2012年07月12日

一粒で、パワー全開!!

完全食の”兵糧丸”です。

携帯用の兵糧として、よく用いられたのが”兵糧丸”です。

直径4.5pの丸く固めた兵糧です。
そのエネルギーは、1個で1食、あるいは1日分のカロリーに相当したと言われています。

「上杉家兵法書」にある兵糧丸の作り方は・・・
麻の実の皮を除き、黒大豆とともに粉末にし、そば粉を混ぜます。
それを酒に浸し、天日で乾燥させた後、再び酒に浸して干し、また酒で、丸く固めます。

基本はこれでしたが、他に梅干し、人参、甘草、鰻白干、山芋などを粉末にし、混ぜ合わせる場合もありました。

家庭用は・・・
黒大豆・黒ゴマ・片栗粉・白ゴマを混ぜて作られていました。

兵糧丸は、食事としてだけではなく、薬餌としても効果がありました。
小さくて携帯に便利、保存が利く・・・まさに戦時用の”完全食”でした。

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城下町へ行こう!「伊賀上野の城下町」

城下町へ行こう!
今回は、忍の国・・・「伊賀上野の城下町」です。黒ハート

忍者は確かに存在した・・・。

三重県伊賀市、人口9万8525人、面積558㎢、特産は伊賀焼、組紐、伊賀牛。
北に京都と彦根、西には奈良、主要な町に囲まれた伊賀の里は、霧深い秘蔵の地でした。

政治的にも地理的にも、特殊な地で生まれたのが忍之衆。
独自の文化を育み、大名たちから恐れられました。
そんな伊賀の国に上野城を築城し、城下町の基礎を築いたのが、城作りの名手と謳われた、藤堂高虎でした。

DSCN0025[1].jpg

このお城・・・石垣の高さは、大坂城と日本一・二を争っています。
通常、石垣の高さは10mぐらいが多く、それ以上は、高石垣と呼ばれています。
天下に名だたる大坂城の場合、空堀が残っているので容易に図れます。その高さ30.5m。

一方、伊賀上野城は、水が入っているので図れないとか。。。
で文献によると石垣の高さはおよそ29.7mということになります。
大坂城よりも、およそ1m低いことになりますが・・・。

このように、堅固な高石垣を持つ伊賀上野城。
築城の名手と言われた藤堂高虎によって作られました。

高虎の築城技術は、家康に高く評価され、江戸城・駿府城・名古屋城・津城・赤木城・伏見城・篠山城・大坂城・和歌山城・甘埼城・今治城・宇和島城・大洲城・出石城・亀山城・淀城・聚楽第・膳所城・二条城・猿岡山城・大和郡山城・・・天下城普請という城は、全て高虎に任されていました。
その数20以上・・・

そんな高虎が手掛けた伊賀上野城・・・
隠れ国には、忍者がいました。
伊賀の里は、京都・奈良・彦根・伊勢に囲まれた山国・・・。
この国に入るには、険しい山道を使わなければならない上に、霧が多く発生する土地だったので、容易く足を踏み入れることの出来ない閉ざされた土地でした。

落ち武者や貴族が・・・都から逃げ込むには格好の土地でした。
外敵から身を守るために、鍛錬したようです。
他にはまねのすることの出来ない修業をしました。

201204240132541d9[1].jpg

戦乱の世には、その技術を使って諜報活動・謀略・暗殺に励みました。
つまり、傭兵部隊です。

各国の諸大名は、伊賀を怖れながらも、伊賀の力を欲したと言います。
ちなみに忍者が活躍した時代、彼らは「忍之衆」と呼ばれました。

また、戦国武将によって、その呼び方は様々で・・・
武田信玄・・・乱破
羽柴秀吉・・・木陰衆
織田信長・・・饗談
上杉謙信・・・軒猿
毛利元就・・・世鬼衆
伊達政宗・・・黒脛巾

でした。

忍者の隠れ国として恐れられた伊賀の国・・・
その城下町とは???

忍町・・・
実際、忍者は・・・忍者とバレてはいけません。
普段は普通の生活をしています。
地域に溶け込んだ生活です。

DSC05411[1].jpg
まかり間違っても、こんな恰好は出来ません。

忍者の重要な任務は諜報活動。
実際は、僧侶・虚無僧・山伏・商人・曲芸師・能役者・農民などの恰好をしていました。

伊賀に使わる変装術・・・「七方出」では、煙によってする変身ではなく、いろいろな職業に必要な知識を身につけるというものでした。

つまり、誰が忍者であるかは分からないのです。

さらに、実際に使っていた撒き菱は・・・
149[1].jpg

鉄で出来た針金ではなく・・・天然の菱の実を乾燥させたものを使いました。
中身は携帯の食事・滋養強壮・漢方薬にもなりました。
その知恵こそが忍者と言われる所以であり=忍術となっていくのです。


日南町には・・・
蓑虫庵。
俳聖・松尾芭蕉の縁の地です。
「蓑虫の 音を聞にこよ 草の庵」
と詠んだことに始まります。

実は・・・
松尾芭蕉は忍者だったかもしれない説があります。
芭蕉は、「奥の細道」で、およそ150日間で2340キロを移動したとされています。
多い時で1日に50q、そのスピードから、忍者説があります。

この他にも証拠が???
芭蕉は、「イビキ」の研究をしていました。

伊賀にある忍者のバイブル「万川集海」(江戸時代中期、伊賀忍者・藤林保武によって書かれた全22巻の忍術書)によると、イビキを聞き分ける忍術が書かれています。
忍者には、資料が残っていません。。。

はたして、俳聖・松尾芭蕉は、世を忍ぶ仮の姿だったのかもしれません。


伊賀では、着物の帯締めに使われる組紐を伝えています。
もともとは、鎧や刀・・・武具のおしゃれアイテムに使われていました。
今、組紐を使った一番人気がこちらだそうです。
キューピー忍者
キューピー忍者

この組紐は、忍者のバイブル「万川集海」が出てきます。
術に使用したとか・・・
「座探し」・・・暗闇の中、組紐で鞘のバランスを取りながら敵を探る術。
「捕縛」・・・組紐を敵に絡め、相手の自由を奪う術。


伊賀牛を使ったすき焼きも有名です。
伊賀牛は、鎌倉時代から有名です。

おめでたい席で食べることから「寿き焼き」と呼ばれています。
この伊賀牛を最初に食べたのは、伊賀忍者。
城や屋敷に長期にわたって潜伏することの多かった忍者、貴重なタンパク源として食したそうで。。。
忍者はこの牛肉を、ジャーキーにして食べていました。


伊賀忍者を一番恐れた武将は、織田信長でした。
天正伊賀の乱・・・
主君を持とうとせず、傭兵部隊として独自の文化を持っていた伊賀を、天下統一の妨げとして徹底的に滅ぼしました。

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しかし・・・
本当は、織田信長は伊賀が欲しかったのです。
手に入らなければ・・・滅ぼしてしまえ!!
ということだったようです。
信長に攻められ伊賀を追われた人々は、全国に散らばりました。


忍の流儀を受け継いできた忍の城下町でした。
私たちは、今も術をかけられているのかもしれません黒ハート

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posted by ちゃーちゃん at 11:43| Comment(0) | 城下町へ行こう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月11日

関ヶ原を決した男〜小早川秀秋〜

裏切りという卑劣な行為によって天下分け目の関ヶ原の決戦の勝敗を握った男。

1600年9月15日、関ヶ原を黒い霧が動いたとき、静寂を破り戦国最大の戦いが始まりました。

東軍率いるは天下統一を目指す徳川家康、対する西軍は、豊臣政権を継承・維持を願っていた石田三成。
戦局は、じりじりと西軍に傾き始めていたその時。。。

突然小早川秀秋の軍勢が、東軍へと裏切りました。
通説によると、この裏切りが、ターニングポイントとなって東軍に勝利をもたらしたとされています。
しかし西軍は、小早川の裏切りを知っていた???
さらに裏切り者は、秀秋だけではなかった???
その裏切りの、連鎖とは?????

秀吉のNo,2として育てられながら、No,2になれなかった男の悲劇・・・その悲運なる生涯とはどのようなものだったのでしょうか?

「人面獣心なり! 3年の間に祟りをなさん!!」

大谷吉継はそういって、切腹して果てたとか・・・
その言葉は、小早川秀秋に向けての呪いの言葉でした。

色白で優しそう・・・養子として大切に育てられた秀秋。
豊臣家の不幸は、子供が生まれたことかもしれません。

豊臣家は、もともと農民の出・・・
一族や譜代の武士団はいませんでした。
優秀だったのは、弟・秀長ぐらい・・・
秀吉の養子となった小早川秀秋は、有力な跡取り候補でした。

1588年4月、豊臣秀吉は7歳の少年を跡継ぎと定めました。
彼こそが・・・後の小早川秀秋です。
「金吾」と呼ばれて、養子の中では一番かわいがられていました。

3歳から後継者候補として大切に育てられてきた秀秋、しかし、雲行きは次第に怪しくなっていきます。

1590年 豊臣秀吉 天下統一

その華やかな舞台の裏で、後継者争いが始まろうとしていました。
唯一の息子、鶴松が1591年に亡くなります。
この時秀吉53歳、実の子は、諦めざるを得ませんでした。

当時、後継者の有力候補は2人・・・
一人は秀吉の姉の子・秀次24歳、もう一人は北政所の兄の子・秀秋10歳。

秀吉は、秀次に事実上の後継者として関白を譲ります。
その一方で、秀秋には丹波亀山城10万石を与えていました。
秀秋は、異例の出世をしていきます。

秀次に関しては、功績はあったものの、1584年小牧・長久手の戦いでは、家康に大敗し、秀吉は家康と講和せざるを得なくなったことなどから、武将としての資質に疑問を持たれていました。

秀次に代わる養子を???

1592年 朝鮮出兵。文禄の役。
鶴松の悲しみから逃れるかのように、朝鮮出兵に力を注ぎ、内政は秀次に任せます。
豊臣政権の二元政治が始まろうとしていました。

秀吉は、その頃の秀秋には・・・
「跡取りだから、戦に行ってはならん」
と、親心を見せていました。

しかし、1年後・・・57歳の秀吉に、まさかの「秀頼誕生」です。
この秀頼の誕生が、秀秋の運命を大きく変えていきました。

実の子に家督を譲りたい・・・
秀秋は邪魔物のようになっていきます。

翌年、秀秋は養子に出されてしまいます。
毛利家です。しかし、乗っ取られる・・・と思った毛利家。
毛利家を守るために、小早川隆景は。。。
建前では、喜んで養子に受け取りますが、本音は家を守りたい!!でした。

秀秋は、10代前半で酒を覚えて・・・不良になってしまいます。。。
豊臣体制を支えるNo,2として育てられながら、一大名の養子に出されてしまった秀秋・・・。

豊臣秀吉は、秀頼が誕生したことで、秀次を関白にしたことを後悔していました。
なんとしても、秀頼に跡目を・・・

秀吉は、異常な一面を見せ始めます。
1595年秀次は、高野山へ追放され、切腹の命令を受けてしまいます。
その常軌を逸した行動は、秀次の妻子までも次々と殺し、その数30人以上。
秀次の血を抹殺しようとします。

その行為が、秀秋にも及びます。
秀次に加担したとして、丹波亀山城没収。

そしてさらに・・・
1597年、朝鮮再出兵・慶長の役です。
その時、総大将としたのは、16歳の秀秋でした。
秀秋は、隆景のあとを継ぎ、30万石以上の大名となっていましたが、戦場経験はほとんどありません。
名ばかりの総大将だったのです。

この時点で、秀頼が跡を継ぐ道筋をつけようとし始めたのです。
秀秋は、真っ赤な陣羽織を新調します。
そこには、違い鎌が。。。

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「敵をなぎ倒す」という意味です。

「見返してやろう!!」
桐紋を秀吉から授かっていたにもかかわらず、あえて、この模様を選んだとか。

そして、蔚山城の戦いでは、自ら刀を振るって参戦、加藤清正を救出する戦功をあげています。
その矢先。。。
またも、理不尽な。。。
帰国を命じられます。
「自ら刀を振るうなどとは、大将にあるまじき軽率な行為だ」と窘められます。
その上、秀秋を待ち受けていたのは、筑前名島没収、越前へ国替えという重い処分でした。
秀吉に翻弄され続ける秀秋・・・。
もはや秀秋にとって、秀吉は憎しみの大将となっていました。

そして、その矛先は、石田三成へ・・・。
秀秋の様子を逐一報告していたのは、石田三成でした。。
そして、もう一つ石田三成を嫌っていた理由は・・・帰国命令を出させたのも、石田三成だったからです。
その帰国させた理由は、筑前を取り上げるためだったとか・・・
というのも、蔚山城の戦いは1月、帰国命令は、前年の12月に出ていたからです。

秀秋の心に暗い影を残したまま、1598年豊臣秀吉・没。

死の間際まで、秀頼を心配していた秀吉。
「秀吉を頼む」
と手を取った男は、徳川家康でした。
徳川家康は、秀秋の筑前召し上げに対してその取り消しを口添えをしてくれます。


敵の敵は味方・・・
家康と北政所は仲が良い。という感じでした。
北政所も、次は家康の天下だと思っていたようです。
だからこそ、自分の甥である秀秋に、家康に味方をした方が良い。。。と、アドバイスしたようです。
乱世のルールとして、「治める人間は、やはりそれなりの力量がないといけない、秀頼では駄目だ」と、北政所は思っていたようです。


豊臣秀吉にとって天下統一がなされたものの、再び戦乱の世へ・・・
徳川家康と石田三成の戦いです。
1600年関ヶ原の戦い・・・

ついに、石田三成が挙兵!!
1600年7月伏見城の戦い。
この戦いに、秀秋は西軍の副将として参加したものの、西軍にも東軍にもつかないという不可解な行動をとっていました。

自身は。。。
西にいたから仕方なしに西軍。。。内心複雑・・・
8月に黒田長政からの手紙には。。。
「北政所様の為に味方せよ。。。」と、東軍につくべきだと誘われています。
家康は、戦いになる前に、根回しを・・・
煮え切らない秀秋・・・
家康は、最後の手紙には。。。
「上方二国を与えよう」

まさに同じ日、石田三成からも・・・
「秀頼様が15歳になるまで関白をお任せしたい」

秀秋にとっては、良い申し入れでした。
気持ちが揺れる秀秋・・・
2人の言葉を鵜呑みにしてもいいものか・・・

家康には「機会を見て西軍三成らを裏切る」

三成には「狼煙を合図に戦いに参加する」

と、両軍に参加の返事をしました。

関ケ原の戦いは、秀秋の予期せぬ裏切りで、家康・東軍が勝利したと言われています。
しかし、近年、新しい説が浮上しました。

秀秋は、両軍を見下ろせる松尾山に陣を敷きます。
ここは、絶好の特等席でした。
しかし、問題が・・・
大谷吉継です。
吉継は秀秋を警戒し、裏切ることも予測していたようです。

吉継は、自ら志願して松尾山の麓に陣取ります。
しかし、吉継は1500人程度、秀秋は1万〜1万5000.
軍勢の差があるものの。。。
どうして吉継は山の麓に布陣したのでしょうか?

それは、道にあると言います。
松尾山の道は、狭い1本道でした。
1万の軍勢が下るには、非常に時間がかかります。
吉継には時間稼ぎに好都合だったのです。

吉継が陣を敷いたところには、土塁があります。
この土塁、方向が松尾山を向いています。
つまり、秀秋が下ってくることを予測していたのです。

もしかしたら、裏切るのでは?と、予想していたのです。

秀秋が松尾山に布陣したのが9月14日、戦いの前日。。。
では、吉継はいつ土塁を築いたのでしょうか?

それには、山中村には、石田三成から村人へ、吉継らの土塁に対する協力依頼状が残っています。
これが出されたのが5日前。。。

準備を進めていたとされていたようです。
しかし、吉継にも大きな誤算がありました。
秀秋だけでなく、朽木・小川・赤座・脇坂・・・この4つの隊も秀秋に便乗し、一緒に裏切ったのです。

午前8時・・・立ち込めていた深い霧がスッとひいた時、戦いは始まりました。
そして4時間後。。。
ついに、秀秋が松尾山から動きます。

この時が、秀秋自ら豊臣のNo,2を捨てた瞬間でした。
しかし、この直前までは、西軍が勝っていました。
やはり、秀秋の裏切りが、勝敗を決めたようです。

戦国史上最大の決戦は、秀秋の参加後、2時間で幕を閉じたのです。

No,2としては、輝かなかったのかも???


小早川秀秋に同調した、朽木・小川・赤座・脇坂4つの部隊は何故東軍へと寝返ったのでしょう???
秀次は、大谷吉継を攻めるに当たり、手紙を送っていました。

「わけあって、この度は
 家康公にお味方する
 一緒に参加せよ
 本領は安堵の上
 恩賞もあることであろう」

と。。。

秀秋が寝返りを促したのです。
しかし、その代償はあまりにも大きかった。。。

秀秋は、罪悪感にさいなまれるようになります。
臣下を切り殺したり、酒びたりになったり・・・
そして、岡山にタカ狩りに出かけたとき、突然倒れてなくなります。
関ケ原から2年、皮肉にも大谷吉継の言葉通りとなりました。

「人面獣心なり
   三年の間に
     祟りをなさん」

三成に過ぎたる猛将〜島左近〜はこちら

天下人を支えた「おかか様」〜北政所おね〜はこちら

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posted by ちゃーちゃん at 11:52| Comment(2) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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