2013年01月29日

足利義満 空前の混乱に立ち向かった権力者

足利義満―法皇への夢を追った華麗な生涯 (日本史リブレット人) [単行本] / 伊藤 喜良 (著); 山川出版社 (刊)
足利義満―法皇への夢を追った華麗な生涯 (日本史リブレット人) [単行本] / 伊藤 喜良 (...

あ・・・私の知っている義満は、おバカなこの人です。

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一休さんで、桔梗屋さんと一緒にとんちで一休さんにコテンパンにやられて地団駄ふむ義満さんです。
で、一休さんが天皇の御落胤だったので、目付に新右衛門さんをつけたのよね揺れるハート

でも、本当はすごい人、日本を大きく変えた人です黒ハート
鹿苑寺金閣・・・今から620年前・・・京都で文化の華を咲かせた一人の男によって作られました。
足利義満・・・中世、動乱の日本に君臨した室町幕府第3代将軍です。
北山文化の創始者として知られる義満・・・長い間、歴史の悪役として語られてきました。

自らの理の為なら冷酷無比になる策略家・朝敵という汚名・・・傲慢な権力者としてのイメージが強いのですが・・・

義満が生きたのは、南北朝動乱の時代。
悪党と呼ばれる私利私欲にまみれた武士が、秩序のない世界を作り上げていました。
誰もが自分の力で生きていかなければなりませんでした。

義満の時代は、鎌倉幕府が滅亡後・・・次の権力が生まれようとしていました。
天皇に権力を戻そうとする後醍醐天皇と、武家政権を建てようとする義満の祖父・足利尊氏が対立していました。
尊氏は、後醍醐天皇を京都から追い出し・・・後醍醐天皇は奈良に反幕府の南朝を、幕府側の尊氏は北朝(室町幕府)を開きました。
長引く内乱で・・・武家社会には、悪党・ばさら大名が出てき、私利私欲にまみれ・・・
悪党は裏切るのは当たり前、佐々木道誉・高師直ら、ばさら大名は天皇などの伝統を軽視していました。
そう、武家社会が根底から崩れ出していたのです。
その時代をまとめ上げた将軍・義満・・・それは、平坦な道ではありませんでした。
そんな義満の苦悩とは、どんなものだったのでしょうか?

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1373年12月、父・義詮が急死すると、室町幕府三代将軍へと就任します。
この時義満、11歳。幼い将軍は、盤石でない幕府を一身に背負うことになってしまいました。
最大の課題は、大名を支配下に置き、幕府の安泰を目指すこと。
当時大勢力の一つだったのが、山名一族。山陰を中心に11か国を治める大大名でした。

義満は、軍事力に勝る山名攻略の機会を虎視眈々と狙っていました。
チャンス到来は34歳の時、山名一族の内紛がおこります。
総領の地位をめぐって、本家と分家が対立したのです。
一族の内紛につけて、義満に近づいてきたのが・・・分家の山名満幸。
満幸は、本家が謀反を企てていると密告し・・・それを受けて義満は派兵、潰してしまいます。
しかし、義満は態度を一転。今度は分家の満幸に対して、荘園横領の疑いをかけ守護職を剥奪。満幸は激怒し、幕府に反旗を翻します。

義満は、この時を待っていました。
幕府軍は、満幸軍をわずか1日で壊滅。
幕府に勝っていた山名は、内紛を機に統率力を失っていたのです。
そして・・・山名の所領は、11か国から3か国に・・・
相手のすきをついての策略です。

このようにして、各地の大名を弱体化し・・・
その総仕上げが、南北朝合一だったのです。

嵯峨野・大覚寺にある正寝殿で、歴史的な南北朝合一がなされます。
これからは、北と南の天皇が交互に天皇につくと、決まるのです。
そして・・・動乱は鎮まるのでした。
武家の支配を固め、日本史上最大の内乱を一つにまとめあげたのが義満だったのです。

それは、どんな方法で???
鹿苑寺・金閣を中心に掌握した権力・・・その象徴でもありました。
第三層は禅宗様式、第二層は武家造、第一層は寝殿造・・・。
第一層を公家の寝殿造りに・・・
そこに義満の考えがありました。
公家の官位を欲し、次々と手にしていきます。
その昇進の速さは異例の者でした。
源頼朝のなった右近衛大将に21歳で、25歳で左大臣、26歳で皇后・皇太后に続く准三后に・・・37歳で武家では平清盛以来の太政大臣に駆け上がります。

公家でさえ稀のこの出世・・・その裏には北朝の重鎮公家・二条良基の姿がありました。トップに立つ摂関家、実力者です。
この良基おかげで、朝廷で華々しくデビューしたのでした。
マナーも、徹底的に教え込まれます。つつがなく儀礼をおこなうための摂関家。
一部の公家だけが守ってきたものを、良基の手ほどきによって教え込まれたのでした。

では、どうして協力してくれたのでしょう?
南北朝の戦いは、荘園からの年貢を激減させました。
北朝の後円融天皇が窮地に陥ります。財政の悪化から、祭祀儀礼も中止となり・・・その政権が危ぶまれます。
公家たちも仕事がなくなり・・・俸禄がもらえなくなっていました。
公家も朝廷もなくなってしまうかもしれない・・・
現在までで一番ピンチだったのが南北朝時代だそうで、朝廷を生き残らせるために・・・
このような危機に、義満が望んでいた官位・昇進させることで、財政的にもテコ入れしてもらいます。

1379年右近衛大将拝賀儀式。
義満は、天皇の前で見事な舞を披露。
さらに・・・二条良基の計らいで、天盃を与えられるという前代未聞の栄誉を受けるのです。
当時の公家は・・・それを苦々しく見ていました。


こうして義満は、清盛も頼朝も飛び越えて、摂関家に匹敵する立場になっていきます。
が・・・これは、二条良基の思惑を超え・・・
後円融天皇の立場が悪くなります。
公家たちの蚊帳の外にされ始めたのです。
そして。。。義満は、後円融天皇との女性問題を・・・心を痛め、病に伏せる天皇に追い打ちをかける義満・・・まだ6歳の御小松天皇を即位させ、自らが後見人となりました。
義満は・・・このようにスーパー権力者となっていくのでした。

では、武家も公家も抑えてスーパー権力者となった義満、どんな国づくりを目指していたのでしょうか?

そこで出てくるのは・・・日本国王問題です。
1368年、義満11歳の時に・・・元に変わって明が誕生しました。
そして、朝鮮や琉球に、朝貢(明皇帝への従属)を要求してきます。
しかし・・・日本は、国交を拒否します。
そこには、公家たちの“属国になどならない!!”という強い思いがありました。
さらに、明の皇帝・洪武帝が国交を結ぶのは、国家元首・・・。に限られていました。
義満が日明貿易を始めるためには、国王に認められる必要があったのです。
そして・・・第3代永楽帝の時に・・・義満が日本国王に認められます。

この行為が、天皇をないがしろにし、日本を明の属国とした・・・ということで、後世激しい非難を浴びることになるのですが・・・
天皇の臣下であるべきなのに、隣の国の王の臣下になるなんて・・・

しかし、義満は、遣唐使廃止以来およそ500年にわたって途絶えていた中国との正式な国家外交を再開し、日明貿易を始めます。

では、属国となってまでどうして・・・???
そこには、貿易利潤を独占しようとしていた狙いがあります。
義満が欲しがっていた永楽通宝は国際通宝。。。
これが、明との国交の狙いだったのです。

東アジア世界では、当時、武人国家から文人国家の転換期でもありました。

この莫大な富を・・・北山文化につぎ込みます。
花開いた北山文化は、唐物と呼ばれるものをはじめとする大陸伝来の品々でした。
特に陶磁器は、世界最高水準でした。
この芸術品を、こよなく愛したのです。


さらに・・・能楽を・・・観阿弥・世阿弥を発掘し、手厚く保護しました。
明との交易の結果、経済が発達し、新たな機運が来たのです。
明を取り入れることで、経済と文化の発達する時代に・・・義満が願った国の行く末でした。


そんな義満晩年の最大疑惑事件は・・・
それは、自分の妻を天皇の母とし、自らの子を皇位につかせようとした問題です。
1406年12月25日後小松天皇母・通陽門院厳子重体。
12月26日、義満は帝の母を見舞う。
「帝は即位されてから、すでに父君を亡くされている
 在位の間に二度も喪に服するのは不吉である」
当時、それは朝廷の習わしでした。
服喪は1年。その間、天皇は一切の政務から離れます。

差し迫った問題に対し・・・
側近の公家に・・・
「過去に帝に代理の母、准母を立ててさしあげれば、喪に服さなくてもよい先例がある
 誰を帝の母にするのが良いだろうか」

この時義満は、困ったことに、皇族にふさわしい女性がいないと言います。
公家は、義満は、自分の妻を准母にしたいのではないか?と、考えます。

妻が准母となれば、義満は天皇の父。その位は太上天皇です。
しかし、代理の母を、皇族以外から、ましてや武家からなどとは前代未聞。
それでも義満の近しい公家・一条経嗣は・・・
「恐れながら、義満様の妻君に皇族につぐ准三后の宣下を下され
 その後、帝の母・准母となされるのが良いでしょう
 すべては、義満様の大権によってご決断されるべきです」

朝廷の慣習に従って准母にすることを薦めました。

その後、御小松天皇の母が亡くなり、義満の妻が准母となることが決定されます。
義満は、自らは何も語っていませんが・・・。
しかし、太上天皇になれば、自分の子供を天皇にすることが出来る

一条経嗣は、義満の妻を准母としたことを後悔しています。
「自分の保身だけを考えて、なんと愚かな助言をしたものか
 ああ、悲しいかな 悲しいかな・・・」

ところが・・・2年後の1408年5月6日
足利義満死去。あまりの突然の死でした。

しかし、4代将軍義持は、義満にもらった太上法皇を朝廷に返上してしまいます。
動乱の時代をまとめ上げた足利義満。その死から60年後応仁の乱が始まり、京都は焼き尽くされ・・・再び動乱の時代が始まるのでした。

本人は、天皇家の乗っ取りなど考えていなかったのかもしれません。
アジアの変革期の中で、日本をどう繁栄させていくのか???
大胆かつベストな決断をした人物であることに間違いありません。

天皇になろうとした将軍―それからの大平記 足利義満のミステリー (小学館文庫) [文庫] / 井沢 元彦 (著); 小学館 (刊)
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posted by ちゃーちゃん at 14:16| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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