2013年01月24日

鹿児島の城下町 前編

島津800年の歴史の城下町です。

鹿児島の有名人は・・・西郷隆盛。
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西郷どん・・・軍服をびしっと着こなした軍人です。

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明治維新最大の雄藩となった薩摩藩・・・その魅力と不思議は・・・???

鹿児島県鹿児島市 人口60万7800人、面積547.07㎢、特産は黒豚に芋焼酎・桜島大根です。
薩摩藩・・・居城は鶴丸城・外様大名島津氏・72万石でした。

島津家の始祖は、鎌倉幕府御家人・惟宗忠久です。
鎌倉幕府により、九州南部にあった島津荘の地頭に任じられたので、島津と改称し、島津家を開きました。秀吉・家康にも恐れられ・・・外様としてこの地に押し込められてきました。
それが、島津800年の歴史の始まりでした。

この鶴丸城・・・鹿児島城は、島津家第18代当主・島津家久によって作られました。この場所が鶴が嶺と呼ばれていたことから鶴丸城と呼ばれたのです。
高層の天守や高石垣などはなく・・・大大名とは思えないような質素な城でした。

鹿児島では雨は吉兆・・・それは・・・
島津家800年の歴史の中の・・・初代当主島津忠久は、雨の日に生まれたと言います。
そこには、鎌倉幕府を開いた源頼朝の御落胤だったという説までついてきます。
言い伝えによると、鎌倉幕府御家人・比企能員の妹・丹後局との子が忠久だったというのです。
北条政子の嫉妬を恐れた丹後局が西国に逃れる道中に、住吉大社で産んだのが忠久でした。
その時が、大雨だったのです。
ちなみに・・・鎌倉にある頼朝の墓も、平成14年まで島津家が所有していました。

そして・・・この雨を島津雨・・・と今でも言っているのです。

1877年の西南戦争の舞台となった鶴丸城。

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新政府に対し、西郷を中心とした薩摩藩士1万3000人が反乱を起こしたもので、国内最後の内戦として記録されています。

弾痕の痕も石垣に残っています。
これは、新政府軍が、西郷隆盛に対して撃ったものです。
抵抗をしていた薩摩軍は、追い詰められ・・・この地で49年の生涯を閉じ・・・武士の世は終わりを告げました。

普通は、一国一城ですが。。。
薩摩藩は、113の城・・・外城制度がありました。
113の城・・・関ヶ原の合戦で外様大名となった島津藩は、完ぺきな防御を求めました。藩内の領地を113に分けて、城(地頭仮屋)を配置、その近くに武家屋敷を造り・・・城下町のようになっていました。
“人をもって城となす”という考えのもと、113人を配置したのです。

外城・・・薩摩藩最大の外城は出水市にあります。
しかし・・・武家屋敷はあるものの・・・お城はありません。
武家屋敷全体がお城なのです。

この登城制度を知るためには、豊臣秀吉の時代にさかのぼります。
島津が九州統一を目指していたころ・・・富国強兵の結果、領土を拡大。
当時の薩摩藩は、4人に一人が武士の超軍事国家でした。

しかし・・・秀吉の九州征伐・・・敗れた島津は小さく閉じ込められますが、兵力はそのままに、温存していました。
この国全体の防衛力を高めること・・・それは、戦乱の世が終わった江戸時代も続いたのです。
“人をもって城となす”明治になるまで国を守ってきたのです。
そして、郷士・城下士という身分が出来上がってきました。

西郷や大久保は、城下士でした。
郷士は半農半士の生活をしていました。
戦にいつでも出ることのできるように、甲冑や武具なども用意し、鍛錬を怠らなかったと言います。


野間之関では・・・肥後との藩境にあったので、人の出入りも激しかったので・・・警護も厳しかったようです。坂本龍馬も1か月留め置かれたことがあるそうです。

その厳しい取調べは・・・
「行ったら最後 帰って来れない 薩摩飛脚」
と言われたそうです。

どうしてこんなに厳しかったのか???
それは、打倒・徳川幕府という秘密を持っていたからです。

関ヶ原の合戦で・・・成り行きで西軍についてしまった島津義弘。
西軍の敗戦が決定するや否や・・・薩摩軍が殲滅される前に・・・
敵のど真ん中を突破・・・島津の敵中突破をし・・・壮絶な退却戦を演じ。。。
しかし、島津勢の生き残りはわずか80人・・・
この時から、対・徳川の負けない国づくりを造ろうとしたのです。
負けん気の強さがそこにはありました。
明治維新は、薩摩の維持で成し遂げられたのかもしれません。


薩摩藩に伝わる・・・示現流・・・侍魂を知ることが出来ます。
一撃必殺の秘剣です。これは、東郷示現流・薬丸自顕流の二つの流派を有し、明治まで他藩の者には教えない・・・という門外不出の件です。

東郷藤兵衛備前守重位の東郷示現流は、薩摩藩公認のお留流として上級武士を中心に兵法と学ばれ、今もなお、奥義は秘密とし、血判状によって守られています。

下級武士は薬丸自顕流、より実践的な初太刀にすべてをかける!!一刀両断という戦い方は、新撰組・近藤勇でさえ・・・薩摩の初太刀は外せ!!と、恐れたほどでした。

1860年桜田門外の変で井伊直弼を討った有村次左衛門、1862年の寺田屋事件・生麦事件・・・いずれも薬丸自顕流の者が起こしていました。実践の剣法です。
出来るか出来ないか、やれるかやられるかの剣法なのです。

門外不出の秘剣・・・どうして門外不出なの???
それは、命を懸けた真剣勝負において相手に太刀筋を見せないための・・・勝つための剣法なのです。

名勝・仙巌園は、1658年島津家の別邸として、光久によって作られました。
桜島を望むその雄大な庭園は、28代斉彬がこよなく愛し、篤姫・勝海舟・・・外国の要人をも魅了し続けてきました。

秘密の国・・・薩摩。その扉の向こうには、時代を切り開いた先人たちの教えが今も息づき、郷土愛があふれた町でした。

〈新訳〉南洲翁遺訓 [ 西郷隆盛 ]
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2013年01月23日

紂王と太公望 〜王朝交代・古代最大の決戦〜

今から3000年前に起こった牧野の戦い・・・王朝を交代させた天下分け目の戦いです。
闘ったのは、殷と周。

【新品/漫画】封神演義 [1~23巻 全巻] (著)藤崎竜
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いやあ、懐かしいです。封神演義思い出しちゃいました。
私が好きだったのは哪吒と黄天化でした。黒ハート

時の王朝殷の軍を率いたのは最後の王・紂王。

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中国史上最悪の王と言われています。
酒池肉林・炮烙の刑・・・
紂王の悪事は数限りない・・・

そんな暴君に立ち向かったのは、周。率いたのは太公望。

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小さく弱い国に、彗星のように現れた太公望。策略の限りを尽くして殷を追い詰め・・・ついに牧野の戦いで勝利します。。。。

しかし、本当は、そう単純ではなかったようです。
本当に勧善懲悪なのでしょうか???
その秘密が明らかにされようとしています。

紂王と太公望の戦いは、史記に記されています。
史記は、牧野の戦いからおよそ1000年後の歴史家・司馬遷が記しました。
この中で殷王朝最後の王が紂王・周の軍師が太公望なのです。
2人の描写は対照的・・・
太公望は天才軍師ですが・・・紂王は悪役です。
中でも有名なのが、酒池肉林のエピソード。
紂王の命で作られたと言われています。
欲望をむき出しにしたこの庭で、宴に酔いしれていた紂王・・・。

牧野の戦いで・・・紂王軍70万という大軍でしたが、1日でやぶれ滅びてしまいます。。。

この勧善懲悪。。。しかし、司馬遷が参考にしたのは、殷を倒した周の資料でした。
紂王の資料は参考にされていません。


殷王朝の都跡は・・・河南省安陽市。
ここに紂王の君臨した殷の都がりました。
80年前に発見された殷墟には、発掘品がたくさんあります。
2006年世界遺産に登録され、年間50万人が訪れます。

甲骨文字・・・亀の甲羅や牛の骨に書かれている甲骨文字。
殷の実在が初めて証明されました。
史記に記された殷は、あまりにも残虐なので、疑われていたのです。
しかし、この甲骨文字には、祖丁・小乙と言った王の名前が刻まれています。

発掘の結果・・・殷が解明されてきました。
出土した武器は1万点以上。
殷の繁栄を支えたのは、圧倒的な軍事力でした。
殷王朝が活躍したのは紀元前16世紀から11世紀。中国大陸ではいろいろな部族が力を持っていました。
その多くが持っていた武器は・・・石を削ったもの。
しかし、殷が持っていたのは青銅の武器でした。大量に生産し、力で圧倒したのです。

牧野の戦いで紂王が率いたと言われる70万の軍勢・・・
その軍は、いくつもの新兵器を持っていたようです。
それは・・・戦車。馬も車も殷が初めに使っていました。2頭の馬によってひかれていたのです。
どうしてこのようなものが突然できたのでしょうか???
紅玉髄という石が発見されています。
これは、遠くインド西部やトルキスタンでしか取れませんでした。インダスと繋がっていたと言えます。
初めて戦車が造られたのはメソポタミア・・・
メソポタミアで生まれた戦車は・・・4大文明へと広まっていったようです。
しかし、中国の西部にはパミール高原があり・・・そのパミールを北にのぼって中国に入ってきたようです。
そして、殷が黄河から離れている理由。。。それは、西アジアとのつながりを持つためだったと推測できます。

殷は、当時中国で唯一西アジアと深く繋がっていました。
戦車が突然出てきたのも、西アジアの技術を学んだからなのです。

殷だけが持っている技術・・・改良を重ねます。
スポークの数は20本以上、大きな車体・・・二人の戦士を悠々と乗せることが出来ました。
この戦車を戦闘に投じることで・・・世界最強の戦車となりました。


彼らは自分たちの国を“商”と呼んでいました。そう、商人の町だったのです。

史記によると・・・紂王がたくさんの珍しい動物を飼っていたとありますが、それは紂王だけではなく、当時の王は皆そうだったようです。
青銅器も積極的に取り入れました。
殷は、青銅器の技術を最も高めたと言えます。
酒池肉林も・・・
殷では、青銅器でできた酒器に酒を入れ、温めて飲んでいたようです。
神と対峙するために酔う・・・それは神に近づくための陶酔だったのかもしれません。
この酒の文化は貴族だけではなく、一般住民たちも陶器で酒を飲んでいたようです。この陶器の数は100万点。。。中国で最多だそうです。

お墓でも、器は出なくとも酒器は出るそうで・・・酒は儀式的な意味合いを持つものだったと言えます。
これらの酒器は、埋葬するときにお酒を入れて埋葬したと考えられていて・・・生活の中心にお酒があったようです。


殷墟で見つかった骨は・・・?
牛を中心に、馬や豚を飼っていたようです。
食料を計画的に生産していました。
殷墟には、地下水道もありました。
牧畜も計画的に行われていました。
貴族から一般市民まで酒をたしなみ、食べるものも豊富。。。
酒池肉林は・・・酒に対する誤解や、食べ物が豊富にあるというやっかみから来たものかもしれません。


殷最大の発明・漢字
様々な新技術で歴史を塗り替えていった殷。。。
現代の生活に欠かせないのが、漢字です。
亀の甲羅や動物の骨に書いた甲骨文字・・・発見されたのは19世紀末のことでした。
清朝末期、漢方薬として売られていた甲羅や骨に文字が書いてあるのを発見したのです。

その骨が出土した場所こそが、殷の都・・・
発掘によって、大量の文字が発見されました。
今でも読める文字があります。
雨・衆・・・3000年以上途絶えることなく使われてきました。

しかし、殷の漢字の使い道は???
殆どが占いでした。
占いを取り仕切っていたのは殷王自身だったようです。
占いの文字・・・それが漢字の原点なのです。


軍事的にも、文化的にも比類なき国となっていた殷。
そんな殷の牧野の戦いを挑んだ周とは一体どんな国だったのでしょうか?
史記の後の作品は・・・周を殷に無理難題を持ちかけられる悲劇の国となっています。
最も有名なのが・・・殷の紂王の命令で・・・周の武王が自分の息子を刻んで作ったスープを飲ませるシーンです。
多くの物語は・・・こんな積年の思いを晴らすための牧野の戦いだったと書いています。

周の本当の姿とは???
陝西省周原・・・
周とは、田畑からの恵・・・農耕を続けていた民でした。
1960年代から発掘されている周原遺跡。紀元前16世紀から都としていました。
この遺跡の出土品は、“鬲(れき)”と呼ばれる素朴な陶器ばかりです。
青銅器は少ないのです。

殷が、軍事力で支配権を広げた拡大志向の国だったのに対し、周は基本的に、周原から動かず、濃厚に従事した安定志向の民でした。
発掘品も、300年以上の間あまり変わり映えのないものです。

しかし・・・紀元前13世紀ごろ・・・
周は殷と関係を持ち始めます。婚姻関係までも。。。
周の発掘品にも変化が現れます。玉・・・なども発掘され、進歩を遂げてきます。
そこに現れたのが、天才軍師・太公望です。

大国・殷と接近し力を伸ばした周・・・しかし、衰退の一途をたどり始めた殷。

牧野の戦いでは、周の王が自らに正義の有ることを宣言して戦いが始まります。
その悪事とは・・・
寵愛する妲己の言うままに行った炮烙の刑。
女性を政治に参加させたこと・・・
しかし、発掘からは女性が政治に参加したという証拠は見つかっていません。
ただ・・・女性の地位は高かったようです。
軍服を纏う“婦好”。彼女は紂王の八代前の王の妃です。
彼女は妃であると同時に殷の将軍でした。
1976年婦好の墓が発掘されました。
そこには、アクセサリーと共にトルコ石をふんだんに使った刀が治められていました。
甲骨の分析によると、婦好は二人の子供を持ちながら軍を率いて戦ったようです。

しかし、それは周の人びとは快く思っていなかったようです。
女は家にいて、男が外に任せるべきだ・・・と、記されています。
史記は、そんな時代の文化。
だから、戦う女性は好ましく思わなかったのでしょう。

青銅器はどのようにして作られたのでしょうか?
造りたい形のモデルを作成→型の作成→型に青銅を流し込む(950℃)→冷やして完成
殷の青銅器のレベルはかなり高く、誰もが造れるものではありません。
細かな陰陽は殷の青銅器の特徴です。
同時期のメソポタミアでもこのような技術はなく、当時の最高峰だと言われています。

豊かな国家だった殷王朝。
酒池肉林も、炮烙の刑も、豊かな個性の表れなのかもしれません。
紂王は・・・太公望の為の悪の権化にされたのでしょうか?

祭祀坑には・・・
首のない遺体が埋葬されていました。
それは、人の生贄でした。
首は、意図的に切り落とされ・・・
これまで発見された生贄は1万4000体にも及びます。
神にささげられた生贄。
牛と同じように生贄として捧げられていたのです。
というのも、殷の神は人の頭を食べると言われていました。
神の意志を聞くには、それなりの代償が必要だったのです。

殷の王・・・紂王は悪なのでしょうか???

この生贄にされていた人々(羌)は、・・・
@罪人説
A奴隷説
B捕虜説
今まではこの3つでした。

歯を調査してみると・・・
放射線物質の量が殷の人とは違います。
捕虜なのでしょうか???
中国全土のサンプルと比較すると、甘粛省の部族とだけ一致しました。
つまり、特定の部族だったのです。
その距離800q・・・生贄が連れてこられたのは国外だったようです。
殷にどうしても従わない人たちに・・・見せしめとしてこの部族の人たちが使われたのかもしれません。

羌の故郷・甘粛省には遺跡がありました。
が羌の人びとは、定住せず、遊牧生活を送っていたようです。
定住農耕生活をしていた殷にとっては、自国に受け入れることが出来なかったのです。
文化の違う人々を生贄にしていたのでした。

周も逆らえば・・・そうなるかもしれない・・・???
殷の配下だった周に、天下をとれ・・・そういったのが太公望でした。

ある日、周の王・文王が天のお告げを受けます。
「貴方の待ち望んだ人が、川のほとりで待っている。」
お告げに従うと・・・

そこには釣り糸を垂れた男がいました。
「何を釣っているのですか?」
「私が釣っているのは覇王への道です。」

糸の先には針がなく・・・文王を待っていたかのようです。
天下の政とはこうあるべきだ・・・と説いた太公望に感銘し、宰相に迎えました。

しかし・・・太公望の資料は一つもなく、その存在を疑う部分もありました。
2009年殷を倒した直後に作られた青銅器には・・・
「文祖斉公」の文字が・・・文祖=開祖、斉公=太公望のことです。
太公望の文字が、初めて見つかりました。
太公望が実在する可能性が高まってきました。

天才軍師と言われた太公望・・・そこには周到な準備がありました。
当時の殷と周の国力には大きな差がありました。
それを埋めるために、様々な部族に働きかけます。
太公望の謀略の証拠も発見されました。

周の拠点にあった周原のはずれ・・・鳳雛村で・・・奇妙な甲骨文字が発見されました。
見つかったのは、殷に比べるとごく小さいものでした。
文字の大きさは、1ミリ・・・紂王の父を祀るものと同じに、殷に逆らって独立している微という部族と密接な関係にあったものも発見されました。
殷を倒す準備を行っていたのです。
甲骨には周のしたたかさが伺えます。

史記には、牧野の戦いには8つの部族が加わったと言われています。
それが「牧誓八国」です。
この中に、考古学上明らかになった国に蜀があります。
黄河と並ぶ長江。蜀は、この長江流域に栄えた国でした。
1980年代まで長江流域に、発達した文明はなかったのでは?と、思われていました。
この蜀の遺跡には。。。
誰も見たことのない青銅器がありました。“突目仮面”。独特の仮面文化があったようです。
殷とは、まったく異なる文化を持っていました。
蜀の人びとは、太陽が9つあるという独特な信仰を持っていたのです。
蜀の都は強大で、殷の都に匹敵するものでした。

周と手を結び、牧野の戦いに参加したのは、未開の地の部族などではなく、高度な文明を持っていたのです。

史記には、太公望の策謀の結果、世界の2/3の部族が周の味方に付き、殷が孤立したとあります。
殷に対する包囲網は、本当にあったのでしょうか?
殷の末期になると、青銅器だった装飾品などが陶器に。青銅器の代替品として使用されるようになりました。
これは、青銅が不足してきたからです。
そして・・・同じ時期に、周で青銅器の生産が盛んになってきたのです。

国の繁栄を支えてきた青銅を、周に抑えられ・・・
武器も不足・・・軍事行動にも出にくくなりました。

生贄という習慣を辞められなかった紂王と、生贄になる可能性のあった人々に呼びかけた太公望。。。戦の前から結果は決まっていたのかもしれません。

今の牧野公園で行われたと言われる牧野の戦い。
それは、武王11年2月甲子の日
何故この時を選んだのでしょうか?
甲骨文字によると・・・
この頃、殷の領土の東側で反乱が勃発していました。
だから、東を重点的に武装していました。
そこで・・・周がその隙に攻めたのです。

「甲子の日の朝、武王は殷に攻め込んだ
 夕方には殷を支配していた」

史記は、戦いは1日で終わったということが、青銅器によって裏付けされました。

周が反旗を翻したと聞き、すぐさま兵を出した紂王。
しかし、そこで彼が目にしたものは・・・
敵陣には、予想をはるかに超える軍勢が待ち受けていました。

共に殷を倒そうとしていた“微”。
南の長江流域からやってきていた“蜀”
牧野の地に集まった部族の連合軍が・・・決戦のときが迫ります。

史記に記されている殷の正規軍は70万、しかし、周の軍も・・・殷に劣らない数になっていました。
かつてない兵力と対峙した殷の軍は・・・
戦いを放棄してしまいました。正規軍は東へ行っていて・・・弱い者たちばかりだったから・・・という説もあります。

殷の軍は、戦わずして崩壊しました。
500年間も軍事大国として君臨していた殷王朝は、わずか1日で崩壊してしまいました。
史記は、紂王の最期を・・・
王宮に向かった紂王は、王宮に火をつけて命を絶った・・・
としています。

戦いに勝った周の軍師・太公望。
周が治めるようになってからは、山東省に領土を授かります。
ここに、斉という国を開きました。
太公望は、独自に塩を生産し、国を豊かにしたと言われています。

周の統治とは・・・?
土地を保証する代わりに税や兵役を納める・・・
他の部族と契約し、様々な部族を緩やかに治めようとしました
これが、封建制度という周独特の制度でした。

周は、この後300年後に衰退し、最後は新に滅ぼされます。
しかし、封建政府度を用いた王朝として美化され、太公望は天才軍師として高められ・・・反対に殷の紂王は、奈落の底に落ちていったのでした。

周の視点からの歴史。。。歴史は勝者の歴史・・・それが、歴史の真実なのです。

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2013年01月22日

千年の歴史を変えた策謀家〜岩倉具視〜

私にとってはいわくつきのTHEナンバー2岩倉具視です。
前回、あまりにも難しすぎて、レポートに失敗というか、断念してしまいました。

今回はどうなることやら???
そう・・・今思えばご意見番は加治将一さんでしたあせあせ(飛び散る汗)

岩倉具視 (幕末維新の個性) [単行本] / 佐々木 克 (著); 吉川弘文館 (刊)
岩倉具視 (幕末維新の個性) [単行本] / 佐々木 克 (著); 吉川弘文館 (刊)
時代が江戸から明治へと大きく動いていた京都洛北で・・・
密談する男たちがいました。
薩摩藩士・大久保一蔵(利通)・長州藩士・品川弥二郎・・・そこにいたのは、粗末な着物に粗末な家・・・ふてぶてしい顔を持った男・岩倉具視でした。

2tomomi.png

階級制度の厳しい公家の世界にあって、下級公家だった岩倉具視・・・
彼は、自らの裁量で道を切り開き天皇の侍従に・・・、皇女和宮の御成婚まで成し遂げます。
しかし、権力闘争に敗れ、岩倉村で幽閉・蟄居していたのです。
が・・・その間も意見書を書きまくり、倒幕、王政復古の策をめぐらせていました。
彼が夢見た新しい世界とはどんな世界だったのでしょうか???
彼は、明治維新の立役者でしょうか?
それともとてつもない野望を抱いた策謀家なのでしょうか???


彼が歴史の表舞台に現れたのは・・・
黒船から5年たった1858年・・・
京都御所が物々しい雰囲気になっていました。
幕府の老中・堀田正睦が通商条約締結の勅許をえるために宮中に参内・・・関白の九条尚忠が条約の議案を提出したところ88人もの公家が集まり、撤回を求めたという・・・
いわゆる“廷臣八十八卿列参事件”です。
公家が許可もなく宮中に参内することは前代未聞のことでした。

事件のせいで、関白・九条尚忠の求心力は低下、九条に取り入ろうと・・・通商条約のお墨付きをもらおうとしていた堀田正睦の目論みはご破算となりました。

その・・・首謀者こそ、岩倉具視でした。
下級武士の岩倉がどうして・・・???
実は、これは用意周到に計画されていたものでした。
宮中において関白は、殿下と呼ばれ、公家社会最大の権力者で・・・天皇でさえその意見に反対することは困難でした。

老中・堀田も九条に対し“手入れ”として・・・およそ3万5000両も用意したと言います。
しかし・・・それを快く思わなかったのが、先の関白・・・“鷹司正道”。
自分にあいさつもなく、堀田が九条にすり寄っている・・・
蔑にされたことを恨んでいました。

頭が回り、弁も立つ・・・しかし下級武士の岩倉は・・・
40歳を目前に冷や飯ぐらいでした。
そこで・・・鷹司に・・・“歌道の弟子”となることで近づきます。

そんな岩倉にとって千載一遇のチャンスが!!!
水面下で鷹司の命を受けた岩倉・・・
密かに走り回り・・・88人の公家列参をやり遂げます。
そして、上司・鷹司の敵・九条を引きずり下ろすことに成功しました。
華々しい政界デビューでした。

岩倉が行った“廷臣八十八卿列参事件”によって、堀田正睦が失脚・・・
堀田を立てて息子・慶喜を将軍に・・・と企んでいた徳川斉昭の力が低下・・・
それに乗じて反対派の井伊直弼が大老として躍り出ます。

井伊は、天皇の勅許を待たずにアメリカとの条約に調印・・・
斉昭は天皇の命で井伊を失脚させる“戊午の密勅”で反撃しようとするも・・・井伊に握りつぶされてしまいます。
そして、井伊の勢いは止まらずに・・・安政の大獄へ・・・。
しかし、その井伊も桜田門外の変で暗殺されてしまいます。

安政の大獄の余波は、宮中にもおよび・・・
鷹司も・・・
しかし・・・この時、岩倉は・・・
すでに岩倉の妹・堀川紀子が孝明天皇の側近となり、寵愛を受けて。。。
紀子が天皇との間に女児を設け・・・その口利きで天皇の近習となっていました。

当時、天皇には大きな悩みがありました。
幕府と朝廷を・・・公武合体しようとする考えのもと・・・和宮との婚姻を進めようとする幕府・・・しかし、これは有史始まって以来の朝廷の危機でした。
心を許せるのは・・・紀子の兄・・・岩倉具視のみ・・・。


天皇「そちはどう思う?」
岩倉「ご心配なさいますな。
   和宮の御降嫁をお進め下さい・・・。」

岩倉は、水面下で幕府側・・・所司代・酒井忠義と接触し、幕府の力の衰えと、朝廷に力をすがろうとしていることを掴んでいました。
こうして、意見書にもまとめられ、和宮の降嫁が決まりました。
そして岩倉は、下級公家であるにもかかわらず、天皇の勅使を受け、幕府側との交渉に臨むことになるのです。
皇女・和宮降嫁でスポットライトを浴びる岩倉具視。。。
和宮を降嫁させるときに内親王にして降嫁させます。
内親王とは、天皇の皇女およびその姉妹ということで・・・将軍よりも位が上となります。
つまり、家康以来、幕府との関係が反転することになったのです。

宮中で幕府に最も顔が利く男となった岩倉・・・
その存在は大きくなっていきました。
そこに目をつけたのが・・・薩摩。
ライバル長州が長井雅樂を使って公武一和を進言・・・
島津久光の命により大久保利通が岩倉に近づきます。

1862年4月16日・・・
会合の後、寺田屋騒動がおきます。
さらに九か条の献策を持って江戸へ・・・
維新に向け薩摩の構成を裏で操っていたのは岩倉でした。

しかし・・・奈落の底へ。。。
三条実美・綾小路公知らの33人の連署によって突然蟄居が言い渡されます。
理由は、幕府・酒井忠義に内通し、公家側の秘事を漏らしたから・・・というものでした。
妹・紀子も隠居させられていました。
近衛忠煕が関白に返り咲くと、九条尚忠への意趣返しが始まったのです。
そして目障りとなったのが岩倉だったのです。
此処には孝明天皇が自ら三条に傾く条件もありました。
三条実美らは絶対の攘夷派・岩倉は、幕府に近いのでどちらかというと開国派だったのです。

京のはずれに逃げ込んだ岩倉・・・
しかし、虎視眈々と時期を狙っていました。
その間5年・・・
その間に・・・時代は刻々と変わります。
長州、薩摩・・・そして、三条らの七卿落ち・・・
西郷・大久保・桂・坂本・中岡・・・

寒村に押し込められていた三条は、意見書を書きます。
ここで、薩長連合を説いています。

う〜ん・・・ここら辺から頭がこんがらがってきました。
だいたい岩倉具視ひとりでそんなことができるのか???
よく考えるととっても不思議・・・
失恋

岩倉具視・大逆転を狙う乾坤一擲の策は・・・???相手は将軍・慶喜。

そう、相手は慶喜・・・って、どこまで黒幕なんだ・・

1867年12月8日・・・日本が変わる48時間が始まりました。
この日、京都御所では・・・大名や公家たちの官位普及や赦免を行うことになっていました。出席者は有力公家たちと薩摩などの大名・・・
しかし、慶喜は病気を理由に会議の席には着きませんでした。
孝明天皇崩御の恩赦により蟄居の解かれた岩倉は・・・
次の間に控え・・・会議は朝方終了。
はれて宮中入りを認められた岩倉は・・・上奏文を読み上げます。
政治革新についての文書です。
そこには、幕府だけではなく・・・摂関政治をも廃止にするというものでした。
時を移さず会議が・・・
将軍のいないままに話が進んでいきます。

慶喜と、二条摂政がいない欠席の場で、“幕府廃止”と“摂政廃止”が決まってしまいました。
岩倉が練り上げた秘策の秘・・・それは、王政復古だったのです。

260年続いた徳川を倒すのではない・・・平安より続いた朝廷の摂関政治をも終わらせるのだ!!
それは、才覚さえあれば、下級公家の岩倉も、下級武士の大久保も政治の中枢に登ることが出来る!!そうなった瞬間でした。


加治将一さん・・・「天下の西郷」「天下の岩倉」とか言ってましたが・・・後から見たら天下の・・・ですが、この時“天下の・・・”だったんだろうか???

岩倉具視最大の疑惑・・・それは・・・
明治新政府のNo,2となった岩倉が・・・1871年岩倉使節団としてアメリカ・ヨーロッパを訪問、不平等条約改正の予備交渉と、西洋文明の調査を行いました。
そのメンバーは・・・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文・・・明治の世を切り開いた人たちでした。
ここに、龍馬がいたならば・・・


出た〜!!龍馬暗殺説!!
またまた加治さんならではです



しかし、中岡慎太郎と、岩倉具視の画策・・・幕府を倒すためには・・・幕府を生かそうとする龍馬は邪魔者になっていたのです。
近江屋で暗殺された竜馬・・・
もし、中岡が龍馬暗殺に関わっていたとしたら???

岩倉具視が関与していた???

と、何でもかんでも岩倉具視さんが黒幕で終わってしまいました。失恋

龍馬暗殺説に関しては、京都見廻組が有力です。
どうして高らかに発表しなかったのか??
それは、龍馬と一緒に関係のない中岡慎太郎が殺されたから・・・
という説まであります。
ま・・・中岡慎太郎の何が関係ないの???っても思えますが・・・
そこをあーだこうだというのが面白いのですが黒ハート

そうだ・・・だから、頭がこんがらがるんだ・・・失恋
たくさんの草莽がいて、その時代のうねりに逆らうことは誰もできなかったと・・・
私はそう思うのです。
例えそれがみんなの好きな坂本龍馬でも、私の大好きな土方歳三でも・・・あせあせ(飛び散る汗)

一人の人の頭で仕上がるなんて・・・あんまり考えられないなあ・・・失恋


って、中立にレポートできませんでした。
ごめんなさい・・・たらーっ(汗)

維新―岩倉具視外伝 [単行本] / 堀 和久 (著); 幻戯書房 (刊)
維新―岩倉具視外伝 [単行本] / 堀 和久 (著); 幻戯書房 (刊)

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posted by ちゃーちゃん at 08:22| Comment(2) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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