2012年12月25日

第49回 「双六が終わるとき」

第49回 「双六が終わるとき」

「天は、平家を見放したのじゃ・・・」

清盛の五男・重衡が南都を焼き打ちにしたことにより、天下の人心はもはや平家からまったく離れていっていました。僧たちも暴れています。。。

各地で謀反が相次ぎ・・・次第に四面楚歌となっていく平家。

さらに不幸なことに、ああ、病床にふしていた高倉上皇が悪化の一途をたどり・・・世を去ってしまいました。
なんと、本当に、影の薄い上皇様でした。。。
徳子のことを案じています。
あの父と、あの父が居なければ・・・しあわせな二人だったでしょうに・・・失恋

高倉上皇は最期まで后である徳子の行く末を案じながら、21歳の若さでの崩御でした。

高倉上皇の崩御は・・・

どど〜んと!!

上皇の父・後白河法皇の院政が、約1年半ぶりに復活することを意味していました。
ホント、後白河法皇、悲しんでいるのでしょうかexclamation&question

鳥羽離宮での幽閉を解かれ、久方ぶりに清盛と対面した後白河法皇・・・

「清盛、久かたぶりじゃな。」

「高倉の上皇様の身罷られました事、心よりお悔やみ申し上げます。」


「1年余りの幽閉暮らし・・・まずまず楽しくもあった。
 心残りは新しき都とやらをしかと見られなんだ事じゃ。

清盛に対する挑戦的な目・・・

「東国武士がまず謀反。
 諸国がそれに従い寺々の僧兵も不穏。
 その上、朝廷の内は麻の如くに乱れ、何とも絵に描いたような四面楚歌ではないか。

 かような事になるなら政変など起こすのではなかった。
 ・・・と、思うておろう?
 思うておろう!?」

相変わらず、清盛をいたぶっております。るんるん

「困った事があれば何でも申せ。
 何しろ、わしは頂に立つ者。

 いかなる事でもしてやれるでな。」

清盛がおこしたクーデター、「治承三年の政変」、この四面楚歌の状態、も自分のシナリオどおりだったことをにおわせ、清盛をがく然とさせます。

平家一門も、法皇は幽閉されながら世を操っておられたのだとぞっとするのでした。

って・・・神仏も信じない男が、この賽と後白河を信じるの???

清盛は、高倉上皇をなくしたばかりの娘・徳子のもとへ時子を行かせ、法皇の後宮に入るよう説得させます。
しかし、徳子はかたくなに拒否。

それでもあきらめず、「また別の手を打つ」という清盛を・・・

「もう良いではござりませぬか。

 あの「光らない君」がここまで上られたのです。
 これ以上の高望みはなされますな。

 気楽に参りましょう。」

49.png

そうでした。
光らない君でしたね。清盛。
で・・・思い出すのは「野〇そ」のシーンなんですね・・・あせあせ(飛び散る汗)
まあ、あの時は、竹中直人・秀吉と同じくらい汚いって、思っちゃいました。たらーっ(汗)
今は、衣装すら金綺羅金です黒ハート

499.jpg

一方、鎌倉の頼朝のもとには、梶原景時。梶原景時・・・頼朝の腹心となる男です。
続々と武士たちが集まってきましたね黒ハート

頼朝は彼らを”御家人”と呼び、新たな「武士の世」の政治体制を作り始めていました。
新しき体制の基礎が出来上がってきましたね。黒ハート

そう、あの生白きお方がexclamation×2

天下を治める才が!!溢れんばかりですが、そんなに人徳あったっけ???頼朝って黒ハート


京の上西門院統子の館では高倉上皇をしのぶ歌会が催されていました。
その歌会には西行の姿もありました。って、世捨て人になったのではないのね・・・
そこかしこに出てきてるじゃん!!

西行は戦乱で多数の人が亡くなったことを詠み、それこそが高倉上皇の心労のもとであったことを嘆きます。

そして歌会の後、かつて待賢門院に仕えていた堀河局と、久方ぶりに再会しました。
って、堀川局って・・・忘れていましたよ。。。
でも、この二人って、出てくる必要ってアリ???
長い年月を表現しているのでしょか???

で・・・ここにも登場。
ある日、西行は清盛をたずね、鎌倉での頼朝の町づくりを語りました。
頼朝は源氏の守り神である鶴岡八幡宮の参道沿いを中心に、次々と住いや道が整えられ、そこに御家人たちを住まわせ、新しい仕組みのもと統率していました。

若い頃の自分と重ねている清盛・・・
清盛は、貴族の世が終わりを告げ、武士が覇を争う世が到来したことを実感します。

夜更けに来れるの??って感じですが・・・
ある決意をもとに後白河法皇をたずね、双六の勝負を申し込みました。
なんと、またもや双六。昔っから博打の好きな二人ですね〜〜〜るんるん


負けた者が勝った者の願いを聞き届けるという約束ごとで。双六をしながら二人はこれまでのお互いを振り返ります。

初めての双六・・・

「あの日分かりましてござります。
 あなた様は私に上って来いと仰せになっていると。
 ご自分と互角に渡り合えるところまで上ってきてみよと!!」


若き日から二人はまさに双六のようにお互いが賽をふりながら数々の勝負を続けてきました。


そして今宵の一戦で勝ちをおさめ清盛は、勝者として望みを語りました。

「・・・…して、何が望みじゃ?」

「法皇様と平清盛の双六。
 本日をもって最後として頂きとうござります。

 我ら武士は王家の犬と呼ばれ生きてまいりました。
 保元の戦も平治の戦も王家朝廷の命により武士同士が戦わされてまいりました。

 されど、もはや平安の世は終わりを告げようとしておりまする。
 これより先は武士同士が覇を争う世となりましょう。

 武士は、もはや…王家の犬ではござりませぬ。。。!!」


 
「さようか。

 ・・・もう、さようなところまで辿り着いておったか。。。」

なんだか、寂しそうな後白河上皇です・・・失恋

それは後白河法皇との双六勝負はこれで最後だということを意味していました。

「これより先は、すでに朝廷に力はなく、武士同士が覇権を争う世である。
 武士はもう王家の犬ではない・・・」

と告げると、後白河法皇は寂しげな表情で現実をうけとめたのでした。

で・・・二人の戦いは終わり???
う〜ん・・・前から思っていましたが、天皇や公家は戦わないから今一つ争いが解りませんよね。あせあせ(飛び散る汗)
あ・・・だから、双六にしたのか・・・?
でも、もう一山あっても良かったんじゃないかしら?

その後、清盛は頼朝への闘志を燃やし、源氏討伐の準備を整えていきます。
が・・・そんな時、清盛は突然の熱病に倒れ・・・危篤状態に陥ります。
いよいよ、最期のようです。

そう、重盛が生きていればなあ・・・あせあせ(飛び散る汗)
でも、清盛は、平家の滅んでいく姿を見なくて良かったのかも・・・???

同じ頃、伊勢にある西行の庵にある男が訪ねてきていました。
それは清盛の生霊でした。

いや・・・平家が滅んでいくのを、来週も観るのかも???揺れるハート

ああ・・・なんだかんだと、1年が終わってしまいます。
いろいろ言われましたが、私は近年になく楽しく見ました。
最終回も楽しみにしています。黒ハート

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posted by ちゃーちゃん at 14:17| Comment(0) | 平清盛 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月24日

「長浜の城下町」

戦国一の出世頭、豊臣秀吉が天下取りへと第一歩を踏み出した城下町です。

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滋賀県長浜市、人口12万4054人、面積680.79㎢、特産は湖魚・鴨料理・ひょうたん。北近江を中心として北国街道や琵琶湖水運の要所として栄えてきました。
天下人・豊臣秀吉が最初に手掛けた城下町です。
小谷城の戦いで浅井長政を滅ぼした織田信長が、武功を挙げた秀吉に浅井の領地・北近江を与えたものです。

今浜と呼ばれていた町を、主君の名を取って長浜と改称。初めて城持ち大名となった秀吉は、稀代の戦略家・人心掌握の天才としてのし上がっていきます。


豊公園には・・・長浜の人の心のよりどころ、豊臣秀吉公が・・・

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尾張の貧しい農家に生まれ、足軽から天下人へ立身出世をした豊臣秀吉。
木下藤吉郎として信長の草履取りから始まった物語は、この長浜で大きな転機を迎えます。

長浜で初めて一国一城の主となった藤吉郎は、羽柴秀吉と改名。
長浜こそ、秀吉の原点となります。
この地を拠点に、主君・信長がなしえなかった天下統一を果たすのです。


長浜の城下町は、碁盤目状になっています。
もともと北近江は、浅井家が治めていた土地です。
信長の妹・お市をもらった浅井長政は、信長に反抗し・・・浅井家は滅亡。
この戦いで先陣を務め一番の手柄を挙げた秀吉に、北近江を与えたのです。

長浜を手に入れた秀吉は、山側にあった小谷城を配乗し、琵琶湖を望む長浜城を築城しました。
湖、港、北国街道・・・群雄割拠の時代に、経済の重要性を考え、生産性のある町を・・・と、考えて作られたのが、長浜城です。

近代城下町の元祖となり、以後の城下町に影響を及ぼしました。


三百石朱印地・・・済特区を作ります。
年貢を免除することで、1人でも多くの人に住んでもらうために・・・
商人に来てもらうために・・・
長浜の52の町のうち35町は、朱印状によって年貢免除の特別地域とされました。
時代を先取りです。
何にもなかった長浜は、城下町として賑わいます。
そして秀吉は、商業の活性化を図るため、琵琶湖から水路を城下町に張り巡らせました。


豊国神社・・・
秀吉の3回忌に当たる慶長5年(1600年)に、長浜町民たちによって作られました。
大坂へと移ってしまった秀吉ですが、その秀吉を変わらず想っていたようです。
でも・・・どうして恵比寿様が???

隠された秀吉・・・

豊国神社が建てられた1600年は、関ヶ原の戦いの年。

東軍の総大将徳川家康は、西軍の石田光成を撃破!!
天下は豊臣から徳川に移ってしまいました。
しかし、豊臣家を慕う武士や町民は絶えることなく・・・徳川幕府は、豊臣を徹底的に排除しようとします。
だから・・・豊国神社も廃社・・・。それは、明治時代になるまで続きました。
なので、隠れキリシタンのように・・・隠れ秀吉。。。が、たくさんいるそうです。

千成瓢箪が大好きだった秀吉、瓢箪の馬印を立てて戦場を駆け回ったと言います。
戦に勝つために、瓢箪を増やしていった秀吉、千成瓢箪は秀吉のシンボルとなり、今も長浜の町にたくさんあります。

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毎年4月に行われる長浜曳山祭りは豪華絢爛なお祭りで、京都の祇園祭、岐阜の高山祭と並ぶ日本三大山車祭りの一つです。
曳山の上では、子供歌舞伎が行われます。

この豪華なお祭りは、民の秀吉お想う気持ちから始まりました。
秀吉は、長浜時代に石松丸(秀勝)という子供がいました。この産まれたお祝いに民に砂金を与え、民はそのお礼に豪華絢爛なお祭りを催したのだそうです。
その規模は、年々盛大となり、今では日本を代表するお祭りとなりました。
子供歌舞伎は、6歳で亡くなった石松丸のために行われたといういいつたえもあります。

下船町・・・秀吉は琵琶湖水運に必要な船乗りたちを居住させました。
現在は、船の廃材を利用した船板塀が残されています。

観音護国寺、長浜城主になったばかりの秀吉と、それを支えることとなる石田三成の出会いの場所だと言われています。

豊臣政権の五奉行となり、行政や外交を担当することになる三成は、このお寺に預けられていました。つまり、この場所は、三献の茶の舞台となった場所です。

真夏に行われた秀吉の鷹狩り。
休憩のためにこの寺を訪れます。
この時に茶を出したのが光成です。
一杯目は大きな茶碗にぬるめのお茶を・・・
二杯目はやや熱め・・・三杯目は熱めのお茶を出しました。

この気遣いが秀吉の心を掴みます。
住職を諭して光成を連れていきます。
そして、長浜で同じような子供たちを育てます。秀吉塾です。
その中には、加藤清正、福島正則などもいました。

召し抱えた子供たちを、わが子のように育てる秀吉。
家来もいないので、この子たちを伸ばそうと・・・才能を見出す力は天下一品です。
この子たちが、賤ヶ岳の戦いで活躍する賤ヶ岳の七本槍です。加藤清正・加藤嘉明・片桐且元・脇坂安治・平野長泰・糟谷武則・福島正則・・・
聡明だった光成には、政治・経済を教え、知の武将へと育っていきました。

愛を持って才を育てる・・・そして、秀吉は天下統一へと突き進んでいったのです。



魚屋さんには鴨が並んでいます。
鴨は魚???

琵琶湖の猟師さんはお魚を取っていましたが、その時に、同じように網に鴨がかかったのだそうです。昭和40年ごろまで続いていました。
秀吉も、大坂に行っても鴨肉を奨励していたそうです。

おねが作った長浜名物・・・それは、のっぺいうどんです。
のっぺりしているからのっぺいうどんだそうで・・・。
とろみのあるおだしに鴨が入っているうどんです。
秀吉が初めて長浜で城を持った当時に作っていたと言われています。
みなに振る舞っていたようです。

豊臣秀吉が、天下取りの第一歩を踏み出した城下町・・・長浜。
民を大切にした秀吉・・・
その思いに今も応えている城下町でした。

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posted by ちゃーちゃん at 07:59| Comment(0) | 城下町へ行こう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月20日

「妻よ!子よ!家族をめぐる忠臣蔵〜大石内蔵助・究極の選択〜」

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元禄15年12月14日47人の侍が吉良上野介の屋敷に・・・元禄赤穂事件です。
いわゆる忠臣蔵は、主君の汚名を雪ぐ忠義の物語として、たくさんの日本人に愛されてきました。

討ち入った浪士たちは、切腹して果てました。それだけにとどまらず、家族は厳しい現実に晒されます。
主君のために家族を犠牲にした浪士たち・・・彼らは討ち入る寸前まで葛藤していました。討ち入り直前の手紙には・・・家族を思う痛切な思いがありました。

木村岡右衛門
「娘は、堅実な家に養子にやってください。
 あなた(妻)は、私の49日が終わったら早々に再婚してください。」

討ち入りか家族か・・・
萱野三平
「忠義と孝行の間でどうしていいのかわからなくなりました。
 悩んだ末に自殺します。」

兵庫県赤穂市・・・ここには47士に関する史跡が・・・
大石神社・・・ここには、47士を今に伝える木像が残っています。
神社には、浪士たちが討ち入り前に家族に残した手紙が残っていました。

大高源吾・・・年老いた母への手紙が。
「今更申し上げるべきこともございませんが、これが最後の手紙です。
 本当に本当に、先立ちます不孝の罪は 後生も恐ろしく存じますが、
 私事で捨てる命ではございませんので、
 深くお嘆きにならずに、私のために御念仏を唱えていただくよう頼みます。」

神崎与五郎・・・母親の面倒を妻に頼みます。
「侍の妻たるものが、夫の事ばかりを考えて嘆くというようなことは良くないので
 よくよく気をしっかりと持って 心を取り直してください。
 私もあなたのことが恋しいけれど これは人間としの務めなのです。」

浪士たちが残した手紙には、忠義ではない家族への思いが綴られていました。
生活者としての武士の有り方はどうだったのでしょうか?

1600年から1700年の時代・・・元禄期は核家族の時代でした。
ただし、武家の家は、百姓や町人とは違い、自分の代で粗相をすると潰されてしまう・・・住む家もなくなり、家族が路頭に迷ってしまう・・・そんな時代でした。

家族の単位は小さくなっても、世間の目は気にしなければならない・・・そんな時代でした。

大石内蔵助には、モーレツ家老とマイホームパパ・・・2つの顔がありました。
5万石の赤穂藩、内蔵助は藩主浅野内匠頭に続く筆頭家老でした。
およそ1900坪の広大な屋敷で、妻・子どもたちと幸せな暮らしをしていました。

そんな大石家の幸せな生活が一変します。
元禄14年3月14日。。。
主君・浅野内匠頭が殿中で・・・刃傷事件を起こしてしまいます。
内匠守は、即日切腹、浅野家はお取り潰し・・・1か月後の城の明け渡し・・・

つまり、藩主の不祥事で赤穂藩は倒産、家臣全員失業、家族もろとも路頭に迷うことになったのです。

内蔵助の選択の日々・・・

内蔵助の決断は、“城の明け渡し”でした。

@江戸藩邸の明け渡し
 上屋敷&二つの下屋敷を1週間ぐらいで。
A国元で藩札の回収
B残務整理(引き継ぎ書類の作成)
C家臣全員城下町から退去


「大学様の面目もある
 謹慎が解かれ、人前が成り立つよう
 上野介に何らかの処罰がなければこのままでは置かない。
 今回のことは、内蔵助に任せてほしい・・・」

まず、内蔵助が優先したのは、幕府に働きかけ浅野大学を浅野家の新たな主君とし、お家を再興することでした。
これが実現すれば、家臣たちはそっくり再就職できます。

元禄14年4月19日、素直に赤穂城を明け渡します。

その後謎の行動に・・・???

内蔵助が藩士との間に交わした御神文には・・・
「このたびの相談の御主意を間違いなく申し合わせ
 本意を達すること
 一儀については他人はもちろん
 親子 兄弟 妻子であっても決して伝えないこと
 これに反したものは、日の本国中の神仏の罰を受ける」

抽象的な言葉が並んでいますが・・・
この曖昧な言葉に、政治的意味がありました。

藩士300余名のうち、これに署名したのは120名ほど・・・
残りの藩士たちは、身寄りを頼ったり内蔵助と袂をわかったのです。

元禄14年3月21日
内蔵助は、親戚に宛てた手紙に住居探しを頼んでいます。
「山科・・・山崎あたりで山裾の良い場所がないでしょうか・・・
 14、5人が出入りすることになるでしょう。
 伏見、大津あたりでも結構・・・」

それは、作戦基地???
それとも、終の棲家???


てんやわんやの中、財政や経済担当の家老・大野九郎兵衛がいなくなってしまいました。すべてのことを一人で指揮をしなければならない内蔵助。。。

江戸詰の藩士だった堀部安兵衛・高田郡兵衛・奥田孫太夫から、今すぐ吉良邸へ討ち入るべきだと手紙が来ます。
「江戸に住む自分たちにとって、上野介を眼前にしているのは不快である
 一日も早く鬱憤を晴らしたい念願だけを抱いている」

おまけに、江戸では討ち入りを望む声が・・・
「江戸の大名 小名 旗本の間でも、浅野家は由緒ある家柄であり、義を立てる武士がいないはずはないから、主人の敵を見逃すことがないだろうと江戸中で評判である。」

元禄14年11月江戸会議。
内蔵助は、江戸に赴き、浪士たちと会談します。
“浅野内匠頭の一周忌まで行動を起こさないこと”を約束させますが・・・

1か月後幕府の裁定が・・・
吉良上野介の隠居、義周の跡目相続を許しました。
吉良におとがめなし・・・これによって、けんか両成敗という内蔵助の希望が打ち砕かれました。
隠居をする=家に対する処分はなされない・・・ということになってしまいました。

この頃から、脱名者が出てきます。
高田郡兵衛はオジにばれ泣く泣く脱盟、
萱野三平は父親に再就職を勧められ断りますが・・・理由は父にも秘密、遺書を残して切腹します。
「神文を交わし、親子の間柄でも口外しないと誓ったため、忠義と孝行の間でどうしていいのかわからなくなりました。悩んだ末に自殺します。」

悲劇の脱名者が出る中、説得する内蔵助。
浅野家の再興の望みが消えない限り、討ち入りは思いとどまるように・・・と。

本当に再興の余地があったのか???
この時代までに50の大名がお取り潰しになっている現状を踏まえると、なかなか難しかったようです。

ooi.png

では、内蔵助の討ち入りへの決断と家族との別れはどうだったのでしょうか?

元禄14年12月15日長男・松之丞元服。
の誕生です。

ここに、大きなメッセージが・・・。
仇討への参加、江戸に対するアピールの意味があったようです。

4月15日、妻・理玖と長女・くうを実家に帰しました。
この時、おなかの子の出産準備の帰京とされました。
6月次男・吉千代出家。
7月5日三男・大三郎出産。
わが子の顔を見ることは永久にありませんでした。


また・・・この頃、討ち入りに参加する人も出てきました。
原惣右衛門
「群れを離れ、少人数で討ち入りたいと思っています。
 内蔵助をはじめとする上方衆を排除して討ち入れば、大学様への処分もないでしょう。
 同志を募れば14、5人は集まるでしょう。」

内蔵助抜きで???

ところが・・・7月18日。
浅野大学が、広島の浅野本家のお預かりとなってしまいました。
お家の再興の望みは絶たれてしまいました。

7月28日円山会議
ついに内蔵助は討ち入りを表明します。
そうなると、脱名者相次ぎます。
どういう層が離脱するか・・・
それは、お家再興を望んでいる上層の人たち・・・再仕官したいと思っている人たちなのです。
自分の家の断絶との間で悩みます。

閏8月、進藤源四郎、小山源五左衛門、大石孫四郎他、11名が脱盟。
その後も、9月8名、10月2名、11月6名・・・

内蔵助は・・・
「小野寺十内殿の御一家は、大勢 今回の討ち入りに参加され、その志は後代までの名誉になると羨ましく思います。
大石一家は大腰抜けで我々父子のほかに大石の名字を持つ参加者は大石瀬左衛門一人、面目ないことであります。
 家来の瀬尾孫左衛門も去る3日に立ち退きました。
身分の軽いものなので、そのような家来までが討ち入りに参加すれば私の名誉にもなると喜んでいたのに不届至極です。

内蔵助は、なるべくたくさんの人で参加したいと思っていたようです。
急進派が少人数ですれば犯罪だが、大人数で市民が注目する中で首を撮れば、裁きになるかも???という新しい状況を(お家再興???)望んでいたのです。

10月1日内蔵助は・・・妻の父に“離縁状”を・・・。
当時、事件を起こすと家族連帯、一族連帯の責任を負わされます。
家族を守るための離縁だったようです。

もうやれることはすべてやった・・・
そして、運命の日。。。

江戸城の刃傷事件から1年10か月・・・
47士・・・
のうち19名は、4つのファミリーに属していました。
大石グループ・奥田グループ・小野寺グループ・吉田グループです。
実に、26名が家族や親族で参加していました。

さらに家族たちの名誉を守るために、内蔵助は討ち入りの正当性を主張します。
脱名者を誹謗中傷することで正当性を導き出そうとしています。
そして、“浅野家家来口上書”では・・・討ち入りを克明に記録していました。

「上野介を討ちとめることが出来なかった内匠頭の心底を考えると、家臣には忍び難いものがある。
 不倶戴天の敵を討つために吉良邸に討ち入る。」
内蔵助にとって討ち入りを正当化することは、吉良の首を取ることと同じぐらいに重要なことでした。

残った人たちの名誉を獲得する・・・
討ち入った人たちの家族たちが再生活できる環境を整えていく・・・ことが必要でした。

元禄15年12月14日。
300余名だった赤穂藩士・・・討ち入りに参加したのは47士。
内蔵助は、浪士たちを引き連れて吉良の屋敷に・・・。

2時間余りの激闘の末、吉良の首を取りました。
主君の仇討を果たしたのです。

討ち入りから2カ月足らず・・・裁きが下ります。
元禄16年2月4日内蔵助ら46名が切腹・・・
罪人としてではなく、武士としての切腹でした。

泉岳寺に仲間たちと埋葬された内蔵助・・・
享年45歳でした。

それから10年・・・
内蔵助の3男・大三郎が、広島藩・浅野本家に1500石で召し抱えられます。
破格のこと。。。大石家のお家再興です。
筆頭家老の内蔵助と同じ石高でした。

主君の仇討・・・討ち入りだけではなく、そこにあるそれぞれの家族の思い・・・
それが、忠臣蔵の人気なのでしょうか?
今でも私たちは内蔵助の物語の中に入り込んでいるのかもしれません。


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posted by ちゃーちゃん at 13:24| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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