42| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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