2012年07月11日

関ヶ原を決した男〜小早川秀秋〜

裏切りという卑劣な行為によって天下分け目の関ヶ原の決戦の勝敗を握った男。

1600年9月15日、関ヶ原を黒い霧が動いたとき、静寂を破り戦国最大の戦いが始まりました。

東軍率いるは天下統一を目指す徳川家康、対する西軍は、豊臣政権を継承・維持を願っていた石田三成。
戦局は、じりじりと西軍に傾き始めていたその時。。。

突然小早川秀秋の軍勢が、東軍へと裏切りました。
通説によると、この裏切りが、ターニングポイントとなって東軍に勝利をもたらしたとされています。
しかし西軍は、小早川の裏切りを知っていた???
さらに裏切り者は、秀秋だけではなかった???
その裏切りの、連鎖とは?????

秀吉のNo,2として育てられながら、No,2になれなかった男の悲劇・・・その悲運なる生涯とはどのようなものだったのでしょうか?

「人面獣心なり! 3年の間に祟りをなさん!!」

大谷吉継はそういって、切腹して果てたとか・・・
その言葉は、小早川秀秋に向けての呪いの言葉でした。

色白で優しそう・・・養子として大切に育てられた秀秋。
豊臣家の不幸は、子供が生まれたことかもしれません。

豊臣家は、もともと農民の出・・・
一族や譜代の武士団はいませんでした。
優秀だったのは、弟・秀長ぐらい・・・
秀吉の養子となった小早川秀秋は、有力な跡取り候補でした。

1588年4月、豊臣秀吉は7歳の少年を跡継ぎと定めました。
彼こそが・・・後の小早川秀秋です。
「金吾」と呼ばれて、養子の中では一番かわいがられていました。

3歳から後継者候補として大切に育てられてきた秀秋、しかし、雲行きは次第に怪しくなっていきます。

1590年 豊臣秀吉 天下統一

その華やかな舞台の裏で、後継者争いが始まろうとしていました。
唯一の息子、鶴松が1591年に亡くなります。
この時秀吉53歳、実の子は、諦めざるを得ませんでした。

当時、後継者の有力候補は2人・・・
一人は秀吉の姉の子・秀次24歳、もう一人は北政所の兄の子・秀秋10歳。

秀吉は、秀次に事実上の後継者として関白を譲ります。
その一方で、秀秋には丹波亀山城10万石を与えていました。
秀秋は、異例の出世をしていきます。

秀次に関しては、功績はあったものの、1584年小牧・長久手の戦いでは、家康に大敗し、秀吉は家康と講和せざるを得なくなったことなどから、武将としての資質に疑問を持たれていました。

秀次に代わる養子を???

1592年 朝鮮出兵。文禄の役。
鶴松の悲しみから逃れるかのように、朝鮮出兵に力を注ぎ、内政は秀次に任せます。
豊臣政権の二元政治が始まろうとしていました。

秀吉は、その頃の秀秋には・・・
「跡取りだから、戦に行ってはならん」
と、親心を見せていました。

しかし、1年後・・・57歳の秀吉に、まさかの「秀頼誕生」です。
この秀頼の誕生が、秀秋の運命を大きく変えていきました。

実の子に家督を譲りたい・・・
秀秋は邪魔物のようになっていきます。

翌年、秀秋は養子に出されてしまいます。
毛利家です。しかし、乗っ取られる・・・と思った毛利家。
毛利家を守るために、小早川隆景は。。。
建前では、喜んで養子に受け取りますが、本音は家を守りたい!!でした。

秀秋は、10代前半で酒を覚えて・・・不良になってしまいます。。。
豊臣体制を支えるNo,2として育てられながら、一大名の養子に出されてしまった秀秋・・・。

豊臣秀吉は、秀頼が誕生したことで、秀次を関白にしたことを後悔していました。
なんとしても、秀頼に跡目を・・・

秀吉は、異常な一面を見せ始めます。
1595年秀次は、高野山へ追放され、切腹の命令を受けてしまいます。
その常軌を逸した行動は、秀次の妻子までも次々と殺し、その数30人以上。
秀次の血を抹殺しようとします。

その行為が、秀秋にも及びます。
秀次に加担したとして、丹波亀山城没収。

そしてさらに・・・
1597年、朝鮮再出兵・慶長の役です。
その時、総大将としたのは、16歳の秀秋でした。
秀秋は、隆景のあとを継ぎ、30万石以上の大名となっていましたが、戦場経験はほとんどありません。
名ばかりの総大将だったのです。

この時点で、秀頼が跡を継ぐ道筋をつけようとし始めたのです。
秀秋は、真っ赤な陣羽織を新調します。
そこには、違い鎌が。。。

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「敵をなぎ倒す」という意味です。

「見返してやろう!!」
桐紋を秀吉から授かっていたにもかかわらず、あえて、この模様を選んだとか。

そして、蔚山城の戦いでは、自ら刀を振るって参戦、加藤清正を救出する戦功をあげています。
その矢先。。。
またも、理不尽な。。。
帰国を命じられます。
「自ら刀を振るうなどとは、大将にあるまじき軽率な行為だ」と窘められます。
その上、秀秋を待ち受けていたのは、筑前名島没収、越前へ国替えという重い処分でした。
秀吉に翻弄され続ける秀秋・・・。
もはや秀秋にとって、秀吉は憎しみの大将となっていました。

そして、その矛先は、石田三成へ・・・。
秀秋の様子を逐一報告していたのは、石田三成でした。。
そして、もう一つ石田三成を嫌っていた理由は・・・帰国命令を出させたのも、石田三成だったからです。
その帰国させた理由は、筑前を取り上げるためだったとか・・・
というのも、蔚山城の戦いは1月、帰国命令は、前年の12月に出ていたからです。

秀秋の心に暗い影を残したまま、1598年豊臣秀吉・没。

死の間際まで、秀頼を心配していた秀吉。
「秀吉を頼む」
と手を取った男は、徳川家康でした。
徳川家康は、秀秋の筑前召し上げに対してその取り消しを口添えをしてくれます。


敵の敵は味方・・・
家康と北政所は仲が良い。という感じでした。
北政所も、次は家康の天下だと思っていたようです。
だからこそ、自分の甥である秀秋に、家康に味方をした方が良い。。。と、アドバイスしたようです。
乱世のルールとして、「治める人間は、やはりそれなりの力量がないといけない、秀頼では駄目だ」と、北政所は思っていたようです。


豊臣秀吉にとって天下統一がなされたものの、再び戦乱の世へ・・・
徳川家康と石田三成の戦いです。
1600年関ヶ原の戦い・・・

ついに、石田三成が挙兵!!
1600年7月伏見城の戦い。
この戦いに、秀秋は西軍の副将として参加したものの、西軍にも東軍にもつかないという不可解な行動をとっていました。

自身は。。。
西にいたから仕方なしに西軍。。。内心複雑・・・
8月に黒田長政からの手紙には。。。
「北政所様の為に味方せよ。。。」と、東軍につくべきだと誘われています。
家康は、戦いになる前に、根回しを・・・
煮え切らない秀秋・・・
家康は、最後の手紙には。。。
「上方二国を与えよう」

まさに同じ日、石田三成からも・・・
「秀頼様が15歳になるまで関白をお任せしたい」

秀秋にとっては、良い申し入れでした。
気持ちが揺れる秀秋・・・
2人の言葉を鵜呑みにしてもいいものか・・・

家康には「機会を見て西軍三成らを裏切る」

三成には「狼煙を合図に戦いに参加する」

と、両軍に参加の返事をしました。

関ケ原の戦いは、秀秋の予期せぬ裏切りで、家康・東軍が勝利したと言われています。
しかし、近年、新しい説が浮上しました。

秀秋は、両軍を見下ろせる松尾山に陣を敷きます。
ここは、絶好の特等席でした。
しかし、問題が・・・
大谷吉継です。
吉継は秀秋を警戒し、裏切ることも予測していたようです。

吉継は、自ら志願して松尾山の麓に陣取ります。
しかし、吉継は1500人程度、秀秋は1万〜1万5000.
軍勢の差があるものの。。。
どうして吉継は山の麓に布陣したのでしょうか?

それは、道にあると言います。
松尾山の道は、狭い1本道でした。
1万の軍勢が下るには、非常に時間がかかります。
吉継には時間稼ぎに好都合だったのです。

吉継が陣を敷いたところには、土塁があります。
この土塁、方向が松尾山を向いています。
つまり、秀秋が下ってくることを予測していたのです。

もしかしたら、裏切るのでは?と、予想していたのです。

秀秋が松尾山に布陣したのが9月14日、戦いの前日。。。
では、吉継はいつ土塁を築いたのでしょうか?

それには、山中村には、石田三成から村人へ、吉継らの土塁に対する協力依頼状が残っています。
これが出されたのが5日前。。。

準備を進めていたとされていたようです。
しかし、吉継にも大きな誤算がありました。
秀秋だけでなく、朽木・小川・赤座・脇坂・・・この4つの隊も秀秋に便乗し、一緒に裏切ったのです。

午前8時・・・立ち込めていた深い霧がスッとひいた時、戦いは始まりました。
そして4時間後。。。
ついに、秀秋が松尾山から動きます。

この時が、秀秋自ら豊臣のNo,2を捨てた瞬間でした。
しかし、この直前までは、西軍が勝っていました。
やはり、秀秋の裏切りが、勝敗を決めたようです。

戦国史上最大の決戦は、秀秋の参加後、2時間で幕を閉じたのです。

No,2としては、輝かなかったのかも???


小早川秀秋に同調した、朽木・小川・赤座・脇坂4つの部隊は何故東軍へと寝返ったのでしょう???
秀次は、大谷吉継を攻めるに当たり、手紙を送っていました。

「わけあって、この度は
 家康公にお味方する
 一緒に参加せよ
 本領は安堵の上
 恩賞もあることであろう」

と。。。

秀秋が寝返りを促したのです。
しかし、その代償はあまりにも大きかった。。。

秀秋は、罪悪感にさいなまれるようになります。
臣下を切り殺したり、酒びたりになったり・・・
そして、岡山にタカ狩りに出かけたとき、突然倒れてなくなります。
関ケ原から2年、皮肉にも大谷吉継の言葉通りとなりました。

「人面獣心なり
   三年の間に
     祟りをなさん」

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posted by ちゃーちゃん at 11:52| Comment(2) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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