2013年01月19日

理想の主君を求めた男〜藤堂高虎〜

主を七人替え候―藤堂高虎の意地 (幻冬舎時代小説文庫) [文庫] / 小松 哲史 (著); 幻冬舎 (刊)
主を七人替え候―藤堂高虎の意地 (幻冬舎時代小説文庫) [文庫] / 小松 哲史 (著); 幻...

1586年(天正14年)10月27日、この日、豊臣秀吉と徳川家康とが大阪城で対面します。

この時、家康は秀吉の前で頭を垂れ、恭順の意を示しました。
天下はなった・・・秀吉は、家康の為の新しい屋敷の図面を差し出します。

家康がその図面を見ると、公家の館のように優美な施しがなされ、秀吉の家康に対する心配りがされていました。が・・・絵図面にはないものが作られていました。

その真意を問うために、その男を呼び出した家康・・・
「設計図にない堀や門を、貴殿の一存で作ったと聞いたが、
 どのような理由で作ったのか?」

それに対し男は・・・
「京洛は、近頃平穏とはいえ何時不測の事態が起こらないとも限りません。
 徳川殿のお屋敷が、公家の如きものであっては不用心と思い
 私の一存で掘りと門を加えさせてもらいました。」

と、答えました。
絵図面を見たときから不用心だと思っていた家康・・・
秀吉の意見を聞かずに堀と門を加えたことに感心しました。
その男こそ、藤堂高虎でした。
幾度となく戦場を潜り抜けてきた強者でした。

「藤堂殿、心遣いかたじけない
 貴殿の名前、家康覚えておきますぞ」

この言葉から14年後・・・関ヶ原、天下統一へと進んでいく家康。。。
その裏には、家康のNo,2藤堂高虎がいました。 

そもそも近江の国の人です。
侍としてはなかなか主君が決まらずに浪人もし、苦労しました。
当時は、自分の国の人しか採用しなかったようで、よその国の人を採用した最初の人物は織田信長でした。

徳川家康が生まれた岡崎と伊勢湾をはさんで対岸にある三重県津市。かつて伊勢津藩32万石の初代領主が藤堂高虎でした。
居城だった津城・・・高虎は、築城の名人として有名でした。
彼が創った建造物は、城だけでも20以上あります。
江戸城・今治城・宇和島城・津城・伊賀上野城・和歌山城・膳所城・大洲城・伏見城・篠山城・大阪城・・・etc.
今でもあるお城もたくさんあります。

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津城も、関ヶ原で焼けてしまった城を高虎が大改築しました。
この城、1580年〜1600年の間、織田信包や冨田氏の城でした。
しかし、藤堂高虎が城を拡張します。石垣の石積みが見てわかる程違うのです。それくらいきれいに改築しています。

津城に入って3年後、25m城壁を延長・・・その後、大坂の陣が始まっています。
当時の変わった手法を使っています。
布積は格子状に並べることで、見た目の美しさと強度を強くすることが出来ます。
谷積は、V字型の谷を作るように積み上げています。
城壁の隅には、算木積。長方形の石で交互に角を作ることで、石垣の一番重要な角を強くします。

高虎は、この方法を安土城の建設現場で学んだと言います。
安土城は、当時の最新式のお城。
穴太積みと呼ばれる自然石をそのまま積み上げた技法で、穴太衆が手掛けた積み方でした。
そこで働き、自分の腕を磨いたのです。


もともと浅井に仕えていた高虎。15歳で初陣・姉川の戦いで兜首を取ります。長政に脇差をもらう活躍をしますが、結局は負け戦。

その後、各地を放浪し・・・21歳で城づくりを学ぶために安土城の建設現場へ・・・。
高虎は、その現場で人生を変える男・羽柴秀長、秀吉の弟に出会います。
秀長は、内政から軍事外交まで秀吉を支え、秀吉のNo,2だった男です。

藤堂高虎が秀吉ではなく、No,2だった秀長に仕えたこと・・・それが、彼の人生に大きな影響を与えました。
当時、織田信長の家臣でしかなかった秀吉が、秀長のサポートを受けながら天下統一へと邁進していきます。

どの合戦でも先頭に立って働く高虎は、秀長の厚い信頼を得ていきます。
そして、四国平定が終わったとき・・・高虎は押しも押されぬ1万石の大名になっていました。
その後も、秀吉の天下統一を支え続ける秀長を横に見ている高虎・・・次第に大きな夢が膨らんできました。
自分もNo,2となり、主君を支える大きな仕事がしたい!!と。

そして、自分の望みをかなえてくれる器量を持っている大名を探し始めました。
そこに現れたのが、徳川家康。
1584年小牧・長久手の戦いでおよそ10倍の兵力の秀吉軍に対し、一歩も引かず、それどころか秀次軍を敗走させました。

家康の非凡な才能を見つけた高虎。

1591年1月22日豊臣秀長が亡くなります。
藤堂高虎を高く買っていた秀吉は、四国・伊予宇和島に7万石を与えて直参大名にします。
そして・・・1597年高虎渡朝。。。伊予水軍を率いての朝鮮出兵です。

高虎は、参加した戦いに勝利し1万石の加増となりましたが・・・
それは、苦労の割には少ないものでした。

ところが、その戦いに勝利したことが後に幸運をもたらしました。
もたらしたのは家康。時は秀吉が亡くなってからでした。

朝鮮から兵を引いてくるのに誰を遣わすのか???
これだけの大仕事をやるのには・・・
石田三成や前田利家が頭を悩ます中、家康の頭の中には高虎が。。。

「勇気があり 知恵があり 
 朝鮮の地理を知る藤堂殿こそ適任である」

家康の推挙を受け朝鮮へと渡った高虎は、福島正則・黒田長政などを無事に帰国させることに成功します。
このことが、二人を深く結びつけ、歴史を動かす布石となりました。

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高虎の兜は、“唐冠形兜”と呼ばれ、秀吉の物を高虎に下げ渡され、高虎の従兄弟にあげた物。左右に張り出しているのは“纓”と呼ばれるもので、ウサギの耳を表しています。
その長さ、片方だけで83pもあります。

秀吉から兜を与えられるまでになっていた高虎・・・しかし、その秀吉の死が高虎の転機となります。
1600年、ついに徳川家康が動き出します。
対立していた五大老のひとり上杉景勝を討つために討伐参加を呼び掛けます。
その檄文は、高虎の元へも・・・
かねてから、天下人になり得る主君を求めていた高虎は、その檄文で自分に必要な人は誰なのか・・・それがはっきりしました。

高虎は家康の信頼を得なければなりません。
東へ向かう家康の元へ、石田三成が挙兵したとの知らせが入ります。
翌日、今後の方針を決める小山評定が開かれます。
この会議で家康が恐れていたのは、福島正則など・・・秀吉恩顧の大名の動向でした。
未だ家康は豊臣家の五大老のひとりでしかない。。。
もし、誰かが秀吉への恩義を口にしたら???
三成に参加すると口にしたら???
その時・・・真っ先に発言したのは、高虎でした。

「家康殿のもとを離れ、三成に味方するのであれば、 
 なぜこの地まで参りましょう。
 我々の中に二心を持つようなものはこざらん。」

この高虎の言葉に、福島正則、黒田長政らも賛同し、一気に三成打倒に傾きました。
この時、関ヶ原の勝者が決まったのかもしれません。

1600年9月15日関ヶ原の戦い
西軍8万2000、東軍7万4000が激突しました。
西軍有利かと思われたこの戦い、小早川秀秋、脇坂安治らの寝返りによって家康が勝利。

この時、高虎は、家康勝利の決定的な働きをしていました。
あらかじめ・・・滋賀県出身の大名や、小早川秀秋の説得交渉をしていたのです。
まさしく参謀としての働きでした。

関ヶ原に勝利した家康は、四国・伊予20万3000石を高虎に与えます。
高虎は得意の建築術を使い、今治城を完成させ、藩政に力を注ごうとします。

が・・・突然家康に、伊賀上野への国替えを命じられました。
無謀かと思われるこの考え・・・しかしそれは、家康が高虎をNo,2として認めていた証拠だったのです。

そして高虎に、関ヶ原の戦いで焼けてしまった伊賀上野城の再建を命じます。
これには、家康の深い考えがありました。
伊賀上野に流れる服部川・・・この川を下っていくと・・・家康が最も気になっている大坂へと続いていたのです。

関ヶ原で天下を手中に入れた家康・・・しかし、気がかりなことがありました。
大阪城にいる秀頼と豊臣恩顧の大名たちです。
彼らを取り除かなければ・・・それが、伊賀上野城の再建だったのです。
伊賀上野城の特徴は、深い堀と高い石垣です。
これは、家康の命令によって高虎が造ったものです。

家康は。。。
「大坂方との戦いに敗れた時、
 私は伊賀上野城に籠り再起を期すつもりだ。
 お主は得意の築城術を駆使して、堅牢無比の城を造ってくれ。」

と言ったといいます。

この命を受けた高虎は、高さ30m・全長368mもある城を、わずか1年で築城しました。

大坂の陣は、伊賀上野城に籠城することもなく・・・
1616年豊臣家滅亡という形で終わりを告げます。

そして戦ののち・・・家康は秀忠に、藤堂家を末代まで伊賀上野城から国替えをしてはならぬと命じました。
関ヶ原の戦いから豊臣家が完全に滅ぶまで、16年もかかっています。
西国に睨みを利かせるために・・・第2次関ヶ原の為に・・・
彦根には井伊家を、伊賀上野には藤堂家を・・・この二人の信頼しておいたのです。


では・・・どうして家康は高虎を重用したのでしょうか?
それは、天下人になるためには子飼いではない新しい力が必要だったのです。

家康は天下統一のもと・・・江戸城の普請から町の整備まですることになります。
そして、江戸城築城にも高虎は関わることになるのです。

藤堂高虎は、家康から屋敷を建てるためにもらった土地に名前を付けます。
それが・・・“上野”です。
異論もありますが・・・ここには、車坂・不忍池など、伊賀上野にちなんだ名前があります。

No,2としてのエピソード・・・
晩年高虎は、秀忠に二条城の改築を依頼されます。
高虎は精魂込めて図面を書きあげます。
そしてもう一枚・・・
二枚とも秀忠に渡します。その理由は?

「一枚しか提出しなければ上様は私が書いたものを承認することになる。
 しかし、二枚から選ぶのであれば、上様が考えたことになる。
 大切なのは、いかなる時も家臣の分をわきまえ主人を立てることだ。」

この気遣いこそが、外様でありながら家康の厚い信頼を得ることになったのです。

高虎は家康亡き後も・・・秀忠・家光も、度々城に呼び出し話を聞きます。
晩年高虎が目を悪くし、廊下を曲がるのに苦労していたと聞き、家光は廊下をまっすぐに改築させたと言います。

徳川家三代に仕えた高虎は、10月5日波乱の生涯を閉じました。
享年75歳、それは奇しくも主人と仰いだ家康と同じ年でした。

高虎が秀忠に残した国を治める教訓が残っています。
一つ、国を治めるには人を知ることが肝要である
   人の長所・短所を見極め適材適所に配置せよ
一つ、信用できると思ったらとことん信じよ
   上が下を疑えば下は上を疑う
   お互いが疑えば国の題字も人々は協力せず君主は孤立する
一つ、讒言により国が亡ぶ側は古来より多々ある
   上に立つものは讒言には耳を貸すな。

でした。


なんと、No,2というにふさわしい男でしたね。黒ハート
藤堂高虎公 津入府400年記念フレーム切手
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posted by ちゃーちゃん at 10:53| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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