
元禄15年12月14日47人の侍が吉良上野介の屋敷に・・・元禄赤穂事件です。
いわゆる忠臣蔵は、主君の汚名を雪ぐ忠義の物語として、たくさんの日本人に愛されてきました。
討ち入った浪士たちは、切腹して果てました。それだけにとどまらず、家族は厳しい現実に晒されます。
主君のために家族を犠牲にした浪士たち・・・彼らは討ち入る寸前まで葛藤していました。討ち入り直前の手紙には・・・家族を思う痛切な思いがありました。
木村岡右衛門
「娘は、堅実な家に養子にやってください。
あなた(妻)は、私の49日が終わったら早々に再婚してください。」
討ち入りか家族か・・・
萱野三平
「忠義と孝行の間でどうしていいのかわからなくなりました。
悩んだ末に自殺します。」
兵庫県赤穂市・・・ここには47士に関する史跡が・・・
大石神社・・・ここには、47士を今に伝える木像が残っています。
神社には、浪士たちが討ち入り前に家族に残した手紙が残っていました。
大高源吾・・・年老いた母への手紙が。
「今更申し上げるべきこともございませんが、これが最後の手紙です。
本当に本当に、先立ちます不孝の罪は 後生も恐ろしく存じますが、
私事で捨てる命ではございませんので、
深くお嘆きにならずに、私のために御念仏を唱えていただくよう頼みます。」
神崎与五郎・・・母親の面倒を妻に頼みます。
「侍の妻たるものが、夫の事ばかりを考えて嘆くというようなことは良くないので
よくよく気をしっかりと持って 心を取り直してください。
私もあなたのことが恋しいけれど これは人間としの務めなのです。」
浪士たちが残した手紙には、忠義ではない家族への思いが綴られていました。
生活者としての武士の有り方はどうだったのでしょうか?
1600年から1700年の時代・・・元禄期は核家族の時代でした。
ただし、武家の家は、百姓や町人とは違い、自分の代で粗相をすると潰されてしまう・・・住む家もなくなり、家族が路頭に迷ってしまう・・・そんな時代でした。
家族の単位は小さくなっても、世間の目は気にしなければならない・・・そんな時代でした。
大石内蔵助には、モーレツ家老とマイホームパパ・・・2つの顔がありました。
5万石の赤穂藩、内蔵助は藩主浅野内匠頭に続く筆頭家老でした。
およそ1900坪の広大な屋敷で、妻・子どもたちと幸せな暮らしをしていました。
そんな大石家の幸せな生活が一変します。
元禄14年3月14日。。。
主君・浅野内匠頭が殿中で・・・刃傷事件を起こしてしまいます。
内匠守は、即日切腹、浅野家はお取り潰し・・・1か月後の城の明け渡し・・・
つまり、藩主の不祥事で赤穂藩は倒産、家臣全員失業、家族もろとも路頭に迷うことになったのです。
内蔵助の選択の日々・・・
内蔵助の決断は、“城の明け渡し”でした。
@江戸藩邸の明け渡し
上屋敷&二つの下屋敷を1週間ぐらいで。
A国元で藩札の回収
B残務整理(引き継ぎ書類の作成)
C家臣全員城下町から退去
「大学様の面目もある
謹慎が解かれ、人前が成り立つよう
上野介に何らかの処罰がなければこのままでは置かない。
今回のことは、内蔵助に任せてほしい・・・」
まず、内蔵助が優先したのは、幕府に働きかけ浅野大学を浅野家の新たな主君とし、お家を再興することでした。
これが実現すれば、家臣たちはそっくり再就職できます。
元禄14年4月19日、素直に赤穂城を明け渡します。
その後謎の行動に・・・???
内蔵助が藩士との間に交わした御神文には・・・
「このたびの相談の御主意を間違いなく申し合わせ
本意を達すること
一儀については他人はもちろん
親子 兄弟 妻子であっても決して伝えないこと
これに反したものは、日の本国中の神仏の罰を受ける」
抽象的な言葉が並んでいますが・・・
この曖昧な言葉に、政治的意味がありました。
藩士300余名のうち、これに署名したのは120名ほど・・・
残りの藩士たちは、身寄りを頼ったり内蔵助と袂をわかったのです。
元禄14年3月21日
内蔵助は、親戚に宛てた手紙に住居探しを頼んでいます。
「山科・・・山崎あたりで山裾の良い場所がないでしょうか・・・
14、5人が出入りすることになるでしょう。
伏見、大津あたりでも結構・・・」
それは、作戦基地???
それとも、終の棲家???
てんやわんやの中、財政や経済担当の家老・大野九郎兵衛がいなくなってしまいました。すべてのことを一人で指揮をしなければならない内蔵助。。。
江戸詰の藩士だった堀部安兵衛・高田郡兵衛・奥田孫太夫から、今すぐ吉良邸へ討ち入るべきだと手紙が来ます。
「江戸に住む自分たちにとって、上野介を眼前にしているのは不快である
一日も早く鬱憤を晴らしたい念願だけを抱いている」
おまけに、江戸では討ち入りを望む声が・・・
「江戸の大名 小名 旗本の間でも、浅野家は由緒ある家柄であり、義を立てる武士がいないはずはないから、主人の敵を見逃すことがないだろうと江戸中で評判である。」
元禄14年11月江戸会議。
内蔵助は、江戸に赴き、浪士たちと会談します。
“浅野内匠頭の一周忌まで行動を起こさないこと”を約束させますが・・・
1か月後幕府の裁定が・・・
吉良上野介の隠居、義周の跡目相続を許しました。
吉良におとがめなし・・・これによって、けんか両成敗という内蔵助の希望が打ち砕かれました。
隠居をする=家に対する処分はなされない・・・ということになってしまいました。
この頃から、脱名者が出てきます。
高田郡兵衛はオジにばれ泣く泣く脱盟、
萱野三平は父親に再就職を勧められ断りますが・・・理由は父にも秘密、遺書を残して切腹します。
「神文を交わし、親子の間柄でも口外しないと誓ったため、忠義と孝行の間でどうしていいのかわからなくなりました。悩んだ末に自殺します。」
悲劇の脱名者が出る中、説得する内蔵助。
浅野家の再興の望みが消えない限り、討ち入りは思いとどまるように・・・と。
本当に再興の余地があったのか???
この時代までに50の大名がお取り潰しになっている現状を踏まえると、なかなか難しかったようです。

では、内蔵助の討ち入りへの決断と家族との別れはどうだったのでしょうか?
元禄14年12月15日長男・松之丞元服。
の誕生です。
ここに、大きなメッセージが・・・。
仇討への参加、江戸に対するアピールの意味があったようです。
4月15日、妻・理玖と長女・くうを実家に帰しました。
この時、おなかの子の出産準備の帰京とされました。
6月次男・吉千代出家。
7月5日三男・大三郎出産。
わが子の顔を見ることは永久にありませんでした。
また・・・この頃、討ち入りに参加する人も出てきました。
原惣右衛門
「群れを離れ、少人数で討ち入りたいと思っています。
内蔵助をはじめとする上方衆を排除して討ち入れば、大学様への処分もないでしょう。
同志を募れば14、5人は集まるでしょう。」
内蔵助抜きで???
ところが・・・7月18日。
浅野大学が、広島の浅野本家のお預かりとなってしまいました。
お家の再興の望みは絶たれてしまいました。
7月28日円山会議
ついに内蔵助は討ち入りを表明します。
そうなると、脱名者相次ぎます。
どういう層が離脱するか・・・
それは、お家再興を望んでいる上層の人たち・・・再仕官したいと思っている人たちなのです。
自分の家の断絶との間で悩みます。
閏8月、進藤源四郎、小山源五左衛門、大石孫四郎他、11名が脱盟。
その後も、9月8名、10月2名、11月6名・・・
内蔵助は・・・
「小野寺十内殿の御一家は、大勢 今回の討ち入りに参加され、その志は後代までの名誉になると羨ましく思います。
大石一家は大腰抜けで我々父子のほかに大石の名字を持つ参加者は大石瀬左衛門一人、面目ないことであります。
家来の瀬尾孫左衛門も去る3日に立ち退きました。
身分の軽いものなので、そのような家来までが討ち入りに参加すれば私の名誉にもなると喜んでいたのに不届至極です。
内蔵助は、なるべくたくさんの人で参加したいと思っていたようです。
急進派が少人数ですれば犯罪だが、大人数で市民が注目する中で首を撮れば、裁きになるかも???という新しい状況を(お家再興???)望んでいたのです。
10月1日内蔵助は・・・妻の父に“離縁状”を・・・。
当時、事件を起こすと家族連帯、一族連帯の責任を負わされます。
家族を守るための離縁だったようです。
もうやれることはすべてやった・・・
そして、運命の日。。。
江戸城の刃傷事件から1年10か月・・・
47士・・・
のうち19名は、4つのファミリーに属していました。
大石グループ・奥田グループ・小野寺グループ・吉田グループです。
実に、26名が家族や親族で参加していました。
さらに家族たちの名誉を守るために、内蔵助は討ち入りの正当性を主張します。
脱名者を誹謗中傷することで正当性を導き出そうとしています。
そして、“浅野家家来口上書”では・・・討ち入りを克明に記録していました。
「上野介を討ちとめることが出来なかった内匠頭の心底を考えると、家臣には忍び難いものがある。
不倶戴天の敵を討つために吉良邸に討ち入る。」
内蔵助にとって討ち入りを正当化することは、吉良の首を取ることと同じぐらいに重要なことでした。
残った人たちの名誉を獲得する・・・
討ち入った人たちの家族たちが再生活できる環境を整えていく・・・ことが必要でした。
元禄15年12月14日。
300余名だった赤穂藩士・・・討ち入りに参加したのは47士。
内蔵助は、浪士たちを引き連れて吉良の屋敷に・・・。
2時間余りの激闘の末、吉良の首を取りました。
主君の仇討を果たしたのです。
討ち入りから2カ月足らず・・・裁きが下ります。
元禄16年2月4日内蔵助ら46名が切腹・・・
罪人としてではなく、武士としての切腹でした。
泉岳寺に仲間たちと埋葬された内蔵助・・・
享年45歳でした。
それから10年・・・
内蔵助の3男・大三郎が、広島藩・浅野本家に1500石で召し抱えられます。
破格のこと。。。大石家のお家再興です。
筆頭家老の内蔵助と同じ石高でした。
主君の仇討・・・討ち入りだけではなく、そこにあるそれぞれの家族の思い・・・
それが、忠臣蔵の人気なのでしょうか?
今でも私たちは内蔵助の物語の中に入り込んでいるのかもしれません。
忠義を果たした赤穂藩家老〜大石内蔵助〜はこちら。
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