2012年08月01日

公園のタコ滑り台の謎。

先日やっていた「ten!若一ミステリー」で、面白いのがありました。

日本の滑り台に”タコ”が多いわけ。です。
そう考えると、いろいろ探して自由研究にするのもいいかも??ですが・・・。

33[1].jpg

そう、このタコの滑り台です。
これは、日本最大級の滑り台で、吹田市にあります。
写っているのは、この謎に取り組んだ読売テレビのアナウンサー清水健さんと、若一光司さんです。

大阪府内だけでも、20基ほど存在しています。
日本では、北海道から沖縄まで200基を超えるタコの滑り台があります。
でも、どうしてタコが多いのでしょうか???


このタコの滑り台の原型となったものは???

タコの滑り台の生みの親は・・・
多摩美術大学名誉教授の”工藤健”さんです。

今でも現役の芸術家さんですが、この工藤教授が美術会社に勤めていたサラリーマン時代にデザインしたものだそうです。

元々は、タコにするつもりなどなく。。。
野外彫刻で見せながら、形の美しさの中に子供を参加させようと思って創ったものだそうです。

曲線美と芸術性に優れたものだったものが、どうしてタコに???


足立区からの注文で・・・
区のお偉いさんが・・・
「これに頭をつけたらタコになって面白いじゃないか???」と、言ったのが、最初だそうです。

そこで初めて”タコ”が出てきました。
そう、曲線美と芸術性のある滑り台に無理やり頭をつけたのが、タコの滑り台でした。

嫌だったものの、サラリーマンの悲しい性で、頭をつけてデザインしたそうです。

そうして、誕生から10年で400基という大ヒットとなりました。

そのうち、
「目玉をつけろ」とか、
「いぼいぼをつけろ」とか、
「ハチマキをつけろ」とか・・・
作者の意に反する処に滑り台がいってしまったのだとか。。。

サラリーマン時代の苦悩の思い出だそうです。


しかし、その滑り台は、半世紀たった今でも全国の子供たちに愛されています。黒ハート


まさに雑学ですが、なかなか面白いお話でした。揺れるハート

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ラベル:滑り台 タコ
posted by ちゃーちゃん at 15:29| Comment(0) | テレビ番組 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

田原総一朗の仰天歴史塾〜経済大国の罠 田中角栄と中曽根康弘〜

高度成長の時代に、2人のリーダーが登場します。

列島改造の田中角栄、行政改革の中曽根康弘・・・。
2人は、それぞれのかたちでこの国を改造しようとしました。


日本のドンと言われた田中角栄。。。
それは、彼のたぐいまれな才能と金権・・・。
そして彼は、国土の格差をなくして、日本を一つにしようとした男でした。
そして、その改造プランは、今も走り続けています。


1976年、戦後最大と言われた政界スキャンダル”ロッキード事件”。。。
闇将軍・角栄。昭和が生んだ稀代の政治家・田中角栄。

戦後の総理大臣の中で、唯一小学校卒業の総理大臣です。
普通は、東大・京大を出て、高級官僚を経験して・・・というステップを踏みますが・・・。

それでも議員立法を33も作った前代未聞の総理大臣です。

田中角栄が悪いイメージとなったのは、ロッキード事件でした。

1976年2月、アメリカ上院外交委員会で、ロッキード社による航空機売り込みの国際リベートが発覚しました。
それは、突然、ロッキード社のコーチャン副会長が「日本の政府高官に多額の裏金を渡した」と暴露したのです。ロッキード事件の始まりでした。

証拠として提出された領収書には”ピーナッツ100個受け取った”とありました。

それは、賄賂の暗号でした。
受け取ったのは、田中角栄???
戦後最大の疑獄でした。

ロッキード社は、丸紅に航空機売り込みを依頼、その工作資金が賄賂として角栄に渡ったというものです。
その額・・・5億円!!
角栄は、マスコミと世論の壮絶な批判にさらされていきます。


強大な派閥を率いて、政界に君臨していた角栄・・・
その角栄が、押しつぶされていきます。

7月にはロッキード事件で逮捕され、自民党を離党。
1983年10月ロッキード事件第一審判決が出て、懲役4年・追徴金5億円の実刑判決が出ます。

田原総一朗さんは、その矛盾を指摘しています。

調書によると、現金を受け取ったのは角栄の秘書・榎本敏夫。
取り調べに対し、4回にわたる授受を自白しました。
1回目は、英国大使館裏の路上で1億円。
2回目は、千代田区路上の電話ボックス付近で1億5000万円。
3回目は、ホテルオークラ駐車場で1億2500万円。
4回目は、丸紅・伊藤常務の自宅マンションで1億2500万円。。。

とされています。

問題は、3回目の授受。。。
受け渡し場所は、ホテルオークラ宴会場入口。
しかし・・・田原総一朗さんはこの受け渡しに対して矛盾を感じていました。

榎本さんの自供は・・・
検察と警察に誘導尋問され、に受け渡しを認めさせられたというのです。

この3回目の授受の日は、議員のパーティーが催されていました。
たくさんの議員がいたのです。
そして、珍しく大雪の降った日でした。

そんな中、3駐車場で30分も話をして、受け渡しをしたというのでしょうか???
丸紅からお金をもらっているのは確か・・・でも、1年後のことでした。
なんだかとってもグレイです。

田中角栄は、1918年新潟県二田村(現柏崎市)生まれ。
1943年、25歳で田中土建工業株式会社設立。

そして、韓国で商売を始めました。
ごっそり儲けて帰ってきました。

1947年、29歳で新潟3区から出馬、初当選しています。

政治の世界に入るきっかけは、GHQの公職追放でした。
戦後それだけ多くの政治家が公職追放されていたのです。

「俺にはちゃんとした教育がない
 どうしたら政治の勉強が出来るだろうか?」

手探りで政治家への道を歩き始めます。

選挙では、お金を持っている”成り上がり者”として、都市部では相手にされません。
雪深い農村地帯を回る日々が続きます。
山村の奥深くまで・・・取り残された人々の声に耳を傾けました。


「人口の少ない村に住んでいる人間は、
 表日本の都会より不便で、貧しくても仕方がないなんて馬鹿なことはない」

雪に苦しむ故郷を豊かにする・・・
角栄は、そのために突き進んでいきます。

ドイツの高速道路”アウトバーン”
日本に高速道路がない時代に、角栄は、道路問題調査団として訪欧します。
この道路を走り・・・

「こりゃあいい!これをやろうや!!」

その言葉通りに、有料道路法を制定、高速道路を作り始めました。
さらに、ガソリン税導入で、道路特定財源を生み出します。

学歴も派閥もない角栄が、立法を以てお金を生み出していきます。
そして、発言力を広げていきました。

39歳で史上最年少で郵政大臣に。。。
権力への階段を上り始めました。
そして、44歳で史上最年少大蔵大臣へ。。。

1963年に新潟地方に記録的大雪が降りました。その時、はじめて豪雪被害に対して災害対策基本法を適用しました。

当時、雪は災害などではないという意見がありましたが。。。
豪雪に補助金を使うことを認めさせたのです。

そして、新潟に公共事業を次々と落としていきます。
地元からは、陳情客が。。。

そして、公共事業を求めて土木業者がやってくるようになりました。
業者らは、社員までもこぞって角栄を応援します。
こうして角栄は、利益誘導型の政治システムを作っていきました。

1972年、角栄は自由民主党総裁になり、夢を実現させました。
今太閤・田中角栄の誕生です。

そして・・・「日本列島改造論」が走り出したのです。

「均衡ある国土の発展」を目指して・・・
@1日生活圏、1日経済圏、1日交通圏を拡充する
A大都市の工場を地方に移転する
B25万人規模の地方中核都市を全国各地に作る
C全国各地域を結ぶ情報ネットワークを整備する


具体的には、有料道路を作りました。
しかし、官僚は、前例のないことは出来ないと言いますが。。。
渡し船も橋も、お金がとるものがあるのに。。。
と、強行します。
この時代は、高度成長期・・・
今日よりも明日の方が豊かという時代でした。


貧しい生活をいかに豊かにするか・・・
そのことに興味があったようです。

なぜ、こんなことが出来たのでしょう???

それは、官僚をうまく使ったのです。
戦後の政治家の中で、一番うまく官僚を使った稀な政治家と言えるでしょう。

それは、課長以上の官僚のデータ・・・
誕生日、結婚記念日、子供の誕生日、入学式・・・をすべて覚えていたそうです。
贈り物攻撃です。

まさに、敏腕ホストでした。
しかし、官僚に相談することも忘れませんでした。

総理に就任するや否や・・・
1972年9月、中国・北京に降り立ちました。

この前年に中国は国連に加盟。
日本としては、国交を正常化する必要性に迫られていました。
角栄は、日中国交正常化に挑みます。

自民党には、親台湾派が多く、正常化に失敗すれば、政権にとっては大打撃です。

晩餐会・・・ここで思わぬ事件が・・・。

角栄の言った言葉「迷惑をかけた」にたいして、
周恩来は「侵略戦争をそんな言葉で片付けるとは!!」と激怒。

周恩来の抗議を受けた角栄は、日本では、誠心誠意の謝罪を表すと約束します。
過去のことを言上げするだけでは事柄の解決にはならない!!と、言い切りました。
しかし、台湾問題、日中の戦争問題終結に対する表現でも折り合いません。

意気消沈する大平正芳外相に対して・・・
「最後は俺が責任を取る!!」と言い続けました。

訪中3日目、突然、毛沢東国家主席との面会が実現します。

毛首相は
「もうケンカは済みましたか?
 ケンカをしなくては駄目です。
 ケンカして初めて仲良くなるのですよ。」

これが、Goサインとなり、日中国交化は成功しました。

当時の中国は貧しく、ODAの対象国でした。
つまり、日本と一緒に開発することは、中国の利益となったからです。


これに対して怒ったのが「青嵐会」・自民党タカ派の政策集団です。
ハマコー、中川一郎、今なら、石原慎太郎です。
が、大反対します。

しかし角栄は、石原慎太郎以外を政務次官に任命しました。
ここが、角栄のキャパの大きいところです。

列島改造論は、良かったのですが・・・
1973年10月第4次中東戦争が始まってしまいます。

その余波が日本にも・・・原油価格が3か月で4倍になってしまいました。

買い占め騒動、ガソリンの高騰・・・
当時は、列島改造論のため。。。投機目的のために、地価が急激に上がっていました。

地価高騰と、オイルショックは、インフレと不況を招きます。
物価が上がり、仕事がなくなります。
列島改造が行き詰まりを見せ始めました。

しかし、角栄は・・・資源獲得のために、ソ連訪問。
その他にも14か国・・・資源外交の始まりでした。

それまでは、オイルメジャー(欧米の石油巨大企業7社)が、権利を持っていたのです。
それを和製メジャーを作ろうとしました。

これに対して、アメリカが怒り。。。
1974年に、インドネシアで反日暴動が起きます。戦争を思い出させる侵略だ!!と。

結局、資源外交は上手くいきません。。。


そして、ロッキード事件が。。。


つまり、田原総一朗さんは、資源外交に怒ったアメリカに、田中角栄がはめられたのが、「ロッキード事件」だというのです。

やはり、今も、オイルメジャーを通して買っているようなものです。

そして、列島改造計画が破綻していくのです。

オイルショックと自らの金脈追求で総理の座を下りた角栄。
しかし、目白の闇将軍として活躍します。

「もう1回総理をやる。
 このままおめおめと引き下がれない」

と漏らしていたのに。。。
ロッキード事件がとどめの一撃となります。
法廷闘争は7年にも及びましたが、結局勝てませんでした。

有罪判決が下り、政界復帰が絶望的となると、田中軍団に亀裂が生じます。

1885年竹下登が創政会を旗揚げします。
許せぬ裏切りでした。

その20日後脳梗塞で倒れます。

1990年政界引退。
田中支配の終わりでした。


その後、中曽根康弘。
戦後3番目の長期政権を立てる男が登場します。



今、なんだか政治が混沌としているので、こんな強烈なリーダーシップを持っている人が出てくるといいのかなあ???
と思いながら、負の遺産と両てんびんにかけてみました。
どうでしょう???

その話はまた後で。。。

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posted by ちゃーちゃん at 12:31| Comment(2) | テレビ番組 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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