2012年11月30日

「角館の城下町」

みちのくの城下町 400年変わらないその町へ・・・

秋田県仙北市人口2万9684人・面積1093.64㎢・特産品はあきたこまち、いぶりがっこ。
陸奥の小京都と呼ばれています。


慶長七年秋田藩角館所預り・芦名義勝がこの地へやってきて・・・。

古城山にあった角館城を中心に、城下町を築きました。

芦名氏三代ののち、佐竹北家・・・明治時代に至るまで、この佐竹北家が治めることとなります。
しかし、芦名義勝が作り上げた城下町は、400年もの間、変わることはありませんでした。

古城山城跡(角館城址)・・。
標高168mある古城山にあった城です。
しかし、1620年の“一国一城令”によって廃城となりました。
山頂から見ると・・・その城下町を眺めることが出来ます。


城下町は・・・
武家屋敷で有名で、武家屋敷通りは・・・角館を象徴する黒板塀が連なります。
400年の時を経てなお、変わらないその町は、とても趣があります。

どうして変わらないのか???
昔から11m・・・六間の幅がありました。
そこには、江戸・京都と張り合った街づくりがありました。

当時、徳川家康が、東海道を整備するために申し付けた幅が六間でした。
でも、この道、東北には必要だったのでしょうか?
芦名義勝は、かつて会津70万石を治めた大大名でしたが、関ヶ原で中立の立場をとったことから徳川家康によって角館1万5000石に転封。。。
再び大大名へとのし上がるために・・・作ったのが、この六間幅の道だったのです。

そして、400年間この城下町を守ったのは、この六間幅の大通りでした。
大通りのおかげで無防備なその作りは、徳川幕府に従う印。。。
現在まで戦火に見舞われることなく続いてきました。
町にはモミの木が植わっています。
このモミの木が、雪国の厳しい環境から町を守りました。
殿様のプライドと知恵が、400年もの間この城下町を守ってきたのです。

石黒家は今も唯一、人が住んでいる武家屋敷です。

秋田県は、美人の宝庫と言われています。
地元では“秋田おばこ”と呼ばれています。
江戸時代、日本を襲った大飢饉・・・東北地方の被害は凄まじく、餓死する人もたくさんいたとか・・・
そんな飢饉から角館の人を守ったのが第八代所預り・佐竹義術です。
義術は、米の備蓄政策をいち早く行い、飢饉の影響をほとんど受けなかったと言います。
他国の女性や子供たちがやせ細っていく中で、ふくよかな秋田の女性・・・

そんな女性たちを秋田美人というのです。

いぶりがっこは、この地方のお漬物です。
その歴史は江戸時代と、とても古いです。

青柳家も武家屋敷として有名で、いろいろな展示を見ることが出来ます。
そこには主以外は入れなかった400年間開かない蔵“不開の蔵”があります。
一般公開されていないこの蔵には・・・

陶器類・絵画・古文書などが収納されています。
この蔵からは、他藩の諜報活動をした報告書など・・・機密文書がいくつも発見されています。
その中には、「解体新書」の初版本もありました。

蘭学事始 (名著/古典籍文庫―岩波文庫復刻版) [単行本] / 杉田 玄白, 野上 豊一郎 (著); 一穂社 (刊)
蘭学事始 (名著/古典籍文庫―岩波文庫復刻版) [単行本] / 杉田 玄白, 野上 豊一郎 (...

この解体新書の附図を書いたのが、角館出身の武士・小野田直武だったからです。
他にも、明治維新の人たちを使った「カルタ写真」、蓄音機・・・いろいろなものがありました。

ちなみに、角館は、日本で初めて西洋画ブームが起こった町でした。
第六代佐竹義躬は、武道より学問・芸術を好みました。
自らも絵を描いたほどです。
新しい文化の情報収集を積極的に行ったそうです。

秋田のきりたんぽ鍋、その歴史は古く、その昔、猟師がかりをして獲物と持参したご飯を煮炊きしたことに始まるそうです。


400年変わらない城下町・角館。殿様のプライドが作り上げたのは、陸奥の小京都・400年変わらない美しい街並みでした。

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posted by ちゃーちゃん at 14:20| Comment(0) | 城下町へ行こう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月29日

藤白坂〜地蔵峰寺

いよいよ坂に挑戦です。

有間皇子のお墓の近くには・・・

PB222377.JPG

お地蔵さんがありました。

ここから藤白坂を登っていきます。

PB222382.JPG

はじめは平坦な道ですが・・・

PB222384.JPG

ああ、階段が!!
峠に突入です。黒ハート


動くのが苦手な私ですが、道には1丁ごとにお地蔵さんが立っています。

この地蔵は元禄年間(1688〜1704)に海南の高僧全長上人が、安全祈願と坂の長さを計るために1丁ごとに建てたものです。

全部で18体あるそうです。

私も、あと〇丁・・・と、勘定しながら登りました。黒ハート
けっこう励みとなりました。

ずんずん進んでいくと、竹藪もあります。

PB222406.JPG

笠をかぶった平安美女が、赤い衣装で出てきそうです。

そんな趣も感じながら、

十四丁まで行くと、筆捨松と硯石がありました。
PB222416.JPG

この筆捨松、そのいわれは・・・
平安初期の仁和(885)のころ、絵師巨勢金岡は熊野への途中、藤白坂で童子と出会い競画をすることになりました。
金岡は松にウグイスを、童子は松にカラスの絵を描いたのですが。。。

金岡は童子の絵のカラスを、童子は金岡の絵のウグイスを、手を打って追うと、両方とも飛んでいってしまいました。
童子がカラスを呼ぶと、どこからか飛んできて絵の中に収まったのですが、しかし、金岡のウグイスはついに帰りませんでした。

金岡は「無念!」と筆を投げ捨てたといいます。
その筆は、「投げ松」のところへ落ち、以来、筆捨松と呼ばれてきました。

その童子は熊野権現・・・おもいあがった巨勢金岡を、熊野の神様がいましめたというお話です。

その故事にちなんで初代紀州藩主徳川頼宣公が筆捨松のそばに造らせたのがこちら。
PB222415.JPG

硯石です。

PB222419.JPG

PB222420.JPG

ピンとはった空気の中、今も昔も変わらない・・・そんな空間を楽しみながら

たどり着いたのは

PB222421.JPG

峠のおじぞうさん、地蔵峰寺です。

この中には、大事にお地蔵さんが祀られています。
この裏にある丘は御所の芝といい和歌浦から淡路島まで見渡せる景勝の地です。

PB222427.JPG

この日は朝から雨だったので、ちょっと靄がかかっていますが、片男波がとても綺麗でした。

熊野への行幸は、宇多天皇が最初だと言われています。

熊野三山への参詣が頻繁に行われるようになったきっかけは、1090年の白河上皇の熊野行幸からと言われています。
白河上皇はその後あわせて9回の熊野行幸を行いました。
これにより京都の貴族の間に熊野詣が行われるようになり、その後、後白河上皇も34回の熊野行幸を行っています。
ちなみに回数は、有名どころで・・・
宇多法皇(1)・白河上皇(9)・鳥羽上皇(21)・崇徳上皇(1)・後白河上皇(34)・後鳥羽上皇(28)・・・と、いろいろな天皇や貴族に愛されていました。

でも。。。
ホントに、天皇行幸ってなったら、輿はいるは荷物も多いは・・・よくこんな道を歩けたものだ・・・と思います。
決死の覚悟だたのでしょうね。
だからこそ、景色にも、温泉にも、大自然の神秘にも、心の底から感動したのでしょうね黒ハート


ああ、ほんとに、視聴率低迷の”平清盛”ですが、もっと熊野古道もタイアップしてれば良かったのに・・・!
出てきた天皇、みんな熊野詣してるじゃん!!


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posted by ちゃーちゃん at 13:09| Comment(0) | Let's Go 熊野古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月28日

有間皇子のお墓

藤白神社を後にして、地蔵峰寺を目指して歩き出しました。黒ハート

で・・・有間皇子のお墓でまたもや脱線です。揺れるハート

PB222374.JPG

有間皇子は孝徳天皇の子で有力な皇位継承者の一人です。


640年、軽皇子(後の孝徳天皇)が小足媛(おたらしひめ)とともに有馬温泉に滞在中に生まれたので、待望の皇子に「有間」と名付けました。

孝徳天皇は中大兄皇子の母・斉明天皇の弟で、中大兄皇子と有間皇子は従兄弟関係に当たります。

654年難波の都で孝徳天皇は病になり、10月10日、寂しくこの世を去りました。
有間皇子はこのとき15歳。
孝徳天皇が亡くなり、中大兄皇子の母が再び斉明天皇として即位しましたが、中大兄皇子は皇太子として政治の実権を握ります。


父・孝徳天皇がいなくなり、有間皇子は次の天皇の候補者となりました。
しかし、中大兄皇子の存在は脅威的。
日本書紀によると657年18歳の有間皇子は狂人のふりをしたといいます。

有間皇子は身の危険を感じて、657年に心の病と称して牟婁の湯(和歌山県白浜町)に隠れました。
しかしその後都に帰って斉明天皇に病の完治を伝えたときに、その地の風光明媚なことを話したところ、たいそう喜んで・・・斉明天皇は牟婁の湯に行幸することになりました。

斉明天皇一行は牟婁の湯に行幸し、有間皇子は飛鳥に留まりましたが、このとき留守居役だった蘇我赤兄が有間皇子宅を訪れ・・・天皇の失政を語ったことに心を許して、謀反の計画を二人でめぐらせてしまいました。これが、有間皇子の変と言われているものです。


しかし、赤兄は、謀反を密告した上で有間皇子を捕らえて、牟婁の湯に送ってしまったのです。
その後、中大兄皇子と面会して尋問されたときに、有間皇子は・・・

「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」

と答えたと伝えられています。

有間皇子は、この後都に送り返されたものの、その二日後、この藤白坂で絞首刑に処せられました。


「家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」

これは、万葉集に残されている有間皇子の詠んだとされる歌です。
どんな気持ちでこの歌を詠んだのでしょうか???



実際に、孝徳天皇・有間皇子政策VS斉明天皇・中大兄皇子政策という戦いだったのか、ただ単に中大兄皇子と蘇我赤兄が有間皇子を陥れるための悲劇の死だったのか・・・日本書紀に数十行書いているものの、真実はわかりません。


でも・・・今でもこの花は、絶えることはありません。


紀伊 熊野古道をあるく (大人の遠足BOOK―西日本) [単行本] / ジェイティビィパブリッシング (刊)
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世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V) [新書] / 植島 啓司, 鈴木 理策=編 (著); 集英社 (刊)
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posted by ちゃーちゃん at 17:37| Comment(0) | Let's Go 熊野古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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