2012年10月24日

ヒーロー伝説 「土方歳三〜奔走するラスト・サムライ」

函館タワーに、土方歳三の像があります。

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幕末維新の動乱時、新選組・副長として華々しく表舞台に登場します。
池田屋事件で名をあげた新選組、局長・近藤勇の陰で、粛清・暗殺で手を汚し鬼の副長と呼ばれていました。

そして、幕府軍の参謀として戊辰戦争に参戦。
新政府に抵抗したすさまじい生き方から、最後のサムライと言われていました。
しかし、近年新たな土方像が浮かび上がってきました。


土方歳三が求めたものは???


北海道・箱館は、歳三最期の地です。
五稜郭のあるこの地で35歳で亡くなりました。

有名なこの写真には・・・刀と・・・そして、ピストルが映っています。
この写真は、榎本艦隊と合流してからの写真です。

どうして土方歳三は人気者なのでしょう???
まずは、いい男ということ。

「色は青いほう 躯体もまた大ならず 
 漆のような髪を長う振り乱してある
 ざっと言えば一個の美男子と申すべき
 相貌に覚えました」

賊徒に美男多し・・・
当時の人からしても、ハンサムだったようです。

土方歳三は、もともと武士ではありませんでした。
農民というか、郷士。。。
天保6年5月5日、東京・日野市に誕生します。
10人兄弟の末っ子で、早くに両親を亡くした少年は、兄夫婦を親代わりに育ちました。
若いころは、家業の薬売りをしていましたが、武士になりたくて、近藤勇の天然理心流「試衛館」に入門します。

剣術の腕を磨いて・・・
文久3年27歳で試衛館の仲間と「浪士組」に参加、これが後の新選組です。
この新選組は、京都守護職・松平容保のお預かり。
つまり、本採用ではありませんでした。

京都の浪士達を厳しく取り締まります。
副長として頭角を現してきた土方、愛用の刀は”和泉守兼定”でした。

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土方は、厳しい規律で武士道を徹底。
武士として、かくあるべき武士を追求したのです。
士道に背く、新選組から脱する・・・
違反者には、切腹をさせました。

当時、武士は藩に属し、その藩のきまりに従っていました。
しかし、新選組には秩序がなかったので、厳しくする必要もあったのです。
芹沢鴨暗殺、伊東甲子太郎暗殺・・・鬼の副長の誕生でした。

彼らを有名にしたのが、元治元年6月5日の池田屋事件。
尊王攘夷派の不穏な計画に気付いた新選組は、近藤を中心に御用改めに踏み込みます。
池田屋に集まった浪士を殺害し、計画を阻止、会津藩・幕府から巨額の報奨金をもらいます。

この報奨金・・・
隊士たちの刀の刃こぼれや労を厳しくチェック、
池田屋の報奨金は・・・
金10両  別段20両
金10両  別段13両
金10両  別段10両
金10両  別段7両
金10両  別段5両
に分けられ、厳しく査定し、配分しました。
土方の合理性を追求した細かい近代的な能力主義でした。


西洋医学も勉強していました。
当時は隊士の半分以上がケガか、病気。
松本良順は、西洋医学を土方にアドバイス。
衛生面・栄養面でもアドバイスを受けます。
そこで、病院のような部屋もつくったそうです。
外国の文化も、積極的に受け入れていたのです。

俳句や和歌からも、鬼ではない一面が見えてきます。

アンバランス・・・それが土方がモテる一面だそうです。

冷徹に武士道を貫き、新選組を支え続けた土方は、徳川幕府の命運とともに時代のうねりに飲み込まれていきます。
慶応3年6月10日、幕臣になります。
幕府の直属となったのです。
その4か月後・・・10月14日、大政奉還・・・慶喜は、政権を朝廷に返上したのです。
しかし、新政府軍は、徳川をゆるさず・・・
慶応4年1月3日、鳥羽伏見の戦い。。。

およそ1年半の戦いの始まりでした。

この戦いに、新選組は徳川の臣下として参加します。
しかし、徳川軍の一方的な敗戦。
その徳川の敗因は、武器が旧式だったとされていましたが・・・
新選組も、鉄砲を装備していました。
土方は、新選組を西洋軍備化を・・・近代的な組織へと導こうとしていました。
訓練もしたようです。

さらに、軍中法度を制定し・・・
「組頭が戦死した場合 隊士も見な戦死すべし」
と。
逃げ帰ったものは、斬罪でした。

しかし、薩長軍が、錦の御旗を立てたことで、幕府軍の戦意喪失・・・。
慶喜は、大坂湾から江戸へ・・・船で逃げてしまいました。
土方たちも、江戸への敗走を余儀なくされました。

この敗戦を土方は・・・
「武器 砲にあらざれば不可
 僕 剣をおび槍をとるも
 ひとつも用いるところなし」
と、表現しています。

刀の時代は終わったのだ・・・。

これが、土方歳三の近代化へのスタートラインでした。

江戸に迫る新政府軍・・・
勝海舟は、江戸城無血開城に動き出しました。
しかし、新選組は徹底抗戦を主張!!
この時に戦っていれば、勝っていたかもしれないほど・・・
力は均衡していました。

甲府や流山で戦います。
この流山で・・・近藤勇が包囲され捕まりました。
切腹を覚悟した近藤勇に対し土方は・・・

「切腹など犬死にだ
 新政府に投降し
 生きながらえてほしい
 必ず助けに戻る」

と、勧めました。

近藤は、新政府軍に大久保大和と名乗り投降しますが、素性がばれて1か月後に切腹も許されずに・・・
斬首されます。
この時の軍備は、大砲3門、小銃118丁と西洋式になってきていました。


江戸を脱出した幕府敗走軍。。。
新選組副長から旧幕府敗走軍の司令官へとなってしまった土方。
その中心となったのが「伝習隊」。
フランス軍の訓練を受けた幕府最強の歩兵部隊です。
土方は、この伝習隊の参謀に就任します。

ここから新しい生き方が始まりました。

「武士の時代は終わった。これからは軍人の時代だ。」

土方は会津をめざし北上します。
そして、戊辰戦争最大の激戦、会津戦争へ。。。
しかし、土方の奮戦もむなしく新政府軍の圧倒的な力に屈してしまいます。
会津藩はついに籠城を・・・

会津を離れて仙台に現れた土方。それは、奥羽越列藩同盟の軍議の席でした。
そこで、榎本武揚とともに、統一軍を作ることを説得します。
その会議で土方は・・・
「もし私が総督になるとすれば
 私の命令に従わないものは
 例え藩の家老であっても
 斬ってしまわねばなりません
 その生殺与奪の権利を
 与えてくれれば
 私は総督の任を引き受けます」
と言ったと言います。

土方が要求したのは、絶対的な権力でした。

しかし、二本松藩士・安部井磐根が・・・
「我々藩士の命を奪えるのは 
 藩主以外にいないはずだ」
と反論。。。

土方の要求は却下されます。
奥羽越列藩同盟はバラバラになってしまいました。

明治元年10月26日、榎本武揚率いる旧幕府軍は、五稜郭を占領。
箱館政府の誕生でした。
榎本は新政府軍に対し、徳川家の存続と、旧幕臣の救済を掲げ、箱館政府の許可を求めました。

20100820143327[1].jpg

榎本は、日本初の選挙を行い、閣僚を作ります。
土方は、陸軍奉行並となって近代軍の育成に乗り出しました。
土方にとっては、軍人としての新天地でした。

箱館政府は列強との外交をし、通貨を発行、税制改革を行います。

しかし・・・
箱館戦争が始まってしまいました。
新政府軍8000に対し、土方軍はわずか100・・・。
土方は山肌に塹壕を築きます。その塹壕は、今でも残っています。
土方が戦った二股口。
うっそうとした森の中で激戦が行われました。
二股口の戦いで、土方軍は3万5000発の弾を使って戦いました。それでも、撤退を余儀なくされます。


その時、土方は・・・
隊士の労を、酒でねぎらったと言います。

明治2年5月10日、明治新政府は海から砲撃し、旧幕府軍は壊滅的になります。
降伏の機運の中、徹底抗戦を訴える土方・・・。

しかし、馬上の土方を、一発の銃弾が撃ちぬきました。
明治2年5月11日、土方歳三 箱館で戦死。。。
土方の戦死から1週間後、榎本武揚は降伏し、ここに箱館戦争は終わりを告げました。

「たとひ身は
  蝦夷の島根に朽ちるとも
   魂は東の君や守らむ」

この意味は???
普通であれば、東の君は”徳川家”のことでしょう。
しかし、潔さはなく、可能性があればまだまだ突き進む、覚悟は常にしているが、挫折も降伏もしない・・・
快戦をしてから死にたい・・・そういう気持ちが当時の武士にはあったと言います。

歴史の闘いの中で成長していく・・・
土方の立ち止まらない”やさしさ”が土方の時を超えた魅力なのです。



う〜ん。。。今回のパネラーは、田原総一郎さんでしたから・・・
仰天歴史塾のようでした。あせあせ(飛び散る汗)

で・・・土方さんの魅力ですが、私は司馬遼太郎さんでもう満足ですあせあせ(飛び散る汗)

辞世の句を聞いた時も、永井大さんの「新選組血風録」の・・・
京に残してきた女性を思い出して死んでいく土方さんを思い出して、ゲッと思ってしまいましたあせあせ(飛び散る汗)
あのトラウマからは、まだまだ抜け出せないのでしょうか???
永井さんが悪いわけではないのですけど・・・たらーっ(汗)

どこをどう切ってもカッコいい土方さんですが、今回は何がカッコいいんだか・・・
よく解らない土方さんでした。

ちなみに、”ラスト・サムライ”は、『遺恨あり 明治十三年 最後の仇討』というドラマで藤原竜也さんが演じていました”最後の仇討”をした臼井六郎では???
とも思います。

でも、土方さんは大好きですよ。
司馬遼太郎万歳黒ハート
土方歳三の生涯 [単行本] / 菊地 明 (著); 新人物往来社 (刊)
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土方歳三―洋装の“武士”として散った漢の一徹 (新・歴史群像シリーズ 13) [ムック] / 学習研究社 (刊)
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第40回 「はかなき歌」

第40回「はかなき歌」

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滋子・・・後白河法皇が唯一愛した女性???
う〜ん・・・なんだかそこは、怪しいような気もしますが、身分の低さのために女御にはなれませんでしたが、後白河院の寵愛は他の妃とは比較にならなかったのは事実のようです。黒ハート


1174年、大輪田泊はついに完成し、清盛が長年夢みていた宋との貿易が始められました。
貨幣経済を推し進めようと奮闘しています。るんるん
「貨幣が使い勝手が良いと、西光に賄賂渡してますよ。。。あせあせ(飛び散る汗)


一門のさらなる発展をめざす清盛は、後白河法皇と建春門院滋子を嚴島神社に招きます。
厳島明神は観音様で、子宝祈願にも良いそうです。黒ハート

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この後白河法皇の参詣で、平家の氏神だけではなく、国の神となった瞬間でした。。。
って、言ってますが、天皇が”現人神”じゃないの???
だから、国の神って天皇なんじゃ・・・?

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嚴島神社のように横へ横へと広がること・・・それが清盛の目指す世の姿だそうで。
またもや宋銭をアピールしております。
平家一門は、法皇をお支えすると言ってますが・・・対立しないの???
対立するからこそ、重盛は間にはさまれて”精神崩壊”していくんじゃないの???
なんて思いながら。。。
ほんと、厳島神社綺麗ですね黒ハート
外国みたいなウォーターフロントしなくっても、これが世界遺産なんだから日本で良いのにね。
そう思うと、清盛って凄い!!



伊豆では、かつて源義朝につかえた上総常澄が大番役の務めの疲れか、急死。
京と伊豆の往復は、ほんとに体に堪えるようですたらーっ(汗)

北条時政の館に集まった東国の武士たちは、諸悪の根源は平家にあると不満を募らせています。

「まことこのままでよいのでございますか」

頼朝にぶしつけな政子。

政子は思わず源氏重代の太刀を転がしてしまいましたが・・それを直そうとすると。。。

「太刀にふれるな!!」

頼朝の秘めた武士の魂が目覚め始めていました黒ハート

平家は踊っております。公家化が激しくなってきましたね。。。
おごって、おごって、奢りたかぶっております。。。

弓を引いて、鍛錬を支持する伊藤忠清ですが・・・
みんなは武の鍛錬だけでは駄目なようで・・・
私の好きな忠清さん、悲しそうです。
そりゃあ、ほんとは、武なんてダメな方が良いんですけどね。あせあせ(飛び散る汗)

福原で宋銭を用いた取り引きを目の当たりにして、西光も珍しく協力的黒ハート

ある日、西光は信西がかつて復興させた相撲節会を行うため、清盛に協力を求めます。
が・・・宋との取り引きにまい進する清盛は、

「宮中行事などにうつつを抜かしている場合ではない・・・。」と、一蹴。

今様の歌集「梁塵秘抄」の編さんに取り組んでいた後白河法皇は、世に役立つものではないが心を慰めてくれる、そんな歌を残したいと滋子に漏らします。
法皇様にも不安はあったのですね。

滋子はそれこそが後白河法皇の目指す世であり、その世がつづくことが自分の望みだと勇気づけました。

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怒りを募らせた西光は日頃そりが合わない義弟の成親とも、「平家憎し」で結託していきます。

そんな平家の敵対勢力をとりなすのは、清盛の義妹でもある滋子。
大人になったなあ・・・滋子。
やっぱり美力・財力だけでは駄目よね。
実力もともなっていなければこその法皇様の寵愛なのでしょう。黒ハート

1176年春、後白河法皇の五十歳の宴が盛大に催され、平家一門も祝いの楽や舞などを献上しました。
歌や楽、舞が何日も続いたそうで・・・
公卿となった平家が、後白河院を支えている・・・そんな図式がはっきりと表れてきました。

その蜜月関係を支えていたのが滋子だったのです。
「これより先も、共にのぼろうぞ、誰も見たことがない高みへ」

「この上なき誉にて」


だった、法皇と清盛なのに。。。

しかし7月、滋子は病のため35歳の若さで亡くなってしまいました。
ああ、足元から、っていうより、てっぺんから平家が崩れていっています。。。あせあせ(飛び散る汗)

その死を重く受け止める平家一門。

清盛は滋子の死が朝廷のあり方を大きく変えることを予想していますが。。。
それって、平家のあり方でしょう???
でも、自らの道は変えないと決意を盛国に告げ、弔い合戦するそうですよ。黒ハート
誰と?って、朝廷と。黒ハート

建春門院滋子の死という賽の目が、清盛と後白河法皇の双六遊びの行方を大きく変えることになっていきます。


ああ、なんだか小難しいですね。
もっと、源氏との対立も書いて欲しかったのですが。。。
それは、また次の週ということで黒ハート

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posted by ちゃーちゃん at 10:17| Comment(0) | 平清盛 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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