2012年09月21日

スーパーティーチャー・吉田松陰〜松下村塾は幕末の白熱教室だった!?

萩市にある松陰神社の境内には松陰の私塾・松下村塾があります。
わずか3畳半から始まった学校・・・

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ここから、幕末の長州藩の攘夷運動を行った久坂玄瑞・高杉晋作をはじめ、初代内閣総理大臣・伊藤博文、日本陸軍を創設した山県有朋、変革の時代のリーダーがたくさん輩出されました。

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しかし、当時松陰は、国禁を犯した罪人でした。
アメリカの黒船に密航して、謹慎を余儀なくされました。
なので、松下村塾はひっそりと開講、指導期間はわずか2年でした。

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ここで、どのようにして優秀な人材を出したのでしょうか???

それは、討論型の画期的な授業でした。
そして・・・それは危険思想へと発展していきました。
幕末・維新・・・混迷の時代の授業とはどんなものだったのでしょうか???


幕末期の人は、近藤勇に代表されるように解りやすいというのが特徴ですが、松陰はなかなか分かりにくい人、変人だそうです。

2年のうち、藩から許可が出ていたのはわずか5か月・・・
そんな危険思想の学校だったのですが。。。
子どもと一緒に考えたり、悩んだり・・・ディスカッションをする白熱した教室でした。

そして、20名ぐらいが戊辰戦争までに亡くなっています。
そして、この教室から出たのは総理大臣2人、大臣4人、県知事4人・・・
全体の30%の人が出世したようです。
塾生を通して日本を教育した人でした。


長州藩は、36万石の城下町で・・・
1855年12月、松陰が26歳の時に謹慎処分となりました。
わずか3畳半に蟄居することになります。
この小屋から松下村塾は始まりました。

松陰は、教育の目的を・・・

奇傑の人物は必ずここから輩出する。
西端の僻地にある長州が天下を奮発振動させる根拠地となるだろう。
学ぶとは人たる所以を学ぶことなり。

としていました。

松下村塾の一角から日本国を変えていこう!!=グローカリズムを唱えていたのです。
ここから塾の基本方針が出来てきます。

@学ぶ動機と志を明確にせよ
「何のために学ぶのか?」
それを示せば、身分に関係なく誰でもウェルカムでした。

A個性重視のマンツーマン教育
カリキュラム、時間割、教科書はありませんでした。
松陰はほぼ24時間体制で教えてくれていたそうです。

先生と生徒の垣根のない関係・・・
上下関係のない先生でした。

そして、そこには人は“善”である。。。
長所だけを伸ばして付き合うという先生でした。

評判は広がって・・・
塾生はどんどん増えていきました。


そこで「天下を相手にせよ!!」
天下を意識した教育をしました。

松陰は、僕と君を使いました。
僕とは“下僕”なんかに使われていましたが・・・
横の関係に使いました。
今までは士農工商の上下関係でした。その人間関係の意識を変えた人です。



1830年8月に、下級武士の二男として松陰は生まれました。
幼いころから父のスパルタ教育で・・・
19歳で藩校・明倫館の兵学師範となりました。

しかし・・・一番人気のない先生でした。
おまけに兵学は時代遅れ・・・
日本近海にも、列強がやってきて日本全体が危機感に覆われていました。


しかし、当時国政は譜代藩中心に行われていて、外様藩(長州)は参加をすることが出来ませんでした。どんな優秀な人があっても、それは当たり前でした。
長州は三方を海に囲まれていました。
危機意識が高かったと言えます。


1850年8月松陰21歳の時に・・・時代の波に乗るために遊学の旅に出ました。
長崎で最新の海外情勢に触れ、江戸では最先端の知識人たちと交流、次の年には長州藩を脱藩して日本中の海岸防備を見る為回りました。

1853年ペリーが来航します。日本に開国を迫りました。
それに憤りを感じた松陰は、攘夷を訴えます。

「新興国のアメリカに、歴史の有する我が国が膝を屈するとは
 涙が出るほど耐え難い恥辱である」

と、宮部鼎蔵あての手紙にも書いています。

しかし、圧倒的な軍事力の差を感じた松陰は・・・
1854年3月、25歳の時に密航を企てます。

本来の松陰は攘夷論者です・・・!?
国外密航は矛盾していますが、攘夷・・・それはどう考えても出来ない・・・
そこで!!


“国を救いたい”と、“学びたい”


アメリカにわたって勉強したい!!と訴えましたが、アメリカ側は日本との交渉に支障の出ることを恐れ拒否・・・

とらえられた松陰は江戸へ向かう途中にこう詠みました。

「かくすれば
  かくなるものと知りながら
   やむにやまれぬ大和魂」


10月萩に戻されます。
国禁を犯した罪で、野山獄へ投獄されます。

ここで・・・教育者・松陰が誕生します。
この野山獄に投獄されていた11人は、身分の高い者たち(士族)で。。。
そこで松陰は、得意分野を囚人同士で教えあいました。
学びあう関係性を学びました。
句会、討論会などもあったようです。

松陰が選んだのは「孟子」。
監獄の役人さえも引き込まれ、弟子入りしました。
松陰も、他の囚人から書やいろいろなことを学んだのです。

「人間にはそれぞれ能力の違いはあっても、
 一つや二つは長所を持っているものである
 全力を傾けてその長所を伸ばせば
 必ず立派な人間になることが出来る」


松下村塾の原型は、ここにありました。

塾生たちと農業に励みながら学校で語り合います。
1857年、8畳の教室が完成します。
翌年には、さらに10畳のスペースが増築され・・・現在の松下村塾の姿となりました。

塾生が増え・・・
教育方法も変わってきました。
松陰の授業スタイルは・・・

ゼミのようにコの字型に机を並べ、対面式に座るのは、画期的なことでした。

何をなすべきか、どういう生き方をするべきか!!??
自由な空気の中で意見を出し合う!!

命を懸けて質問し、それに命を懸けて答えていました。

気が付くと、寝食を忘れて明け方まで語り合ったと言います。

1858年松下村塾は、藩の許可をようやく得ることが出来ました。
そして、塾生たちも藩に抜擢されていくようになりました。

そんな中、久坂・高杉ら多くは京都や江戸に遊学するために退学していきます。
そして、遊学先で学んだことは、松下村塾に書物で伝えられ、「飛耳長目帳」に記載されました。
これによって松陰は萩にいて、日本中のこと世界中のことを知ることが出来ました。
ちなみにこの飛耳長目は、長州藩の諜報活動を行うスパイの別称で、藩が江戸に派遣した人たちもいました。


1858年6月、ハリスとの間に日米修好通商条約締結。
しかし、尊王攘夷派の怒りが爆発!!

これに対し、大老・井伊直弼は攘夷派の弾圧を始めました。
安政の大獄です。

松陰は、幕府を批判!!過激に倒幕をも考えるようになりました。

「征夷は天下の賊なり
 今措きて討たざれば
 天下万世其れ吾れを
 何とか謂はん」

松陰は、安政の大獄に関わった幕閣の暗殺計画を練るようになります。
間部詮勝暗殺計画・伏見獄舎破壊策・皇城守護策・水野土佐守要撃策・・・

しかも、藩にそれを進言し、武器の用立てを願い出ます。
しかし藩は松陰を危険分子とみなし・・・
1858年11月松下村塾閉鎖。
12月には再び野山獄に収監しました。

それでも松陰は、過激な計画を弟子たちに指示していきます。
高杉や久坂は、踏みとどまってくれるように血判状を送り続けます。

「しかし今はまだ時期尚早
 しばらく行いを慎むようにお願いします。」

弟子たちの悲痛な思いは届かず・・・

「幕府の不正な役人を懲らしめ
 ご政道をただすことが出来ないとは
 この藩には多くの家臣がいて 
 忠臣は私だけなのか
 そうではなかろう
 私が先駆けて死んで見せたら
 共感して立つものも必ずいるはずだ
 江戸にいる久坂や高杉たちは
 違う考えのようだ

 僕は本当の忠義をするつもり
 彼らはその意味を理解せず
 手柄を立て認められたいだけなのだ」

萩の弟子たちもいつの間にか離れていき。。。
孤立を深めた松陰は、自らの死を意識し始めます。


1859年5月松陰30歳の時に萩から江戸へ搬送されます。老中暗殺計画の取り調べを受ける為です。

覚悟を決めていたという松陰。。。

「帰らじと
   思ひさだめし旅なれば
      ひとしほぬるる涙松かな」


江戸で取り調べを受けた松陰・・・
弟子たちとのやり取りの中で・・・
高杉は、「男子はいかに死すべきか」と問います。
松陰は、
「死んで名声が永久に滅びないならいつ死んでもいいが
 生きて大きなことを成す見込みがあれば
 いつまでも生きるべきである」
と、答えています。

そして・・・
1859年10月27日吉田松陰斬首。

辞世の句は・・・
「身はたとひ
   武蔵の野辺に朽ぬとも  
     留め置きまし 大和魂」

死んでもなお、日本を思う魂は永久に残したいというメッセージでした。
死後、伝記を作ることが始められますが、容易にはその魅力は伝えられませんでした。

松陰の死後20年、伝記を書きあげたのは外国人でした。
“ロバート・L・スティーブンソン”です。
彼は、弟子たちから聞いた松陰に感動し、こう書いています。

「ヨシダ・トラジロウ」

吉田は醜く、おかしな程痘瘡の跡が残っていた
衣服はボロボロであったし、見苦しいことがしばしばあった

学問に対する情熱はすこぶる激しかったので、
自然の眠りすら惜しんだほどであった

一風変わった教師に対して
生徒は英雄らしさを認めようとしないものである

しかし歳月がたち 吉田の薫陶の意味を
ますます深く理解し始めると
門弟たちはこの滑稽な教師を人類の中で
最も高潔な人物として追憶するようになった

と。。。


童心は真心なり・・・
真心を尽くして相手に迫れば必ず伝わる。
とことん種を植え、弟子に花を咲かせ実を結ばせた教師でした。

城下町へ行こう!「萩の城下町」はこちら

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松下村塾の明治維新 近代日本を支えた人びと
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松下村塾の人びと―近世私塾の人間形成
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吉田松陰と松下村塾
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2012年09月20日

よみがえる軍艦

和歌山県立博物館で・・・

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特別展「よみがえる軍艦〜エルトゥールル号の記憶」をしています。

和歌山の歴史なので、観てきました。

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1889年7月14日、エルトゥールル号は、イスタンブルを出港。

11ヶ月をかけて翌1890年6月7日にようやく日本に到着しました。

横浜港に入港したエルトゥールル号の司令官オスマン・パシャを特使とする一行は6月13日に皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けたのです。

その時に、陛下からいただいた菊の紋章入り陶器も展示されています。



エルトゥールル号は出港以来蓄積し続けた艦の消耗や乗員の消耗、資金不足に伴う物資不足が限界に達して。。。

おまけに、多くの乗員がコレラに見舞われたため9月15日になってようやく横浜出港の目処をつけました。

このような状況から遠洋航海に耐えないエルトゥールル号の消耗ぶりをみた日本側が、台風の時期をやり過ごすように勧告したのですが、トルコ側はその制止を振り切って帰路に。。。

遭難事件はその帰途に起こりました。

9月16日22時ごろに、台風による強風にあおられ紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突、座礁したエルトゥールル号は、機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし沈没しました。

これにより、司令官オスマン・パシャをはじめとする587名が死亡または行方不明になる大惨事となったのです。


しかし、地元住民の献身的な救助活動によって、69名が救出され生還することができました。

悲劇の遭難事故ではありましたが、この出来事は、日本とトルコとで広く語り継がれ両国の絆の象徴とされています。

例えば・・・
イラン・イラク戦争開戦時に。。。
当時、イラクはイラン上空の航空機に対する期限を定めた無差別攻撃宣言を行いました。
各国は期限までにイラン在住の国民を軍用機や旅客機で救出したものの、アメリカなどが優先され、ドイツ人や日本人は残されていました。

おまけに日本は、自衛隊の海外派遣不可の原則のために自衛隊機による救援が出来なかったうえ、日本航空はイランとイラクによる航行安全の保証がされない限り臨時便は出さないとしたのです。

在イラン邦人は危機的状況に陥りました。

野村豊イラン駐在大使がトルコのビルレル駐在大使に窮状を訴えたところ・・・

ビルレル大使は「わかりました。ただちに本国に求め、救援機を派遣させましょう。トルコ人ならだれもが、エルトゥールル号の遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょうとも」

と答え、大使の要請を受けて派遣されたトルコ航空機によって215名の日本人全員が救出され、トルコ経由で無事に帰国できたという美談もあります。

2008年より、エルトゥールル号遭難海域の水中で、発掘調査が行われました。

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特別展では120年もの時を経て引き揚げられた遺物を展示するとともに、発掘調査・脱塩処理・保存処理・復元・写真記録・遺物の研究など、水中考古学を取り巻く様々な活動も紹介してくれていました。


本当に、日本のニュースは今、反日!反日!という世界の情報がたくさんにぎやかに踊っています。
でも、親日国もたくさんあるわけで・・・黒ハート

そんなニュースもいろいろ聞きたいなあ・・・

なんて、思ってしまいました。黒ハート

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2012年09月19日

城下町へ行こう!「水戸の城下町」

水戸と言えば、水戸黄門。
今回は、城下町に残る水戸黄門の不思議です。

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茨城県水戸市。
人口26万9335人、面積217.43㎢、特産は納豆・梅・あんこうです。
常陸国水戸は28万石、徳川御三家のひとつ水戸家が長くその地を治めてきました。

水戸藩初代藩主は、家康の11男・徳川頼房。
頼房が、城下町の基礎を造りました。
それを発展させたのが、二代藩主の徳川光圀でした。
この光圀が、名君と呼ばれた水戸黄門です。
幕府の中で絶大な発言力を持つ副将軍として活躍しました。


水戸城は、東西およそ3.5qの広大な敷地を誇っていました。
しかし・・・石垣は一か所もありませんでした。
400年にわたり、土塁が城を守ってきたのです。

でも、どうして石垣を作らなかったのでしょう???
石垣にお金をかけるなら、水戸藩の伝統として、学問に・・・人間教育にお金をかけようとしたのです。
というのも・・・

水戸にはお殿様はいませんでした。
御三家は、諸藩の中でも最高位。中でも水戸藩は定府制を取っています。これは、江戸時代において、参勤交代を行わずに江戸に常住し、将軍や藩主に仕えるのです。
そのため水戸の殿様は、いつも江戸にいたのです。

その中でも、光圀は唯一、水戸で産まれた殿様でした。
そこは・・・水戸黄門神社となっています。

水戸光圀は、とってもイケメンでした。
「桃源遺事」には・・・
 御色白く 御像高く
 世情にて美男の聞え有り
光圀のいるところには人垣ができ・・・江戸のスターだったようです。

黄門という名は、中国の官職名で、「黄門侍郎」の略称です。
皇帝に仕え、家臣たちに仕事を伝える中納言です。


水戸黄門は7人いた???
歴代藩主の中で、中納言になった人は7人いましたが、水戸で生まれ、隠居後水戸で過ごしたのは黄門様だけです。
人々は、特別な親しみを込めて、水戸黄門様と呼んだのです。

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弘道館・・・は、水戸藩9代藩主徳川斉昭によって創設された藩校です。
1857年開館。

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斉昭が人材育成を目指して建設した水戸藩の藩校で、5万4000坪の敷地は全国一を誇る広さで、総合大学のようなものでした。
徳川慶喜も、この弘道館出身で、エリート養成校でした。

学んでいたのは、究極の歴史学「水戸学」。

水戸光圀が編纂したのは「大日本史」。
これは、光圀最大の功績とされています。
全397巻、目録5巻からなっています。
これは、天皇家から地域の歴史まで、日本の歴史を網羅したものです。
水戸藩の一大事業として1657年に着手し、1906年に完成したものです。

これを基本としたのが水戸学でした。
水戸学は、尊皇敬幕(天皇を頂点に幕府が政治を行うのが望ましいという考え方)でした。
しかし、弘道館が建てられたころには攘夷思想が蔓延していました。

1853年黒船来航・・・これ以来、日本の鎖国政策が崩壊してしまいました。
井伊直弼は開国を決断しましたが・・・水戸藩は、尊皇攘夷を貫きました。それは、水戸学によるものです。

この水戸学を学んだのは・・・吉田松陰ということは、高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文、藤田東湖・・・この東湖に影響を受けたのは、西郷隆盛でした。
明治維新・・・この礎になったのは、水戸学だったのです。

武士の世を終わらせた明治維新は、水戸黄門から始まっていたのかもしれません。


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偕楽園。
そこは、日本三大庭園のひとつです。
天保13年、徳川斉昭によって水戸随一の場所に作られました。
江戸時代には、庶民にも開放されたそうです。

千波湖には黒鳥がいます。
が・・・白鳥もいます。
この白鳥は、彦根藩からもらったものです。
でも・・・?水戸藩と彦根藩は、桜田門外の変なんかで犬猿の仲なのですが・・・?


安政の大獄、桜田門外の変なんかの歴史のわだかまりを解くための白鳥が水戸へ、彦根には梅が贈られました。
水戸と箱根は今では親善都市となりました。


水戸黄門伝説には・・・
北海道探検をしたというものがあります。
1666年、7000両をかかて大船を建造します。

「快風丸」・・・この船で、蝦夷地探検を行ったと言われています。
未開の土地・蝦夷に探検隊を派遣しました。
その目的は交易と言われていますが、もう一つ、義経伝説の調査を大日本史に載せるために調べていたようです。
が、その真偽は定かではありません。


黄門様はどんな夢を見ていたのでしょう。
黄門様と一緒に歴史を歩いてきた水戸の城下町でした。

水戸光圀は暴れん坊副将軍だった 真説水戸黄門
水戸光圀は暴れん坊副将軍だった 真説水戸黄門

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posted by ちゃーちゃん at 09:02| Comment(0) | 城下町へ行こう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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