2012年08月23日

「戦場の軍法会議〜処刑された日本兵〜」

NHKスペシャルです。

太平洋戦争の激戦地となったフィリピン・ルソン島。
日本兵だけで50万人近くの人が命を失いました。

ジャングルに追い込まれた部隊で悲劇が起きました。
昭和20年2月27日・・・
食料を求めて部隊を離れた若い兵が、部隊を離れたということで、逃亡罪で処刑されたのです。

しかし、判決に深くかかわった人たちの記録にも、本来死刑には値されないと、記録されていました。

資料が明らかにしたのは、軍の中で行われた軍法会議の実態でした。
太平洋戦争中、解っているだけでも1万人の兵士が軍法会議にかけられ判決が下されました。

資料はほとんど処分され、公正な裁判かどうかは分からなくなってしまいましたが、最近資料が発見されました。

法の制度の名のもとに、処刑された日本兵たち・・・
初めて明かされる戦場の軍法会議です。


殆ど残っていない軍法会議の資料は、鳥取県にありました。
そこには軍法会議に深くかかわっていた人の日記がありました。
法務中佐の戦前から戦中の19冊の日記と内部文書です。
これまでほとんど表に出ることのなかった貴重な資料です。

その中には、不当に行われた軍法会議があったようです。
「戦地で、ひっ迫している状態でやむおえなかった。
 堪忍してくれ」と、やったと。。。

重い歴史でした。

戦争を嫌っていたその人は、東京帝国大学を出て、司法試験に合格し、軍法会議のなかで重要な地位を占める法務官という職業を選びました。
軍法会議とは、軍人のことを軍隊が裁くというもので、各地の司令部や駐屯地におかれていました。

サイパンを取り仕切ったのは、法律の専門家ではなく軍人たちでした。
5人の裁判官・・・その中に、一人だけ法務官(文官)がいました。
その役割は、軍人に指導し、被告となった人の人権を守ることでした。

彼は、自分は法の番人だと思っていました。
「裁判官たる法務官は、何者にも侵されない。。。」と。

昭和16年12月、太平洋戦争開戦。

このころ法務官の立場を大きく揺るがす事件が起こります。

旧陸軍省で。
文官として独立性を持っていた法務官・・・
その法務官を軍人にする法改正が行われようとしました。
軍の意向を反映するためです。


被告の人権を守る法務官は、軍人にとって厄介な存在でした。
開戦から4か月、法務官は、軍人となりました。

各地に戦線を拡大していく日本・・・
これに伴い、軍法会議で処罰される兵が増えていきました。
軍法会議が戦地で行われるようになり、法務官も戦地に赴くことになります。

昭和19年彼は、マニラに派遣されました。
連合軍から激しい攻撃を受ける戦場。。。

昭和20年部隊は北部のバヨンボンに移動、ここでフィリピンにいる4万人の海軍兵の管轄をすることになります。

彼の書いた犯罪リストには、逃亡がありました。
空腹に耐えかねて、隊を逃走する兵士たちが後を絶たなかったのです。
これに対して、その場で銃殺していた上官たち。。。
彼は、違法な処置を取らずに軍法会議にかけることを提言します。

例外なくすべての犯罪は軍法会議で裁く・・・
例えそれが戦場であっても公平を失わないように・・・


しかし、その資料の中には・・・


悩んだ挙句に死刑判決をしてしまった事案が書かれていました。
犯罪事実としては死刑宣告に値しないが、死刑にしなければならなかったと・・・


戦場で何があったのでしょう???


それは、昭和20年2月22日。
上等兵は、22歳。
食料を探しに部隊を出て、15日後につかまりました。

「この事実だけでは、死刑に値しない。」

上等兵の行為は、「戦時逃亡」に値するとされたのです。
これは、当時の規定では、懲役・禁錮6か月以上7年以下でした。

しかし、言い渡されたのは「死刑」。

「戦時逃亡」ではなく「奔敵未遂」とされたのです。
奔敵とは、戦わずして敵の捕虜となること。。。
最も重い罪は、死刑でした。

この上等兵は、英語が得意でした。
その何を恐れたのでしょう?

当時部隊の上層部は、英語の上手な上等兵を通じて、アメリカ側に秘密が漏れるのを恐れていました。
だから、死刑にされたというのです。

死刑を正当化するための圧力が、法務官にかかります。
法務官は、悩みつくしましたが、その圧力には、抗いきれませんでした。
こうして一人の若い兵士の命が失われました。


軍による不当な処刑は他にも行われていたのでしょうか?
軍法会議の資料は、ほとんど残っていません。

しかし、旧厚生省が、軍法会議の聞き取り調査をしていたことがわかりました。
対象となったのは、裁判官や法務官など20人です。
昭和30年から40年代に行われました。

一つの部隊だけで、変死や変病死とされた人々が、裁判を受けずに死んだと思われます。

そのうちの一人の曹長。
これに問題があったといわれています。
10年間の調査でも、訴訟記録が存在しない・・・と。
本人が、適正な裁判を受けたという証拠はどこにもない・・・。


このことは、遺族にはどう伝えられたのでしょう。
曹長の死因がはっきりしたのは、遺族年金を申請した時のことでした。
「敵前逃亡罪」で死刑にされたと、年金の給付を断られたのです。

かつて、逃亡兵は国賊とされ、遺族は肩身の狭い思いをしてきました。
しかし、遺族にはこの調査が行われたことも、結果も、知らされていませんでした。

この曹長の名誉を回復することは出来ないのでしょうか?
県庁社会福祉課では・・・

法改正された昭和45年以降は、年金が給付されています。
しかし、記録には、今も、
「敵前逃亡罪で死刑」と、書かれています。

しかし、証明は難しく、真相を調べてもらうことも、罪名を記録から外してもらうことも出来ませんでした。
軍法会議が残した、消えることのない汚名・・・
戦後67年たっても遺族は苦しんでいます。


太平洋戦争末期のフィリピン。。。
死刑に値しながらも処刑を認めた中佐は。。。
昭和20年4月、フィリピンの山奥に追い込まれます。
その司令部で。

連合軍による空爆は、激しさを増していました。

「異常なる環境」
空襲・砲撃・食料欠乏・病気・マラリア・窃盗・上官殺人・死体損壊・・・

もはや、敵も味方もない異常事態でした。
前線から司令部に打った電報には・・・
「16名、密ニ逃亡セリ。
 総員特攻ニ使用
 國賊の汚名ヲソソガシメントス」
特攻・・・それが、逃亡兵の処刑代わりになっていました。

軍法会議を通さずに行う処刑。
それは、あってはならない行為でした。

崩壊の危機に直面する日本軍。
そして、中佐は、法律家の一線を越えてしまいます。

「敵前ニオイテ
 軍規ヲ保ツ為逃亡者ヲ斬ルコトハ
 犯罪ニハナラナイ」

軍法会議にかけずに処刑する違法行為を認めてしまいました。

死が間近に迫る環境が、彼を追い込んで行ったのでしょう。
生きるか死ぬかの環境では、余裕もなかったのでしょう。

理不尽で、滅茶苦茶な状況でした。

昭和20年8月15日終戦。
日本軍だけで、230万人犠牲になった戦争が終わりました。
その日、軍法会議に関する資料が焼却されました。

中佐が、戦場から密かに持ち帰った資料だけが残りました。


不当に処刑されたことが分かった上等兵。。。
遺族に処刑が告げられたのが、処刑の2週間後でした。
いつの間にか島からいなくなってしまった遺族。。。
家族と親戚は、処刑が告げられた後すぐに島を出て行っていたのです。


遺族の一人は・・・
「上等兵のことは知らない
 もう、触れないでほしい・・・。」と。


法務中佐は、戦場で下した判断について・・・

「戦争が悪い、と言ってしまえばそれまでであるが・・・
 急迫した戦場心理は、自己防衛となり、部隊防御に偏ってしまうことが避けられない
 忸怩たる思いはするが、法務の責任者としてやむを得なかった。」
 
一人の法律家が残した、軍法会議の膨大な資料。
不当な判決・奪われた命。
正義をもたらす法が、戦争の罪に加担していく恐ろしさを、今に伝えています。


 
戦争は、本当に怖いですね。
私たちも、戦争についてもっともっと学ばなければいけないことがたくさんあると思います。


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posted by ちゃーちゃん at 10:34| Comment(0) | テレビ番組 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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