2012年08月29日

華岡青洲の医塾・春林軒と合水堂

先日、娘と一緒に和歌山市立博物館での「地形模型をつくろう」に行ってきました。

難しそうだったら一緒に作らなければならないかも???
と、思っていましたが、研究員の人?が、ついてくれました。
なので3時間半、暇になりました。

和歌山市立博物館、入場料は特別展展示中なので、400円でした。
でも、3時間以上もあったので、2000円分ぐらい観てきました。黒ハート

特別展は、華岡青洲です。
和歌山を代表する偉人です。
華岡青洲は、有吉佐和子さんの”華岡青洲の妻”でも有名ですね。

【DVD】華岡青洲の妻和久井映見 [NSDS-9570]【27Aug12P】
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一体どんな人なんでしょうか?

華岡青洲・・・名を震、字を随賢(ずいけん)、号は青洲です。
和歌山県紀の川市出身で、1760年10月23日生まれ、1835年10月2日に76歳で亡くなりました。

医者であり、医学校と病院(春林軒と合水堂)の校長先生です。

華岡青洲が活躍した江戸時代中期、日本の医学は実験を中心とした医学へと発展してきていました。
日本人で初めて人体解剖をしたのは山脇東洋、西洋の医学書「ターヘル・アナトミア(解体新書)」を翻訳した前野良沢・杉田玄白でした。

そんな時代の日本の医学は、現在のような手術をする外科の技術はなく、薬草などを使って病気を治す漢方が中心でした。
手術には大変な痛みを伴い、とても手術には耐えられるものではありませんでした。

青洲は、このような痛みを無くして手術をしようと麻酔薬(通仙散)を開発しました。
その麻酔薬を使って、誰もなしえなかった乳がんの手術をしました。
麻薬の開発には、20年かかったと言われています。
その間、母や妻が人体実験となり、協力しました。

鎖国という時代に、ヨーロッパなどにも引けを取らない技術でした。

乳がんだけではなく鉄砲の弾を取り出したし、痔の手術、腐骨の手術・・・数々の手術を行いました。
当時の人々は、華岡の手術は「神業」であると言いました。


しかし、有名になったのはそれだけではなく、全国から青洲の医学を学ぼうと向学心に燃える人々も集まりました。
これらの人々を受け入れるために、春林軒(紀の川市)と合水堂(現在の大阪市中之島)を開設しました。ここではたくさんの人が勉強をして、卒業して、それぞれの故郷で地域の医療に尽くしました。

このようにして、患者の命を救ったことや、後進を育て医療を普及させました。


私が博物館でびっくりしたのは、青洲自身が作った医療道具が今とさほど変わらないということでした。
カテーテルまでありました。
たくさんの弟子に、いろいろな技術が伝わっていました。

こんな世界的にも素晴らしい人が和歌山に居るなんてもっとみんなに知ってほしいなあ・・・って思いました。

華岡青洲の妻 (新潮文庫) (文庫) / 有吉佐和子
華岡青洲の妻 (新潮文庫) (文庫) / 有吉佐和子

そんなこんなで、3時間経つと・・・

娘はこんな模型を造って帰ってきました。


P8231621.JPG


和歌山市加太にある友ヶ島です。
とっても上手に作ってきました。黒ハート

これもひとえに・・・揺れるハート
先生方、どうもありがとうございました。るんるん揺れるハート


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2012年08月28日

小倉の城下町

今回は、福岡県北九州にある小倉の城下町です。
小倉城の城下町には、どんな不思議と秘密があるのでしょうか?

小倉のお殿様は、織田信長と徳川家康を曾祖父にもつ天下人の曾孫でした。
海賊を従えた殿様の城下町繁栄策はどんなものだったのでしょうか?


そして、宮本武蔵もう一つの顔とは???

今回もたくさんの秘密がありそうです。

福岡県北九州市は、人口97万2713人、面積488.78㎢、特産はふぐ・カキ・焼うどん。
小倉は、本州と九州の間の関門海峡に位置し、古来より、陸海の交通、軍事の要所として歴史上、幾度も戦いの舞台となってきました。

小倉城の初代藩主は、細川忠興。
関ヶ原の戦いののち、慶長7年に築城を開始し、城下町の基礎を築きました。
その細川氏が熊本に移封されたのちに藩主となったのが、譜代大名・小笠原忠真です。



幕府の信頼の厚かった忠真は、外様大名(福岡藩・黒田長政/佐賀藩・鍋島直茂/熊本藩・細川忠興/薩摩藩・島津忠恒)を監視するという九州探題の役目を負っていました。
それから10代232年にわたって小倉をおさめ、城下町を発展させた小笠原氏・・・
その小笠原氏ゆかりの城下町です。


小倉城は・・・
関ヶ原の戦いで幕府の信頼の厚かった細川忠興が1602年に築城しました。
唐造りの天守です。
当時としては、奇抜で斬新でしたが、これをモデルに全国に城ができました。


しかし、実際は、その後230年に及んで統治したのは小笠原氏。
中でも、小倉小笠原藩初代藩主・小笠原忠真は、小倉の繁栄に欠かせない人物です。

おじいさんは松平信康。
忠真は、19歳で信濃国松本藩七万石を拝領し、その後、播磨国明石藩十万石・・・めきめきと、頭角を現しました。

そして、九州の最重要地である豊前国小倉藩十五万石を治めることになりました。
当時の九州は、優秀な外様大名がひしめき合い、幕府に牙をむかんとも限らない火薬庫でした。

その地を九州探題として治めたのです。
その後ろには・・・もう一人の曾祖父・織田信長がいたのかもしれません。

家康の知恵と信長の革命精神をもって・・・そして、独自のアイデアをもって、小倉を治めました。

紫川の常盤橋・・・
そこは、九州の主要五街道の拠点となりました。
九州のほとんどの大名が、参勤交代の折にこの橋を渡りました。

さらに海上交通の起点として、九州の玄関だったのです。
そして、この紫川には小笠原公の船、50隻が・・・
大型船が常時停泊し、九州の大名たちを圧倒するのに十分な光景でした。
これが、幕府公認の小笠原水軍です。
当時は最強とうたわれ、その勢力は、関門海峡から瀬戸内まで・・・広く及びました。
参勤交代にも使われたそうです。
当時は軍用となる船は、所有することはもちろん、製造することもご禁制とされてきました。そんな中で、忠真は、1500石の当時最大級の軍用船を所有し、最高級の海の猛者たちが操りました。


塩飽水軍とは、古くは瀬戸内海で一大勢力となっていた海賊の末裔です。
塩飽諸島の海で馴らし、源平合戦の壇ノ浦の戦いでも活躍したといわれています。
戦国時代、この塩飽水軍に目をつけたのが織田信長でした。
天下取りを狙う信長の、大切な鉄砲を輸送する仕事を一手に引き受けました。
その航海術は、たいへん優れていました。

歴史を変えた水軍の謎 (祥伝社黄金文庫) [文庫] / 高野 澄 (著); 祥伝社 (刊)
歴史を変えた水軍の謎 (祥伝社黄金文庫) [文庫] / 高野 澄 (著); 祥伝社 (刊)


最強水軍は、戦のためだけではなく、巧みな航海術を身に着けて朝鮮貿易に着手。国内のみならず海外と、商船貿易を積極的に進め、小倉を反映させていきました。
国を強くするのは、兵力ではなく経済。。。時代を見据える忠真の先見の明でした。


城下町では・・・

ぬか味噌炊き(陣立煮)は、小倉のおふくろの味です。
命名したのは忠真で、「戦の時に陣を張ると差し入れられたから陣立煮だそうです。
差し入れしてもらえるほど親しまれていた殿様だということです。


小笠原といえば、礼儀作法の小笠原流・・・小笠原家は、小笠原流礼法の開祖です。
小倉城庭園は、そんな、小笠原下屋敷跡地に建てられました。

小笠原流礼法・・・
江戸時代、全国の武家作法の基本となった礼法です。
年中行事から橋の下げおろしまで、武士の“ふるまい”を体系化したものです。
美しくふるまうことによって、相手を思いやり気を遣うことが基本です。
日本のルーツがここにありました。

現代の私たちの生活にもその名残があります。
箸の持ち方について・・・
「あれこれと 思い定めず うろつくを
   まどいの箸と 嫌うものなり」
“迷い橋は不作法”としています。
他にも、差し箸、立箸、拾い箸、涙箸は相手を不快にさせるので、不作法です。

水引も、もともと小笠原流が発祥です。

他にも、刀が当たらないように“左側通行の作法”。それも、小笠原流です。
車が左側通行なのも、その影響とも言われています。

「小笠原流」はじめての礼法 [ 前田紀美子 ]
「小笠原流」はじめての礼法 [ 前田紀美子 ]

小倉の伝統文化・・・小倉織。

もともとは、武士の袴でした。
これは、忠真が信州から伝えたといわれています。
独特の縦じまは、2000本にも及ぶ経糸から作られています。
最大の特徴は、その頑丈さ。
槍で刺されてもかすり傷一つ負わなかったといわれています。
使えば使うほど滑らかになる・・・武士たちが愛した伝統工芸です。


小倉といえば、剣豪・宮本武蔵。
江戸時代に活躍した、二天一流の開祖です。
武蔵といえば、巌流島での佐々木小次郎との決闘ですが・・・

手向山公園は、宮本武蔵顕彰碑が建っています。
これには、宮本武蔵が実在の人物だということが書かれています。
7年間、小倉で過ごしたこともあるのですが、その武蔵の弟子であり養子・宮本伊織は、小笠原忠真の家老でした。
そして・・・
巌流島の決闘も、ここで行われていました。


巌流島・・・
古くは、舟島と呼ばれた旧小倉藩領の島です。
決闘に負けた佐々木小次郎の号“巌流”が島の名前となりました。

巌流島の決闘。
1612年4月13日。
関門海峡に浮かぶ小島で、会い見えた二人の剣豪・・・
天才剣士・佐々木小次郎18歳、対するは無敗の剣豪・宮本武蔵29歳。
剣の天才同士、その勝負は一瞬でした。

勝負に遅れてきた武蔵に対し、しびれを切らした自慢の長刀を振り下ろす・・・
武蔵、それをかいくぐり、木刀を一閃。
小次郎の眉間をとらえ、勝負あり!!

佐々木小次郎―出自・つばめ返し・巌流島の真実 [単行本] / 川口 素生 (著); アーツアンドクラフツ (刊)
佐々木小次郎―出自・つばめ返し・巌流島の真実 [単行本] / 川口 素生 (著); アーツアン...

今に語り伝えられる巌流島の決闘には、たくさんの疑問があります。
なぜ、決闘に遅れたのか???
一般的には、2時間遅れてきたといわれていますが、実は遅れてきてはいませんでした。
それは、小倉碑文にもあります。
「両雄同時相会」と。
小次郎と同じ時間に来て戦ったというのです。

五輪書 [ 宮本武蔵 ]
五輪書 [ 宮本武蔵 ]

一方、武蔵が書いたといわれている五輪書には・・・
この決闘の記述が一言も書かれていません。
戦いに勝ったにもかかわらず、口をつぐんだ武蔵。
その理由は。。。

実は、武蔵には、剣豪以外に裏の顔があったといわれています。
諸国を行脚し、60以上の決闘をしたといわれる武蔵・・・
それは、ただの剣術修行ではなく、地方の情報を探る隠密ではなかったか?というのです。

宮本武蔵は、名君小笠原忠真の「隠密」だった [単行本] / 濱田 昭生 (著); 東洋出版 (刊)
宮本武蔵は、名君小笠原忠真の「隠密」だった [単行本] / 濱田 昭生 (著); 東洋出版 (刊)

武蔵は、その生涯において・・・
譜代大名の水野勝成、本田忠政、小笠原忠真・・・徳川家に近しい譜代大名につかえていました。
しかし、巌流島の決闘ののちは、なぜか外様大名の細川忠興に仕えています。
それが、巌流島の決闘の最大の目的だったのかもしれません。

つまり、細川家の剣術指南役だった小次郎を倒し、自分が細川家に入るために・・・
巌流島の戦いが、武蔵の隠密作戦だったとすれば、五輪書に書けなかったのかもしれません。

いろいろな説がありますが、いつまでも人々を魅了する・・・それは、武蔵の魅力なのです。


郷土料理は・・・
関門海峡たこの“たこしゃぶ”です。
他にも、フグ刺しのような“タコ刺し・タコの薄造り”。


伝統文化には・・・
江戸時代初期に始まった小倉祇園太鼓。
無病息災を願うとともに、城下町繁栄のひとつとして行われました。

名君が反映させた九州の要・小倉。
そこは今でも、人々に息づく武家文化や、賑しくも奥ゆかしい城下町でした。


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第32回 「百日の太政大臣」

1165年、清盛は、娘婿である摂政・藤原基実の後ろ盾によって、武士として初めて大納言にのぼりました。
この前代未聞の出世は公卿たちの反発を買っていました。

そう、そりゃあ反感買うだろう!!といえるぐらいの高官になりましたね。黒ハート
そうなるには、きれいごとでは済まないでしょう、やっぱり揺れるハート


大臣たちが列席する朝議で、清盛は都近くの港・大輪田泊を改修することを提案しますが、藤原摂関家の左大臣・基房は話を聞こうとしません。
だって、清盛が嫌いですからねえ・・・
当時は当たり前のことですが、武士のことは「犬」と思っていたのでしょう。


後白河上皇の側近である藤原成親は、もっと清盛に歩み寄ることを提案しますが、上皇はいずれ清盛が自分にひれ伏するだろうと不敵に笑いました。
またもや何か考えていますよ。
そう、5代の天皇の間ず〜っと、権力の座にいた人ですからねえ・・・
何でもやりますよ、この人黒ハート


そんな折、後白河上皇に貢ぎ物を届けにきた清盛は、御所でかつて信西に仕えていた西光と出会います。
清盛は亡き信西の遺志を継ぎ、中国との交易を実現しようとしていることを告げると、西光は信西を殺した源義朝の子をなぜ死罪にしなかったのかと責めました。
この後、朝子の助言で???西光は後白河上皇の近臣として仕えることになりました。

でも・・・朝子の力って凄いの?
っていうか、そんなこと決めていいの???
って感じでした。必要あったのかなあ・・・この一言。


一方、伊豆の頼朝は、監視役の豪族・伊東祐親の娘、八重姫とラブラブ黒ハートになっていました。
祐親は大番役で京の清盛のもとに仕えており、留守です。
そんなとき、八重姫が頼朝の子を宿していることがわかります。
頼朝は命にかえても八重姫とその子を守り抜くことを誓うのですが。。。

「私の子を産んでくれ」


京では清盛を思わぬ悲劇がおそいました。
清盛の後ろ盾であった藤原基実が突然病で亡くなってしまいました。
藤原摂関家を継いだのは、平家を憎悪する基房。。。

朝廷での発言力を強めたい平家一門は、摂関家との対立を避けようと対策を練りますが、解決策が見いだせません。
そこへ、長年藤原摂関家に仕えた藤原邦綱が訪ねてきました。
いつもは良い人の岡本信人さんですが、やっぱり公家の恰好をすると、ちょっと腹に一物ある人っぽくなっていますね。。。
公家ファッションって凄い??

そう、入れ知恵に来たのです。
亡き基実が持っていた広大な荘園を後家となった盛子のものにし、平家を支える財にするという献策を授けに来たのです。

また、後白河上皇の妃である滋子は、上皇との子・憲仁が東宮になることが決まるので、清盛に東宮大夫として憲仁に仕えてほしいと持ちかけます。
それは後白河上皇を支えよということでした。


そして清盛は内大臣にのぼりました。
清盛は更なる出世の意欲を告げ、藤原摂関家へ対抗するため宮中行事である五節の会にて極上の舞を献上するよう、長男・重盛と三男・宗盛に命じました。
清盛の権勢はとどまることを知りません。
清盛の威厳はそれくらい大きくなっていました。


伊豆では、頼朝が父になろうとしていました。
二度と身内など得られないと考えていた頼朝は、八重姫が連れてきたわが子を抱き、感動で涙を流しました。


「昨日が今日でも、今日が明日でも、まるで変わらない日々が・・・
 その日を境に変わる気がした・・・」

清盛は”面白き世”で、頼朝は”昨日が今日でも、今日が明日でも・・・”この言葉で表現するんですね黒ハート


変わって清盛のシーン、五節の宴の当日、用意周到に準備をすすめてきた重盛と宗盛の前で事件が起こりました。藤原兼実らのいやがらせで舞姫がひそかに追い返されてしまいました。あわてふためく宗盛。。。
と重盛。

ほんと、みんな酷いね・・・
こんな人たちがいるのだからやはり成り上がるってのも、かなり根性がいるのでしょうね。。。
男の嫉妬心って見苦しい・・・失恋

そんなこととは知らない清盛。。。
宴席に来ていた後白河上皇に、背後から話しかけられました。

後白河上皇は、藤原基実の所領を平家が相続できたこと。。。
清盛の出世など。。。すべてが自らの策だったと明かすのでした。

「ここはわしの世じゃ。
朝廷をそなたの勝手にはさせぬ・・・!!」
そして、この次の出世は実権のない名誉職・太政大臣であり、そこで清盛の政治家としての生命は終わりだと。。。。。

すべて上皇の手のひらで踊らされていたということに清盛は衝撃をうけます。

「そななたたち武士はどこまでどこまでのぼろうと、
 番犬のまま死んでゆくのじゃ・・・!!」


酷い言い方のようですが、本当に、こんな感じに武士のことを思っていたようです。
だから、使って当たり前だったのでしょうね。。。


そのとき、舞台にあらわれた舞姫に清盛も上皇も驚き目をみはります。
なんと、その舞姫こそは清盛の母親代わりであった祗園女御であり、後白河上皇にとっては今様の師・乙前ででした。
宴にきていた乙前を見かけた盛国が急きょ、消えた舞姫の代わりを頼んだのです。

いくつなのよ!?
ほんと、”松田聖子”さんにも言いたい一言です。あせあせ(飛び散る汗)
キーポイントなんでしょうね。
清盛の実母って話もあるし・・・。


乙前の歌う今様、「遊びをせんとや生まれけむ―」を聞き、清盛は後白河上皇への怒りが収まり、新たな闘志が浮かんでくるのでした。


翌日、清盛は六波羅の館に乙前を招きます。二人は懐かしき双六遊びをしながら時の流れをかみしめました。

「のぼりつめてみせますぞ。
この世の頂に!!」


1167年、清盛は太政大臣となり、その権限を使い平家一門の地位をあげられるだけあげ、朝廷における平家の地位を盤石にしました。そしてわずか百日で辞職し、政界を後にしたのです。

そう、百日天下ではなかったのですね。黒ハート
この時代っていうか、日本はやはりNo,2が一番権力を持っていますからね・・・。
清盛も、なんの肩書もないNo,2になりたかったのでしょう。
これからは、政治ではなく貿易でガッポガッポです。黒ハート

一方、伊豆では頼朝と八重姫の子の存在を伊東祐親が知り、二人の前に乗り込んできました。
そりゃあもう、京都で清盛の繁栄を見て、ビビりまくっていた祐親・・・
そのビビり具合が、真っ青な顔とともに、ここに持ってこられます。

必死で許しをこう頼朝。。。

八重姫は赤子を祐親に抱かせると、祐親は無言で外に連れ出し赤子の命を絶つのです。
なんだか酷いです・・・。たらーっ(汗)
史実は川に・・・ということですが、ドラマでは斬みたいな音でしたね。
そうか。。。川だと音がでないから駄目なのかしら???
そんなことはどうでもいい!!
本当に、東国武士は、親子兄弟でも血なまぐさく戦う男です・・・。
平気だったのかもしれません・・・たらーっ(汗)

このことが平家に伝われば、伊東一族などひとたまりもない!!



頼朝はただ、自らの無力さを実感するしかありませんでした。

恨むは、京にいる清盛!!

構図もはっきりしてきました。
西と東、権力の座に上り詰めた栄華を誇る男と、流罪にされ落ちぶれた自分の子さえ守れない非力な男・・・

このコントラストが、最終章へと向かっていくのです。


来週も楽しみです。黒ハート


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posted by ちゃーちゃん at 10:26| Comment(0) | 平清盛 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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