2012年10月04日

戦国武将・決断の時(1)関ヶ原の合戦「家康・最後に勝つ男の条件」

「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」

したたかなタヌキおやじのイメージの徳川家康。

その最大の勝利と言われるのが、1600年9月15日の関ヶ原の合戦・・・。
東軍7万と西軍8万が激突しました。
日本史上最大の決戦のひとつです。
西軍は豊臣秀頼・石田光成が・・・東軍は徳川家康でした。

家康はこの戦いに勝利し、徳川が豊臣に勝ったように思われています。
しかし・・・

東軍の最前線で戦ったのは、西軍だった福島正則・黒田長政・細川忠興・藤堂高虎・・・かつて秀吉に仕えていた武将でした。

つまり・・・豊臣VS豊臣の戦いだったのです。

家康は、味方の寝返りにおびえながら・・・
おまけに頼みの綱の主力部隊が戦に間に合わず・・・
最悪の事態のなか・・・決戦当日。。。

家康軍は、西軍に包囲されてしまいます。
家康59歳・・・どのようにして危機を乗り越えたのでしょうか?
そこには日本人のリーダーシップのあり方がありました。


関ヶ原の合戦は、単純なものではありません。
矛盾は、東軍の主力が徳川ではなく、豊臣の武将というところにありました。
つまり、“東軍の勝利”=“徳川の勝利”ということではないのです。
そこが、関ヶ原の深みであり、面白さなのです。


家康型の人間・・・日本人は家康のように生きていたかもしれません。
そう、日本人を作った人かもしれません。


本来、世界的にみるとリーダーにはなれないタイプですが、日本人の枠でみると最もリーダーにふさわしい人物なのです。


天下分け目の関ヶ原・・・その時家康は、想定外の出来事に見舞われていました。
東軍の主力部隊は豊臣家古参の武将でした。

1598年8月18日・・・
豊臣秀吉が亡くなりました。この時秀頼は6歳。
政治を治めるのは、
五大老・・・家康を筆頭に、前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元
五奉行・・・石田光成・前田玄以・浅野長政・増田長政・長束正家
でした。


その中で、家康が台頭してきます。
1600年7月11日、石田光成が大阪で挙兵しました。
この時、家康は会津・上杉景勝を討つために、大坂から遠征の途上にありました。

光成の挙兵は、家康の不在をついたものでした。
光成は、大義名分を得るために、五奉行の前田・増田・長束と家康の弾劾状を起草しました。

「家康の行いは太閣秀吉様に背き、秀頼様を見捨てるがごときである」

中国地方の毛利輝元は1万を超える兵を率いて、大阪城に入場。
すると、西国の諸大名が動き出し・・・西軍の勢力は10万に迫りました。
打倒家康のため、秀頼を担ぎます。
光秀は公儀、家康は謀反人・・・
家康は逆賊と化しました。

西軍がここまで大きくなるとは、家康の予想外のことでした。

さらに不都合なことが・・・
家康が共に会津に向かった5万の兵は、豊臣家に忠誠を誓っている者たちでした。
秀吉子飼いの福島正則、父の代から仕えた黒田長政・池田輝政・細川忠興・・・
大阪城が反家康に染まり、おまけに周りは豊臣系の武将ばかり・・・


家康は・・・
豊臣系武将を味方につけることにしました。
西軍の力をそぎ、東軍の味方とする・・・
武断派の福島正則・黒田長政は、政治手腕のみで出世した光成を快く思っていませんでした。
そこを突いたのです。


家康の戦略は???
大量の手紙作戦。
江戸城で1か月間せっせと手紙を書きました。その数、122通。その半数が、豊臣系の武将に宛てたものでした。

細川忠興には・・・
味方に付けば丹後と但馬の国を進呈する。
具体的な報酬を示します。

武断派の福島正則には最多の10通。
機嫌を損なわないよう細心の注意を払っています。
家康は戦争前のネゴシェーションが上手かったのです。
それは、今の政治にもつながっています。


前政権の中枢的な人脈をどのようにしてうまく引き継ぐのか???
それが家康の戦略でした。
信長・秀吉ではだめで、豊臣系の武将を入れることで他の国の形、国づくりを模索していました。
光成につくか、家康につくか・・・おれは、国家の有り様をめぐる体制選択だったのです。


さらに重大な決断をします。
1600年8月1日西軍が伏見城を攻略。
さらに、岐阜の大垣城を目指します。
東軍は、豊臣系の武将たちを中心に東海道を西に進み清州城に集結。

しかし、家康は、いっこうに江戸を動きません。
腹を立てた福島正則・・・家康不在のまま戦果を挙げようとします。

8月21日東軍は清州城を出て岐阜へ・・・
難攻不落の岐阜城をわずか半日で落とします。
勢いに乗る東軍は、美濃赤坂に進軍!!


9月1日遂に家康は3万の兵とともに江戸を出陣、11日には清州へ・・・。
しかし、予想外に・・・徳川主力部隊はまだ来ていません。

息子・秀忠の軍、中山道の3万5000です。
徳川譜代がここに投入されていました。

秀忠軍は、信州上田の真田昌幸に苦戦し、遅れていたのです。
結果、主力部隊の到着しないまま・・・
家康は決断します。
9月14日美濃赤坂。家康は、福島と合流し・・・徳川の主力部隊を待たぬまま・・・
合戦が始まりました。

家康が最も恐れたのは、西軍が”秀頼”を出してくることでした。
家康は大阪城から遠いところで決着をつけたかったのです。
西軍が秀頼を出す前に決着をつける!!
それが、家康の戦法でした。

少なくとも2年はかかると思われた戦い・・・。
家康は、勝ことよりも負けないことを考えていた人でした。

9月15日関ヶ原、東軍7万、西軍8万、両軍合わせて15万・・・。
この地で睨みあいます。
家康の勝利の決断は???

n04-02map_Sekigahara[1].gif


西軍優位の鶴翼の陣で東軍は包囲されてしまいます。
東軍の前線部分は、豊臣系武将で固められています。

午前8時ごろ・・・戦いの火ぶたが切って落とされました。
家康は、光成隊への集中攻撃を!!笹尾山へと向かいます。
実戦経験のない光成ですが、善戦します。
その秘密兵器が大砲でした。
城攻めに使われる大砲を関ヶ原に引っ張り出していたのです。


戦いのポイントは松尾山。
戦いを一望できる場所です。
巨大な山城で、堅固な要塞でしたが、ここに1万5000の兵を置いていたのが、小早川秀秋19歳。
戦いの途中で西軍から東軍に寝返る約束を家康としていました。

それが家康の作戦でした。

が・・・
秀秋が目の当たりにしたのは善戦する西軍・・・。
秀秋、裏切りの出撃の時期を逸してしまいます。
そこへ・・・家康は、味方に付くはずの秀秋の部隊に発砲しました。

この威嚇射撃に動転し、寝返り、西軍に一斉になだれ込みました。
関ヶ原の戦いを決めた、一瞬でした。
と、これはよく知られていますが・・・


家康背後の南宮山にいた毛利軍、家康と内通し、合戦には参加しないことになっていました。しかし、戦況によって背後を突かれた場合・・・家康軍は危機に陥ります。
家康は、南宮山の毛利軍にも威嚇射撃をしたという資料が残っています。
この決断と行動力で東軍は勝利、戦闘開始から7時間後、関ヶ原の合戦は幕を閉じました。

関ヶ原の合戦で勝利を治めた家康、新しい国づくりは、戦後処理から始まりました。
豊臣系武将達への領地配分です。
その結果は、後の幕藩体制に・・・

西軍武将から没収した領地は632万石。
家康は、そのうち80%となる520万石を豊臣系武将たちに与えています。
家康と徳川武将の領地はわずか日本全土の1/3でした。


家康は、関ヶ原の合戦後も西側の自治を認めました。東西の住み分けが国家のイメージだったようです。

その中でも、秀頼の権威は落ちることはなく。。。
合戦後は、徳川単独体制になったということもなく二重体制だったのです。
合戦後も揺らぐことのなかった秀頼の権威・・・家康は秀頼を危険だと思うようになります。
15年後の1615年大坂夏の陣、家康は、大阪城の秀頼を自害させ滅亡させます。
こののち、家康の国づくりが始まりました。
江戸に近いところには、幕府直轄領と徳川親藩・譜代大名領、豊臣系を外様に・・・

そして、江戸幕府は、地方分権的な統治システムを作り上げました。

それぞれの地域に、経済力・政治的な力をキープしていくような体制を!!
これが、これから260年続く幕藩体制の礎となったのです。


家康は、公のために政治がある・・・

「天下は天下の天下にして
     一人の天下にあらず」

徳川家の私利私欲のためにやってはならない!!
家康の”天下公共のための政治”を行う心。
家康的なリーダーシップは、日本に一番向いているのかもしれません。


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posted by ちゃーちゃん at 12:33| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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