2012年10月10日

第38回 「平家にあらずんば人にあらず」

前回からお話に登っている”徳子”さんです。

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と、高倉天皇(ゴセイジャーのアラタくん)、重衡(重衡さんは沖田総司さんですね黒ハート)といっしょ。揺れるハート

いよいよ登場の、まさに今回の題に相応しい・・・「平家にあらずんば人にあらず」の始まりを予感させます。


清盛は、宋船を福原に直接入港させようと考えていますが。。。

そのため、大型船が入れるように大輪田泊の改修工事を兎丸に急がせていました。
しかし、そのためには波よけの堤防が必要でしたが、兎丸はその工法が分からず、試行錯誤を繰りかえしていたのです。


京の内裏では、清盛の栄華の悪口を、ピーチクパーチクやっております。
「何やら、怪しい取引をしているらしい・・・」
「まこと・・・平家の天下よのう・・・」
みたいなことを、まるで廊下で戯れる女子高生のように話しています。黒ハート

「武士上がりなんぞに・・・このままではおかん・・・」

そんな話しをしていると・・・

禿がやってきて、異を唱えるものを排除していきます。

そう、時忠が、「禿」と呼ばれる身寄りのない子を密偵として町中に放ち、清盛の国づくりに異を唱える者を容赦なく断罪しています。

平家の前に、誰も、なすすべはなかったのです・・・。
そう、奢り出していますよ。。。
独裁者になっていっていますね。。。
なんだか禿も不気味さ黒ハート倍増

その手荒なやり口を見て、時子は、このままでは平家が憎まれものになってしまうと心配しています。
が、時忠はこの任務を誇りに思っているとか・・・。


一方、伊豆では、政子が、頼朝が涙ながらにつぶやいた
「わが身は滅びても、源氏の魂は断じて滅びぬ」
という言葉を忘れられずにいました。

彼女が真剣なまなざしで父・時政にその意味を問うと・・・
「お前は知らずとも良い・・・」
と言いながら、話し始めましたよ。
頼朝の悲しい生い立ちを。。。


源氏の御曹司である頼朝は、父・義朝とともに戦った平治の乱で平清盛に敗れ、伊豆に流されたこと。
その後、伊東祐親の娘・八重姫と恋仲になり、赤子が生まれたが、清盛の怒りを恐れた祐親がその赤子を殺してしまったこと。。。

「断じて近づいてはならぬ・・」

って、近づかないわけないでしょう???


初めて知った平清盛という大きな存在に政子は恐れおののくのでした。
って、政子もいい加減恐れおののかれていると思うのですが・・・ね揺れるハート



福原では兎丸が、大輪田泊に堤防をつくる手立てを考えつきました。
古い船に大量の石を積んで沈め、それらを積み上げるという方法を。。。

盛国がNo,2になってから、盛国の役をやってきた兎丸。海賊上がりがお手柄です黒ハート




そんな折、時子が病との知らせが入り・・・いい機会だと話をしました。

時子は清盛に京へ帰るよう訴えます。

病の重盛や、時忠の強引なやり口など平家の不安要素をならべるが、清盛には届きません。

それどころか清盛は、さらなる野望の実現に邁進していました。
清盛は平家一門を集め、娘・徳子を高倉天皇に入内させたいと打ち明けます。

時忠だけではなく、この人も思っていたようです。

「平家にあらずんば人にあらず」と。

大それた野望に一門は、驚きあわてふためきますが。。。
頼盛と時忠・・・おじさま方は、結構良い感じで「平家にあらずんば・・・感」が出てきていますね。
きっと、清盛のパターンが解ってきたのでしょう。
なんだか、ブラック・森田剛君良い感じ。黒ハート


清盛は高倉天皇の母であり、清盛の義理の妹・滋子に徳子の入内を打ち明けると、滋子はそりゃあもちろん賛成。

しかし、最大の障壁は後白河法皇だということは清盛も滋子も分かっていました。

そこで滋子は後白河法皇が今凝っている謎かけ遊びを伝えます。
それは、どれだけ大きなものを食べたかを競うというもの。
後白河法皇は、誰かれかまわず仕掛けますが・・・誰も法皇に勝つことができません。
もし清盛が勝てば、変わり者の法皇なら、徳子入内を認めるかもしれません。あせあせ(飛び散る汗)

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清盛は貢ぎ物として宋から取り寄せた羊を携えて後白河を訪ね、徳子の入内を願いでました。

後白河法皇はそれには答えず、例の遊びを清盛に持ちかけましたが。。。

清盛は次に会うまで答えを考えさせてほしいと言い、とりあえずその場は引き下がりました。

「まったく・・ 
 どこまでもゾクゾクとさせてくれるやつじゃ・・・」

と、後白河さん楽しそうです。黒ハート

清盛が娘を入内させたいと考えていることは宮中に知れわたり。。。藤原摂関家など公卿たちの多くはあわてふためきます。
最近、あわててばかりのこの人たちが、なんだか良い感じに盛り上げてくれています。黒ハート
でも・・・
「どちらでもわが身は安泰・・・」と、思われている成親さん・・・
本当に、後白河さんのそばにいて・・・ずいぶん人相悪くなってきましたよ。。。

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後白河法皇の子でありながら、冷遇されている以仁とその養母・八条院ワ子は、清盛の野望を邪魔しようと策を練っています。


そこに、いいタイミング・・・疫病が都を襲います。その疫病は清盛が法皇に贈った羊の病だといううわさがひろまります。そう、八条院ワ子達の企みです・・・。あせあせ(飛び散る汗)

法皇の側近・西光は、うわさは宮中の不満のあらわれと考え、入内を見送るべきだと法皇に進言しました。
成親はそれでは公卿方の思うつぼだと反論します。
公家たちの思うつぼか、平家の思うつぼか・・・
どちらになびくのが白河院にとっての得策???言わずもがなのような気もしますが、”面白き”方に行くのでしょう。黒ハート


清盛は誤解を解くため、後白河法皇や滋子を福原に招待します。
福原を気に入った様子の滋子と後白河に清盛は、福原を法皇の所領として献上すると申し出ました。
おお、おとうのようです。
忠盛も、たくさん寄進してきた甲斐あっての今の平家の地位。
清盛もよく解ってますね。黒ハート

後白河法皇は、そこまでするお前の野心とはどのくらい大きいものかと聞くと、清盛は海のごとく果てしないものだと告げ、この野心こそが自分が食べたものだと、前に宿題になっていた答えを伝えます。

すると後白河は、そんな清盛を食べる!!と告げる。

誰がどんな大きなものを食べても、その相手を食べてしまうという答え、これこそがどんな相手に対しても、絶対に負けなかった後白河法皇の解答だったのです。

しかし、それを聞いた清盛は自分を食べたとしても、すぐに法皇様のおなかを破って出てくると切り返す。。


これには見事な返答だと後白河法皇も認めざるを得ず、清盛の娘・徳子入内は聞き入れられることになりました。

これが、答えかどうかはともかく、後白河さんは楽しかったら良いんでしょうね。
まあ、公家の中でいると楽しくないのでしょう。


徳子が高倉天皇の妃となる儀式が盛大に行われ。。。
「今こそ、栄華を誇る時。。。」有頂天になってますよ。

しかし八条院ワ子など反発する人々も少なくない。。。

時忠は禿を使い、平家に反発する者を厳しく取り締まります。
これを見かねた兎丸は時忠をいさめるが、時忠はこう言うだけ。。。
そう、あの有名な、

「平家にあらずんば人にあらず」


これは、清盛ではなく、時忠の言葉なのよね、実は。
で・・・時忠も、やりすぎというよりも、こうなってくるのでしょうね。栄華を極めるということは、光輝けば輝くほど・・・その陰も際立ち・・・必要悪なのかもしれませんね。。。
ただ、禿が子供というのが心が痛みます。。。失恋

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一方、鞍馬寺で修行している遮那王は、ある日、僧都の使いで都に行きました。
その途中、五条大橋で遮那王の前に立ちふさがる巨大な男がいました。
それは・・・相楽左之助・・・もとい、武蔵坊弁慶でした。

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posted by ちゃーちゃん at 13:56| Comment(0) | 平清盛 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

戦国武将・決戦のとき A  桶狭間の戦い「信長・27歳の一大挑戦」

1560年5月19日 桶狭間の戦い
この戦いの主人公は・・・
東海一の弓取りとうたわれた戦国武将であり大大名・今川義元。
もう一人は織田信長、尾張一国もまとめられない小大名にすぎませんでした。

今川軍4万5千に対し、信長軍2千・・・。
しかし、圧倒的な奇跡の完全勝利で信長が勝利します。
どうして勝利できたのでしょうか???


桶狭間には二人の像が立っています。


1560年5月13日、今川軍は、4万5千を尾張に向けて進軍していました。
対する信長軍は2千・・・。
そこには、伝説のう回奇襲作戦がありました。


桶狭間の戦いは、江戸時代に小瀬甫庵が書いた「信長記」で知られていました。
これをもとに、明治時代陸軍参謀本部によって編纂されました。
これによると・・・
今川義元が天下統一のために・・・将軍謁見のために進軍していたとあります。
主戦場となった場所は、田楽狭間。
激しい風雨の中、う回奇襲作戦で信長が勝利したとされていますが・・・


信長の家臣、太田牛一の「信長公記」によると・・・
う回奇襲作戦とは矛盾する点がいくつかあります。

@今川本陣の場所
御敵今川義元は、4万5千引率し、おけはざま山に人馬の息をひそめてこれあり
田楽狭間という低地ではなく、「おけはざま」という山の上だというのです。
つまり、“桶狭間”という谷底に攻め入ることは出来ないのです。

A信長の進軍方法
脇は深田の足入れ 一騎打ちの道なり
無勢の様体 敵方より定かに相見え候
勿体無きの由
つまり、狭い一本道を進軍する信長軍は、敵から丸見えだったというのです。

新しい定説によると、う回奇襲説が成り立たなくなっています。


「信長記」は、歴史小説のようなもので、「信長公記」を脚色したものだということ・・・
陸軍がこの勝利が信じられなかったということと、「小さい日本が敵に勝つには奇襲」だということ・・・
それが、重なって、学校で教えられるようになってしまったというのです。
では“う回奇襲でないなら・・・何?”なんでしょうか?

“桶狭間”は誤解の多い合戦で・・・
どうして今川義元が出てきたのか?
戦国大名は、上洛して天下を取るというのが当たり前のように思われていますが・・・
上洛ではないとすれば・・・?

今川が出てきたのではなく・・・信長の領土回復戦争であるということ。
信長が仕掛けたのです。

遡ること7年前、大高城などが、今川のモノになります。それは、信長の家臣が寝返ったためでした。
それに対抗するために砦を作ります。
1560年5月17日、義元が大軍を率いて進軍してきました。
それは大高城の砦×2を武装解除するためでした。


5月18日信長方で軍議が開かれました。
清州城に情報が集められます。
今川軍が攻めてくる・・・
なのに、信長は何もせず。

翌日、今川軍の攻撃が始まりました。
信長は、「敦盛」を踊っています。

午前8時には、砦は陥落。
ようやく信長は前線の善照寺砦に到着。

その時・・・

「御敵今川義元は4万5千引率し おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」

という情報が入ります。

これを聞いた信長は、一本道を丸見え・・・命を捨てに行くかの行軍を開始します。
おけはざまに必死に行軍する信長を、家臣たちは必死に止めます。
それも聞かずに行軍!!

「勝も負けるも天が決める!!」

信長は、進軍を続け・・・
敵から丸見えの中、正面突破を図りました。

もし、正面突破だとしても、そこに義元がいるとどうして知りえたのでしょう???
そこにはまだまだ謎がたくさんあります。

では、信長は何を考えていたのでしょう?
いわゆるカウンター攻撃だったようです。
今川軍が攻撃してくるのを待っていたのです。
鷲津砦・丸根砦は捨て石にする!!

そのあと疲れている義元軍を叩く!!というのが作戦でした。

信長は、義元の首を取るつもりだったのかは不明ですが・・・
結果的にそうなったということは確かでした。

27歳信長の、型破りな発想は・・・
故郷・尾張の莫大な経済力にありました。

1534年勝幡城で生まれました。
津島湊は東国と西国の中間に位置し、物流の拠点でした。
当時は関所がたくさんあって、物流を阻んでいました。
そこで、信長の父・信秀は、港・・・海運ルートに目をつけます。

戦国時代といえば、殺伐とした時代と思いがちですが・・・
戦国時代は高度成長期で、お金があれば何でもできる時代だったようです。


関税などで莫大な利益を得。。。
伊勢外宮 仮設造営費・700貫文、皇居修理費・4000貫文、寄付しています。

のちの楽市楽座につながります。
そして信長は、人々の安全・自由、利益を保護する代わりに、莫大な献金を受けていたといわれています。

その一方で・・・「大うつけ」と言われていました。
しかし、その非凡さを斉藤道三も認めています。

信長軍は・・・三間半(6.3m)の槍を持ち、訓練された兵を指揮できる・・・近代的な軍隊でした。きわめて統率のとれた軍・・・それが、最強の証でした。

今川軍は土地に縛られた農民兵、しかし、信長軍は土豪の次男・三男を集め、お金で雇い常備軍としていたのです。のちの兵農分離を始めていたのです。

まだまだ城下町が形成されていなかった時代・・・
清州城下には、多くの武家屋敷が並んでいたようです。
その人々が、桶狭間の戦いで活躍したのです。

侍が侍として生き、侍が主人となる世界・・・信長は、そのトップは自分であるという武士の考え方を・・・侍の時代を作った人だったのです。

信長は、血縁・地縁・宗教縁を断ち切ったので、日本では宗教戦争がない世の中になっていくのです。

天才とは時代の通念にとらわれないこと・・・その天才が信長だったのです。


桶狭間の戦いにはもう一つ、秘密がありました。
今川軍は、鷲津砦・丸根砦を落としたことに大変満足したと言います。
そこには、旧体制・・・義元の“戦争目的”である少ずづつ国を広げていく・・・そして恩賞を与える。。。
当時の武士たちの恩賞は土地でした。
地点の占領奪取です。
家来たちも首の奪取。
その恩賞の証としての“首”は、取って、持って次の戦いに参加していました。

しかし、信長の戦争目的は・・・

「分捕をなすべからず
    打捨たるべし!!」

首を取らずにすぐまた次の敵と戦えということでした。


少ない軍勢で、効率よく攻撃する!!
義元ひとりの首を狙うために!!

敵戦力の無力化奪取です。

そして・・・
「軍に勝ちぬれば 此場へ乗ったる者は家の面目
  末代の高名たるべし  只励むべし」

この戦は、全ての兵の名誉であり、語り継がれることだろうと鼓舞したのです。

義元に一番槍を突きつけたのは、服部小平太、首を取った毛利新介も、地侍の次男坊。

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若者たちは“名誉”のために戦ったのが・・・桶狭間の戦いでした。

戦争はアートに似ている。。。
人には解らない・・・信長にしか解らない戦いでした。

信長の“求心力”・・・
戦争を起こして自分が勝つ、自分が頂点に立った国を作る!!
というのがはっきり見えていました。


この“桶狭間”と同じ物語・・・
それが明智光秀・・・。


「天下布武」を掲げて走り出した信長。
しかし、“天下統一”は、結果論でしかありません。
朝廷や幕府が弱体化し・・・
地方分権の進んだ時代でした。
農民たちが力を持ち、“加賀の一向一揆”などがありました。
武士は、自治的な民衆の動きとタイアップし、うまく国を治めようとしていました。

しかし、信長は・・・
その流れに抗うように、天下統一を進めます。
楽市楽座・関所の撤廃・街道整備・・・中央集権的な政策を推し進めます。

しかし・・・それは、多くの犠牲を払いました。
延暦寺の焼き討ち・長島一向一揆制圧・・・

天下統一に命を懸ける・・・
“桶狭間”で独裁者・信長が幕を開け、独裁者らしく暗殺されて終わるのです。

天下統一の道半ばで命を失ってしまう信長・・・

権威の世界を武威の世界に変えた信長でした。

もう一つの桶狭間―偉大なる従軍記者が語る織田信長の戦略と行動
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二つの桶狭間の合戦 武田信虎と織田信長
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posted by ちゃーちゃん at 08:11| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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