2012年12月19日

「米沢の城下町」

戦国最強と詠われた義の戦士、上杉謙信・・・上杉の城下町。
米沢は、上杉家が代々治めてきた土地です。

山形県米沢市・・・人口8万6885人、面積548.74㎢、特産は米沢牛・鯉・米沢織

代々、上杉家によって治められてきた米沢藩・・・
祖は、自らを毘沙門天の化身とし、戦国時代に無敗を誇った上杉謙信です。

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その武勇は数知れず・・・しかし、有名なのは、川中島の合戦です。
毘沙門天の軍旗を掲げ、信玄との一騎打ち・・・それは、まさに伝説。
越後の龍と呼ばれ、生涯義を貫いた名将です。

その謙信の跡を継いだのが、米沢藩初代藩主・上杉景勝です。
豊臣政権下で五大老のひとりとなり、越後39万石から会津120万石の大大名となった上杉でしたが、関ヶ原で西軍についたことで米沢30万石に転封・・・わずか1/4となってしまいました。

幕府の脅威に立ち向かいながら、守ってきた米沢の城下町です。

米沢城・・・今は、石垣が少し残っていますが・・・
お城はもともと天守はなく、三階櫓と藩主の館のみの平城だったそうです。
非常に質素な城だったそうです。

これには、やむに已まれぬ事情が・・・
120万石から30万石へ・・・家臣だけでも6000人も入りました。
誰一人切り捨てることなく、米沢へと連れてきました。
だから・・・お金がなかったのです。

そこには、景勝が謙信から受け継いだ義の精神がありました。

そして、米沢城が・・・謙信のお墓になっています。
その謎は???

kenn5.png

お城には、“上杉謙信御堂跡”があります。
そこに、謙信公の遺骸が安置されていました。
謙信の遺骸は、甲冑を着せ、漆で固めて保存したと伝えられています。

家臣たちは、謙信の言いつけを守り、越後⇒会津⇒米沢へ・・・お国替えをする度に、お謙信公を移したのです。

毎日謙信に手を合わせること・・・
戦に負けなかった・・・義によって働く謙信を信仰していたのです。
明治になるまで、謙信は御堂で眠り、家臣たちを、米沢を見守っていました。
米沢城は、謙信そのものになっていました。

上杉謙信―越後の龍、戦国に飛翔する (新・歴史群像シリーズ 16) [ムック] / 学習研究社 (刊)
上杉謙信―越後の龍、戦国に飛翔する (新・歴史群像シリーズ 16) [ムック] / 学習研究社...
上杉家廟所・・・1623年景勝逝去の際・・・初代景勝から11代斉定までこの地に埋葬されています。
今は、謙信公もこちらに移されて、歴代藩主と一緒に眠っています。

上杉謙信公墓所

謙信は、31歳で関東管領職の上杉家の名跡を譲られ、越後・関東の平定に努めました。


「龍」と「毘」

八海山・法音寺は、越後時代から1200年以上の歴史のある真言宗のお寺で、菩提寺です。
お寺に掲げられた毘沙門天の旗・・・
これは、毘沙門天を信仰していた上杉謙信が戦で掲げていた旗印です。

ここには実際に謙信公が拝んでいた毘沙門天の本物の“泥足毘沙門天像”があります。
軍神と呼ばれた謙信公が、深く信仰していた毘沙門天です。

kenn1.png

謙信公は、戦勝祈願をして戦に行ったと言います。
ある時・・・謙信が越後・春山城で祀っていた毘沙門天像が、戦から戻るとその足に、泥がついていたという伝説が残っている毘沙門天です。

上杉家は・・・謙信公から14代は米沢で過ごされました。
現在は東京で暮らしているのが17代・上杉邦憲さんは・・・
“はやぶさ”の開発にも携わっているJAXA宇宙工学博士だそうです。


米沢藩の危機を救った救世主登場・・・上杉鷹山。
鷹山公が藩主の時、日本中が大飢饉(天明の大飢饉)・30万人の餓死者でした。
上杉家も財政破綻寸前・・・

第9代当主・鷹山は、飢饉のときの食べ物として城のお濠で大量の鯉を養殖。
お城には、鯉の供養碑も残っています。

さらに、鷹山が奨励したのが、一汁一菜。
ご飯・おかず・お味噌汁だそうです。

財政再建策に取り掛かった鷹山は・・・
米沢織・・・生糸の生産に力を入れます。
これは、大ヒット商品となり財政を救います。
自分たち、奥女中から始めた倹約でした。

kenn6.png

は、とっても有名です。

自分が率先してする・・・
藩の立て直しに一生をかけた人だったのです。

米沢の公立小中学校では、謙信と鷹山の肖像画が掛けられ、鷹山の功績を今に伝えています。
上杉鷹山は、米沢を救った救世主として今も人々に語り継がれています。

上杉鷹山?二百年前の行政改革?
上杉鷹山?二百年前の行政改革?

米沢は食べられる城下町???
武家屋敷・・・原方衆=下級武士の家は、城下の外にあります。
減封してやってきた際に、入りきらなかったのです。

そんな武士たちの任務は、藩境警備と荒れ地の開墾でした。
藩士半農の生活・・・
石高の少ない米沢藩の武士は、自給自足の生活を送っていました。

その為、下級武士の家のほとんどに畑がありました。
町全体に、柿・栗・胡桃の木を植え、屋敷の生け垣は、食べられる“ウコギ”の木にしました。
このウコギは、トゲがあるので侵入を防ぎ、新芽をてんぷらやお浸しとして食べるそうです。

町の至る所で食べられる食料を作り、飢饉に備えていました。
また、鷹山時代には“糧者”(かてもの・糧になるもの)として、82種類の山菜や果物の食べ方などのサバイバル本を無料で配布していました。
これは、戦争中に復刻版が出たそうで・・・今も、ヘルシーブームとして復刻されているそうです。

郷土料理は、柿の白和え、ウコギ、ひや汁・・・ひや汁は、一汁一菜から生まれた郷土料理だそうです。


義に生きる大切さを説き、武士の生き様を教えた謙信と、民を救い助け合う心を広げた上杉鷹山、米沢の城下町は、二人が残した逞しさと優しさがにじみ出た町でした。



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2012年12月18日

「ダーウィン 神に挑んだオタク」

化学者 チャールズ・ダーウィン・・・
今から150年前、まだすべての生命は神が作られたと信じられていた時代に、「進化論」を打ち出しました。
世界を新しい時代へと導いた人物です。
天才・偉大な化学者と称賛されるダーウィンです。
そして、そこにあったのは、オタクの力でした。

da.png

ダーウィンの母方の祖父は、高級陶磁器メーカー創業者のジョサイア・ウエッジウッドです。
父方の祖父は、有名な医者であり生物学者のエラズマス・ダーウィンです。
ダーウィンは、イギリス有数のお金持ちと学者の間に生まれた上流階級の出身です。
ジェントリーに位置したダーウィンは、上流階級で、時間とお金、自由に恵まれていました。

ダーウィンは、植物・昆虫・生き物・・・いろいろなものを研究していました。

自分の進化論を発表したのは、49歳の時です。
その大発見をどのようにして見出したのでしょうか???

@東京ドーム3個分の広大な屋敷。

イギリス南東部にある自然豊かなケント州。
ダウンハウスで、73歳で亡くなるまでの40年間、ここで規則正しい生活をしていました。
1日2回12時と16時に犬の散歩。雨が降ろうが時間厳守です。
広大な屋敷の中を散歩します。

そこでは・・・
ダーウィン専用の温室も。。。
植物をコレクションし、お気に入りは食虫植物でした。
世界各地からいろいろな、モノを収集していました。
植物と動物の間の不思議な生き物・・・。

自然環境に合わせてどのように雑草が育つのか・・・の研究もします。
これが、後に進化論になります。

親の財産で暮らせたので、人にも会わず、常に屋敷の中で・・・
引きこもりのようで・・・好きな研究だけをしていました。

お気に入りは“フジツボ”。
毎日フジツボ観察をします。
どうして???
それは、形が多様だからです。
フジツボは、エビやカニの仲間です。
ところが・・・成長すると、殻が張り付いたところから離れられなくなります。

その姿は、環境によって様々です。
世界中から集めたフジツボは・・・1万個に及びます。
そんな、オタク生活の集大成を発表したのが50歳の時・・・
「種の起源」です。

すべての生き物は、環境に合わせて形を変えていく・・・

誰も、考えの及ばなかった化学の真理です。

この「進化論」の何が衝撃的だったのか???
それは、人間が不変の存在ではないということです。
人間も特別な存在ではないと、言い切ってしまいました。

当時の社会から見れば、進化論は、考えてはいけないこと・・・
つまり、反社会的なものなのです。


A5年間の大航海
広大な屋敷での生活は30代からです。
1809年ダーウィンは、シュルーズベリーで生まれました。
小学校時代熱中していたのは、昆虫採集でした。
父は、医者か牧師にとケンブリッジ大学に入れましたが・・・
ダーウィンは、自然科学の教室に入り浸って、教授から“質問魔”と言われていました。

無邪気でわが道を行っていました。

大学を卒業した22歳・・・
世界一周をする船、海軍測量船・ビーグル号に乗る機会を得ました。
南米大陸の航海ルートの調査をします。
何年かかるかわからない・・・=名のある教授は乗せられない。。。
当時の大学を卒業するとき・・・グラウンドツアーという大規模な卒業旅行(=ヨーロッパに)を行く人もたくさんありました。

父を説得し、1000万以上のお金を払ってもらい参加します。
1831年出発し、南アメリカを一周。
ダーウィンは夢中です。

これといった仕事のないダーウィンは、5000点以上の標本を収集しました。
目につく珍しいものを片っ端から集めます。
最初の2年間は夢中で採集しましたが・・・
観察、推理するようになっていきます。

3年半たった1835年9月・・・運命の島、ガラパゴス諸島・・・。
此処には、大陸にはない生き物がたくさん住んでいました。

注目したのが、ゾウガメの甲羅。
ドーム型、鞍型・・・住む島によって違います。
観察するとドーム型は、下に生える草を食べる
鞍型は、首を伸ばしてサボテンを食べる・・・
どちらも、環境に適した形になっていました。


フィンチは・・・
全部で13種類、色や大きさも様々です。
くちばしの形は・・・
大きいくちばしは固い実を食べ、小さいくちばしは小さな虫を・・・
その中間のくちばし・・・
太いものから細いものまで・・・食べるものによって違うくちばしでした。

「互いに近い種類の鳥の間に。こうした体の構造上の違いが現れるということは、「同一の種類」から環境に合わせて異なる形になったのではないか・・・。

1836年イギリスに帰国した翌年・・・
仮設をたてました。
全ての生き物は、共通の祖先から枝分かれし・・・現在の姿になったのではないか???
と。

この大発見のひらめきは???
問題を解決しないと気が済まない・・・そんなオタク心が発見を呼んだのです。
素直で先入観のない柔軟さ、常識にとらわれない心がありました。
しかし、当時の世の中に逆走することになります。
B世界を動かした手紙

1839年29歳で結婚。幼馴染の従姉、エマ・ウエッジウッドでした。
しかし、結婚するかしないかで悩んでいましたが・・・
エマは・・・
「彼は、とても率直で隠し立てがなく、本当の事しか口にしない人です。
 愛情も人一倍。でも、ちょっとねえというところも・・・
 無頓着だとか、動物に優しすぎるとか・・・」
オタクっぽいところが少し不安だったようです。

そして、もう一つ悩んでいたのが・・・
進化論を発表するか否かです。

友人のジョセフ・フッカーに手紙を送っています。
「これは、殺人を告白するようなものです・・・」と。

当時のヨーロッパは、人々の生活はもとより、化学の世界にもキリスト教が大きな影響を与えていました。
全ての生き物は神が創った・・・それ以来、姿かたちは変わっていない・・・
特に人間は、神が自らに似せて作った特別な存在・・・

しかし、ダーウィンの考えは、他の動物と同じように枝分かれして進化した生き物なのです。サル・・・?
この考えは、神を侮辱し、人間を貶めるもの以外の何物でもありませんでした。

進化論を考えれば考えるほど不安になるダーウィン。。。
ダーウィン自身は、正しいと思っていましたが・・・人から拒絶されるかもしれないという恐怖。。。。

エマは、敬虔なクリスチャンでした。
神を冒涜するような夫の考え方に・・・
「愛しのチャールズへ
 神という一番大切な事柄について2人の間で考えの違いがあると思うと不安があります。
 今は、信仰に関する考えは、いろんな面で違っているかもしれません。
 でも将来、同じ方向に向いてともに進んでいくことは出来るのではないかと思っています。」
と、手紙に書いています。

結婚3年目・1842年の秋、ダウンハウスへ引っ越します。
めまいや嘔吐などの症状の出てきたダーウィンは、引きこもり始め・・・あの、規則正しい生活が始まりました。
夜8時に、妻と音楽やゲームをするのが楽しみとなりました。
10人の子供に恵まれて・・・
子供たちは、研究に勤しむ父が大好きだったようです。

引きこもっているダーウィンの屋敷を訪問するのは郵便局員・・・
1日に2度3度とやってきます。
ダーウィンが生涯で書いた手紙の数は、15000通以上。手紙オタクでもありました。
相手は世界各地・・・1000人以上です。

研究者以外にも、外交官、商人から標本や最新研究を手に入れていたのです。
面識のない人からも情報を得ていました。
しかし・・・「進化論」を明かしたのは数人・・・手紙では一人です。
世間の常識に反することを発表することは、周りのことを巻き込んでしまう・・・

「私は“進化論”を学会の会報や一般の雑誌に発表するのは嫌です。
 その編集者や出版に協力してくれる人たちが攻撃されるような事態を招きたくないからです。」
と、フッカー宛ての手紙に書いています。

発表することにない研究をすること20年以上・・・

1858年49歳のダーウィンに運命の手紙が・・・!!
差出人は、14歳年下の友人アルフレッド・ラッセル・ウォレス・・・
ラッセルが自分の論文の発表できる出版社を紹介してほしいということでしたが・・・

その論文を読んでびっくり!!
自分の考えとそっくりだったのです。

「私が以前に書いた論文の下書きを彼が読んでいたとしてもこれほど的確にまとめることは出来ないでしょう」

若い研究者が、進化論に届きつつある・・・
自分の進化論は日の目を見ない??? 

2か月後の1858年リンネ学会の学会誌に進化論の概論とウォレスの論文を共同論文として学会に発表します。
さらに翌年、1冊の本に・・・「種の起源」です。
初版本は、即日完売。衝撃が走ります。

イギリス生物学会の重鎮リチャード・オーウェンは、神が行った適切で絶え間ない作業の原則をこの本は無視している・・・と、痛烈に批判。

宗教界や、天地創造を信じる人から大バッシングを受けます。
自宅にも非難の手紙が・・・

助けの手を差し伸べたのは・・・友人たちでした。
トマス・ヘンリー・ハクスリー・・・彼は、オーウェンらに噛みつきます。
アメリカでも論争が・・・エイサ・グレイが立ち上がります。

彼らはダーウィンと手紙でつながっていた若い人たちでした。
あの手紙は、キャンペーン効果があったのです。
これは、進化論を受け入れてくれそうな人と、手紙で繋がろうとした結果でした。
若くて優秀な学者たちだったのです。

ダーウィンは「進化論」の衝撃に対して責任を取る・・・そんな気持ちがあったようです。
そして、ダーウィンは子供の頃の好奇心をずっと持ち続けている大人だったのです。

1882年チャールズ・ダーウィン永眠。享年73歳でした。


葬られたのは、イギリスでもっとも有名な寺院のひとつ・・・ウェストミンスター寺院。
神に背いたはずの進化論・・・その進化論が世界の真理と認められたのです。

ダーウィンの『種の起源』 [ ジャネット・ブラウン ]
ダーウィンの『種の起源』 [ ジャネット・ブラウン ]

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2012年12月17日

ミッドウェー海戦 敗北が語る日本の弱点

2012年6月に行われた式典・・・それは、ミッドウェー海戦の60周年というものでした。
アメリカ・ミッドウェー島・・・小さな島をめぐっての激しい戦いでした。

1942年6月4日日本軍は、島にあったアメリカ軍基地への攻撃を開始します。
真珠湾攻撃の成功によって、勢いに乗っていた日本軍・・・
ミッドウェー海戦では、4隻の主力空母を投入、勝利を確信していました。

負けるなんて疑ってもいませんでした。
アメリカの攻撃の前に、空母は次々と炎上・・・
わずか1日で、空母4隻沈没、戦死者3000人以上も出してしまいました。
大敗北を喫したのです。

なぜ、負けるはずのなかった戦いに敗れたのでしょうか?
そこには、日本が想定していなかったアメリカ軍の奇襲作戦がありました。

アメリカは徹底した情報戦略で、空母で待ち伏せしていました。
近年公開された文書で、作戦の全貌が暴かれていたことがわかりました。

日本軍の情報は???
日本は、敵の戦力を過小評価していました。

一体どんな戦いだったのでしょうか?
それは、日本の組織の悪いところが全部出てしまった戦いでした。

アメリカが、日本の敗戦を分析したところによると・・・
@国力判断の誤り
A情報軽視
B兵站軽視
C組織の不統一
をあげています。

このCが、アメリカから見ても明らかだったそうです。

日本軍は、作戦重視、情報軽視で突き進んでいきます。
作戦ありきで後付していく・・・
そんな情報でした。

1941年12月8日ハワイ真珠湾攻撃をもって、日米の火ぶたあが切って落とされました。
この戦いで、アメリカ太平洋艦隊の主力戦艦を多数撃沈し・・・
大戦果を挙げることになります。

以来、半年にわたり、海軍はラバウル・オーストラリア・セイロン島を強襲・・・快進撃を続けました。

その推進役が・・・
連合艦隊司令長官・山本五十六でした。
山本は当時、航空母艦をあえて主力にして戦いを決行。
空母は、飛行機の発着を目的とした飛行甲板を持つ大型戦艦、画期的な兵器でした。

一見、日本の大勝利に見えた真珠湾攻撃・・・
しかし、山本はこの時、敵の3隻の主力空母を取り逃がしていました。
いずれ日本の脅威になる・・・
そう思った山本が立案したのが、ミッドウェー島攻略でした。


広島県呉市、かつて帝国海軍の拠点となりました。
ミッドウェー海戦の1か月前、1942年5月1日、戦艦大和で、ミッドウェー作戦図上演習が行われました。およそ100人が集まりました。
それを統括したのが、山本五十六と参謀長・宇垣纏です。

山本五十六は、アメリカに留学経験があり、日米の圧倒的な国力の差を知っていました。
だからこそ、長期戦に勝ち目はないと、考えていました、
早期決戦を考えていたのです。

作戦実施日は、1942年6月上旬とさだめました。

作戦計画では・・・
日本の空母は、赤城・加賀・蒼龍・飛龍。
@空母の飛行部隊がミッドウェー基地を空襲
A攻略部隊が上陸・占領
Bハワイからアメリカ空母を誘い出し撃滅させる
というものでした。

図上演習では・・・
サイコロを振って演習を行うのですが・・・

その出た目は。。。
アメリカ空母が逆襲・・・
空母は2隻沈没・1隻大破というさんさんたるものでした・・・。

参謀長の宇垣は・・・
「今のアメリカの命中弾は、1/3の3発とする。
 加賀沈没、赤城小破とせよ」
と、変更させました。

しかし・・・異議を唱える者はいません。
図上演習は、そのまま進み・・・日本の勝利で終わりました。
作戦を見直す時間のない中で、日本の勝利は変更できなかったそうです。

この作戦で勝つ・・・とならなければ、海戦後に上陸する輸送部隊、上陸部隊の演習が全部ストップしてしまう・・・。

実際に、敵空母が現れたらどう戦うのか???
本来、問題点を考えるための図上演習であるのに、作戦の練り直しは行われませんでした。
これがのちに、致命的な問題となることは、誰も知る由はありませんでした。

このミッドウェー作戦は、これから続くハワイ攻略の前哨戦・・・
止めてしまうことは出来なかったのです。

真珠湾の時も、この図上演習は行われています。
空母4隻で壊滅させられたので、2回目の図上演習を空母6隻で行っています。
時間があれば、作戦の見直しが出来たであろうに・・・

幕僚は延長した方が良いのでは???
でも、山本が首を縦にふらなかったのです。
アメリカが対日戦の前面に出てくる前に・・・
短期決戦をしたかったのでしょう。
山本は、戦果を見せつけないと、国民の心は離れてしまう・・・そう、思っていたようです。
国民の士気に対する平板な思い、固い考えがあったのです。

快進撃の絶頂期にあったミッドウェー海戦。そんな中、戦いの質が変わってきました。
軍艦による戦いと、空母による戦いの違いです。
軍艦はお互いが見えますが、空母は全く見えません。
つまり、情報戦へと変化していったのです。

日本が戦いに急ぐ中、アメリカ軍はどう動いていたのでしょう?
上官は、日本海軍の作戦内容について詳しく知っていました。
日本艦隊は162隻、4つの異なる進撃ルート・・・
司令官山本率いる戦艦大和の部隊、加賀・赤城・蒼龍・飛龍4隻の空母による奇襲攻撃だと・・・

どうして、筒抜けになっていたのでしょう??

ミッドウェー海戦の半年前、ハワイ真珠湾で日本に屈辱の敗北を喫したアメリカ・・・
責任を問われた太平洋艦隊司令長官・ハズバンド・キンメルは・・・更迭され、信任はチェスター・ミニッツでした。

真珠湾の過ちを繰り返さない・・・
ミニッツが最も大事にしたのが情報でした。
日本軍の暗号の解読に成功します。
太平洋艦隊司令部・暗号解読反では150人近い要員が、真珠湾攻撃の雪辱を晴らそうと・・・
24時間体制で解読に当たっていました。

日本側の動向を監視するミニッツ。
アメリカ国立公文書館には・・・決定的な文書が残っていました。

1942年5月13日、航空機運搬艦 五州丸の暗号解読電文です。
「基地設備と兵員を乗せAFに進出せよ」
とあります。
日本の攻撃目標をAFと特定したのです。
地点符号AF・・・それは、ミッドウェー島かさらに南のジョンストン島・・・と割り出します。
そこで・・・アメリカ軍はミッドウェーからハワイに平電文を出します。

「ミッドウェー島は真水が不足している」と。

偽の情報を傍受した日本軍は、本国に打電します。

「AFは真水が不足している」

日本軍の攻撃先が、ミッドウェーとバレた瞬間でした。


さらにミニッツは、日本軍の攻撃日を6月4日と断定。
戦いの準備を始めました。
ミッドウェーに爆撃機、戦闘機を増援、防衛も強化しました。
南太平洋にいた主力空母3隻をハワイに呼び戻します。
空母ヨークタウンは、90日の修理を不眠不休の72時間で突貫工事します。

そして、日本軍のミッドウェーに至る進撃ルートも解析します。
日本の侵攻作戦に対し、奇襲作戦に打って出ます。
空母3隻で待ち伏せします。
暗号解読班の予測通りに日本軍がやってきました。

アメリカ軍は、情報を武器にしたのです。

日本の情報を完全に把握していたアメリカ・・・
それは、ミッドウェーで初めて解読されたわけではなく・・・
1942年5月にあった南太平洋「珊瑚海」で行われた日本対連合国の海戦で、日本の動きは察知していました。
しかし、日本軍は、それにさえ気付いていなかったようです。

日本軍の防諜については、やっているものの・・・
アメリカほど諜報を重んじていなかったのです。

アメリカに情報が漏れているかもしれない・・・
というのは、誰かが秘密を漏らしている、と、考えたようです。

例えば、代表的なのがゾルゲ事件。

日本海軍は、諜報活動は泥棒行為である・・・とすら思っていたようです。
正々堂々、作戦で打ち破る!!それが日本海軍の考え方でした。
そして、日本語の暗号が読まれるわけはないという根拠のない自信がありました。


アメリカの暗号と日本の暗号、難易度は???
日本海軍の暗号は、難易度は高かったようですが、アメリカが人海戦術を持って解読に成功したのです。
このアメリカと日本の情報に対する重きの違い・・・
それは、日本が情報を軽視しすぎる傾向があるのです。


1942年5月27日赤城・加賀・蒼龍・飛龍の機動部隊が出撃します。
空母機動部隊司令長官は南雲忠一でした。
そこに、山本率いる戦艦大和も続きます。

暗号が解読されているとも知らずに・・・

現地時間6月4日午前4時30分、空母部隊が到着すると・・・索敵を開始しました。
通常2回行われる索敵・・・ミッドウェー海戦時は1回のみでした。
その網も荒いものでした。おまけに、雲の上を飛ぶ者さえありました。
その雲の下に、敵艦隊が忍び寄っていたのです。3隻の敵戦艦があったのに・・・

午前6時30分ミッドウェー島空襲開始。
108機が空襲を開始します。
しかし・・・待ち受けていたのは、アメリカ軍の激しい反撃でした。
30分後、南雲司令部に報告が入ります。

「第2次攻撃の要あり」

この時、空母上には、攻撃機の約半数が待機、敵空母との戦いに備えていました。
魚雷・艦船用爆弾も装備しています。
しかし・・・第2次攻撃に見交わせるためには、対空母用の魚雷を陸上用爆弾へと変えなければなりませんでした。
作業に90分はかかるのです。

敵の空母に備えるのか?
ミッドウェー島の陸上攻撃を優先させるのか???

判断は・・・
「第2次攻撃隊の兵装を陸上用爆弾とせよ!!」
でした。

敵空母はいないだろうという判断でした。
急な作戦変更・・・
そこに危機が・・・

ミッドウェー島から攻撃隊が・・・次々と到達してきました。
迎撃したのは、当時世界最強と詠われた零戦でした。
攻撃は最大の防御とばりに攻撃をはね返します。

午前8時20分・・・
「敵は後方に母艦を伴う」との情報が入ってきました。
アメリカの航空母艦を発見したのです。


敵を探索すること・・・当時、空母にも偵察機すら乗せていませんでした。
偵察を軽んじていたこともうかがえます。
攻撃重視の日本海軍・・・

東条英機は、そもそもイギリスと戦争しようと思っていました。
アメリカが来るとは思っていなかったので・・・
アメリカと日本の関係は、抽象的だったとも言えるでしょう。

敵戦艦に驚愕する南雲中将。。。

急きょ空母との戦いを強いられます。
@陸上用爆撃機のまま直ちに出撃する
陸上用爆弾には、空母破壊の威力はありません。
でも、飛行甲板を破壊することで、航空機の発着を不能に出来ます。

A万全の態勢で攻撃に臨む。
時間をかけて、魚雷に付け替える・・・
これなら敵空母に致命傷を負わせることが出来ます。

南雲の決断は・・・
「雷装に転換せよ」
でした。

艦内は再び大混乱・・・
再び兵装転換作業に入ります。

零戦は、敵戦闘機と戦っており、空母上はがら空き状態・・・
そこに、新たな敵が・・・急降下爆撃機・ドーントレスです。

その時、甲板には、満タンに燃料を積んだ爆撃機と、魚雷、爆弾が所狭しと置かれていました。
あっという間の出来事でした。
わずか10分の間に、赤城・加賀・蒼龍の3隻が被弾、炎上しました。
最後に残った飛龍は、反撃を開始します。
必死の攻防の末、ヨークタウン大破。
しかし、反撃もそこまで・・・飛龍も敵の攻撃を受け炎上。
6月5日午前2時55分、全軍退去命令が出ました。

地獄のような有様でした。

日本は、1日で4隻の主力空母、約300機の航空機、3000人以上の将兵を失うことになりました。
日本海軍必勝の戦いだったミッドウェー海戦は、一方的な大敗北に終わったのです。


どうして、ずぶの素人の南雲中将が指揮したのか???
それは、年次と学校の成績です。
おまけに、空母戦は、1か月前が初めてという世界で初めての戦い方だったのです。
ドイツやイギリスなどではありえない戦い方です。

そこを考えると、南雲だけを責めるのは酷・・・
全ての人が、未知の戦いだったのです。
空母同士の戦いの勝敗は、10か0・・・五分五分のない戦いなのです。


兵装転換の理由は???
陸上用爆弾が空母に有効かどうかがわからない・・・
零戦の護衛なしでの行くのは危険・・・
この葛藤から、兵装転換を行ったようです。


「陸」の組織での情報収集は・・・
南満州鉄道による「陸」の情報収集があり、約40万人の社員を動員して満州国や中国の情報を・・・官と民の情報を上手く使っていました。

しかし、「海」の作戦での情報収集は、全く違うものでした。

敗北から3日後の1942年6月10日海軍情報部のラジオ放送では・・・
それは、ミッドウェー海戦の華々しい戦果でした。

「6月5日 
 敵アメリカの前進根拠地であるミッドウェーを急襲し、
 敵の航空母艦群を誘き出し、これと猛烈な格闘戦を演じ、
 ホーネット型航空母艦一隻を大破し、
 エンタープライズ型航空母艦1隻を撃沈いたしたのであります。」

あたかも日本が勝利したかのような報道でした。
軍令部により、国民には徹底的に隠ぺいされました。

それは、天皇にも・・・
1942年7月14日に、天皇に上奏された海軍の艦隊編成表には・・・
沈没したはずの赤城・飛龍が載っています。

ミッドウェーで戦った将兵たちもあおりを受けます。
外出禁止、内地に帰ってきても、一般の人びと、家族との接触すら禁じられました。

では、ミッドウェー海戦の責任者たちの処遇は???
沈没する空母から一命を取り留めた南雲忠一中将は・・・
後方にいた戦艦大和の山本五十六に敗戦の報告をします。
「大失策を演じ、おめおめ生きて帰れる身ではなかったのですが
 ただ復讐の一念に駆られ生還してきました。
 どうか、復讐できるよう取り計らって頂きたい」

「承知した」

この二人の責任が追及されることはありませんでした。


日本の海軍は、責任者を出しません。
どうして???
日本海軍の指揮官は、ほぼ全員海軍兵学校の卒業生です。
きわめて人数が少なく仲がいい。
日本海軍伝統の責任に対する処置と言えるでしょう。

その後南雲は、第3艦隊の司令長官など歴任し、1944年7月サイパンで戦死。

日本海軍の不敗神話が崩れ、大敗北を喫したミッドウェー・・・
以後、アメリカとの戦いで、日本が優位に立つことはありませんでした。
この敗北を知られると、勝てない戦争の意味が解らなくなってしまう。。。

ミッドウェー海戦について、陸軍は的確な評価をしています。
戦争の規模について再考しなければならない時期であると・・・。
でも、それは、“致し方ない”
ということで、国民の精神によって乗り切ろう・・・となったのです。

日本は、総括をしない国・・・総括すれば、責任が明確になってしまいます。

この体質は・・・今も変わらない???

このミッドウェーから何を学べるのでしょう???
それは、議会、政治家の役割、あり方です。
1937年以降、特別会計予算の7割だった空母予算。
日本人らしい自己満足的な作戦・・・
隠さないで総括すること、それが必要です。

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幻の終戦 もしミッドウェー海戦で戦争をやめていたら (中公文庫 ほ 1 3)
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posted by ちゃーちゃん at 17:18| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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