2013年01月31日

悲劇!二君に仕えた男〜明智光秀〜

「敵は本能寺にあり!!」

しかし、この数年前まで、光秀は信長にとって最も信頼できる家臣でした。
明智光秀は、信長の家臣の中で一番最初に城持ち大名となりました。
その働きは凄まじく、軍事から朝廷まで、あらゆることに働き・・・
信長は三成のことを「粉骨の度々の功名比類なし」と言ったほどです。

家臣の筆頭格としてありました。

織田軍団にあって、スーパーエリートだった明智光秀、何故本能寺の変を起こしたのでしょうか?
そこには信長と光秀の・・・長きにわたる因縁の関係がありました。

それは・・・天下人・信長を生み出した明智光秀・・・光秀は足利義昭の家臣でもあったのです。

本能寺の変の時・・・信長49歳・秀吉45歳・光秀は54〜55歳だったと言われています。
もっと年上だったかもしれません。
もともとは朝倉家や将軍家・・・いろいろと浪人時代も長い苦労人です。

明智光秀は、武将として優秀なのはもちろん、将軍家との交渉や朝廷との交渉・・・外交能力にも長けていました。
そして、領地を治める才能も・・・すべてを持っている武将でした。

光秀は、美濃の守護・土岐氏の一族の出身と言われています。
斉藤義龍によって国を滅ぼされ、諸国を放浪しながらさまざまな知識を習得しました。6年にも及ぶ流浪の末、朝倉家に仕えたものの、義景は凡人で、光秀の才能に気付くことなく官職にあえいでいました。
40歳頃だった光秀、人生はこんなもんかと思っていた時、思わぬチャンスが・・・
足利13代将軍・義輝が、松永久秀と三好一族に殺されるという事件がおきました。
弟・嘉昭は京を逃れ・・・朝倉家に助けを求めてやってきました。

放浪中に、足利家の側近と親しくなっていた光秀は、動き出します。

足利義昭は、朝倉義景に京に上洛し、自分を将軍につけてくれるようにと頼みます。
が・・・実力も野心もなかった義景・・・

イラつく義昭側近の細川藤孝に近づいた光秀は、進言します。
「朝倉に頼んでも・・・
 今の朝倉には、武力も知略もかけております・・・

 尾張・織田信長!!
 義昭様が後ろ盾として頼るべきは、この者をおいて他にはございませぬ!!」

当時、終わりを平定し、勢いに乗る信長・・・なぜ信長だったのか???
光秀は、信長の正室・濃といとこの関係にありました。
自分が交渉役に・・・という計算があったのかもしれません。

そして、信長は実力主義者・・・
それまでは、家とは同族会社のようなもので、縁故なものしか入ることが出来ませんでした。しかし、信長は、実力のあるものを採用します。
傭兵のような形になったのは、信長からなのです。

足利幕府再興の為に・・・

足利義昭は、自らの使者として光秀を信長のもとへ・・・
天下を狙う信長にとっては、渡りに船のことでした。
同時に信長は、光秀の才能を見抜き、自らの家臣となるように勧めたのです。
1568年明智光秀を介して信長は、足利義昭に会うことになります。
そして、その2か月後には上洛、3か月後には義昭を15代将軍に押し上げました。

わずかの間に現実となった天下統一・・・信長の全国デビューの仕掛け人は、明智光秀だったのです。

そして、足利義昭の側近と共に信長の家臣という、異例の処遇を受けます。
信長からは、京都奉行を任され、朝廷や公家たちの接待を任されます。
新参の家臣としては、異例の抜擢です。

学識があり、和歌も読める。京都で通用するのは光秀。。。

しかし、やがて2君に仕えたことが、光秀の苦悩となっていきます。

義昭と信長・・・その橋渡しをすることで立場を守ってきた光秀・・・
しかし、2人の間に対立が出来てきます。

将軍になったからには自らがTOPとなれると思っていた義昭。
そんな義昭を、天下取りの道具としか思っていなかった信長。

光秀は二人のはざまで・・・

義昭は将軍として、各地の武将たちに書状を出し始めます。
これを苦々しく思った信長は・・・
「諸国へ御内書を以て
 仰せ出さるる子細あらば
 信長に仰せ聞せられ
 書状を添え申すべき事」
と、厳しく制限します。

この五箇条の条書には、光秀も承認役として・・・義昭を説得します。
義昭の為に信長を推薦した光秀が、義昭を説得する・・・
その心中は複雑だったでしょう・・・

それに反発した義昭は、武田・朝倉・浅井・比叡山・石山本願寺などに信長討伐を!!と、考え始めました。

将軍の統制のもとに世を治めるのがわが理想・・・
しかし、今の将軍家には、名こそあれ力はない・・・
力を持っているのは信長様・・・
私の出世は・・・
名を取るか、実を取るか・・・
結局光秀は、信長の家臣であることを選びました。

比叡山攻めを高く評価してもらった光秀は、信長から滋賀県大津にある坂本城を与えられます。光秀は、信長の家臣の中で、一番最初に一国一城の主となったのです。
信長の最も近いところに守っている光秀は、信長の近衛軍団でもありました。
最も信頼しているからなればこそでしょう。

坂本は、比叡山の門前町として栄えていました。
信長は、町中にも火を放ち・・・山へと追いやったのですが・・・
今でも光秀の評判はいいようです。
西教寺を再興し、ここを菩提寺にしました。
自ら滅ぼした寺を、自らの手で復活させたのです。
この地の人は、今、光秀の名誉復活の活動をしています。

光秀は西教寺以外にも、町を復興しています。
比叡山攻めは、彼の本心だったのでしょうか???

この頃は、信長の家臣であったものの、義昭からのラブコールもまだありました。
そんな中、1572年武田信玄が上洛に動きます。

信長に最大の危機が!!

この時、足利義昭から光秀に・・・
「将軍家に尽くさば 美濃の守護に任じる」
という書状が届いたと言います。

光秀は・・・
天下の主導権は信長にあると解っていました。
だからこそ義昭に、和睦を薦めます。

結局義昭は・・・
1573年信長に京を追放されてしまいます。
理想を棄てて、実利を取った光秀でしたが・・・

信長の家臣として粉骨砕身頑張る光秀。
1579年4年がかりで丹波の国を平定、その間も、近畿方面の様々な戦いに援軍として参加(越前・伊丹・石山本願寺・雑賀)、京都での朝廷との交渉もしていました。
まさに、“粉骨のたびたびの功名比類なし”です。

が・・・信長はリストラもどんどんしていきます。
古参の佐久間信盛は・・・
「光秀の功名は聞こえど、おぬしの功名は一度も聞いたことがない。
いっそのこと討ち死にするか、剃髪して高野山にでも行け」
と、追放してしまったのです。

古参に対しても容赦のない信長・・・
存分に働けるうちはいいが、働けなくなったら・・・???
自分もいつ切り捨てられるか・・・

事実、丹波平定の後、3年間は戦働きの任を与えられませんでした。
1582年信長は武田氏を滅ぼします。が、光秀に参戦の機会なし。
そうした焦りからか・・・戦勝祝いの席で・・・
「これでわれわれも骨を折ったかいがあった・・・」
これを聞いた信長は・・・
「お前に何の骨折りがあった!!」
と、激怒!!幾度も光秀の頭を欄干に打ち当てたとか・・・!!!

本当でしょうか???
これは後世の作り話だとか・・・???
かなりの屈辱です。
1582年3月・・・本能寺の変の3か月前のことでした。

急速に狂い始めた歯車・・・
1582年5月、信長は、長宗我部元親の討伐を決意します。
実は、光秀は、長宗我部と長年友好関係にありました。
しかも、討伐軍は、光秀ではなく三男の信孝でした。
光秀から息子たちへ・・・世代交代を始めていたのでしょうか?

5月12日誕生日に、信長は、「神格化宣言」を配布します。
同時に、信長の非情さも激しくなっていきます。
殺戮に対しての躊躇が無くなっていきます。

5月15日光秀は、安土城にやってきた徳川家康の饗応接待役を務めます。
しかし、6日後・・・5月21日には秀吉の援軍を命じられるのです。
その際・・・光秀の領地だった丹波を召し上げ、毛利領である出雲・石見を与えると告げたのです。
この国替えは、光秀にとっては左遷人事に思えたでしょう。

運命の6月1日、丹波亀山から1万の兵を従えた光秀は、中国地方に向かわずに京の本能寺へ・・・
どうして光秀が・・・
主君を討つには相当の覚悟がいったことでしょう。
しかし、足利義昭に引き合わせたのは自分・・・
そのことで、尾張の一地方から天下の織田信長としたのは自分だった・・・
そんな後悔の念があったのかもしれません。
その後悔の念が、光秀を本能寺に向かわせたのかもしれません。

討ち取った後、友人への手紙には・・・
「信長親子の悪虐は天下の妨げ討ち果たし候」
と送っています。


信長を討った光秀は、中国から取って返した秀吉によって三日天下で終わります。
しかし・・・京都には、光秀の首塚が残されています。
そして・・・
明智光秀は、理想主義と現実主義を兼ね備えた武将でした。
文武両道で引き出しも多く、やるとなったらあらゆる仕事をパーフェクトにこなす、主君にとっては理想的なNo,2だったと言えるでしょう。

しかし、そんなスーパーエリートこそが、キレやすく壊れやすい・・・
理想と現実をバランスよく保っていられるほど、人は強くないのです。


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2013年01月30日

世界を席巻する日本食〜世界遺産を目指せ〜

通勤大学MBA〈5〉コーポレートファイナンス (通勤大学文庫) [単行本] / グローバルタスクフォース (著); 青井 倫一 (監修); 総合法令出版 (刊)
通勤大学MBA〈5〉コーポレートファイナンス (通勤大学文庫) [単行本] / グローバルタス...

フランスにある日本食レストランは1580店舗。増え続けています。
パリッ子たちがお箸を使って、お寿司・焼き鳥・ギョーザなどを食べています。
作っているのはカンボジア人。
1日だけ日本の先生に習ったのだそうです。
日本に行ったこともないそうですが・・・
そう、日本食を作っているのは東南アジア人や中国人の料理人が多いそうで、日本食は儲かるそうです。

イギリス・ロンドンでも・・・日本食が大人気。
スーパーで巻き寿司を売っています。
しかし、日本人がかけ離れたなんちゃって日本食が大部分のようです。

世界で唯一うまみを中心に料理を構成した国が日本・・・。
そんな日本食を世界遺産に!!京都・老舗料亭の挑戦が始まります。
はたして老舗の味は、世界に受け入れられるのでしょうか?


ちなみに世界中にある日本食レストランは・・・約3万店もあります。
が・・・フランスでは、1500店舗ある中で、日本人が経営しているのは80店ぐらいだそうです。
2006年に日本食レストラン認証制度が出来たのですが・・・外国人経営者から猛反発をくらい・・・成立しませんでした。

それなら・・・日本人が出ていけばいいのでは???
となりますが・・・。


日本人以外の経営者がいるイギリス・ロンドン。
日本食で大成功しているのは、回転ずし屋。
イギリス国内だけでも60店舗を構えています。
そこには、日本ではお目にかかれないネタもあります。
マンゴーの太巻き・揚げギョーザ・ラーメン・・・日本人には今一つのようですが、イギリス人にはうけがいいようです。
1997年に1号店をオープンし、富裕層しか食べられなかった寿司を庶民が食べられるようになりました。
アメリカ・ノルウェー・ドバイにまで出店しているとか。。。

フランスでは・・・寿司の宅配があります。
これが今、大ブームなのだそうで、この店は年商160億円・フランス国内に80店舗・海外にも20店舗もあります。
日本食は、時間がないときでも手早く食事がとれるので、現代のライフスタイルにもあっていて、値段も手ごろなところが良いのだとか・・・

日本食と和食の違いは???
その定義が、日本人たちのなかで一致するのかどうか???
それはなかなか難しい・・・。
そんな中、日本は和食を世界遺産に申請しています。

京都の菊乃井の料理人が、フランスのホテルで腕を振るいます。
パリの批評家の評価は上々です。
大事にしているのは旨味。
日本料理は、旨味を中心に料理を構成すれば日本料理になるということなのです。

創業100年を超える老舗料亭・菊乃井。
そこでは、伝統的な境界石が味わえます。
季節感たっぷりの料理が。。。

菊乃井さんが大切にしているこの旨味とは???
昆布・鰹節からとる出汁のことです。
甘い・辛い・苦味・酸味・・・他の四味とは全く違います。

昔、人間の味覚は、甘味・酸味・苦味・塩味の4つと言われていました。しかし、1908年池田菊苗博士によって旨味が発見されます。
そして、この5つが味の基本となったのです。
いろんな旨味がありますが・・・
昆布から出るグルタミン酸・鰹節のイノシン酸に凝縮されています。

世界で唯一、旨味を中心に料理を構成した国が日本・・・この旨味こそが和食の神髄なのです。
そして、フランス美食術・地中海料理・トルコのケシケキ料理・メキシコ料理が世界無形文化遺産となっています。
日本も今、無形文化遺産に申請しています。

そして・・・客に食べてもらうだけではなく・・・料理人に日本食の技術を教えることも、必要だそうです。
旨味の基本、旨味さえ押さえれば後は何をやっても構わないという考えでイギリスに日本食レストランを開き、旨味のマスターとして新聞でも紹介されました。

2015年日本食グローバル元年・・・
2015年にはミラノ万博があります。その大きなテーマの一つが食。
その食に合わせて日本食グローバルの動きを加速していけばいいのでは???

そして、中食・内食にまで伸ばしていき・・・それをサポートする調味料・出汁・機械・食材・器・道具・・すべてが裾野となって、日本食産業のグローバル化を進めていけばいいということでした。


いやあ・・・専業主婦としては頭の痛い話です。
昆布とかつおで出汁とってる???って感じ。。。あせあせ(飛び散る汗)

最近・・・お米の消費が伸び悩んでたり、”食べるラー油”なんかどぎつい味のご飯にかけるお供が増えています。”卵かけごはんの醤油”とかも売ってますよね。
それって、女性の社会進出が増え、和食を作るのに時間がかかるので、何とか手早く済まそうとする傾向があるからだそうで・・・

そうですよね。
私は専業主婦なので、煮物はお昼過ぎから作りだします。
だって、冷めるときに味が滲み込むので・・・6時に食べる為には2時ごろから作らないと美味しくないから。

働いている人は、そんなことは出来ないですよねたらーっ(汗)
日本人なのにうま味の知らない人はたくさんいるんじゃないかなあ・・・

私も健康診断で、塩分控えめにしないと駄目になりそうで・・・
健康的になるためにも、運動と出汁で食べるように心がけようと思っていました。
良い出汁だと、塩分が少なくても美味しいからるんるん
ほんと、世界遺産になっても日本人はそんな料理を食べ続けられるのかしら???

ガイダンスコーポレートガバナンス [単行本] / 大和総研経営戦略研究所 (著); 青井倫一, 青井倫一 (監修); 中央経済社 (刊)
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企業のリスクマネジメント (G‐SEC Eyes) [単行本] / 青井 倫一, 竹谷 仁宏 (著); 慶應義塾大学出版会 (刊)
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2013年01月29日

足利義満 空前の混乱に立ち向かった権力者

足利義満―法皇への夢を追った華麗な生涯 (日本史リブレット人) [単行本] / 伊藤 喜良 (著); 山川出版社 (刊)
足利義満―法皇への夢を追った華麗な生涯 (日本史リブレット人) [単行本] / 伊藤 喜良 (...

あ・・・私の知っている義満は、おバカなこの人です。

yosimitu.png

一休さんで、桔梗屋さんと一緒にとんちで一休さんにコテンパンにやられて地団駄ふむ義満さんです。
で、一休さんが天皇の御落胤だったので、目付に新右衛門さんをつけたのよね揺れるハート

でも、本当はすごい人、日本を大きく変えた人です黒ハート
鹿苑寺金閣・・・今から620年前・・・京都で文化の華を咲かせた一人の男によって作られました。
足利義満・・・中世、動乱の日本に君臨した室町幕府第3代将軍です。
北山文化の創始者として知られる義満・・・長い間、歴史の悪役として語られてきました。

自らの理の為なら冷酷無比になる策略家・朝敵という汚名・・・傲慢な権力者としてのイメージが強いのですが・・・

義満が生きたのは、南北朝動乱の時代。
悪党と呼ばれる私利私欲にまみれた武士が、秩序のない世界を作り上げていました。
誰もが自分の力で生きていかなければなりませんでした。

義満の時代は、鎌倉幕府が滅亡後・・・次の権力が生まれようとしていました。
天皇に権力を戻そうとする後醍醐天皇と、武家政権を建てようとする義満の祖父・足利尊氏が対立していました。
尊氏は、後醍醐天皇を京都から追い出し・・・後醍醐天皇は奈良に反幕府の南朝を、幕府側の尊氏は北朝(室町幕府)を開きました。
長引く内乱で・・・武家社会には、悪党・ばさら大名が出てき、私利私欲にまみれ・・・
悪党は裏切るのは当たり前、佐々木道誉・高師直ら、ばさら大名は天皇などの伝統を軽視していました。
そう、武家社会が根底から崩れ出していたのです。
その時代をまとめ上げた将軍・義満・・・それは、平坦な道ではありませんでした。
そんな義満の苦悩とは、どんなものだったのでしょうか?

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1373年12月、父・義詮が急死すると、室町幕府三代将軍へと就任します。
この時義満、11歳。幼い将軍は、盤石でない幕府を一身に背負うことになってしまいました。
最大の課題は、大名を支配下に置き、幕府の安泰を目指すこと。
当時大勢力の一つだったのが、山名一族。山陰を中心に11か国を治める大大名でした。

義満は、軍事力に勝る山名攻略の機会を虎視眈々と狙っていました。
チャンス到来は34歳の時、山名一族の内紛がおこります。
総領の地位をめぐって、本家と分家が対立したのです。
一族の内紛につけて、義満に近づいてきたのが・・・分家の山名満幸。
満幸は、本家が謀反を企てていると密告し・・・それを受けて義満は派兵、潰してしまいます。
しかし、義満は態度を一転。今度は分家の満幸に対して、荘園横領の疑いをかけ守護職を剥奪。満幸は激怒し、幕府に反旗を翻します。

義満は、この時を待っていました。
幕府軍は、満幸軍をわずか1日で壊滅。
幕府に勝っていた山名は、内紛を機に統率力を失っていたのです。
そして・・・山名の所領は、11か国から3か国に・・・
相手のすきをついての策略です。

このようにして、各地の大名を弱体化し・・・
その総仕上げが、南北朝合一だったのです。

嵯峨野・大覚寺にある正寝殿で、歴史的な南北朝合一がなされます。
これからは、北と南の天皇が交互に天皇につくと、決まるのです。
そして・・・動乱は鎮まるのでした。
武家の支配を固め、日本史上最大の内乱を一つにまとめあげたのが義満だったのです。

それは、どんな方法で???
鹿苑寺・金閣を中心に掌握した権力・・・その象徴でもありました。
第三層は禅宗様式、第二層は武家造、第一層は寝殿造・・・。
第一層を公家の寝殿造りに・・・
そこに義満の考えがありました。
公家の官位を欲し、次々と手にしていきます。
その昇進の速さは異例の者でした。
源頼朝のなった右近衛大将に21歳で、25歳で左大臣、26歳で皇后・皇太后に続く准三后に・・・37歳で武家では平清盛以来の太政大臣に駆け上がります。

公家でさえ稀のこの出世・・・その裏には北朝の重鎮公家・二条良基の姿がありました。トップに立つ摂関家、実力者です。
この良基おかげで、朝廷で華々しくデビューしたのでした。
マナーも、徹底的に教え込まれます。つつがなく儀礼をおこなうための摂関家。
一部の公家だけが守ってきたものを、良基の手ほどきによって教え込まれたのでした。

では、どうして協力してくれたのでしょう?
南北朝の戦いは、荘園からの年貢を激減させました。
北朝の後円融天皇が窮地に陥ります。財政の悪化から、祭祀儀礼も中止となり・・・その政権が危ぶまれます。
公家たちも仕事がなくなり・・・俸禄がもらえなくなっていました。
公家も朝廷もなくなってしまうかもしれない・・・
現在までで一番ピンチだったのが南北朝時代だそうで、朝廷を生き残らせるために・・・
このような危機に、義満が望んでいた官位・昇進させることで、財政的にもテコ入れしてもらいます。

1379年右近衛大将拝賀儀式。
義満は、天皇の前で見事な舞を披露。
さらに・・・二条良基の計らいで、天盃を与えられるという前代未聞の栄誉を受けるのです。
当時の公家は・・・それを苦々しく見ていました。


こうして義満は、清盛も頼朝も飛び越えて、摂関家に匹敵する立場になっていきます。
が・・・これは、二条良基の思惑を超え・・・
後円融天皇の立場が悪くなります。
公家たちの蚊帳の外にされ始めたのです。
そして。。。義満は、後円融天皇との女性問題を・・・心を痛め、病に伏せる天皇に追い打ちをかける義満・・・まだ6歳の御小松天皇を即位させ、自らが後見人となりました。
義満は・・・このようにスーパー権力者となっていくのでした。

では、武家も公家も抑えてスーパー権力者となった義満、どんな国づくりを目指していたのでしょうか?

そこで出てくるのは・・・日本国王問題です。
1368年、義満11歳の時に・・・元に変わって明が誕生しました。
そして、朝鮮や琉球に、朝貢(明皇帝への従属)を要求してきます。
しかし・・・日本は、国交を拒否します。
そこには、公家たちの“属国になどならない!!”という強い思いがありました。
さらに、明の皇帝・洪武帝が国交を結ぶのは、国家元首・・・。に限られていました。
義満が日明貿易を始めるためには、国王に認められる必要があったのです。
そして・・・第3代永楽帝の時に・・・義満が日本国王に認められます。

この行為が、天皇をないがしろにし、日本を明の属国とした・・・ということで、後世激しい非難を浴びることになるのですが・・・
天皇の臣下であるべきなのに、隣の国の王の臣下になるなんて・・・

しかし、義満は、遣唐使廃止以来およそ500年にわたって途絶えていた中国との正式な国家外交を再開し、日明貿易を始めます。

では、属国となってまでどうして・・・???
そこには、貿易利潤を独占しようとしていた狙いがあります。
義満が欲しがっていた永楽通宝は国際通宝。。。
これが、明との国交の狙いだったのです。

東アジア世界では、当時、武人国家から文人国家の転換期でもありました。

この莫大な富を・・・北山文化につぎ込みます。
花開いた北山文化は、唐物と呼ばれるものをはじめとする大陸伝来の品々でした。
特に陶磁器は、世界最高水準でした。
この芸術品を、こよなく愛したのです。


さらに・・・能楽を・・・観阿弥・世阿弥を発掘し、手厚く保護しました。
明との交易の結果、経済が発達し、新たな機運が来たのです。
明を取り入れることで、経済と文化の発達する時代に・・・義満が願った国の行く末でした。


そんな義満晩年の最大疑惑事件は・・・
それは、自分の妻を天皇の母とし、自らの子を皇位につかせようとした問題です。
1406年12月25日後小松天皇母・通陽門院厳子重体。
12月26日、義満は帝の母を見舞う。
「帝は即位されてから、すでに父君を亡くされている
 在位の間に二度も喪に服するのは不吉である」
当時、それは朝廷の習わしでした。
服喪は1年。その間、天皇は一切の政務から離れます。

差し迫った問題に対し・・・
側近の公家に・・・
「過去に帝に代理の母、准母を立ててさしあげれば、喪に服さなくてもよい先例がある
 誰を帝の母にするのが良いだろうか」

この時義満は、困ったことに、皇族にふさわしい女性がいないと言います。
公家は、義満は、自分の妻を准母にしたいのではないか?と、考えます。

妻が准母となれば、義満は天皇の父。その位は太上天皇です。
しかし、代理の母を、皇族以外から、ましてや武家からなどとは前代未聞。
それでも義満の近しい公家・一条経嗣は・・・
「恐れながら、義満様の妻君に皇族につぐ准三后の宣下を下され
 その後、帝の母・准母となされるのが良いでしょう
 すべては、義満様の大権によってご決断されるべきです」

朝廷の慣習に従って准母にすることを薦めました。

その後、御小松天皇の母が亡くなり、義満の妻が准母となることが決定されます。
義満は、自らは何も語っていませんが・・・。
しかし、太上天皇になれば、自分の子供を天皇にすることが出来る

一条経嗣は、義満の妻を准母としたことを後悔しています。
「自分の保身だけを考えて、なんと愚かな助言をしたものか
 ああ、悲しいかな 悲しいかな・・・」

ところが・・・2年後の1408年5月6日
足利義満死去。あまりの突然の死でした。

しかし、4代将軍義持は、義満にもらった太上法皇を朝廷に返上してしまいます。
動乱の時代をまとめ上げた足利義満。その死から60年後応仁の乱が始まり、京都は焼き尽くされ・・・再び動乱の時代が始まるのでした。

本人は、天皇家の乗っ取りなど考えていなかったのかもしれません。
アジアの変革期の中で、日本をどう繁栄させていくのか???
大胆かつベストな決断をした人物であることに間違いありません。

天皇になろうとした将軍―それからの大平記 足利義満のミステリー (小学館文庫) [文庫] / 井沢 元彦 (著); 小学館 (刊)
天皇になろうとした将軍―それからの大平記 足利義満のミステリー (小学館文庫) [文庫] / ...

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posted by ちゃーちゃん at 14:16| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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