天皇の妹・和宮と14代将軍徳川家茂との結婚。和宮の降嫁です。
皇女が徳川家に嫁ぐのは、前代未聞のことでした。

京からの花嫁行列はおよそ3万人。
かかった費用は900万両、当時の幕府の予算の2年分と言われています。
なぜこれほどまでに大事になったのでしょう?
前途多難な結婚でしたが・・・。
どうして降嫁したのでしょうか???
降嫁とは、皇族の娘が臣下に嫁ぐという意味です。
宮家からは・・・
8代将軍・吉宗の正室は、理子。
12代将軍・家慶の正室は、喬子。
しかし、皇女が関東の東夷(野蛮人)に嫁ぐ・・・ありえない・・・前代未聞のことでした。
みんなが諸手を挙げて喜んだわけではありませんでした。
1860年8月、結婚が決まりました。
日本列島が、一気に動き出しました。
和宮の花嫁行列は、中山道を通って、江戸へ向かうことになりました。
準備に取り掛かる街道筋・・・
周辺の宿場町では・・・
赤坂宿では、町全体で家屋を新しくしました。
257の家屋や空き地を調べています。
空き地や古い家屋は見苦しい・・・と、建て替えられたのです。
お嫁入り普請です。
馬籠宿では・・・道路工事が。
畳石に取り掛かり、石垣を二尺引込め道幅を二間に・・・
街中の道路を造り替えました。
このようなことが、中山道すべてで行われていたのです。
ちなみに、和宮とは別の婚礼道具は美濃路、東海道を通って運ばれました。
長さ9m、幅3m、重さ1tの巨大な婚礼道具を70〜80人で運びました。
小さな橋は、欄干を外したり、取り替えたり・・・
小さな門は取り壊したり・・・
埃がたたないように石や砂利を敷いたり・・・
通るところはすべてインフラ整備をし・・・
広大な地域を巻き込んだ一大イベントとなりました。
1861年10月20日和宮一行は、京都を出発します。
でも、どうして中山道なのでしょう???
中山道は、東海道に比べて5分の1の交通量です。

槍を持った人、剣を持った人、伊賀衆30人・・・厳重な警戒のもとに、そんなに混んでいない道を選んだようです。
鉄砲や槍を持ち、戦に出かけるような行列だったそうです。
女官や役人も含めて5000人から7000人、これらの人を江戸に送るために、人足や馬をたくさん出しています。
全行程でかかわった人の数は、総勢70万人。
まさに、史上最大のロイヤルウエディングでした。
どうして、このような国を挙げての大行事となったのでしょうか???
そこには、幕府の権威の失墜がありました。
幕末になると・・・幕府の力が落ちてきて・・・朝廷の力がついてきていたのです。
対外的な国難に立ち向かうためには、公武合体が必要だったのです。
桜田門外の変で、“幕府の権威の失墜”にとどめを刺された幕府は、どうしても和宮が欲しかったのです。
1年半前の1860年4月に、和宮降嫁を要請します。
和宮は、外国人のいる江戸を嫌がっていました。
しかも、有栖川宮熾仁親王という婚約者がいたのです。
兄の孝明天皇は、要請を繰り返し断っていましたが・・・幕府も必死に食い下がります。
そして・・・
丙午に生まれた女は災いをもたらす・・・と、有栖川宮家に吹き込んで、破談にしてしまいました。
再度降嫁を要請します。
近臣の岩倉具視は・・・
「外圧に晒された皇国の危機を救うには、朝廷権威を回復し、国是を確立させる必要がございます。」
と、朝権の回復を訴えます。
「和宮の身は極めて重いものです。
通商条約を破棄するよう命じ、幕府がそれを約束するというならば、和宮を説得してはいかがでしょう。」
天皇は、ついに決断します。
「幕府が蛮夷を拒絶するなら和宮を諭そう」
通商条約の破棄と、攘夷を求めました。
幕府の返答は・・・
「7,8年ないし10年以内に条約を廃棄する。」
これが、孝明天皇にとっては重要なことでした。
このことが実現するならば・・・と、政略結婚に進んでいきます。
そして、天皇の決定的な言葉・・・
「降嫁が実現しなければ、朕は譲位する。」
この一言で、和宮はついに決心しました。
和宮は降嫁とともに、5つの条件を出しました。
江戸城に入った後も、身の回りは万事御所風を守ること。
江戸城での生活になじむまで、御所の女官をおそばにつけること。
などです。
これに、孝明天皇が足したのが・・・
和宮が出した5か条を遵守すること。
蛮夷拒絶の方策は、今後老中が後退しても決して変えないこと。
これを幕府に示したのです。
孝明天皇は、今までの無知な天皇とは全く違う天皇だったのです。
16歳の少女が嫌がった・・・
このことが、攘夷の期限を切ることが出来た。
これが、幕府の最期を決定づけさせたのです。
京都から出発・・・
この時に詠んだのが
「住みなれし 都路出て けふいく日
いそぐもつらき 東路の旅」
「落ちていく 身と知りながら もみじ葉の
人なつかしく こがれこそすれ」
しかし、日本中は、興味津々・・・
万歳・万歳です。
行列を見る為のガイドブックまでありました。
出版されたのは、10カ月も前のことでした。
一方で、風刺画も・・・
「和宮降嫁は狐の嫁入り」
朝廷と幕府の化かしあいだというのです。
公武合体を日本人全員に目に見えるような形で示す・・・
大行列は・・・その効果は絶大でした。
1961年11月15日、江戸城へ・・・。京都を出発して25日経っていました。
閉塞状態だった幕末、明るい話はとっても歓迎されました。
1862年2月11日和宮と家茂結婚。二人は17歳でした。
幸せ、ラブラブな二人・・・しかし、この結婚が、幕府を窮地に陥らせます。
5月15日、孝明天皇は“条約破棄”を改めて求めます。
「もし10年以内にことを起こさないならば、自分が最高司令官となって戦う!!」その言葉が、朝廷内の反幕府勢力の原動力となってしまうのです。
京都では、過激な攘夷派の天誅が横行します。
公武合体派の人びとが暗殺されるという異常な状況になってきました。
孝明天皇と家茂の仲をとりもつ和宮。
家茂は上洛します。この将軍上洛は、3代・家光以来240年ぶりのことでした。
幕府としては、戦うのは幕府、その期日は言わないという考えでした。
しかし、朝廷は譲位期限を決めたい!!
1863年4月20日、家茂はこともあろうに譲位期限を5月20日と決定してしまいます。
7〜8年ないしは10年を・・・です。
20日後になってしまいました。
家茂は諸藩に命じます。
「海岸防衛を慎重にし、外国が襲来した場合には掃攘せよ」と。
1863年5月10日、長州藩が実際にアメリカ商船を爆破、戦争へと発展します。
翌年、4か国が下関を砲撃し、長州藩は負けてしまいます。
しかし・・・必死に攘夷を迫る和宮・・・そこには、民衆の為という純粋な思いがありました。
天下泰平の道に進めるように・・・
しかし、その役割は突然終わりを告げます。
1865年9月、4か国の連合艦隊が直接朝廷に通商条約の勅許を求めてやってきました。
のど元の大坂湾へやってきます。
勅許せざるを得なくなった孝明天皇・・・それも、なんの断りもなく・・・言葉にできない驚愕でした。
この勅許によって降嫁の意味がなくなってしまった和宮。。。
おまけに、家茂は21歳で急死。。。
孝明天皇までも崩御。。。
和宮は帰京を求める手紙を出しています。
「異人が丸の内まで徘徊するようになりました。
使命が果たせなかったので帰京したい。」と。
夫と兄を亡くした和宮は・・・新しい役割を担うこととなります。
1867年10月14日、新しい将軍・慶喜のもとで・・・大政奉還。
政権を朝廷へ返照します。
1868年1月鳥羽伏見の戦い勃発。
薩摩、長州の反幕府軍が官軍となって・・・賊軍となった幕府に襲いかかります。
和宮は、徳川の家名の存続を嘆願します。
自らの命を懸けた嘆願・・・1868年3月15日の江戸城無血開城・・・徳川存続へと繋げていきますが・・・。
徹底抗戦を望む幕府軍の人に・・・
「神君以来の御家名が立つことを心がけ、謹慎を守ることが徳川家代々に対する真の忠義です。」
と、強い思いを持っていました。
旧幕府軍がたてば、江戸っ子たちは幕府側につく・・・
内乱状態になることを避けようとして、火の手をあげさせない!!
そういう強い思いがあったようです。
その後和宮は、徳川家とも天皇家とも親交を深めながら過ごします。
明治8年歌会始で・・・
「玉敷の みやこもひなも へたてなき
年を迎ふる 御代のゆたけさ」
それから2年後、明治10年(1877年)9月2日、脚気が悪化して亡くなります。享年32歳でした。
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