2012年09月21日

「番所庭園」です。

番所庭園は、和歌山市雑賀崎にあります。るんるん

地名を「番所の鼻」と言います。

P9171860.JPG

そう言えば、鼻みたい揺れるハート

地図で見るとこんな感じ。

P9171864.JPG


古くは、万葉時代・・・
神亀元年(724年)10月に、聖武天皇が大和の都から、お供の公家・宮廷人たちと和歌の浦に行幸されました。

その時、藤原卿が・・・番所庭園の北側に広がる「雑賀の浦」の漁火を見て詠んだのがこの歌です。


P9171871.JPG

「紀の国の
   雑賀の浦に
     出で見れば
  海女の燈火
    波の間ゆ見ゆ」



この景色は、1200年前と変わっているのでしょうか???


P9171862.JPG

3方を海に囲まれた、本当に見晴らしのいい・・・絶景です。黒ハート


この「番所の鼻」は、平坦で海に長く突き出た地形で、紀州藩は海の防備見張りの為に遠見番所を設けました。

藩領の海岸線10数か所に番所がありましたが、ここはその中でも和歌山城に最も近い番所として狼煙場とともに重要な場所でした。


1853年ペリー来航を機に、紀州藩も本格的に海防に取り組みはじめました。

そして、ここに、「元番所お台場」が構築されました。

P9171867.JPG

その年にロシアのプチャーチンがディアナ号で紀伊水道にやってきました。

そのことを記しているのは「異船記」。

ロシアとの軍事力の格差に驚いた紀州藩は急遽海防の強化に踏み切った様子が描かれています。

image[1].jpg


そんな歴史を肌で感じることの出来る番所庭園では・・・
この場所でバーベキューをすることができます。

P9171876.JPG

こんな景色を見ながら飲むビールは、本当においしいでしょうね。(私は下戸ですが失恋


和歌浦は、万葉の・・・そして、紀州徳川の歴史がたくさんあります。黒ハート


このきれいな海岸線は今も昔も変わらずに、とてもきれいでした。黒ハート


そして、私は日本一と思っている丸浜のかまぼこ黒ハート
「和歌山市」和歌浦丸濱かまぼこ詰合せ KM-5【楽ギフ_包装】【楽ギフ_のし】【楽ギフ_のし宛書】
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わが家では、お高いので・・・正月か運動会の時しか食べられませんあせあせ(飛び散る汗)

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posted by ちゃーちゃん at 18:56| Comment(0) | 和歌山探訪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

スーパーティーチャー・吉田松陰〜松下村塾は幕末の白熱教室だった!?

萩市にある松陰神社の境内には松陰の私塾・松下村塾があります。
わずか3畳半から始まった学校・・・

sonjyuku-kanban0[1].jpg

ここから、幕末の長州藩の攘夷運動を行った久坂玄瑞・高杉晋作をはじめ、初代内閣総理大臣・伊藤博文、日本陸軍を創設した山県有朋、変革の時代のリーダーがたくさん輩出されました。

20100412_1191181[1].jpg

しかし、当時松陰は、国禁を犯した罪人でした。
アメリカの黒船に密航して、謹慎を余儀なくされました。
なので、松下村塾はひっそりと開講、指導期間はわずか2年でした。

00111_l[1].jpg


ここで、どのようにして優秀な人材を出したのでしょうか???

それは、討論型の画期的な授業でした。
そして・・・それは危険思想へと発展していきました。
幕末・維新・・・混迷の時代の授業とはどんなものだったのでしょうか???


幕末期の人は、近藤勇に代表されるように解りやすいというのが特徴ですが、松陰はなかなか分かりにくい人、変人だそうです。

2年のうち、藩から許可が出ていたのはわずか5か月・・・
そんな危険思想の学校だったのですが。。。
子どもと一緒に考えたり、悩んだり・・・ディスカッションをする白熱した教室でした。

そして、20名ぐらいが戊辰戦争までに亡くなっています。
そして、この教室から出たのは総理大臣2人、大臣4人、県知事4人・・・
全体の30%の人が出世したようです。
塾生を通して日本を教育した人でした。


長州藩は、36万石の城下町で・・・
1855年12月、松陰が26歳の時に謹慎処分となりました。
わずか3畳半に蟄居することになります。
この小屋から松下村塾は始まりました。

松陰は、教育の目的を・・・

奇傑の人物は必ずここから輩出する。
西端の僻地にある長州が天下を奮発振動させる根拠地となるだろう。
学ぶとは人たる所以を学ぶことなり。

としていました。

松下村塾の一角から日本国を変えていこう!!=グローカリズムを唱えていたのです。
ここから塾の基本方針が出来てきます。

@学ぶ動機と志を明確にせよ
「何のために学ぶのか?」
それを示せば、身分に関係なく誰でもウェルカムでした。

A個性重視のマンツーマン教育
カリキュラム、時間割、教科書はありませんでした。
松陰はほぼ24時間体制で教えてくれていたそうです。

先生と生徒の垣根のない関係・・・
上下関係のない先生でした。

そして、そこには人は“善”である。。。
長所だけを伸ばして付き合うという先生でした。

評判は広がって・・・
塾生はどんどん増えていきました。


そこで「天下を相手にせよ!!」
天下を意識した教育をしました。

松陰は、僕と君を使いました。
僕とは“下僕”なんかに使われていましたが・・・
横の関係に使いました。
今までは士農工商の上下関係でした。その人間関係の意識を変えた人です。



1830年8月に、下級武士の二男として松陰は生まれました。
幼いころから父のスパルタ教育で・・・
19歳で藩校・明倫館の兵学師範となりました。

しかし・・・一番人気のない先生でした。
おまけに兵学は時代遅れ・・・
日本近海にも、列強がやってきて日本全体が危機感に覆われていました。


しかし、当時国政は譜代藩中心に行われていて、外様藩(長州)は参加をすることが出来ませんでした。どんな優秀な人があっても、それは当たり前でした。
長州は三方を海に囲まれていました。
危機意識が高かったと言えます。


1850年8月松陰21歳の時に・・・時代の波に乗るために遊学の旅に出ました。
長崎で最新の海外情勢に触れ、江戸では最先端の知識人たちと交流、次の年には長州藩を脱藩して日本中の海岸防備を見る為回りました。

1853年ペリーが来航します。日本に開国を迫りました。
それに憤りを感じた松陰は、攘夷を訴えます。

「新興国のアメリカに、歴史の有する我が国が膝を屈するとは
 涙が出るほど耐え難い恥辱である」

と、宮部鼎蔵あての手紙にも書いています。

しかし、圧倒的な軍事力の差を感じた松陰は・・・
1854年3月、25歳の時に密航を企てます。

本来の松陰は攘夷論者です・・・!?
国外密航は矛盾していますが、攘夷・・・それはどう考えても出来ない・・・
そこで!!


“国を救いたい”と、“学びたい”


アメリカにわたって勉強したい!!と訴えましたが、アメリカ側は日本との交渉に支障の出ることを恐れ拒否・・・

とらえられた松陰は江戸へ向かう途中にこう詠みました。

「かくすれば
  かくなるものと知りながら
   やむにやまれぬ大和魂」


10月萩に戻されます。
国禁を犯した罪で、野山獄へ投獄されます。

ここで・・・教育者・松陰が誕生します。
この野山獄に投獄されていた11人は、身分の高い者たち(士族)で。。。
そこで松陰は、得意分野を囚人同士で教えあいました。
学びあう関係性を学びました。
句会、討論会などもあったようです。

松陰が選んだのは「孟子」。
監獄の役人さえも引き込まれ、弟子入りしました。
松陰も、他の囚人から書やいろいろなことを学んだのです。

「人間にはそれぞれ能力の違いはあっても、
 一つや二つは長所を持っているものである
 全力を傾けてその長所を伸ばせば
 必ず立派な人間になることが出来る」


松下村塾の原型は、ここにありました。

塾生たちと農業に励みながら学校で語り合います。
1857年、8畳の教室が完成します。
翌年には、さらに10畳のスペースが増築され・・・現在の松下村塾の姿となりました。

塾生が増え・・・
教育方法も変わってきました。
松陰の授業スタイルは・・・

ゼミのようにコの字型に机を並べ、対面式に座るのは、画期的なことでした。

何をなすべきか、どういう生き方をするべきか!!??
自由な空気の中で意見を出し合う!!

命を懸けて質問し、それに命を懸けて答えていました。

気が付くと、寝食を忘れて明け方まで語り合ったと言います。

1858年松下村塾は、藩の許可をようやく得ることが出来ました。
そして、塾生たちも藩に抜擢されていくようになりました。

そんな中、久坂・高杉ら多くは京都や江戸に遊学するために退学していきます。
そして、遊学先で学んだことは、松下村塾に書物で伝えられ、「飛耳長目帳」に記載されました。
これによって松陰は萩にいて、日本中のこと世界中のことを知ることが出来ました。
ちなみにこの飛耳長目は、長州藩の諜報活動を行うスパイの別称で、藩が江戸に派遣した人たちもいました。


1858年6月、ハリスとの間に日米修好通商条約締結。
しかし、尊王攘夷派の怒りが爆発!!

これに対し、大老・井伊直弼は攘夷派の弾圧を始めました。
安政の大獄です。

松陰は、幕府を批判!!過激に倒幕をも考えるようになりました。

「征夷は天下の賊なり
 今措きて討たざれば
 天下万世其れ吾れを
 何とか謂はん」

松陰は、安政の大獄に関わった幕閣の暗殺計画を練るようになります。
間部詮勝暗殺計画・伏見獄舎破壊策・皇城守護策・水野土佐守要撃策・・・

しかも、藩にそれを進言し、武器の用立てを願い出ます。
しかし藩は松陰を危険分子とみなし・・・
1858年11月松下村塾閉鎖。
12月には再び野山獄に収監しました。

それでも松陰は、過激な計画を弟子たちに指示していきます。
高杉や久坂は、踏みとどまってくれるように血判状を送り続けます。

「しかし今はまだ時期尚早
 しばらく行いを慎むようにお願いします。」

弟子たちの悲痛な思いは届かず・・・

「幕府の不正な役人を懲らしめ
 ご政道をただすことが出来ないとは
 この藩には多くの家臣がいて 
 忠臣は私だけなのか
 そうではなかろう
 私が先駆けて死んで見せたら
 共感して立つものも必ずいるはずだ
 江戸にいる久坂や高杉たちは
 違う考えのようだ

 僕は本当の忠義をするつもり
 彼らはその意味を理解せず
 手柄を立て認められたいだけなのだ」

萩の弟子たちもいつの間にか離れていき。。。
孤立を深めた松陰は、自らの死を意識し始めます。


1859年5月松陰30歳の時に萩から江戸へ搬送されます。老中暗殺計画の取り調べを受ける為です。

覚悟を決めていたという松陰。。。

「帰らじと
   思ひさだめし旅なれば
      ひとしほぬるる涙松かな」


江戸で取り調べを受けた松陰・・・
弟子たちとのやり取りの中で・・・
高杉は、「男子はいかに死すべきか」と問います。
松陰は、
「死んで名声が永久に滅びないならいつ死んでもいいが
 生きて大きなことを成す見込みがあれば
 いつまでも生きるべきである」
と、答えています。

そして・・・
1859年10月27日吉田松陰斬首。

辞世の句は・・・
「身はたとひ
   武蔵の野辺に朽ぬとも  
     留め置きまし 大和魂」

死んでもなお、日本を思う魂は永久に残したいというメッセージでした。
死後、伝記を作ることが始められますが、容易にはその魅力は伝えられませんでした。

松陰の死後20年、伝記を書きあげたのは外国人でした。
“ロバート・L・スティーブンソン”です。
彼は、弟子たちから聞いた松陰に感動し、こう書いています。

「ヨシダ・トラジロウ」

吉田は醜く、おかしな程痘瘡の跡が残っていた
衣服はボロボロであったし、見苦しいことがしばしばあった

学問に対する情熱はすこぶる激しかったので、
自然の眠りすら惜しんだほどであった

一風変わった教師に対して
生徒は英雄らしさを認めようとしないものである

しかし歳月がたち 吉田の薫陶の意味を
ますます深く理解し始めると
門弟たちはこの滑稽な教師を人類の中で
最も高潔な人物として追憶するようになった

と。。。


童心は真心なり・・・
真心を尽くして相手に迫れば必ず伝わる。
とことん種を植え、弟子に花を咲かせ実を結ばせた教師でした。

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posted by ちゃーちゃん at 11:34| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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