2012年08月19日

巨大戦艦 大和〜乗組員たちが見つめた生と死〜

ナビゲーターは、当時の乗組員と同じような年頃の、瀬戸康史さんです。
「キバ」ですね黒ハート

ドキュメントドラマを交えた解りやすい作品になっていました。

昭和20年4月6日夕刻、戦艦大和は、山口県徳山湾沖から出撃します。
乗組員に命じられていたのは、再び生きて帰ることが望めない「特攻」でした。

しかし大和は、目的地に達する前に米航空機の集中攻撃を受け、持てる能力を充分に発揮できないまま沈められ、3000人を越えるおびただしい死者を出しました。
彼らは息子であり、夫であり、父親でした。なぜ大和は、「死」を前提とした「特攻」を命じられねばならなかったのでしょうか。

戦艦大和の誕生から最期までを、ごく少数となった元乗組員の貴重な証言を軸に記録するとともに、「特攻」へと突き進んでいった海軍上層部の議論。。。を解説してくれました。


大和は造船技術の粋を集めたと言われています。

それは戦艦に魚雷などの弾丸が当たっても船体に多数の仕切を作った水槽に水をいれてバランスを保つ技術があるからです。

もう一つは巨大な46センチ砲を3門装備していましたが・・・しかし、戦闘技術が航空化し、戦艦対戦艦の小回りの利かない戦いが必要とされなくなった今、戦艦を作ってもその巨大な46センチ砲は一発も発射されることはありませんでした。

そして、その攻撃の売りだった巨大な46センチ砲が命取りになります。


特攻をとなったのは・・・

「そんな莫大な金を使った戦艦を無傷で残しておいて良いのか?」

という海軍内部の圧力によるものです。

しかし、そこには反対意見もありました。
大和を動かすための燃料があれば、もっと他に何か違ったことが出来るかもしれないという判断です。


議論の末に。。。
実績を示すために特攻をすることになりました。

犠牲になったのは3000人もいた乗組員。

「総員退去」命令が余りにも遅かったので犠牲者が増えてしまいます。

しかし、海上にさまよう乗組員や戦闘員の救助に向かった護衛艦も途中で引き返してしまいました。

なぜなら、一発も発射されなかった46センチ砲の弾薬が海中で大爆発をし、救助に行った船に損害を与えかねなかったからです。

「そんな馬鹿な!!」状態ですが。。。
もう、戦争も末期・・・
上層部には、これで戦争を終わらせることが出来る・・・
というきっかけになる希望だったのかもしれません。


生き残った人たちは皆、海中で大きな火の玉を見たと証言しています。

巨大なものは一発当たれば効果も期待できる!!

しかし大和は、単なる鉄くずとなって海に沈み、巨大な棺桶となってしまいました。

「沈まぬ戦艦」。。。「不沈戦艦」と呼ばれた大和の、あっけない最期でした。


この戦艦大和を見ていて、「坂の上の雲」を思い出していました。

そう、きっと日本は、バルチック艦隊と戦うようなことを想定していたんじゃないかなあ・・・
って。


太平洋戦争に関しては、本当に、浦島太郎のような戦いを強いられていたことを改めて思いました。

”海軍は(陸軍と違って)カッコいい”という想いは、太平洋戦争に関しては当たらないのかもしれませんね。


若い命がたくさん亡くなったことを、本当に辛く思います。
最近、尖閣諸島や竹島問題がクローズアップされています。

「日本の若い子はどう思っているんだろう」とか思います。

もちろん、太平洋戦争で日本のしたことは許されないことかもしれません。
でも、当時は帝国主義の時代でした。
やっぱり負ければ賊軍なのかなあ。。。
なんて、思ってしまいますが。


総理が靖国神社参拝してもいろいろ言われるわけですが。。。
日本の為にこんなにまでして戦ってくれた人の鎮魂を願ってもいいんじゃないかなあ・・・
と、個人的には思います。

日本は”和を以て尊しとなす”良い国だと思います。
戦争はいけないことですが、違った意味での「愛国心」があってもいいと思います。

それも、右寄りな考えになるのでしょうか???


戦艦「大和」の真実: 【完全保存版】悲劇の“不沈艦”の全生涯 (学研ムック) [ムック] / 前間孝則, 堤明夫, 相澤淳 (著); 学研パブリッシング (刊)
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戦艦大和の全て (双葉社スーパームック―超精密「3D CG」シリーズ) [ムック] / 松野 正樹 (著); 双葉社 (刊)
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2012年08月16日

鎌倉ミステリー・北条一族の陰謀〜史上最大のNo,2〜つづき。

昨日の続きです。黒ハート

北条一族最大の危機は・・・
北条VS朝廷の”承久の乱”です。

これは、3代将軍・実朝を巡る朝廷との微妙な関係が始まりでした。

実朝は、和歌などに明るく、朝廷と友好関係を結ぼうとしたのです。
この時、権勢をふるっていたのが、後鳥羽上皇でした。
武闘派で知られる上皇で、朝廷の権威を高めようと思っており、公武に君臨する絶対の存在として、武家を調教しようと考えていました。

後鳥羽上皇は、実朝を手なづけようとして、右大臣の地位を与えます。
しかし、その実朝が、1219年に暗殺されてしまいました。

実朝を暗殺したのは、2代将軍の息子・公暁。
その公暁も、何者かによって暗殺されてしまいます。
この事件で、源氏将軍家が断絶してしまいました。
幕府の大問題となってしまいます。

幕府と朝廷、どちらにも混乱を招いたこの事件・・・
将軍を失った幕府・北条義時は、朝廷に使者を送ります。

「後鳥羽上皇の子供(親王)を将軍に迎えたい」

しかし、後鳥羽上皇からは条件が・・・

守護・地頭の廃止。
この守護・地頭、はじめは平氏の残党処理のために、臨時に置かれていました。
しかし、領主の地位を脅かし、年貢にまで口出しするようになっていました。
その結果、朝廷に入る年貢が激減していたのです。

後鳥羽上皇は、朝廷領の地頭罷免の院宣を発します。

これを飲めば・・・どんどんエスカレートして、幕府存続の危機になるかもしれません。
・・・やんわりと拒否をします。
「頼朝公が、平氏騒乱の恩賞として任命された地頭には、何の罪もごさいません。
 解任せよとの命令に、従うことは私にはできません。」

絶対命令の院宣に刃向った義時。
後鳥羽上皇の怒りは、絶頂に!!

1221年5月15日、義時追討の院宣発令。
「義時は、思うままに政務を執り、権勢をふるい、まるで天皇の権威を忘れたかのようである。
 これはもはや、謀反というべき暴挙だ。」

後白河は、一枚岩ではない幕府の内部分裂を狙います。
     ⇓
承久の乱勃発!!!

この承久の乱、日本史上稀に見る事件です。
朝廷に弓を引くのは、後にも先にもこれだけなのです。

武闘派の後鳥羽上皇でなければ、承久の乱は起こっていなかったかもしれません。
文武両道の後鳥羽上皇は、幕府の解体を狙っていたのです。
だって、将軍が居なければ、幕府なんて存在そのものがないのだから・・・


こんな場合、普通なら幕府は滅びてしまいます。
もちろんNoと言った義時は、恐れ多いと思っていて・・・
でも、東国で生まれ育ったせいか、王権が解っておらず、西よりはありがたみが薄かったのも事実です。

この武士と朝廷との関係は、平清盛が政権を取ろうとしてから始まった物語です。

元々武士は、開拓農民でした。
なのに、所有権が認められない!!
なぜ、自分の土地なのに権利が認められないのか???

頼朝は、所領の安堵・土地の権利を認めていました。
ここに、一所懸命・本当の御家人の本質があるのです。
「原始状態はまっぴらだ!!」

しかし、朝廷・神社仏閣にしてみれば、「武士は朝廷の番犬だ!」「牛車がわり」文句を言うことに納得できなかったのです。

当時、鎌倉幕府は全国を制覇しているわけではなく、その支配地は1/5ほどでした。
守護・地頭を増やして武士の権益を広げたいと思っていました。

そして朝廷は取り上げたいと・・・。

義時は、たくさんの御家人の手前、Noと言わざるをえなかったのかもしれません。
背水の陣に見えた義時・・・

朝廷に反旗を翻し、日本史上始まって以来の内乱。。。
大逆転できたのには、政子の演説があったのかもしれません。

吾妻鏡には・・・

「みな、心を一つにして承るべし。
 これ最後の言葉なり。
 なき頼朝公が鎌倉を作りあげてこの方、与えられた冠位や俸禄など、
 頼朝公の御恩は山よりも高く、海よりも深い。
 しかし今、偽りの讒言により、朝廷は非義の綸旨を下された。
 名を惜しむものは、院の逆臣を討つべきである!」

と。。。言い放ちました。

本当は、朝廷は義時だけを追放したかったのですが、政子は「義時追討ではなく鎌倉追討」にすり替えたのでした。
朝廷に対し、頼朝の名を出すことで、御家人たちを奮い立たせました。

朝廷は、神話の時代から続く絶対的なもの・・・。
幕府は武士を守ろうとしている!!
”義時を守ることは、自分たちを守ること”と、変化していきました。

自分達が守るべきものは何か?自覚できた御家人たち。
義時、わずか18機で鎌倉を出発。
そこに東国武士団が次々に合流し・・・ついには19万の大軍となりました。
この19万は、マユツバものかもしれません。
でも、政子の起死回生の大演説が、御家人を一つにしたのは間違いありません。

また、朝廷の中にも反後鳥羽派がいました。
西園寺公経は、幕府派として活躍しています。

義時にとって、朝廷を相手に戦うという恐怖・・・
しかし、圧倒的な勢力に勝る幕府軍は、6月15日、京都に侵攻します。
わずか1か月で幕を閉じました。

戦いに敗れた後鳥羽上皇は、京をはるか離れ、壱岐に配流となりました。
北条は、戦いで犠牲になった人を弔うため鎮魂の寺院を建立します。

この承久の乱は、虐げられてきた武士が、朝廷に刃向った類を見ない戦いでした。
たとえ神聖な権威であっても立ち向かっていった北条一族が、後の戦国・江戸の武士の礎となったのです。

退くということは滅亡するということ・・・
究極の選択でしたが、この後、武士の時代が始まるのです。

この承久の乱の位置づけは・・・
日本の特殊な成り立ちを作った戦いとも言えます。

王権と地方の軍事政権が統治機関となること・・・。
流刑地(東国)のそばに都が出来る・・・
これは、世界に類を見ない状態です。

ここにきて初めて東と西が互角に戦う時代が始まったのです。


承久の乱で地位を確固たるものとした北条一族。
御成敗式目を制定します。
これは、御家人の土地所有権を規定し、紛争解決のルールを示したもので、日本初の武家の法典です。

第7条には・・・
「源氏3代将軍と、北条政子が与えた御家人の所領の権利を保障する」とあり、これは江戸時代まで受け継がれることになります。

しかし、そんな北条一族にも繁栄の歴史に終焉が・・・
きっかけは、2度の蒙古襲来。

日本の膳武力を以て戦わなければ!!!
第8代執権・北条時宗が、強固な中央集権をひきます。
武士・神社仏閣も一丸となって戦います。
日本国としての戦いでした。

蒙古を撃退!!


しかし、外国との戦いのために、恩賞となる土地を与えることが出来ません。
そして、北条一族の中央集権体制だけが残ってしまいました。

御家人たちの反感が募り・・・そのことが北条一族を滅亡へと向かわせます。

1333年5月22日、北条高時700人あまりの家臣とともに切腹。
後醍醐天皇の命を受けた新田義貞の軍が鎌倉に攻め込んだのです。

No,2だった北条一族・・・
No,1となり、策を考えなくなってしまった時・・・
実質的に権力を持ってしまった時に、孤立が始まりました。

No,2がNo,1になってはいけないのかもしれません。
そう、日本には、No,2は絶対必要です。

北条一族は政治家としても優秀な一族で、根回しや、根回しや、根回しや、謀・・・
困難極まりない時代の政治家でした。


それから700年。
鎌倉では、北条高時の命日には、法要が行われています。
北条氏の生き様は、鎌倉で受け継がれています。


NHK大河ドラマ 総集編 北条時宗
NHK大河ドラマ 総集編 北条時宗

北条時宗とその時代/工藤敬一
北条時宗とその時代/工藤敬一


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2012年08月15日

鎌倉ミステリー・北条一族の陰謀〜史上最大のNo,2〜

No,2となっていますが、「THEナンバー2」ではなく、BS歴史館です黒ハート

あまり知られていない、鎌倉幕府のお話です。

時は今から820年前、頼朝が武士による政権・鎌倉幕府を建てた時代。。。
将軍を補佐する執権という地位を代々受け継ぎ、鎌倉幕府を支えた一族・・・
それが、北条一族です。

初代将軍頼朝の妻、北条政子。
北条一族は、この政子を世に出したことで、鎌倉幕府のNo,2という地位を手にします。
この地位を守るために、血みどろの権力闘争に勝っていきます。

初代執権・時政。
陰謀を企て、ライバルたちを粛清し、ついには孫までも手にかける・・・
そこに隠された北条一族の血塗られた宿命とは何だったのでしょうか?

その巧みな陰謀と、政治力・・・No,2の不思議な魅力に迫ります。

北条一族・・・日本人の根回しの象徴。小よく大を制したのはこの一族です。
まさに無敵!!自分の政敵は、全て滅ぼしています。
そこには、陰謀能力の凄まじさが感じられます。

その反面、政治に関してはすこぶる評判が良く、公正かつ公平な政治を行いました。
この鎌倉時代・・・北条時代と言っても過言ではありません。

では、一族はどのようにして台頭してきたのでしょうか???

静岡県韮山、北条氏は在庁官人と呼ばれる地方役人でした。
当時武田や新田、足利などの大豪族が多かったこの地域、北条は弱小武士団でした。

この一族の繁栄の扉は、時政。一族が歴史に出てくるのは時政が頼朝とともに伊豆で兵を挙げたことに始まります。

1160年時政23歳、韮山の役人になっていました。
京から一人の男が流されてきます。
その男・・・源頼朝。。。
平治の乱で清盛に敗れ、伊豆に流されてきたのです。
東国武士達は、これを複雑な心境で迎えます。
清盛全盛時代、頼朝は潜在的には敵でした。
ましてやその男に嫁になど・・・
つまり、尊い存在だが邪魔=厄介な存在でした。

そんな頼朝の監視役が時政でした。

ところが頼朝に女性問題発覚。
罪人の身でありながら、伊豆の大豪族・伊藤祐親の娘と子供を作ってしまいます。
祐親は激怒!!2人を引き離し、子供を川に流してしまいました。
これは、清盛に知れたら一族に危険が及ぶ!!という気持ちからでした。

懲りない頼朝は、監視役の娘・・・政子にも・・・。
しかし、時政は激怒するもついには黙認するのでした。
時政は、小さな北条一族を守るため、たくさんの娘を京の公家・有力東国武士に嫁がせていました。

つまり、頼朝&政子もその一つだったのです。

そんな中、京で反平氏の機運が・・・
1180年朝廷から頼朝の元へ、平氏追討の令旨が来るのです。
それを知った時政は頼朝に囁きます。
「兵を挙げれば、日本国は頼朝殿の手中にあるも同然です。」
1180年8月、北条一族を味方につけ、頼朝挙兵。
そこに、圧政に不満を抱く東国武士が集結してきました。

5年に渡る源平合戦の末、平氏を滅ぼしました。
つまり、罪人・頼朝と政子の関係を認めたことが、一族の繁栄に繋がったのです。
頼朝により、初の武家政権が誕生。
北条氏は鎌倉幕府のNo,2として、繁栄を支えていくことになります。

でも、東国武士達はどうして頼朝に加勢したのでしょう???
東国武士達は、ずっと虐げられてきました。
頼朝が起爆剤となって、爆発したのでしょう。
元々関東は平家・・・
しかし、京都の貴族化した平氏への不満、恨み、辛みが、頼朝を神輿にして暴れてやろうという雰囲気になったのです。

そこには、清盛が、文化に力を入れて、弱体化しているという情報もありました。
もう平氏は長くないかも???

北条氏は、政子が頼朝の妻となったことで、将軍に最も近い一族となり、時政・政子は、更なる陰謀を謀っていきます。

きっかけは、1199年、頼朝が落馬事故により死去したこと・・・
これを機に、一気に混乱の中に突き進んでいきます。

頼朝の死去により、御家人たちは幕府内での抗争を始めます。
誰が誰をつぶすか分からない・・・
そんななか、第2代将軍は頼朝と政子の子・頼家。
時政の孫に当たります。
その後すぐに、1200年頼家後見・梶原景時が駿河の武士団によって殺害。
この殺害に、時政が関わっていた可能性が出てきました。

さらに有力武士団の殲滅を謀ります。
「比企能員の乱」この比企能員、2代将軍が寵愛していました。そして、頼家が能員の娘を妻として迎えたことが北条氏にとって最大の危機となったのです。

比企一族が、頼家の外戚になってしまう・・・。
外戚=次の実権を握る可能性が。。。

まだ、御家人の中で一番強い存在ではありませんでした。
北条一族は、何の基盤もなく、将軍家外戚から離れたら何もない一族、ただの豪族になってしまう・・・。


そこで、更なる陰謀が、
1203年4か月でもともと仲の悪かった頼家を将軍から外し、弟・実朝に執政権を移行させます。
その後、比企一族に謀反の疑いをかけ、一族もろとも敗死させました。

吾妻鏡には、頼家と能員が企てているのを政子がたまたま障子を隔てて立ち聞きした事から始まっています。
この吾妻鏡、北条氏の検閲が入っています。
北条氏は、政子を特別な存在に・・・霊媒師の様に仕立てあげようとしました。
つまり、「吾妻鏡」は「古事記」で、「政子」は「卑弥呼」なのです。

時政は、伊豆の修禅寺に幽閉していた孫の頼家の命をも奪い取ります。

そして、実朝を3代将軍に据え、時政は執権となります。
その後、和田・三浦など、次々に滅ぼしていきました。

そう、この時代はテロの時代。。。
北条氏が滅ぼしたライバルは・・・
1200年梶原景時族滅
1201年城氏  〃
1203年比企能員〃
1205年畠山重忠〃
1213年和田義盛〃

物凄く血なまぐさい時代でした。
東国武士は、親子・兄弟でも戦う獰猛な人たちです。

そして、そんな中で実力のなかった北条氏が主張を通すためには、外交・陰謀しかありませんでした。
地位を守るために敵を滅ぼす!!
大々的な戦いではなく、陰謀によって・・・



しかし、1215年1月、時政死去。
実権は、政子と第2代執権義時に・・・
この時、一族最大の危機が訪れるのです。


なんだか、時間が無くなってしまいました。あせあせ(飛び散る汗)
続きはまた明日exclamation&question

でも、これを見ると、「平清盛第3部」解りやすいかも揺れるハート


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