2013年02月01日

三本の矢の宿命〜小早川隆景〜

小早川隆景―毛利一族の賢将
小早川隆景―毛利一族の賢将

“三本の矢”で有名な毛利元就、その長男・毛利隆元、次男・吉川元春、三男・小早川隆景・・・この逸話は有名な三本の矢の教え。

しかし、三本の矢の教えは作り話・・・
長男の隆元は、元就より先に死んでいるので、元就の死の床に三人の息子が・・・というくだりはありえないのです。
もともと三本の矢とは。。。シルクロードから来たお話のようで。

それが毛利家に当てはめられたのは・・・三人に一致団結せよ!!と、元就が言っていたからです。
毛利家を守るために、養子に出された隆景・・・
養子と言っても、戦国時代。相手の家をのっとって、毛利の為に!!!

その話に出てくる小早川隆景とは???
3人兄弟の中でも非凡な才能をもって生まれてきたようです。
小早川家の菩提寺米山寺は、広島県三原市にあります。
小早川隆景の命日には、法要が行われています。
毎年奉納されているのは“やっさ踊り”。
小早川隆景の築城時のお祝いに踊り出し、400年にわたって続いています。

隆景は、子供のころに元春と雪合戦をした際・・・
一回戦・・・勇猛な兄に家来と立ち向かいますが、全くかないません。
二回戦・・・半分で元春にかかります。今度も歯が立たず、追いかけてきた兄・元春を、待ち伏せていた残りの半分に左右から挟まれ・・・隆景の勝利となりました。

勇猛で正面から戦った兄・元春、幼いながらも兵法で勝利した弟・隆景、その戦いぶりを見た父は、後にこの二人の性格を見据えた戦略を立てることとなります。
この時、長男・隆元は、周防の国に人質にされていました。
当時、中国の2大勢力は、大内氏と尼子氏。元就は、二つの勢力に挟まれた安芸・郡山城・4000石の小さな土豪で、尼子氏の庇護を受けていました。

ところが・・・大内氏への寝返りを・・・その証が、毛利隆元の人質でした。
それに怒った尼子氏は、3万の兵を率いて郡山城に押し寄せました。
守る毛利軍は3000・・・元就の戦法は、かつて雪合戦で隆景が行ったもの・・・敵をおびき寄せての殲滅でした。

この作戦は見事にはまり、尼子軍を苦しめます。
そして、陶隆房率いる大内軍1万が援軍に来ると、尼子軍を安芸から追い出すことに成功します。
元就の勝利が広まると・・・瀬戸内に面した木村城・小早川氏から元就の次男・元春を養子に欲しいという話が持ち込まれます。
元就にとって、戦うことなく瀬戸内に出ることが出来る!!こんなおいしい話はありませんが・・・熟慮の末、元春ではなく隆景を養子にしました。
その理由は・・・海賊行為をする者が多い手練れをまとめられるのは、まっすぐな元春よりも、策をめぐらす隆景の方が良いと思ったからです。
そして元就は、尼子氏と国境を接する小倉山城の吉川に元春を養子に出すことにしました。

隆景と元春・・・どちらも養子に行くとき、元就が念を押したのは、三本の矢の教えを忘れてはならぬというものでした。
これが後に毛利の両川と呼ばれることになります。

そして、さらに息子たちを使って勢力を広めていきます。
1551年毛利元就安芸国統一。
翌年・・・陶隆房が謀反を起こし、主君・大内義隆を自害させてしまいました。
陶につくか、大内につくか・・・

陶軍2万人、毛利3000人・・・

悪人・陶隆房を討つ!!

そして元就は、広島湾に浮かぶ宮島・・・厳島神社があります。。。そこを占領させ、要害山に城を築き守らせました。
対岸に陣を構えた元就は・・・3人の息子と作戦会議を始めました。
そこで・・・元就の作戦を非難し始めた隆景!!

「父上の作戦、全く理解できません。
 負けが決まったようなこの戦に、小早川の兵士を参加させることは出来ません!!
落とされるような城を築くとは・・・!!
毛利家だけのことを考えることは出来ん!!」

ところが評定のもようは、内通者によって陶側にもたらされます。
そして、厳島に上陸した陶軍2万は、後方の山間に陣を構えて攻撃をかけようとします。

しかしそれは、元就と隆景の芝居でした。
兵力の劣る毛利軍が勝つためには、小さいところに固めて動きを取りにくくすること・・・そこに勝機を懸ける以外になかったのです。
そして、隆景もう一つの仕事は・・・村上水軍を味方につけること。
当時300隻の船をもち、瀬戸内海の制海権をもっていたのですが、陶隆房も味方につけようとしていました。
普通ならば勝つ見込みのある陶軍につくのですが・・・
隆景は使者に・・・
「軍船300隻、1日だけお貸しいただきたい。
 それも、厳島へ着いたらすぐにお返しする。」
村上武吉
「1日だけとはどういうことだ!!」
「島につけば、勝てば島に残るし、負ければ討ち死にする覚悟、帰りの船はいらん!!」

この言葉を意気に感じ、村上水軍は毛利側に。
1555年10月1日厳島の戦い
東側からは、毛利元就、毛利輝元、吉川元春、西側からは、小早川隆景が上陸、挟み込むように陶軍に奇襲をかけて壊滅させました。

厳島の戦いに勝利し、大内氏の所領と瀬戸内海の制海権を得た元就は、吉川元春を主力に、尼子に対峙します。
そのさなか、毛利に不幸が・・・
1563年8月4日毛利隆元が亡くなります。享年41歳の若さでした。

あとは、隆元の息子・輝元が継ぎます。
隆景と元春を後見人・・・No,2としたのでした。
そして、初陣は・・・月山戸田城への総攻撃でした。
尼子氏をその軍門に下し、新しい当主・輝元の名を世に知らしめました。
この時、中国地方10か国を治める大大名となったのです。

病床に伏した元就・・・枕元に元春らを呼び・・・自分が死んだあとはこの中国10か国を守り、天下を争う戦いに参加してはならない・・・と言ったのです。
1571年6月14日没・享年75歳でした。

元就の遺言を守ろうとしていたのに・・・それを許さなかったのは、織田信長でした。
信長は、足利義昭を奉じて上洛すると、天下統一に向けて動き始めます。
姉川の戦いで浅井・朝倉を破り、長篠の合戦で武田勝頼に勝利、その勢力は中国地方へ・・・

司令官としてやってきたのは豊臣秀吉。
別所長春の守る三木城をおとし、播磨国を平定すると、備前・岡山城・宇喜多を籠絡、備中・高松城に侵攻を開始します。

高松城を落とされれば、織田に寝返る大名が続出し、中国地方においての覇権を失ってしまう!!そう思った隆景は、輝元・元春と共に、備中・高松城の救援に・・・
それは、父・元就の遺言を破ることになる・・・その最初の一歩でした。

秀吉の侵攻に対して、毛利は7つの城を造りました。

mo-ri.png

その最大が備中高松城・城主は清水宗治。
高松城は、沼地に囲まれ・・・城への入り口は一つ・・・守るにたやすく攻めるに難しい城として知られていました。

宗治は最後まで毛利に殉じる・・・と、3000の兵と立て籠もります。
秀吉の兵は3万。味方の兵を失わないために・・・秀吉は、近くを流れる川を使って城ごと水没させることにしました。水攻めです。
高さ7mの3kmに及ぶ堤をわずか12日間で完成させます。
雨が降り・・・堤の中に水が溜まり・・・湖が出来上がりました。
沼地であったために・・・

mo-ri2.png

2万の軍勢で応援にやってきた隆景は、この光景を前になすすべがありませんでした。
元春も・・・戦うことをせず、溺死させようとする秀吉を卑怯者と罵りますが・・・後のまつり・・・

さらに悪い知らせが・・・信長が、毛利と雌雄を決するために安土城を出発!!京都へ向かったというものでした。

三本の矢が集まって、軍議が開かれます。
隆景は・・・
「もはや・・・領地の半分を差し出して、宗治と兵を助けましょう」
しかし、輝元と宗治は反対しますが・・・説得され、和睦を申し入れますが・・・
秀吉は、ほとんど手中に入れているので、和睦の必要もなく・・・興味を示さなかったのですが・・・

しかし、突然秀吉は、清水宗治の切腹を条件に、和睦を申し入れてきました。
隆景は違和感を覚えながらも条件を飲み、宗治も自分の命と引き換えに兵が助かるならばと承服します。
小舟を浮かべ、毛利軍と秀吉軍の見守る中・・・
1582年6月4日清水宗治自刃。

隆景たちがその死を悼む中・・・織田信長が明智光秀に殺されたことに驚きます。
秀吉に騙されたことを知った元春は激怒、明智光秀と戦うために引き返す秀吉軍に追っ手をかけると言い出します。
この時、元春をいさめたのは隆景。

秀吉に、幟だけを届けます。
秀吉は、隆景の意図を理解します。
隆景は自分の勝利にかけている!!と。

父の遺言を破った瞬間でした。
その後、山崎の合戦で光秀を討った秀吉は天下人へと上り詰めていきます。
そして、後々まで隆景に感謝をし、毛利家の安泰を認めたのでした。

秀吉に認められた隆景は、朝鮮の役でも大きな手柄を立て、帰国後は、毛利輝元と共に五大老のひとりになりました。
そして、1597年6月12日65歳で亡くなります。
隆景の死から3年後、関ヶ原の戦いがおきます。

隆景の養子・小早川秀秋は、西軍から東軍へ寝返り徳川家康が勝利に貢献したとして、岡山藩55万石をもらいましたが・・・その2年後に病死。

秀秋は、秀吉の甥・・・養子先を探していた秀吉は毛利に目をつけます。しかし、それは困る・・・と思い、我が家に・・・と小早川家に招いていたのです。
そして・・・天下の戦に関わった小早川家は滅んだのでした。


三本の矢のもう一つ、吉川家・・・元春は病死、その息子・広家は、毛利輝元が西軍の総大将となることに反対します。
そして関ヶ原の際に、東軍につきます。その為家臣からは裏切り者と呼ばれます。
しかし、広家は裏切ったのではなく、家康が勝った時に毛利家が潰されないように着いたのです。
その証拠に、戦後の交渉で、家康が毛利家の改易を考えていると知ると、自分に与えられることになっていた周防・長門の2か国37万石を毛利家に譲り、自らは岩国3万石の領主となりました。

三本の矢の教えは、息子にも伝わっていたのでした。

備中高松城主清水宗治の戦略
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武士の本懐−名こそ惜しけれ− [単行本(ソフトカバー)] / 三宅作蔵 (著); 吉備人出版 (刊)
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posted by ちゃーちゃん at 14:09| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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