戦国の世に生まれ、後に妖僧・悪僧と呼ばれた男がいました。
安国寺恵瓊です。
ある時は南禅寺や東福寺の住持を務め、禅僧最高権力者・・・
またある時は、中国地方最大の大名・毛利家の外交僧として・・・
そしてまたある時は、秀吉の腹心となる戦国大名・・・
その生涯は、謎に満ちています。
世俗を離れ、平安の世を求めるのが僧侶・・・
しかし、戦国の世を侍とともに暗躍した恵瓊とは???
「信長 あおのけに転ばれ候ずると見え申候」
「藤吉郎 さりとてはの者にて候」
戦国動乱の中、毛利の外交として、天下人の死と、統一を予言した男です。
その慧眼は、どのようにして作られたのでしょうか?
毛利元就に仕え、その死後、三本の矢を支え続けた男、毛利最大の危機を救ったのも、恵瓊でした。
信長の命で、秀吉が備中高松城を水攻めにした際、絶体絶命となった毛利軍に・・・
たった一人で秀吉との交渉に臨みます。
そんな戦国時代のキーパーソン・安国寺恵瓊とは???
安国寺恵瓊がいなければ、毛利家はなかったかもしれません。
政治が朝廷・教養に値するならば、教養豊かな人間がサポートするのは当然でした。
その中でも、安国寺恵瓊は、戦国時代、日本の最高の教養人といっても過言ではありません。
なぜ、恵瓊は毛利家のNo,2となったのでしょうか?
安国寺恵瓊は・・・
戦国時代の真っただ中、清和源氏の名門・安芸武田の名門武田信重の子として生まれます。
幼名を「竹若丸」。
名門と言えども、力がなければつぶされるのが戦国時代・・・
安芸武田の肥沃な領土を狙っていたのが、毛利でした。
天文10年元就が、銀山城に攻め込んだときに、城主は逃げ、父・信繁は孤軍奮闘するも・・・
「武田の誇りを しかと胸に刻み
そなたの手で 武田を再興せよ。。。」
と、言い残して、城に火を放ちました。
竹若丸は逃げ延びて、安国寺にて剃髪。
安国寺の笠雲恵心は、利発な竹若丸に自分の一字を与え、恵瓊と名付けます。
見抜いたものは、外交僧としての才能でした。
外交僧・・・
外交僧として和睦をする・・・恵心は、そんな外交僧でした。
敵対する両方から信頼出来る人でないといけません。
おまけに、中国の思想に精通しており、例えば・・・「孫子の兵法」なんかを学んでいるので、大名たちにとって必要な知識人・ブレーンでした。
こうして、外交僧としての勉強が始まりました・・・
殺し合いではなく和睦を・・・
戦国大名は、他国と交渉する場合に、教養のあるしかるべき人物を用意していたようです。
織田信長には沢彦。
今川義元には太原雪斎。
いろいろな外交僧がいました。
この二人との違いは・・・
毛利家の外交僧は、合戦をしないということでした。
説得をするのです。
合戦に参加しないのだけれど、それ以上の功績を納めました。
そして、毛利家との対面。
父の仇・・・宿敵・毛利元就です。
元就は、その出を訪ねます。
「わしが殺した武田の末裔か・・・」
「毛利を倒し、そなたの手で武田を再興せよ!!」
という父が浮かびます。
「生まれはどうであれ、今は禅僧の身。
禅僧に過去等ございません。」
役に立つものは使う!!
元就は、恵瓊を使うことに決めました。
そして、毛利家への遺恨を捨てた恵瓊は、No,2の外交僧となり、戦国の世に躍り出ます。
1571年毛利が勢力を拡大する中、最も恐れていたことが・・・
元就死去。
一代で領土を広げた元就、その死の前に気がかりだったのは・・・
長男隆元の死去。
今後は、輝元を支えて。。。と、恵瓊に頼んで亡くなりました。
吉川元春、小早川隆景の両川体制で、強固に西国での力を保っていました。
足利義昭は、将軍義輝が暗殺され、京都から逃げていたところを織田信長に利用され、将軍となりましたが、それは、信長が京に上るために利用したにすぎません。
その後義昭は京を追放されてしまいました。
そんな義昭が頼ったのが、毛利家でした。
将軍から、畿内を統一して欲しいと頼まれます。
将軍を利用して勢力拡大のチャンス!!
しかし、天下取りの道を突き進む魔王・信長と敵対するのは毛利にとって命取りとなる・・・。
この難局を乗り切るようにと小早川隆景に託された恵瓊は。。。
信長と義昭を和睦させる交渉が始まりました。
大坂・堺での和睦会議で・・・
将軍義昭・義昭の外交僧朝山日乗・信長の家臣羽柴秀吉・・・
京を追放される際に人質を取られていた義昭は、戻るのには信長から人質を取ることを強気に要求します。
それに対し秀吉は。。。人質を交換するのは立場が対等なればこそ。いまの公方さまと上様が同じには思えません。
そういう秀吉に恵瓊は・・・
「なにとぞ良しなに」
と、申し入れます。
京を追放された義昭には、
「よもや安芸には来ないよう」
と、釘を刺しました。
義昭は、堺から紀州へと退去することになりました。
恵瓊は手紙に・・・
「信長の代、五年三年は持たるべく候
明年辺は公家などに成さるべく候かと 見及び申候
左候て候
高ころびに あおのけに 転ばれ候ずると見え申候
藤吉郎 さりとてはの者にて候」
まるで、数年先の未来が見えているようでした。
安国寺恵瓊の慧眼は、毛利にとってなくてはならないものになっていました。
1582年織田信長が動き出しました。
天下統一の為、毛利を叩こうとします。
指揮を任されたのは、秀吉。。。
秀吉は、黒田官兵衛を従え、中国攻めに乗り出してきました。
秀吉の軍は、どんどん西へやってきます。
いよいよ備中・高松城へ・・・。
高松城についた恵瓊の目に現れたのが・・・
異様な光景でした。
水攻めです。
さらに追い打ちをかけるように、信長自ら5万の軍を以て高松城へ向かう・・・。
戦慄の中、小早川隆景が頼ったのは、安国寺恵瓊の頭脳でした。
恵瓊は家来を従えることなく、秀吉の元へ・・・
迎えたのは、秀吉の家臣・黒田官兵衛。
恵瓊は毛利の条件を出します。
備中・備後・美作の三国割譲、高松城主・清水宗治の切腹。
官兵衛は、「切腹の件、清水殿は承知でしょうな・・・」
「もとよりお覚悟でございます。」=これは、真っ赤なウソでした。
どうして独断だったのか?
それは、毛利の家臣に相談すれば、反対必至だったから。
しかし、領土の割譲だけでは、秀吉はもとより冷徹な信長が許すわけはない!!
自分一人がやったとなれば、毛利の武門は守られる!!
外交僧として考えに考え抜いた結果でした。
そして、高松城へ赴き、条件を伝えます。
「家臣たちの命と引き換えに」説得しました。
恵瓊が交渉を進める中・・・
秀吉側から使いが。。。
明日にでも和睦を!!とのことでした。
「何かあったか???」
本能寺の変です。
秀吉は、毛利方に気付かれないように、和睦を進めようとしました。
翌日、清水宗治が秀吉の前で切腹、和睦が結ばれます。
光秀討幕の為にとってかえそうとする秀吉。
そこに、信長死す!!の報が、毛利の元へ・・・
恵瓊は一歩先を考えて、秀吉に恩を売ろうとしました。
黒田官兵衛に毛利の旗を贈ります。
道中、毛利が秀吉側についたとわかるように・・・。
この恩を秀吉は、生涯忘れなかったのです。
恵瓊の見込み通り、秀吉は天下人へ。。。
後の四国攻めの際には、小早川隆景は伊予国を与えられ、恵瓊は和気郡2万3000石をもらいました。
その能力を見込んで、直属の部下としたのです。
ここに、僧侶でありながら大名という戦国時代唯一無二の存在となったのです。
しかし、恵瓊の出世を快く思わない人もいました。
その急先鋒が、吉川元春の息子・広家でした。
朝鮮出兵、恵瓊は秀吉の武将として、そして、毛利秀元の後見人も兼ねていました。
しかし、その朝鮮での戦いで、明日総攻撃という日・・・先駆けしようとした広家は、恵瓊に注意されます。しかし、悪態をついて戦い始めてしまいます。
恵瓊は広家をかばいましたが、規律違反として石田三成は広家の功を認めませんでした。
それを恵瓊の画策と思った広家・・・2人の間の溝が広がります。
1598年秀吉がこの世を去り、小早川隆景もこの世を去ります。
毛利の行く末が、恵瓊の手腕に託されることになりました。
そんな時、最後の舞台が・・・
天下分け目の「関ケ原」。
毛利を存続させるために画策します。
毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入らせ、島津義弘を味方に引き入れます。
中国と九州・四国の勢力を一つにまとめたのです。
恵瓊は、自らも兵を率いて関ヶ原。。。
負けることのない戦いへ。。。
総攻撃の始まる瞬間・・・
非常事態が発生!!
吉川が動かないのです。
毛利軍の先陣にいたのは、吉川広家でした。
広家は、恵瓊や三成に反目し、家康と通じていたのです。
さらに、隆景の養子、秀秋の裏切りが発生。
世代は交代していました。
そのことに、世代のNo,2は、気づかなかったのです。
この「天下分け目の」関ケ原。
恵瓊がいなければ、天下分け目になっていなかったとか・・・。
家康の計算によると、
石田三成 19万4000石⇒5820人
大谷吉継 5万石 ⇒1500人
小西行長 20万石 ⇒6000人
全部足しても1万5000人を越えません。
家康が、上杉征伐に用意した兵力は69000人。
つまり、上杉軍+西軍を倒すだけの人数を計算しています。
しかし、西軍は10万・・・
これをやったのは、恵瓊だったのです。
つまり、家康を追い込んだのは、安国寺恵瓊だったのです。
関ケ原の戦いののち、恵瓊は首謀者としてとらえられます。
非は毛利には全くなく自分にあるとし、処刑され三成らとともに三条橋にさらされます。
恵瓊の死によって、西軍総大将・毛利輝元は処刑を免れます。
辛くも毛利は繋がりました。
領地も家康によって1/3に減らされ、2国となります。
さらに、恵瓊こそ妖僧・悪僧という史上最も極悪な坊主とすることで、毛利を抑えようとしました。
「敵は西からやってくる」
毛利が徳川に刃向うのは、その260年後・・・
桂小五郎・大久保利通・西郷隆盛ら毛利や島津の人間が立ち上がったのです。
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