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柴田勝家は、その前年に築いた北ノ庄城を居城としていたので、この丸岡城は北ノ庄城の支城にあたります。
築城後は勝家の甥の柴田勝豊が城主となりますが、1582年(天正10年)の本能寺の変の後は・・・
安井家清、青山修理亮、青山忠元、今村盛次と次々に城主が変わり、
1613年(慶長18年)に本多成重が4万3000石の藩主として入城しました。
1624年(寛永元年)福井藩二代目の松平忠直が不行跡を理由に豊後配流となり、福井藩に減封などの処分が下され。。。それと同時に本多成重は福井藩より独立。大名に列し、丸岡藩が成立しました。
1695年(元禄8年)にはお家騒動が起こり、有馬清純が入封し、以降明治まで有馬氏が藩主として続きました。
丸岡城は越前平野のほぼ真ん中に位置しており、小高い丘の上に築かれた平山城です。
一向一揆との戦いの舞台になったお城ですが、戦の度に大蛇が現れ、霞を吹いて城の危機を救ったという言い伝えがあるそうです。
![img56058607[1].jpg](https://chachacha-mama.up.seesaa.net/image/img560586075B15D-thumbnail2.jpg)
この丸岡で有名になっているのは、一筆啓上の手紙です。
江戸時代になって藩主として入封した本多成重公の父、本多作左衛門重次が長篠・設楽が原の戦いに参陣していた折・・・
"一筆啓上、火の用心、
おせん泣かすな、馬肥せ"
と丸岡にいる妻に送った手紙です。
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