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中国四千年 兵馬俑・鴻門宴・赤壁・龍門石窟…
兵馬俑は発掘されたその上に覆いを作って展示されています。
兵馬俑は、当時の兵士や馬をそのまま再現したものです。
それを作らせたのが・・・初めて中国を統一することになった秦の始皇帝です。
これまで始皇帝は、情け容赦ない圧倒的な軍事力で支配したと言われてきました。
しかし・・・最近ではちょっと変わってきました。
始皇帝が支配したのは軍事力ではなく、多様な人々を束ねる巧みな戦略だったのです。
始皇帝は、どのように中国を統一したのでしょうか???
秦の国を大改革して強大な軍事国家にした改革者。名神・商鞅。
祖国の楚が秦に敗北する中悲劇の生涯を閉じた憂国の詩人・屈原。
今よみがえる英雄たちの伝説がそこにはありました。
強大な始皇帝の陵墓の一角で見つかったのが兵馬俑です。
この兵馬俑は、死後も始皇帝の魂を守るために作られたものです。
兵馬俑の身長は、180p・・・大きいものになると200pもあります。
当時の人も、これくらいあったようです。
そして・・・それぞれの顔が全く違います。
表情は様々で・・・しかし、完全体で出てくるものはほとんどありません。
なかには色のついた兵馬俑もあります。
もともとすべての兵馬俑には鮮やかな色が施されていました。
1974年に発見されてから39年。兵馬俑の発掘は今も続けられています。
その色の配色を分析すると・・・
白・黒・赤・黄色・青の誤植を使っています。
当時これだけの色をそろえられるのは始皇帝ぐらいでした。

赤い兵馬俑注目されるのは中国各地の土の色。
中国の土壌は、地域によって色が違います。
五色・・・それは天地の万物を表す特別な色です。
兵士たちの鎧は黒・その閉じ紐には赤・襟巻には青・歩兵たちを指揮する将軍には、その他にも黄色や白を使っています。
そのような多彩な・・・多様な人々を統一した始皇帝。
どのようにして統一したのでしょうか???
それ以前の時代、群雄割拠の覇権を争う戦乱の時代でした。
紀元前2000年ごろに誕生した最古の王朝・夏王朝。殷・周・・・初期の国は、黄河周辺の中原一帯に栄えました。
しかし、春秋戦国時代に入り・・・複数の国が乱立するようになり・・・やがてそれを統一することになる始皇帝の秦。
秦が誕生したのは辺境の地でした。
甘粛省東部・・・秦発祥の地・秦亭村です。
中原から西に500q。人口1200人の寒村です。穀類の栽培で生計を立てています。
ここは昔、始皇帝の祖先たちが、馬を育てていた場所です。
司馬遷の記した「史記」にも・・・
昔、非子という者があったと。
馬や家畜を好み、その者は王の為に馬を育てることになります。
馬は見る見るうちに増え・・・これを喜んだ王は、この非子に秦という土地を与えました。
始皇帝からさかのぼること37代目の非子の時代、秦の国は誕生しました。
秦の始まりは、当時このあたりにいた西戎だったと言われています。
秦は、戦争に欠かせない馬の飼育に長けていたことから力をつけてきたのです。
甘粛省の東部で今でも発掘が続けられていますが・・・
そこには馬車が・・・それは以外にも、金や銀の装飾品で飾られていました。
秦の力を表しています。
秦は、中原に勝るとも劣らない文化を持っていたようです。
そして・・・殺傷能力の強い武器も・・・
青銅の剣・・・表面には特殊な金属塗装がされています。
“弩”という武器も・・・
ボーガンのような武器です。これが、秦の強さを決定づけました。
この弩は今も使われています。
狩猟民族が狩猟用に使っていたものを兵器として利用した秦。
史記には辺境の遊牧民だった秦が、大きくなっていく様を描いています。
西戎の覇王へ!!
激しい戦闘が繰り返された春秋戦国時代に・・・故事成語が作られました。
例えば・・・「呉越同舟」呉と越がライバルだったところからきています。
呉王夫差と越王勾践は積年のライバルで・・・呉王夫差の父は、越王との戦いにやぶれその傷がもとで命を失いました。
夫差はその恨みを忘れまいと薪の上に寝、体に痛みを感じる度に、復讐を誓いました。そして、呉王夫差は越を攻め大勝します。
敗北した越王は、食事のたびに苦い獣の肝をなめて雪辱を誓い、呉の国を滅ぼします。
「臥薪嘗胆」です。
しかし、そう簡単に統一とは行きませんでした。秦に立ちはだかったのは、中原にある国々です。中原は、夏王朝が栄えた場所です。
夏王朝は、宮廷儀礼を生み出し、王の権威を示すことで秩序を保ったと言われています。
秦は、この中原の国々とどう対したのでしょうか???
西戎の覇王となった秦は、満を持して中原に進撃します。
兵力組織力共に中原が勝り・・・全滅してしまいます。
しかし、あきらめません。
そして、秦以外の国も中原を狙います。
それに対し中原の国は・・・同盟して結束を固めます。
その時に、牛の耳の血で誓いを立てることから牛耳を取る・・・「牛耳る」という言葉が出来ます。
そして、この牛の血と占領を混ぜた液体で、誓文を認めました。
それは、夏王朝の儀式を取り入れたものでした。
ますます夏王朝色が強くなり・・・自分たちを夏と呼ぶようになったのです。
そして、その他を・・・夷・蛮・戒・狄と呼んで蔑み、排除しようとしました。
自分たちを正当化するために・・・夏を利用したのです。
この夏が中と一緒になって、中夏→中華となったと言われています。
孝公の時代に秦は大改革を行います。
その方法は、以外にも・・・能力のあるものならば・・・と、中原の国に求めたのです。
中原の魏の国の商鞅。当時仕えていた宰相の死によって、活躍の場がなくなっていました。
その改革方法とは???
竹簡によると・・・
商鞅は、秦に法を持ち込みます。
600巻以上になる法律文書によって、庶民の生活を決めていきます。
秦は厳密な法律制度によって人々を巧みに統治し、国力を高めました。
おまけに商鞅は、画期的な軍事制度を導入します。
首一つとったものには、爵一つを与える。
20段階の爵位を作り、手柄を立てるごとに階段を上がっていく仕組みです。
この効果はとても大きく・・・
身分を問わない、徹底した能力主義でした。
それは驚異的でした。秦が軍事大国となった瞬間でした。
紀元前340年商鞅自ら総帥となり、魏の国に進撃。
その精鋭部隊を打ち破ります。
野蛮とされた秦が、中原の一角を突破しました。
そうなるのには、秦と中原の違いがありました。
古くからの文化を受け継ぐ中原の国は、王族や貴族の権力が強く、その土地に有力者がいました。それが、改革の抵抗勢力となったのです。
しかし、発展が遅れていた秦では、そういった力が少なく・・・
強力な中央集権国家をつくるために有利だったと思われます。
都市が発達していない方が有利だったのです。
秦の始皇帝は陝西省西安に都をおきました。その後も、いくつもの王朝が都としました。
西安は、12.3q四方、城壁に囲まれている・・・石の街です。
この城壁は、明の時代に整備されたものです。
西安の街には至る所に遺跡の遺産が・・・
陽陵(漢の皇帝の陵墓)・大雁塔・鐘楼・・・
古都・西安の発展の秘密は、西との交易にありました。
シルクロードの玄関口だったのです。
食事は、小麦を中心としています。ここから花開いて・・・麺文化が発達しました。
そして・・・兵馬俑も・・・西の文化の影響を・・・ギリシャ彫刻の影響を受けたと言う専門家もいます。
文化交流の中心地だった西安。
商鞅による改革で、軍事大国となった秦。始皇帝より5代前の恵文王の時代・・・
その圧倒的な力を背景に領土拡大に乗り出します。
しかし・・・それと共に難題も抱え込みます。
それは・・・支配した国々にも文化やしきたりが根強く残っていたことです。
紀元前316年秦は南へ侵攻し、巴・蜀の国を占領します。
巴・蜀は、船の形をした船棺に埋葬されています。
人は死んだら船に乗ってあの世へ行くという言い伝えを信じていました。
当時、川が近いこの地域では、船は大切な生活用具・交通手段だったのです。
船棺の多くには、青銅の武器が埋葬されていました。
秦が進出した巴・蜀の地には、独自の文化があったのです。
巴・蜀を侵略した秦は、楚の国に・・・
この地にも独特の文化がありました。
羽人と言われる像が出土しています。
漆の高度な技術が特徴です。
この楚は、秦に最も抵抗した地域の一つでした。
その中心人物が、楚王の一族だった屈原。
伝統的な詩人としても知られています。
屈原は、秦に対抗するために斉と同盟を結ぶことを主張しますが・・・秦は、外交交渉によって楚の王を説得しようとします。
斉との同盟を破棄すれば、600里の土地を与えよう・・・と。
強大な秦に恐れ・・・楚の王は、秦と同盟を結び・斉と対立・・・というのは秦の手で、秦は斉と結び、楚を孤立させました。
これを機に楚の勢力は弱体化。
秦を倒すという案はなくなって、秦と共に・・・という意見が多くなっていきます。
秦と徹底抗戦を!!と、思っていた屈原は、ついに追い出されてしまいました。
骨と皮になって・・・川のほとりをさまよっていた屈原、祖国を憂い続けて・・・川に身を投げることとなりました。
端午の節句の祭りは、川に身を投げた屈原を偲んだことから始まったと言われています。
端午の節句に作られる“ちまき”も、川の中にいる屈原に・・・魚に食べられないように米をササに巻いて川に投げたのが始まりです。
そんな文化の違う人たちを、秦は法律で管理しようとします。
しかし、各地で反発が生まれます。
反発の原因は・・・秦が生活体系を否定したことにありました。
力で抑えるのには無理がある・・・と思った秦は・・・
自らを“夏”であると定めたのです。
秦はそもそも夏から野蛮だったと思われていましたが・・・“夏だった”と話を作り変えました。秦だけではなく、秦に従った国をも夏だとしました。
こうして、もともと中原の国だけを夏と呼んでいたのに・・・“夏”は広がっていくことになります。
紀元前246年始皇帝即位。
秦は、統一への最終段階を進んでいきます。
そして・・・紀元前221年、中国を統一しました。
その統一を支えたのは、強大な軍事力と、夏王朝の権威を巧みに利用したそのシステムだったのです。
始皇帝は、それだけでは満足せず、北との戦い、南との戦い・・・統一したとはいえ、常に敵に対して注意を払っていたのでしょう。
外に敵を作ることによって、中をまとめ、維持しようとしたのだとも言われています。
巨大な国家でいること・・・それは、始皇帝の願いであり不安であり、希望だったのです。
そして・・・統一を維持するための壮大な計画は・・・
安房宮の・・・一角に、金や塩を集めていたようです。
今まで謎に包まれていた・・・史記に記されていた“極廟”。
北極星をかたどっていると言われています。
始皇帝は、北極星という権威によって、国を統一しようとしていました。
王という呼び名を辞めて、皇帝という称号を造りだし、自ら始皇帝となった始皇帝。
煌々と輝く皇・北極星を表す帝を合わせたものでした。
天の世界を映したと言われている始皇帝の・・・秦の都。
宮殿などの建築物は、夜空の星と重ねられています。
そして、北極星のところにある極廟は、後に始皇廟になったと言われています。
始皇帝は、宇宙の中心という究極の権威によって、中国を支配しようとしていたのです。
自分が天になろうとしたのかもしれません。
今は人々の憩いの場となっている北京・天壇公園。
明・清の時代の王朝が、天を仰いで儀式を行った祭壇だったと言われています。
始皇帝の作った支配の仕組み・・・それは、代々の皇帝たちによって受け継がれてきていました。
秦の始皇帝による初めての天下統一・・・そこにあったのは、強大な軍事力だけではなく過去の王朝や天の権威を利用した巧みな統治システムでした。
始皇帝の統一の物語・・・それは、この多様な国を一つにするには何が必要なのか・・・雄弁に語っています。

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