2013年02月05日

ターニングポイント〜甲斐の猛将・武田信玄〜

戦国時代最強と詠われた武田信玄。

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甲斐の虎と呼ばれるまでには、いくつもの転機が。。。。。
5つのターニングポイントがありました。

山梨県甲州市塩山・・・ここ恵林寺は、鎌倉時代に開かれ、信玄が尊敬する快川紹喜が住職となったことから菩提寺となりました。
信玄は快川紹喜を仰ぎ、いろいろ人間として相談していたようです。
ここにある武田不動尊には、領民を守るという信玄の強い意志が現れています。

その武田信玄の人間像とは???

武田信玄は、戦国時代を代表する武将ですが・・・
人びとのイメージは・・・立派な武将・大物政治家・戦略家・・・戦上手な人と思われているようです。


1521年11月3日甲府市積翠寺で武田信虎の嫡男として生まれます。
孫子の兵法を重んじ、風林火山の名のもとに、甲斐の虎として恐れられていました。
「民こそが国家の財産である」という孟子の政治学を重んじ、国内の開発にも積極的でした。

信玄棒道・狼煙台・・・周囲の戦国大名に恐れられた戦略家でした。
対するは越後の龍・上杉謙信です。
龍虎の戦い・・・これを納めているのが甲陽軍は、武田信玄・勝頼二代の記録です。
高坂虎綱が口述し、甥が書き、江戸時代に軍学者によってまとめられたものです。
信玄を密かに尊敬していた家康、この甲陽軍鑑が江戸幕府の教本となりました。

徳川時代タブーだった三方が原の戦い・・・出版禁止されずにありました。
つまり、甲陽軍鑑は、徳川家にとって権威ある書物だったようです。


ターニングポイント@父・信虎を駿河へ追放する

では、どうして父親を追放したのでしょうか?
当時甲斐の国は、自信過剰でワンマンな専制君主・信虎の悪政に苦しめられていました。
そう、当主としての信頼は薄れつつあったのです。
政権末期的な様相で・・・家臣をはじめ、民衆が世直しを求めていたようなところがありました。
そんな中、嫡男晴信は大手柄を立てます。
父のできなかった海ノ口城の攻略にわずか300人で攻め落としました。
しかし、その城に残らなかったということで“臆病だ”と、信虎は弟・信繁に盃を取らせ跡を継がせようとし・・・晴信を阻害しようとしました。

こうした信虎の振る舞いに、父を駿河に追放することを決めるのです。
当時、武田を配下にしようとしていた駿河の今川義元に手紙を送ります。
うつけのふりをして・・・今川義元に家督を誰にするか???と・・・任せます。
うつけなら大丈夫???と、今川が思うように・・・。
その思惑通り、謀反に協力させようとしたのです。
信虎が駿河から戻ってくるところを待ち受けて・・・甲斐の国から追放したのです。
駿河で隠居することになった信虎・・・
こうして晴信は一国の主となり、甲斐の国を治めることになったのです。
大胆不敵な戦略家だったのです。


ターニングポイントA甲斐で初めての法律を作る

甲斐の国は山岳地帯で積雪が多く・・・実りもあまり多くなく・・・
借金や訴訟が多くありました。
人びとは、貧しさゆえに疲弊していました。
1547年甲州法度之次第を制定します。
この法律は、家臣や領民に対してですが・・・
領民に対しては減税もありました。
釜無川と笛吹川・・・この二つの河川の氾濫は、当時の甲斐にとって大きな問題でした。
そこで、信玄堤を作り、その周辺に集落をつくりました。
その人たちには・・・信玄堤の管理を任せ、税金を免除しました。
また、貴重な財源だった甲州金・・・金山衆に免税をし、増産をさせます。

そして・・・そこにはびっくり、
「晴信、決まり事を破ったら相当の処分を受ける」
と、ありました。必罰を自分に課したのです。
内政の充実を図り、家臣や領民の信頼を得ようとしたのです。
人と金を握る“カリスマ経営者”でもあったのです。


ターニングポイントB三国同盟を結ぶ

甲斐の国は、越後の上杉謙信、駿河の今川義元、相模の北条氏康と・・・戦国大名の中でも屈指の三氏に囲まれていました。
北の上杉の土地は・・・海もあり、豊穣で・・・どうしても手に入れたい土地でしたが。。。
その為には、後ろにいる今川・北条が気がかりでした。
1554年三国同盟が、甲斐、駿河、相模の間で結ばれます。
戦国時代2国間の同盟でも大変なのに、3国の同盟を結ぶのは、並大抵のことではありませんでした。
ところが、晴信は・・・前例のない快挙をすることが出来ました。

注目していたのは、相模の北条氏康。
北には関東管領の上杉憲政、西は駿河の今川義元がいたため、武田とも戦いが始まれば・・・窮地に陥ってしまいます。
そこで・・・北条に敵対していた上杉・今川と和睦させることに成功し。。。
そして・・・この二国を取り込み、三国同盟を成功させるのです。
この同盟は、婚姻関係を結ぶことで強いきずなとなり、以後20年間友好関係を結ぶことになりました。
三国同盟のおかげで背後に安心した晴信は・・・念願の信濃平定に向けて全力を尽くすことになります。


ターニングポイントC川中島・壮絶な戦い

越後の雄・上杉謙信との戦い・・・
川中島の戦いは5度にわたっています。
信濃平定を望む信玄と、それを阻もうとする謙信。
両者には、本陣同士の決戦はなく、小競り合いが続いていました。
しかし、第4次川中島の戦いは、今までとは明らかに違う・・・戦国時代最大と言える壮絶な戦いがそこにはありました。

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上杉が布陣したのは妻女山。
武田軍は茶臼山に布陣し、上杉軍の退路を断ちます。
この時、武田軍は2万。上杉軍は1万3000。
そして、合戦は、山本勘助がたてたキツツキ戦法から始まるのです。

武田軍別働隊が、妻女山の後ろから攻め込みます。
逃げた上杉軍を武田の本陣が待ち受ける・・・その場所は、八幡原。
戦いは、上杉軍優勢に徹し、武田軍は壊滅寸前に!!

そして、謙信が・・・・・信玄との一騎打ちです。

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盛り返す信玄側は、この戦いで名だたる武将を失います。
弟・武田信繁、諸角虎定、山本勘助・・・この激戦で武田軍の死者数は8000人、上杉軍は5000人と言われています。
余りにも多くの兵士を失ってしまった信玄・・・この後は戦法を変え、戦わずして勝つ戦いへとなります。
“失わずして得る戦い”
箕輪城・・・長野業盛城主は、5年かけて落城しています。それは、家臣たちを武田に寝返らせることで城主を孤立させるという方法でした。

深沢城・・・北条網成城主は、籠城する敵方に屋文を投げ込んで、降伏するように説得しています。
戦わずして勝つ!!という戦術を手に入れました。
“失敗から学べる強さも持っていた”のでしょう。


ターニングポイントD義信が謀反を企てる

1565年一人の男が信玄に反旗を翻そうとしていました。
信玄の嫡男・義信です。
発端となったのは・・・駿河に対しての意見の相違でした。
川中島の信玄との戦いが思うようにいかない中、駿河の今川義元は桶狭間で討ち死に・・・駿河は当主交代で揺らいでいました。

そこを攻め込もうとしたのですが・・・駿河は義信の正室の故郷・・・
その為に反対したのです。

しかし・・・信玄には駿河を・・・海を手に入れたくてたまりませんでした。
織田信長と対決するために・・・水軍が必要でした。
そして、その先には・・・天下統一!!
思いがすれ違っていく親子・・・そして、義信は、信玄謀殺に臨みますが、悟られて失敗。甲府市の東光寺に幽閉されることになりました。

それから2年後・・・
息子・義信に死を命じます。
わが道を貫くために!!
天下統一の夢は、確固たる意志へと変わっていくのでした。

本格的に駿河侵攻に挑みます。
間もなく駿河は、信玄の手に落ちることになります。

そこには“我が道を貫く、冷徹なまでの合理性”がありました。

天下統一を夢見ていた信玄・・・
1572年京を目指しているうちに、病気に。。。
長篠城で療養するも、一向に良くならず甲斐に戻ることに・・・
しかし、甲斐の土地は踏むことはありませんでした。

食道がんを患っていたようです。
享年53歳。甲陽軍鑑によると、家督をついだ4男の勝頼や家臣に遺言を・・・

@ 三年間は自分の死を隠しておくこと。
A 信長が攻めてきたときは、難所に陣を構え持久戦に持ち込むように。
B 家康が攻めてきたときは、駿河国内で討ち取るように。

“上杉謙信と和議を結ぶこと”
“謙信は男らしい武将であるから、若い勝頼を苦しめるような行いはしないだろう
 まして和議を結んで頼ると言えば、決してそれを破るような者ではない”

それは、自分の口から“和議を結びたい”と言えなかった後悔からだったのでしょうか?
やはり、武勇を決した仲だったからでしょうか?

信玄は、決して城を持つことはありませんでした。
そこには・・・
「人は城 人は石垣 人は堀」
裏切りが当たり前だった時代に・・・信玄にとっては人こそが城そのものでした。

武田信玄は打算的で計算高い・・・しかし、先見の明のある一筋縄ではいかない
武将でした。そこにはぶれない決断力がありました。


甲陽軍鑑には信玄の誓いがあります。
生涯守り抜いた言葉・・・
それは・・・“生涯力を抜かない”ということ。
でした。

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posted by ちゃーちゃん at 13:58| Comment(0) | テレビ番組 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アガサ・クリスティ““実人生はもっとミステリー”

アガサ・クリスティー、ミステリーの女王と言えばこの人です。
60年間に200以上の小説を執筆しました。

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そして誰もいなくなった
オリエント急行の殺人・・・

しかし、彼女の人生もミステリーでした。

アガサ・クリスティーの作品では・・・名探偵が鮮やかに問題を解決します。
今から80年も前に、今のミステリーを・・・その王道を作った人です。
欧米では、聖書・シェイクスピアに次いで読まれていて・・・世界での発行部数は10億冊・・・109の言語に翻訳されているのです。


ミステリーの女王の誕生は・・・
マスコミ嫌いのアガサ・・・人に書かれるぐらいなら、と自伝を発表しています。

アガサは、薬剤師助手の資格をもっていました。
1917年4月30日、アガサ26歳の頃でした。
この頃に小説を書き始めます。
デビュー作は・・・「スタイルズ荘の怪事件」(1920年)
薬の調合とミステリー小説がつながった偶然でした。
1890年イギリス南部のトーキーで生まれたアガサ、一人で人形遊びをして空想をするのが好きな子でした。
11歳年上の姉の影響を強く受けます。
ある探偵小説を読んだ二人・・・
「私も探偵小説を書きたい!!」
そう姉に言ったのです。
しかし姉は・・・
「あなたには出来っこない!!」と。

1914年第1次世界大戦勃発。
一つ年上の軍人アーチボルト・クリスティーと結婚します。
アガサ自身も陸軍病院で働きます。
前線から運ばれてくる兵士の手当のボランティアをしました。

そこで薬の・・・薬物のすごさを身に染みて感じます。
薬に強い関心をもったアガサ・・・薬局に配属されます。
そこには毒にもなる薬もありました。
薬をもっと知りたい!!そう思って、2年かけて免許を取ったのです。

そして・・・毒薬のトリックを使ったミステリーを書いたのです。
「スタイルズ荘の怪事件」(1920年)では・・・
心臓が悪かった被害者は、強壮剤を飲んでいました。
強壮剤には、毒性の強いストリキニーネが含まれています。
ここにある薬を混ぜると・・・毒が沈殿していきます。

ちなみに、長編66冊のうち被害者が毒殺されるのは34冊。
毒殺の被害者は62人、禅被害者の39%を占めています。

アガサが嬉しかったのは・・・
1923年の調剤学時報の批評で、「十分知識のあるやり方で毒薬を扱っており、自分の仕事に十分心得のある人だ」と、言ってもらったことだそうです。
現代のミステリーは、殺人方法を詳しく書けないのですが・・・。


1926年12月3日夜・・・
アガサ・クリスティー行方不明。
12月4日(土)朝、自宅から南約20kmのところで・・・車が発見されました。
車はほぼ無傷。

アガサはどこに消えたのでしょう??

この頃は、アガサは夫と娘と豪邸暮らし、全てが順調そうに見えました。
謎に満ちた失踪・・・

12月5日、警察は2000人の捜索を始めます。
そこには一般人も参加します。
有力な手掛かりのないまま・・・自殺も考えて、湖も・・・。
マスコミは興味本位のネタを書きます。
夫が怪しい?作品の為の自作自演???
12月14日、アガサ発見。
失踪から11日目にイギリス北部の高級ホテルで・・・アガサは宿泊客として泊まっていました。
アーチボルトは・・・
「彼女は事故が原因の脳震とうで記憶喪失に陥っています。
 自分が誰かも、何故ここにいるのかもわかっていません。」
と、コメントしています。

医者も記憶喪失と・・・

しかし、このことで、アガサの家庭の秘密も暴露されてしまいます。
夫・アーチボルトは、若い秘書と不倫の関係にあり、アガサに離婚を要求していました。
アガサも、記憶喪失というけれど・・・テレサ・ニールという名で宿泊。夫の愛人の姓を名乗っています。
しかも、車が発見された場所は、愛人と過ごす家と10qも離れていませんでした。
事故なのか?乗り捨てたのか?それとも記憶喪失・・・???
アガサは、一切マスコミに出なくなりました。

しかし、作品は、この事件を機に大ヒット。
1926年「アクロイド殺し」
1927年「ビッグ4」
1928年「青列車の秘密」
ミステリアスな作家として、成功していきます。


アガサ作品の魅力として忘れてはならないのが・・・
旅・グルメ・ロマンスです。

40代に入り、アガサ作品は一気にスケールアップ。
1935年「雲をつかむ死」では、舞台は旅客機。
1934年「オリエント急行の殺人」では、豪華な列車内で。。。動く高級ホテルでの事件にポワロが挑みます。
当時イギリスでは、海外のツアー旅行が大流行、その旅心とマッチしたのです。

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アガサがこのようなお話を書けたのは・・・考古学者・マックス・マローワンとの再婚がきっかけです。
夫の遺跡調査に参加し、そこで執筆しました。

イギリスにある“グリーンウェイ”という白亜の豪邸は、今は文化遺産として公開され、アガサは家族と、古き良き時代を満喫したようです。
そんなイギリスらしい生活を垣間見ることが出来るのは・・・“ミス・マープル”。
田舎に住むおばあちゃん探偵・こちらはグルメ探偵です。

ロマンスは・・・ドロドロの描写を・・・三角関係・・・男女のもつれなどの描写はぴか一でした。
当時の探偵小説には、恋愛の要素は必要ないと思われていました。
そこにいち早く気づき・・・人間の内面までも描き出した作品です。


マスコミ嫌いだったアガサ・・・
60代以降の人生を大きく変えたのは、“ウエストエンド”ここでの演劇です。
アガサの描いた戯曲・ねずみとりは、60年演じ続けられています。
上演回数を2万5000以上を記録する、世界で最も長い上演記録を持っています。

アガサは、小説を次々と戯曲に変えていきます。
それは。。。???

「課税が厳しくなって、1年に2作品書いたとしても、1作書いた場合よりわずかに収入が増えるだけ。もし、本当に私がやりたいと思うようなものなら話は別である。」

やりたいもの・・・そこに導いたのは、ねずみとりのプロデューサー“ピーター・ソーンダース”でした。
戯曲は次々にヒット。かつて経験したことのない大喝采を浴びます。

そしてエリザベス女王からも・・・
1971年DBE(大英帝国勲章第二位)叙勲。
貴族の称号(男性ならばサー)を授与されます。

マダム・タッソー蝋人形館に・・・
王室からハリウッドスターまでいるのですが・・・
アガサが人形として置かれることになりました。
80歳のままの有りのままの姿で。

そして、1976年1月12日85歳の生涯を閉じました。
ミステリー作家らしく、チャーミングな人でした。

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posted by ちゃーちゃん at 07:51| Comment(0) | 追跡者 ザ・プロファイラー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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