日本屈指の貿易港・・・横浜。
幕末、通商条約によって開港された異国情緒漂う街です。
今から150年前、横浜港外の生麦村である事件が・・・
1862年8月21日、乗馬を楽しむイギリス人男女4人が、薩摩藩の行列に遭遇し・・・
そのうちの一人・・・チャールズ・リチャードソンが無礼者として殺害された・・・
生麦事件です。
ひとりの青年の死が、イギリスと幕府、薩摩を巻き込んで、大事件へと発展しました。

その始まりは、不幸の偶然からでした。
日本のしきたりを知らなかったイギリス人たち・・・
出会ったのは、薩摩藩・島津久光の最強軍団だったのです。
この偶然が、幕末史を変えることとなりました。
イギリスの巨額賠償請求、海上封鎖計画・・・幕府の権威は失墜します。
薩英戦争の勃発・・・
徳川幕府の崩壊・・・時代は大きく明治維新に舵を切ることとなります。
位置づけとしては、ただ単に日本とイギリスの戦争ではなく、太平洋戦争のような。。。
世界史において重要な事件であることに間違いありません。
事件の舞台となったのは、現在の横浜市鶴見区生麦・・・
かつては、富士山と相模湾を望める絶好の場所で、旧東海道にあります。
道幅は三間・・・5.4mほどです。
事件現場は・・・お茶屋などがあり、旅人で賑わっていました。
そして、そこにはたくさんの偶然がありました。
偶然其の一・・・外国人と大名行列が出会う村。
生麦村は、条約で外国人の遊歩地区となっていました。
一方、東海道は、大名行列の通る幹線道路でした。
偶然其の二・・・上海から来た男
事件の被害者、チャールズ・リチャードソンは、イギリス商人です。
横浜にやってきたのは、2か月前・・・ロンドンに戻る前の観光でした。
初めての日本に好意を持っていたようです。
乗馬・・・4人が目指したのは、川崎大師。
風光明媚な東海道を続きます。
日本が初めてのリチャードソンが先頭になりました。
そこへ・・・江戸を下ってきた大名行列が・・・
駕籠に乗るのは、島津久光・・・
ただの大名行列ではなく、幕政改革のための率兵上京でした。
幕府の力が弱まっていたために、中央政局に出ていき幕藩体制の立て直しを図ろうという目論みがあったようです。
行列には・・・小松帯刀・大久保一蔵・黒田清隆・松方正義・・・そうそうたるメンバーです。
さらに、剣の達人たちも・・・その中には、攘夷に燃える者もいました。
精鋭400人の行列は、まさに、薩摩藩の最強軍団だったのです。
午後2時生麦村で・・・英国人一行と久光の行列が遭遇します。
先頭のリチャードソンとマーガレットは左端によりながら通ります。
馬から降りずに通る無礼な外国人に、藩士たちは怒りを覚えます。
そこへ、道幅いっぱいに久光の駕籠本体がやってきました。
逃げ場もなく、隊列に入ってしまったリチャードソン・・・そして・・・
悲劇が起こりました。
最初に動いたのは、奈良原喜佐衛門。リチャードソンを左肩から切り下げました。
薩摩藩士が一斉に抜刀し、イギリス人たちに斬りかかります。
逃げる途中にまたもや斬り付けられ・・・1キロ先で落馬、追ってきた藩士にとどめを刺されてしまいました。
イギリス人と薩摩藩士・・・
それぞれの立場で良かれと思ってとった行動でしたが・・・大事件となりました。
大名行列の権利とイギリスの権利がぶつかった大事件でした。
尾張藩主の徳川茂徳の大名行列が2年前にこのような事件に遭遇していましたが・・・
この時は、大名行列を眺めようとした外国人を・・・殿様も、オペラグラスで見たそうです。
この時の状況は、ただの参勤交代の大名行列ではなく、幕末の動乱の始まりと言われている久光の卒兵上京・・・大砲や銃などを隠し持って武装兵を連れての大名行列でした。
この時の久光は、慶喜を将軍後見人に、松平春嶽を大老にしようとしての状況だったのです。
しかし、幕閣からは冷たくあしらわれ、自分が幕政に関われなかった・・・
イライラしながら京へと戻る途中だったのです。
島津久光=幕末政治の焦点 (講談社選書メチエ) [単行本(ソフトカバー)] / 町田 明広 (...久光自身は、通商条約に反対ではなく、自らも貿易をし、富国強兵に励んでいました。
攘夷ではあるけれども、今の国力では勝てないことも知っていました。
だから、イギリス人を殺害してしまったことに対しては、かなり当惑していたようです。
このことが、薩摩藩にとっての国難になる・・・そのことは、薩摩藩も容易にわかったことでした。
久光たちは、予定通りに程ヶ谷宿へ・・・。
一方、横浜の外国人居留地は騒然・・・
ジャパン・ヘラルド紙には・・・
世にも無残な血まみれの遺体だったとしています。
夜10時怒りに燃える外国人たちは緊急会議を開きます。
「薩摩の大名の宿を襲撃すべきだ!!」
深夜3時・・・居留民代表は、軍事行動を求めて・・・ジョン・ニール代理公使の下へ・・・
しかし、軍隊の派遣はかたくなに拒否・・・。
この重大性を理解していたようです。
日本は開国以来、事件が多発していました。
ロシア海軍軍人殺害事件・オランダ船長殺害事件・ヒュースケン殺害事件・東禅寺事件・・・
攘夷派浪士のしたものでしたが、今回は犯人は薩摩藩と犯人が解っています。
慎重な行動が必要でした。
幕府が訪問した時に質問しています。
「幕府には、薩摩藩の侍を逮捕する権利や実行力があるのか???」と。
それに対し幕府は・・・
「薩摩は強力な雄藩。
幕府は犯人の引き渡しを藩主に強制できません。」
この時ニールは・・・幕府と同じくらいに藩が権力を持っていることを確認します。
そして・・・本国に報告、判断を仰ぎました。
一方、加害者である薩摩藩・島津久光一行は・・・
無礼討ちを主張!!
入京した久光を迎えたのは、
「よくぞ異人を切った!!」と、誉められます。
久光は、このことについて苦々しく「攘夷ではない」と言っています。
「攘夷を強行すれば敗北、国内の武備の充実が先決である」と。
しかし、攘夷一色となっていた朝廷は、全く聞く耳を持ちません。
過激な攘夷に反対しながらも、生麦事件で攘夷のチャンピオンになってしまった久光・・・
不本意ながら、鹿児島へと帰っていくのでした。
事件から4か月後、イギリスは・・・
幕府と薩摩藩の両方に責任を取らせようとします。
幕府に対しては、監督責任として女王陛下への正式謝罪と賠償金10万ポンド(240億円)。
薩摩藩に対しては、犯人の即時逮捕および処刑、遺族と被害者に2万5000ポンドの賠償金。
イギリスの二重賠償請求・・・幕府と薩摩の両方に賠償を求めたのは、画期的なことです。
幕府だけでこの国は動いているのではない・・・
帝(天皇)・大君(将軍)・諸侯(大名)の3つで日本は成り立っている・・・ということを、ニールは知っていたのです。
1863年2月19日、イギリス艦隊が横浜に入港します。
資料によると・・・幕府が要求を拒絶した場合のイギリスの報復が書かれてあります。
即刻軍艦を回し、大坂・長崎・函館その他諸港に至るまで出入りの船を奪い江戸を焼き払う・・・日本に対する武力発動が・・・という大意が書かれていました。
主要な港を封鎖し、瀬戸内海を遮断し、江戸に入るコメなどの流通を阻止しようとしていたのです。
さらに品川平を襲撃する・・・
幕府はこの時、朝廷から攘夷を迫られていました。
朝廷は条約破棄を望み、賠償金も払うなという考えです。
賠償金を支払えば・・・非難の的になること間違いなしです・・・。
交渉の引き延ばしにかかろうとしますが・・・
イギリス側は、4月20日までに回答がなければ交渉を決裂すると言い出します。
迫る戦争の危機と、攘夷の国内勢力・・・ギリギリの状態の中、迷った挙句に賠償金の支払いに応じます。
とりあえず、戦争を回避しました。
決断できない幕府をよそに、薩摩は自分側には非はないと貫きます。
この強気な薩摩の本音は何なのでしょう???
イギリスは犯人の要求でしたが、その手紙が幕府内を転々としているうちに・・・尾ひれがついて、薩摩に渡った時には「久光の首をよこせ」となっていたのです。
これには応じるわけにはいかない・・・
この情報が、薩摩藩の攘夷派を激怒させます。
この空気に・・・久光も海戦を覚悟します。
敵に屈することは恥・・・
85門の砲台を築き、戦闘準備が始められます。
1863年6月27日イギリス艦隊鹿児島に到着。賠償を要求しましたが、薩摩はこれを拒否。
7月2日夜明け前・・・イギリスが薩摩の蒸気船3隻を拿捕、これを宣戦布告と見なし、薩摩は砲撃を開始・・・薩英戦争が始まりました。
2日に及ぶ砲撃船の結果・・・イギリス、薩摩に想定外のことが起こります。
実はイギリス艦隊は、戦うつもりはなく・・・
というか、薩摩側が「戦うのは無理だろうから賠償金を支払うだろう」と思っていたのです。
大砲に砲弾を装てんしていなかったイギリス・・・
旗艦ユーリアラス号には、弾薬庫の前に幕府から巻き上げた賠償金を積んでいました。
これにより、反撃するのに2時間以上かかったのです。
薩摩の砲弾が命中し、艦長と副長が即死。
2日間で薩摩軍は死者24人だったのに対し、イギリス側は63名に上りました。
この時、イギリス艦隊の火が鹿児島の町に飛び火し、大火をまねきます。
イギリス艦隊のキューパー提督はこれを戦果として強調、それがイギリス議会・教会関係者の大きな非難を呼びます。
「日本の家は、竹と紙でできていると聞く・・・非武装の一般人の家を破壊することが、今後の戦争における先例となれば、人類にとって想像もできない恐ろしいことになるであろう。」
恥ずべき犯罪行為として、ヴィクトリア女王が遺憾の意を示すまでになります。
帝国主義のイギリスも、市民に対する戦いについては批判する目も持っていたのです。
一方の薩摩、イギリスとの戦力の差を痛感します。
薩摩藩の丸い砲弾に対して、イギリス側は溝の掘られたしいの実型の砲弾で、3倍の飛距離があり、薩摩の被害は甚大でした。
これによって、過激な攘夷派も頭を打って、目を覚ましてくれるかもしれない・・・。
「無謀な攘夷は出来ない」ということを痛感します。
お互いにこれ以上の戦闘は望んでいませんでした。
久光は・・・松平容保と一緒にダブル京都守護職になるかもしれなかったのですが・・・
この薩英戦争のゴタゴタのために京都に入ることが出来ませんでした。
もし、久光が容保と一緒に京都守護職になっていたら・・・
尊皇攘夷運動も、大きくならなかったかもしれません。
講和に選ばれたのは、薩摩藩士・重野厚之丞。学者肌で知略に富んだ男です。
下級武士ながら、久光の庭方役、交渉の全面を任されていました。
明治に入ってからは、東京大学の教授になった男です。
横浜のイギリス公使館で行われた講和交渉では・・・
交渉第1日目・9月28日
重野「もともとイギリスと日本は条約和親の国、日本に属する薩摩も貴国と同じ戦争をする理由などありません。」
ニール「私たちも同様、日本は条約国。薩摩のみならず日本と戦争をする理由はない」
交渉は、お互いの友好を確認するところから始まります。
しかし・・・
重野「戦争になったわけは、わが蒸気船を何の知らせもなく奪ったためやむをえなく発砲したのである。」
ニール「戦争をするつもりではなく、交渉のために奪ったのだ。
私たちは、賠償を求めるために鹿児島に行ったのであって、決して戦いをしたかったのではない。
薩摩とは仲良くしたいので、まずそちらからの和議の申し立てをしてほしい。」
重野「イギリス人を斬ったものを罰し、賠償金をお渡ししましょう。
ただし、蒸気船を奪ったことはどのようにしていただけるのか?
この戦争は、全くそちらから手を出したものですから、その答え次第で方針を考えましょう。」
生麦事件の非は認めても、薩英戦争を始めたのはイギリスだ・・・と、交渉をイーブンにしようとします。
2日目・10月4日
平行線をたどります。
重野「蒸気船を奪ったのは不当である」
ニール「交渉のために奪ったまで、当然のことだ」
険悪な雰囲気になります。
その夜・・・交渉決裂だけは避けたい薩摩側は・・・
3日目・10月5日
重野「賠償金をお支払いしましょう。ただし条件があります。
軍艦を買い入れたいので斡旋していただきたい。」
ニールはあっけにとられます。
重野「賠償金支払いの決定は、本来自分の役割を超えたこと。
しかし、その条件として軍艦を購入すれば、両国懇親の印となり、主君への申し訳も立ちます。」
ニール「しかし、一体誰と戦争をするつもりなのですか?」
重野「今、誰が敵ということはありませんが、兵備として備えておきたい。
一隻のみとは言わず、追々は数隻注文したいと思っています。」
イギリスにとっては、本来の目的は通商・・・喜んでこれを受け入れました。
ニール「20隻でも用意しましょう」
重野は、賠償交渉を戦艦を出すことで通商交渉へと持っていきました。
さらには、若者30人の留学を提案します。
そこにあるのは、“敵に学ぼう”の精神で、人材の育成まで視野に入れて交渉をしていたのです。
こうして薩摩が賠償金を払ったのですが、これは幕府から借りたもの。薩摩からは一文も払わなかったのです。
これ以後、イギリスと急接近していきます。
ちなみにこういうときは、幕府の目付がついた中、交渉に臨んでいます。
つまり・・・幕府に“薩摩はこれから軍艦を手に入れるのだ”ということを、教える・・・一石三鳥のことを成し遂げたのです。
薩摩には、重野クラスの人間はたくさんいたようです。
地理的にも海洋国家として開けており、外交感覚が研ぎ澄まされていたということ、そして、斉彬が存在していたということ・・・その後を久光が継いだ・・・
このことが、いい結果を生んだと言われています。
イギリスと和親を結んだ薩摩は・・・
久光の指示で活動したのが、小松帯刀。
長崎のイギリス商人グラバーから最新式の軍艦、大砲・・・、軍備の増強を図ります。さらに、パークスを鹿児島に招待。
これが、イギリスが幕府から薩摩寄りになった要因とも言われています。
久光は幕府に見切りをつけ・・・
宿敵・長州藩に目をつけます。
長州はこれまで過激攘夷派で薩摩と対立していました。
しかし、長州藩は、下関戦争で完膚なきまでに叩かれ・・・過激攘夷という考えから方向転換しようとしていました。
これで薩摩と長州が同じ方向を向いたのです。
幕府から武器の購入を禁止され窮地に陥っていた長州に、イギリスから手に入れた武器を渡します。
おおっぴらにはできないので、坂本龍馬の亀山社中を使うのです。。。
これが、薩長同盟です。
生麦事件を発端にして、幕末最大の転換期を迎えたのです。
その後、倒幕をめざし・・・明治政府で活躍していくことになるのです。
薩摩藩は・・・近現代的な感覚を持った集団だったようです。
その中心には、久光・・・小松帯刀だったのです。
重野の外交術、小松帯刀の外交術・・・今にも必要な人であることには間違いないのでした。
リチャードソンが亡くなったところに建てられた石碑には・・・
「君此の海壖に流血す 我邦の変進も亦其れを源とす」
と、書かれています。
忘れ去られた維新の立役者〜小松帯刀〜は
こちら。
幕末。日本外交は弱腰にあらず。は
こちら。
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