2012年11月01日

シリーズ・ヒーロー列伝A「宮本武蔵 巌流島ミステリー」

一説によると、今から400年前の1612年、関門海峡に浮かぶ無人島で、日本史上一番有名な決闘が行われました。

“巌流島の決闘”

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剣豪・宮本武蔵と佐々木小次郎。一対一の真剣勝負です。

この決闘に勝った宮本武蔵は、史上最強の剣豪として語り継がれることになります。
しかし、これは、後世かなり脚色されたものです。

肝心の決闘は・・・1612年説・1610年説・1600年説・・・
佐々木小次郎については何も解っていないのです。


武蔵が生涯沈黙を守った巌流島の決闘は、一体どんな戦いだったのでしょう。
今年は、巌流島の決闘から400年・・・
だから、いろんなところでやっているのですね。

なんと、コメンテーターは、ライバルたちの光芒にも出ていた高橋英樹さんと、加来耕三さんです。
国際武道大学教授の魚住孝至さんが違う意見を言ってくれるかも???

宮本武蔵―日本人の道 [単行本] / 魚住 孝至 (著); ぺりかん社 (刊)
宮本武蔵―日本人の道 [単行本] / 魚住 孝至 (著); ぺりかん社 (刊)

日本一有名な決闘なのに、何もわかっていない・・・不思議です。
この決闘が有名になるのは、武蔵が亡くなってから・・・歌舞伎で有名になるのです。

武蔵はこれをさかいに決闘をやめています。
きっと、そうさせる何かがあったのでしょう。


闘いがあったのは、関門海峡にある今も昔も“船島”。
小次郎の巌流に合わせて巌流島と呼ばれています。

武蔵の遅刻とニヒルな小次郎・・・
これは、吉川英治さんの「宮本武蔵」によるもので、たいへんドラマチックです。

宮本武蔵(1) [ 吉川英治 ]
宮本武蔵(1) [ 吉川英治 ]

諸国の武者修行の末に九州にたどり着いた宮本武蔵、迎え撃つは小倉藩・剣術指南役、長い刀の美剣士・佐々木小次郎です。

決闘の場は、“船島”

遅刻をした武蔵・・・
刀を抜いて鞘を捨てた小次郎に、
「小次郎負けたり!!
 勝つ気であればなんで鞘を投げ捨てむ」
小次郎の長刀が風を切り・・・
紙一重で武蔵の木刀が小次郎の頭に!!

武蔵が一撃で勝利をした名勝負です。

しかし、吉川英治も・・・
「信用できる記録がない・・・」
と、自分の作品が史実となってしまうのではないか???と危惧していました。

唯一の資料???小倉碑文には・・・

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真相・其の一・・・武蔵は遅刻していなかった???
小倉碑文には、“両雄 同時に相会す”とあります。
つまり、約束通りに行われたというのです。
この遅刻は、100年ほど後に書かれた「武高伝」に書かれているのです。

ちなみに待ったとなると、3時間待ったとか・・・


真相・其の二・・・武蔵は誰と戦ったのか???
武蔵の対戦相手は佐々木小次郎・・・
しかし、小倉碑文には、只巌流とあるのみ。
佐々木小次郎というのは作られたもので、130年後「かたき討ち巌流島」という歌舞伎が大流行をし、ここで初めて佐々木という苗字がつけられたのです。

真相・其の三・・・小次郎は老人だった???
1776年に書かれた二天記には・・・
小次郎は、戦国時代の剣豪・富田勢源・織田信長と同じ時代の人です。
その弟子だったと書いています。
そうとすれば・・・決闘当時70歳ぐらいだったのです。
結局・・・小次郎を示す資料は一つもありません。
強かったのであれば、資料がないということが不思議なのです。

真相・其の四・・・なぜ木刀で闘った???

小説では、島に向かう途中船の櫂を削ったとされています。
しかし、碑文には・・・真剣勝負であるにもかかわらず、木刀で闘うと宣言しています。
武蔵は、どうして不利な木刀を使い、あえて宣言したのでしょう???

一般の刀は刃渡り二尺四寸。
小次郎の刀は刃渡り三尺(全体の長さ120p)、武蔵の木刀は、126.7p・・・こちらのほうが少し長いのです。
つまり、武蔵のほうが長さで利があり、重さも軽いので早く打てるのでは???というのです。


宮本武蔵は、晩年“五輪書”で闘いを描いています。
13歳で新当流・有馬喜兵衛を。
16歳で強力の兵法者・秋山を打ち破り、21歳で都へ上り、天下の兵法者に会うのです。
「六十余度勝負す、一度もその利を失わず
 その程 年十三より二十八・九までの事なり」

巌流島の決闘は、武蔵29歳のとき、武蔵生涯で最後の闘いでした。
しかし、この巌流島については全く書かれていません。

巌流島に至るまでの武蔵の半生とは。。。

系図によると武蔵が生まれたのは天正10年、実父は田原家貞、兵庫県の名門武士でしたが、合戦によって農民となりました。

武蔵は、家を再興する強い気持ちがあったようです。
後に武蔵は、新免無二之助の養子になったとされています。
無二は剣術の達人で、武蔵は今の岡山県美作市宮本で育ちました。

平福で最初の決闘をします。武蔵は、より強い相手を求めて武者修行に精を出します。
そのクライマックスが、京都の吉岡一門との闘いです。
吉岡家は、足利将軍家の剣術師範、扶養第一の兵法者でした。

最初の勝負は、当主・吉岡清十郎。
武蔵は、木刀の一撃で清十郎を沈めます。
その仇討に、弟の伝七郎が。。。
5尺余りの長い木刀で挑んできます。武蔵はその木刀を奪い取り、一撃に終わらせます。

一乗寺下がり松・・・
2回の敗戦に吉岡一門は、決闘を申し入れます。
先頭に立ったのは、清十郎の幼子・又七郎そして、門生数百人・・・。
決闘に先立ち武蔵は、八大神社に参ります。
しかし、神にすがるという時点で負けている・・・と、鈴も鳴らすことなく、お参りすることもなく、闘いに挑んだそうです。

どうやって、百人と闘ったのでしょう???
小倉碑文も、さらっと書いています。

二天記では・・・
今回は、待ち伏せ戦略です。
そして、陣形の整わない中・・・又七郎を一刀両断。奇襲にあわてた門弟たちを蹴散らし。。。目的のためには、手段を選ばない・・・そんな非常な武蔵が伺えます。

武蔵は翌年、自らの書いた「兵道鏡」で自らを天下一と名乗るのです。
そう、今日からは、挑戦を受ける立場になったのです。


間違いなくいえることは、武蔵は家庭的には恵まれていなかったということです。
強くなるためにはどうしたらいいのか???
生き抜くこと・・・それが必要だったのです。

この当時、関ヶ原の合戦において西軍方の87大名が取り潰しとなり、50万人の牢人が発生していました。
いつ合戦があるのかわからない・・・
強い人たちを欲しがる時代でもあったのです。

生きるために緻密に作戦を練り、天下一になった武蔵・・・。
そんな武蔵、どうして京から九州へと向かったのでしょうか???

最大の謎・・・どうして小次郎と闘ったのでしょうか?

そこには、小倉藩・細川家の剣術師範をめぐる争いがあったと言われてきました。
しかし、勝った武蔵は師範に取り立てられていません。

門司上代・沼田延元の資料“沼田家記”によると・・・
闘いの発端は・・・
「双方の弟子たちが、互いに自分たちの流儀が優れていると兵法の勝劣を申し立て
 師匠である武蔵と小次郎が試合をすることに決まった。」
と・・・弟子同士のいざこざが原因というのです。

そこには・・・
細川家の家督をめぐる内紛説も加わります。

当時の藩主は、細川忠興、何年も前から三男・忠利に家督を譲ると言いながら・・・なかなか変わってくれません。
そこで、忠利は、武蔵を使って剣術指南・小次郎をやっつけ、忠興の面目を潰そうとしたのです。
つまり、細川親子の代理戦争だという説です。

さらに、沼田家記によると・・・
武蔵が帰った後、小次郎は蘇生をし・・・そして、隠れていた武蔵の弟子たちが、ボコボコにして打ち殺したというのです。

怒った小次郎の弟子たちは、武蔵に復讐すべく追ってきました。
そこで武蔵は、沼田延元にお願いし・・・鉄砲隊の護衛をつけてもらい、豊後にいる父親・無二の元へと送り届けてもらったというのです。

決闘の後、武蔵を保護したのは無二。
その頃無二は、豊後地方で剣術指南をしていました。
つまり、小次郎と父・無二の流儀との闘いで、止む無く武蔵が闘ったのかもしれません。

その後、ぷっつり闘うことをやめてしまった武蔵。。。
そこには、小次郎を殺したことに対する反省があったのかもしれません。
後に、剣に精神性を求めたのもそのせいかもしれません。
その原型は、巌流島だったのかも???

武蔵は、何のために闘ったのでしょう???
巌流について、何も解っていないということは、記録を残さない行為がどこかで働いていたのかもしれません。

加来先生は、細川親子の代理戦争説を推しています。

魚住先生は・・・
巌流島は、当時長府藩領なので、小倉藩の人が背後にいることはありえない・・・
父・無二と小次郎の弟子同士の確執説です。

父の流派のために武蔵が闘う???
今までの生き方から、その必要性がどこにあるのでしょうか???

「沼田家記」の真実性は???
そこに見るのは、時代背景です。
藩の内紛で、幕府に取り潰される危険性がある中、細川家の内紛を表に出すことは出来なかったのかもしれません。

どちらにしろ、いい気分ではなかった闘いだったようです。
残さないということは、そういうことなのかもしれません。

巌流島を最後に、決闘をやめた武蔵。。。
五輪書には・・・
「三十路を越して振り返ってみると
 私は兵法を極めて勝ったということではなかった。
 その後は、朝に夕に鍛錬を続け
 結局 兵法の道にやっとかなううようになったのは五十歳の頃であった。」
と書いてあります。

この二十年は、資料もなく、謎のままです。
この時代、戦国から太平の世への移り変わりがありました。
巌流島ののちに大坂夏の陣で豊臣家が滅び、徳川幕府の全国支配が始まります。
秀忠の時代には、40余りの大名がお取り潰しとなり、牢人となった人々が、職を求めて諸国を放浪しました。


この大坂夏の陣で・・・出陣した水野勝成(家康のいとこ)の出陣名簿には、宮本武蔵の名があり。。。
武蔵は、勝成の長男・勝重の護衛という大役を任されていました。
武蔵の評価が高かったことが伺えます。

そののち、家康の譜代大名・本田忠政に客分として・・・小笠原忠真にも客分として・・・
セレブだったのです。


特に播磨には、姫路城があります。
武蔵は、姫路城の城下町の町割り・・・都市計画を任されていました。
西国防衛の拠点としての姫路城のです。
特徴は、武家と町屋の区分がされていたこと、当時としては画期的でした。
武蔵は、経済成長を想定した街づくりをしていたのです。
商売をしやすい街・・・平和な時代には経済発展を。。。まっすぐな道を作りました。

武蔵は、養子・伊織を15歳で小笠原忠真に仕官させます。
剣では生きていけない時代・・・時代を先読みし、文官として生き残り、名を残すことを選ばせました。
伊織はのちに、筆頭家老とまで上り詰めます。

自分は客分として自由な地位を・・・
そして、養子には社会的な地位を固めさせました。


巌流島から30年、59歳になった武蔵は5年間を熊本で過ごします。
人生の集大成として書き出したのが、五輪書。。。
簡潔な言葉で兵法を書き表したこの本は、哲学書・ビジネス書としても海外で紹介されるようになりました。

定本五輪書|宮本武蔵/魚住孝至|新人物往来社|送料無料
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「地・水・火・風・空」の五巻。
いかにして生きるか・・・
繰り返し登場するのは、“鍛錬”という言葉です。

「太刀の道を覚えて、総体やわらかになり
 身も足も心のままにほどけたるときに従い
 兵法の良し悪しを知る」

武蔵は、鍛錬することで、心も体も鍛錬することでリラックスする・・・
自由自在に動かせるようになると言います。


武蔵の太刀を継ぐ二天一流。その特徴は自然体・・・。
長い長い鍛錬の末に会得できると言います。
それが武道なのです。

「五輪書」最後の“空の巻”では・・・

「真実の道を知らない間は
 自分は確かなる道と思って
 良いことと思っても
 心の偏りによって間違っていることがある
 正しく明らかに
 大きいところを思いとって
 空を道とし 道を空とすべし」

と、締めくくっています。

武蔵がたどり着いた境地“空”とは?

己の身を磨き、心を磨き、迷いの雲の晴れるところ 真の空・・・
つまり、鍛錬の果てに開かれる境地だったのです。
空の中にある無・・・無我の境地なのかもしれません。

武蔵にとって巌流島とは???
どうして巌流島の決闘を書かなかったのか???

その巌流島の決闘の答えが「五輪書」かもしれません。
「五輪書」を書くことによって、自分自身を整理したかったのかも。。。
「五輪書」は、人間形成の原点とも思えます。
こうやって生きていくのが理想だ・・・そう、世界中の人が思えるのです。
「人間の指導書」なのかもしれません。

五輪書は、亡くなる1年前に書かれています。完成するのは1週間前です。
明らかに後世を意識した・・・そんな作品だったのです。
武蔵は本当の意味で強い人でした。

1645年5月19日、享年64歳で静かに息を引き取りました。

明治43年、巌流島の一角に、佐々木小次郎の碑が建ちました。
武蔵が書かなかったことで、小次郎は伝説として残ったのです。
400年たった今も巌流島の闘いは、私たちを惹きつけてやみません。

新装版 真説宮本武蔵 (講談社文庫) [文庫] / 司馬 遼太郎 (著); 講談社 (刊)
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五輪書 (岩波文庫) [文庫] / 宮本 武蔵 (著); 渡辺 一郎 (編さん); 岩波書店 (刊)
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posted by ちゃーちゃん at 08:11| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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