2013年01月17日

「戦国ハムレット〜前田利家〜」

THE ナンバー2、ヒストリーチャンネルでなんか再放送?をやってくれています。
私が見だす前の人たちをやってくれています。
そうなのよね・・・
初めにやってくれる人の方が、有名どころです。黒ハート
穴埋めできれば嬉しいです。黒ハート

図説 前田利家 [単行本] / 図説前田利家編纂委員会 (編集); 北国新聞社 (刊)
図説 前田利家 [単行本] / 図説前田利家編纂委員会 (編集); 北国新聞社 (刊)

1598年5月病に伏した豊臣秀吉が、一人の男を枕元に呼びました。
前田利家、加賀100万石の領主です。

tosi.png

秀吉は苦しい息の中・・・
「私が万一の時は、秀頼をお頼み申す。
 秀頼をわが子と思って助けてくだされ。
 お頼み申す・・・」
そういうと、利家が頷くのを確かめるように8月その生涯の幕を閉じました。

1599年元旦新年のあいさつの為に伏見城に集まりました。
大広間に集められた大名の筆頭は徳川家康、ようやく自分に回ってきたかもしれない順番・・・

秀頼がやってきましたが・・・その秀頼を抱いていたのは利家でした。
大名たちがひれ伏しているのは秀頼ですが、どこをどう見ても利家にひれ伏しているようです。
しかし、前田利家は、天下に律義者として知られていました。天下を取る野望があるなどとは思われなかったのです。

家康は苦虫をかみつぶしていたようです。この男がNo,2にいる限り自分の天下はない!!
この律義者が最も恐るべき男だったのです。


戦国時代の利家の立ち位置は・・・
準主役、豊臣政権のNo,2が利家でした。

利家と秀吉・・・
秀吉はフリーターからアルバイト・・・契約社員から正社員となった人で、利家は子会社の社長の息子・・・そして、若社長(信長)にも気に入られていた。それくらい立場が違いました。

しかし、美濃併合し、信長が天下布武に乗り出した頃、屋敷が近所になります。
普通は、成り上がりの秀吉と付き合うのを嫌がったようですが、利家は傾奇者。異風を好み、派手な身なりをするなどの常識を逸脱していたので、お構いなしでした。
槍の又左と呼ばれ、派手好み、男伊達でした。


石川県金沢市に居城・金沢城があります。
此処には戦国を生き抜いてきた利家の様々な工夫があります。

なまこ壁・・・これは、装飾性や耐湿性優れているだけではなく、鉄砲狭間があり、壁の内側から瓦を外すことが出来ました。

屋根にも工夫が・・・鉛瓦。普通の瓦に見えますが、積雪に耐えるように木で作り、周りを鉛で覆っているのです。
そして・・・籠城の際には、この鉛を溶かして鉄砲の弾にすることが出来ました。

もともとは、尾張の国に生まれた前田利家。
14歳で織田信長の小姓となって侍人生が始まります。
この利家、信長と男色の関係にあったと言われています。
当時は合戦に女性は連れていけない・・・とか、寝所を襲われたときにボディーガード・・・楯になってくれるとか・・・もっとも頼りになる男の1人だったようです。
おまけに長身で美男子。

背中に母衣を纏った利家。

tosi2.png

若いころの利家は・・・傾奇者でした。
かなり仰々しい姿で町を歩いていたようです。
普通を飛び越えたことをしよう・・・という気持ちが異形を好んだようです。
信長も、「肝に毛が生えた男」と褒めています。

21歳の利家は、結婚をしました。
相手は9歳年下の松。
松は腹の座った女性で、教養も、優しさもあったようです。

そんな利家を奈落の底に落としたのが・・・笄(こうがい)。
おしゃれな武士が刀に差していた櫛のことですが・・・
拾阿弥手打ち事件勃発・・・
信長の茶坊主・拾阿弥が利家の笄を盗んで咎められたのです。
拾阿弥は、表向きは誤ったものの裏では。。。
「盗られるのは、本人にも隙のある証拠・・・」と、陰口をたたきます。
怒った利家は、拾阿弥を斬ると息巻いているのを聞きつけた信長が間に入り、今回だけは許してやれと言われ一度は矛を納めます。が、

周りの者から、武士が一度言い出したことをやめるのか?と、嘲笑されたため、信長の見ているまでで手打ちにしてしまいました。

激怒した信長は、利家を手打ちにしようとしますが、柴田勝家が間に入りことは治まりますが、織田家を追放されてしまいます。
この事件以来、柴田勝家を親父様と呼ぶようになり、織田家に戻るチャンスを伺います。
柴田勝家は男気があり、織田を支え、義を持って最後まで守ろうとした人物です。
そんな勝家が、利家を支えます。

そしてチャンスが到来・・・
1560年桶狭間の戦いです。
織田軍3000、今川義元2万・・・織田軍は、奇襲をかける為、桶狭間に向かいます。
その知らせを聞いた利家は、自ら参陣します。
陣借りです。陣借りとは、戦の際に正規軍でない勢力が自分の意志で駆けつけて参加すること。。。
桶狭間では、命を惜しまず・・・3人の首を取りました。
信長にとっては律儀な家臣と映り・・・許されたのです。
この間2年、この時の苦労が、利家をまともな人間に引き戻しました。


戻ってきた利家に運命の出会いが・・・
その男が、利家がNo,2として仕えることとなる豊臣秀吉です。
垣根越しに秀吉の家が見えました。

天下統一に向けて、八面六臂の活躍をする織田軍団。
秀吉、利家も各地を転戦します。
そして天正十年・・・二人の運命を揺るがす事件が・・・!!

天正十年(1582年)本能寺の変。
その時秀吉は、備中高松で毛利輝元と戦、利家は勝家の下で北陸を平定する為魚津城を攻めていました。
秀吉は本能寺の変を知ると、すぐに毛利と和睦を結び京都に帰ってきました。
そして・・・山崎の合戦で光秀を打ち破ると、信長の後継者として名乗りを上げました。

これを快く思っていなかったのが柴田勝家。
1583年この勝家と秀吉の間で賤ヶ岳の戦いが勃発。
前田利家は、勝家の部隊として賤ヶ岳に来ていました。
悩んでいました。どちらにつこうかと・・・
この時の利家の立ち位置は、府中三人衆。勝家の配下として付けられた三人(利家・佐々成政・不破光治)の与力の1人でした。

恩人の柴田勝家・・・
三女は勝家のところに人質に。

友人の秀吉・・・
秀吉のところには自分の四女が養女に行っていました。

利家の心は激しく揺れ動き。。。
いよいよ決戦のときが近付きます。
まだ迷っている利家。
家臣団の生活も背負っています。
義だけでは動けない状況にありました。

そんなときに秀吉から手紙が・・・
「明日の合戦では勝家を裏切ってもらいたいが、
 おぬしの性格ではそれは出来まい。
 せめて明日の戦には加わらず
 中立を守ってもらいたい」

そこには利家の性格をよく知る秀吉らしい文面がありました。

1583年4月20日賤ヶ岳の戦い。
戦いは、勝家軍が勢いがありましたが、秀吉軍が盛り返し・・・
翌日未明、戦いは突然終わります。
それが・・・利家の陣地を引き払ったことでした。
このことが、勝家軍にパニックを起こし、戦場を逃げ出すものが続出・・・負けてしまったのです。

それは、やむに已まれぬ行動だったのかもしれません。

その後、数人の共を連れて利家の城にやってきた勝家。

それを見た利家の家臣が・・・
「柴田殿を討ち取り、秀吉殿に差し出せば手柄になります」
と言ったところ・・・
「「武士の作法を知らぬのか!!」
と叱りつけ、勝家を城に招き入れました。

「私はここで秀吉軍を防ぎますから
 貴方は自分の城に戻り、再起を図ってください。」
と言って、新しい馬を差し出しました。

すると勝家は・・・
「貴方は秀吉と昵懇であるから 
 今後は私に対する義理を棄て家の安泰を図りなさい。」
と言い残し、去っていったとか・・・。

翌日、秀吉が一人でやってきます。
利家は・・・門を開けて招き入れます。

勝家に義理を立てた利家は・・・
「腹を切るので暫く待ってくれ」
秀吉は、
「私はおぬしを殺すつもりでここに来たのではない。
 敵味方に分かれるのは武士の習い
 おぬしに恨みはない」
そして松に・・・
「腹が減ったので、冷や飯を一膳もらいたい」
と、頼みました。

この瞬間、利家は秀吉につくことに決めたのでした。

計算づくで行動するのではない心意気で生きる利家。
秀吉の為に労を惜しまず働きます。
北条氏政を倒した秀吉は、ついに天下を統一。
これらの戦いが終わったとき、信長の家来で秀吉のライバルとなるべき有力大名はほとんどいなくなっていました。
が・・・利家は、加賀100万石の大名となっていました。

その利家が、秀吉のNo,2となります。
加賀100万石には数々の伝統工芸がありますが、この芸術を受け入れ保護したのが利家です。単なる武人ではなく、多くの人から尊敬される教養を身につ行けていたのです。

利家は、人生のうち30以上の戦いに参加していますが、自ら仕掛けた戦いは殆どなく、天下統一で平和の来たことを喜んでいました。


が・・・秀吉が朝鮮出兵に乗り出します。
この無益な戦いが長引くにつれて、朝鮮に出兵した大名と国内の大名との間に亀裂が入ります。不穏な気配が・・・

1598年5月秀吉が病に倒れます。
死期を悟った秀吉は五大老を呼びます。
幼い秀頼の行く末を案じてのことです。
五大老の中でも一番信頼していたのが利家。。。

「利家殿 人は大勢いるが、真の友人はお主だけだ
 私が万一の時には 秀頼をお頼み申す
 秀頼をわが子と思って助けてくだされ
 お頼み申す」

この瞬間、利家は秀吉に最も信頼されるNo,2となったのです。

8月18日62歳で秀吉はこの世を去ります。

秀吉が亡くなると、家康はそんな約束はなかったかのように裏工作をします。
そして、天下をその手中に納めようとします。
怒った利家は、家康のもとに乗り込みます。
すでに利家は、病に侵されていました。。。
家康と刺し違えよう・・・???
自分が殺された場合、家康に大義はなくなり、豊臣の大名たちが立ち上がるだろうと思ってのことでした。

秀吉との約束を守ろうとしたのです。
まさにNo,2だったのです。
利家が生きている間・・・家康は動けませんでした。
合戦では勝てても、利家の人望には勝てなかったのです。

病床に伏した利家に松は、魔よけの守・鍾馗(しょうき)の陣羽織を縫います。
「若いころから多くの人を殺した罪で地獄に行かぬようにこれを着てください。」

と言ったところ、利家は、

「多くの人を殺したが、訳なく殺したことはない。
 だから、地獄にはいかない」
と、着るのを断ったそうです。

「私の行く先より気になるのは、
秀頼公の行く末だ・・・ 
あと7年・・・せめて5年あれば
秀頼公が天下を治める姿を見ることが出来るのだが・・・」

慶長4年閏3月3日、前田利家は、62歳の生涯を閉じました。
それを待っていたかのように、家康は翌年に関ヶ原の戦いを起こします。
念願の天下を掌中に納めるのです。

前田利家・・・大きなNo,2を失った豊臣政権は、大坂の陣で滅亡するのです。

利家とまつ 加賀百万石物語 完全版 第一巻 [DVD] / 唐沢寿明, 松嶋菜々子, 反町隆史, 香川照之, 酒井法子 (出演)
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「前田利家」 戦国武将ミニ甲冑フィギュア1 / 歴史城
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2013年01月16日

「信長のシェフ」観ました。

娘がKis-My-Ft2のファンなので、第1話を一緒に見ました。

ストーリーは・・・
主役はKis-My-Ft2の玉森裕太くんです。
現代でフレンチのシェフとして働くケンがふと目を覚ますと・・・
そこは戦国の世の京都だった。。。

と、始まります。

tama2.png

間者に間違われ、目の前で仲間を斬り殺されたケンは、刀鍛冶の夏に助けられました。

「自分は誰なのか」
「何故、戦国時代にいるのか」

記憶を失ってしまったケンでしたが、“料理の技術”だけは体が覚えていた。。。

第1回では、信長・秀吉・光秀が登場しました。
キャスティングも良い感じで、歴史オタクの私にも許せる感じで。
やっぱりミッチーは王子様なので、信長似合っていました黒ハート


原作は漫画なのですね。黒ハート

記憶喪失なのに、歴史のことよく覚えてるじゃん!!
と、娘と突っ込みを入れながら、見てしまいました。あせあせ(飛び散る汗)

tama.png


けっこう解りやすく時代の流れを解説してくれているように思いました。
おまけに若い子にもくどくなさそうです。黒ハート
よみがえれ!!時代劇黒ハート
あーこも歴史好きになってくれないかなあ揺れるハート


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posted by ちゃーちゃん at 11:52| Comment(0) | 歴史ドラマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「ベートーベン 成り上がりが届けた人類愛」

ベートーヴェンの生涯 (岩波文庫) [文庫] / ロマン・ロラン (著); 片山 敏彦 (翻訳); 岩波書店 (刊)
ベートーヴェンの生涯 (岩波文庫) [文庫] / ロマン・ロラン (著); 片山 敏彦 (翻訳...

ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーベン・・・運命・皇帝といった雄大な作品、エリーゼのために・月光などのロマンチックな作品・・・ベートーベンは、まだ音楽が、教会や宮廷の娯楽でしかなかった時代に音楽を独立した職業とし、芸術に高めた人です。
その凄まじいエネルギーは一体なんだったのでしょうか?

貧しい音楽一家に生まれたベートーベン・・・
天才ピアニストとして脚光を浴び、音楽の革命児となります。
自らの運命を切り開いた男です。


追っかけ少年の記録・・・
記録を書いたのは、父親がベートーベンの親友だった、ゲルハルト・フォン・ブロイニング少年です。憧れの大先生の後をいつもついて回っていました。
当時、ベートーベンはヨーロッパでもっとも知られた大作曲家でした。

朝5時半から作曲活動です。
大声で歌ったり、足を踏み鳴らしたり、壁に曲を書いたり・・・
家主から、たびたび退去するように言われていました。

午後は散歩。同じ時間に同じ服で。
とても早足で・・・でも、立ち止まったり、歌いだしたり・・・散歩をしながら作曲しました。
ウィーンの町を歩いているのをスケッチされています。

耳の聞こえなくなっていたベートーベンは、筆談帳で会話をしていました。
無類のワイン好きで、56歳の夏には胃と肝臓を悪くして寝たきりに・・・
ブロイニング少年は、お見舞いをして話し相手になります。
亡くなるその日もそばにいて・・・この日記がベートーベンの記録となりました。


1809年39歳の時にベートーベンは3人の貴族と前代未聞のスポンサー契約をします。
そこに記されているのは。。。
貴族から毎年2000万円を支給というものでした。
ベートーベンは、自分の好きな物を作ることが出来るようになったのです。
1770年ドイツ・ボンに生まれたベートーベン。
家は、代々宮廷につかえてきていた音楽家でした。
歌手だった父は、早くからベートーベンの才能を見抜きます。
当時の天才・モーツアルトのように・・・と、英才教育をします。

この頃の音楽家は、宮廷や貴族に雇われ身分が低く、言われるままに曲をひいていました。
天才的にベートーベンは、13歳で宮廷のオルガン演奏者となります。
その給料で一家を支えるまでになりました。

しかし、お抱え音楽家で満足しなかったベートーベンは、21歳の時に、音楽の都ウィーンに・・・
誰にも頼ることのできないウィーンで、武器になるのは天才的なピアノの腕でした。
当時は、地域のピアニストを即興演奏で競わせるのが大流行していました。
人一倍即興演奏に秀でたベートーベンは、相手を打ち負かします。
ついたあだ名は、“悪魔の手を持つ男”。
そして、ピアノを習う令嬢が増えてきました。

ベートーベンは、教え方が優しくていいと評判になります。
生きる道を開いたベートーベンですが、まだ雇われの身・・・


フランス革命を機に時代は大変革・・・。
ナポレオンが登場し、疾風怒濤の時代に入ります。
市民階級が時代の主役になっていきます。

音楽の世界でも・・・
1800年交響曲第1番で自立。やはり、オペラか交響曲を書かないと大芸術家として認められなかったのです。
自分で演奏会を開きます。自己の収益の為の、自主演奏会です。

会場は、ブルク劇場。
交響曲を披露するには桁外れの大きさでした。
貴族や市民にチケットを売り・・・
チケットの売り上げも上々・・・
評価は、管楽器を使いすぎた強烈な響き、しかし、何か新しいものを感じさせた。というものでした。

新しいスターの誕生でした。

そして、曲作りをビジネスにしました。
貴族に曲を献呈し、お金をもらうのです。
人気急上昇のベートーベンに、多くの貴族が献呈料を払います。

楽譜の出版も・・・
当時楽譜は、国を超えつつありました。市場拡大を狙います。
初出版のピアノ三重奏曲 第1番は1000万円以上の売り上げが出ました。
交響曲は90万円、協奏曲は45万円、ピアノソナタは90万円・・・と売っていきます。


しかし、この頃から耳が聞こえなくなって・・・

1802年ハイリゲンシュタットの遺書を書きます。
“生きる決意”を表したものです。
「僕は絶望し、もう少しのところで自殺しようとした。
 ただ芸術が僕をひきとどめた。
 僕は、これを成し遂げずにこの世絵を去ることは不可能だ。」

自分が創る音楽を、芸術と宣言します。
そこから名曲が生まれます。
「熱情」「運命」・・・そして1809年スポンサー契約を結びました。

結んだのは・・・皇帝の一族として最高位にあったルドルフ大公・ロプコヴィッツ侯爵・キンスキー侯爵の3人です。

当時、他国から引き合いが来ていたベートーベン、焦った音楽の都の貴族たちが引きとどめたのです。

契約書には・・・
ベートーベン氏の演奏家としてまた、作曲家としての非凡な才能に大きな期待をかけ・・・
奏サックに専念できるような境遇・・・
約2000万円の年金が生涯支払われることが約束されました。雇われ音楽家が貴族と対等になった瞬間でした。

「貴族は生まれたときから貴族で何人もいるが、ベートーベンはたった一人しかいない」

音楽家に自由が存在する・・・そのことに気付いたのがベートーベンだったのです。
音楽を、趣味嗜好の世界から、人間のナセル偉大な業に高めた人でした。


「月光」は、ベートーベン渾身のラブソングでした。
お相手は、グィチャルディ侯爵令嬢のジュリエッタ・16歳でした。
ベートーベンは、貴族に支配されるのを嫌いながら、お相手は、貴族令嬢ばかりでした。

「エリーゼのために」・・・
エリーゼとは???通説では、大地主の令嬢テレーゼ・マルファッティ。
悪筆だったので、テレーゼがエリーゼになってしまったというのですが???
いつも身分でやぶれてしまいます。

結婚の夢に破れるばかりのベートーベン。。。

熱烈に愛し合った人は、42歳の時、それは、究極の道ならぬ恋でした。
お相手は、アントニア・ブレンターノ。4人の子供を持つ友人の妻でした。
熱烈な恋文は渡されることはありませんでした。


第九の作曲に取り掛かる頃・・・ベートーベンは、公私ともに最悪の状況でした。
難聴に苦しんできた耳は聞こえなくなりつつあり、ウィーンには軽やかな曲が流れ時代遅れの過去の作曲家扱いになりつつありました。

年金契約の3人のうち2人が亡くなりかなりの収入減。
ベートーベンは、賭けに出ます。
それは、交響曲に大合唱を加えるというものでした。
ベートーベンには使いたい詩がありました。
シラー作「歓喜に寄せて」です。
10代のころに出会い感動した詩でした。

長大なシラーの詩にアレンジをします。
かつてない大きなオーケストラとなります。

初演の準備にも取り掛かります。
会場探しまで自分で手掛けます。
出演者・合奏者集めに困難します。
新聞に・・・
「ここに謹んで私の演奏会に助力されんことをすべてのアマチュアの紳士諸兄に懇願するものであります。」
と、広告を載せます。
大きな会場・・・ケルントナートア劇場を見つけました。

ギリギリまで推敲をします。理想の音を求めて・・・

初演日は2週間以上も延期されました。
1824年5月7日4日ようやく初演です。


客寄せのために、ベートーベンが指揮します。
しかし、時間もなく練習もそこそこの楽団は、酷評されます。
が・・・嵐のような拍手が・・・市民には受け入れられたのです。

不滅の交響曲の誕生でした。
音楽の力を理解して具現化できる男・・・才能の塊だったその男。
亡くなったのは、初演の3年後56歳でした。
葬儀には、2万人の市民が集まったと言います。
ヒーローの死を悼み、悲しんだのです。

年末には世界中で第九が流れ・・・
その兄弟愛の精神は、今も受け継がれています。

Beethoven: Piano Sonata No. 1-32, Piano Concertos No. 1-5 [Box set, CD, Import] / Friedrich Gulda, Stein (CD - 2007)
Beethoven: Piano Sonata No. 1-32, Piano Concert...
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posted by ちゃーちゃん at 07:49| Comment(0) | 追跡者 ザ・プロファイラー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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