2012年06月15日

古代ミステリー・邪馬台国の魔力に迫る。A

昨日の続きです。るんるん

研究最前線 邪馬台国 いま、何が、どこまで言えるのか (朝日選書) [単行本] / 石野博信, 高島忠平, 西谷 正, 吉村武彦 (編集); 朝日新聞出版 (刊)
研究最前線 邪馬台国 いま、何が、どこまで言えるのか (朝日選書) [単行本] / 石野博信,...


この邪馬台国、三国志の執筆者陳寿にとっては、重要な意味を持つ国でした。
だから、記録に残ったのです。

「三国志」と「邪馬台国」の関係とは???
「魏志倭人伝」は、魏呉蜀の戦乱を書いた「三国志」の一章です。

魏が、外交関係を持っていた倭国の記録です。
魏の立場に立って考えると・・・

三つの国が、激しい戦いを繰り広げていました。
魏としては、蜀と呉に対して、その背後に味方になる国を探していました。

そんな時に、海を渡り、卑弥呼の使者が魏の都・洛陽へ・・・

これを喜んで、「親魏倭王」として「金印」を授けたのです。

中国の皇帝は、周辺国の支配者を王と認め、金印を授けて味方につけていました。
この「金」印は、破格の扱いで、卑弥呼・・・邪馬台国は、重要視されていました。

同じように金印を受け取った国、「クシャーナ朝」は、蜀のはるか東・・・
ライバル蜀の後ろにあり、蜀の牽制を・・・同じ役割を、邪馬台国に期待したのです。

宿敵・呉を牽制するために・・・
呉を挟み撃ちに出来る場所にあると思い込んでいた可能性があるのです。
”呉の背後に邪馬台国がある!!”という希望が、事実とは異なる記述になった可能性があります。
だから、現実とかけ離れてしまったとか・・・。

三国志は、正史と言いますが、「正統性を示すための歴史書」ということを、考えなくてはなりません。
中国の天子は、天下を支配している。遠くから民族が来るほど徳が高いのです。

背後が重要・・・呉と戦うとき、「赤壁の戦い」で魏は水上戦に敗北、魏は騎兵隊なので、水に弱いのです。
南の水上に、味方の国があってほしい・・・

魏らしい中華思想に基づいて、周辺諸国を支配していたのかもしれません。

おまけに、邪馬台国は、不思議な国だったようです。
中国にいない”女王”・・・

当時の世界観を知ったうえで、「魏志倭人伝」を読むと解るかもしれません。

考古学的には、沈黙している物証をどう語らせるか!!文献を物証でひっくり返せるか???

邪馬台国は近畿?それとも九州?その出土品から見ると。。。
これが発掘されれば卑弥呼がいた場所を確定する”決めて”は・・・

@金印
A装封・・・重要な贈り物が、勝手に開けられないようにした泥の封のこと。

この二つは、まだ発見されていません。

有力な出土品としては・・・

九州では。。。
壱岐島で・・・原の辻遺跡
鉄の延べ棒が、発見されています。
これは、鉄の素材として持ち込まれたもので、それまでは青銅を使っていました。
ここは、大陸と日本を結ぶ、重要な場所だったのです。

鉄から剣・矢じりを作り。。。出土も九州が圧倒的です。
そこからは、九州が先進文化の中心地だったことが解ります。


近畿では。。。
奈良県天理市にある黒塚古墳から・・・1997年に34枚という大量の銅鏡が発見されました。
一か所からの発見では最多。
三角縁神獣鏡です。
鏡を使って宗教的な儀礼が行われていたと思われます。

「魏志倭人伝」には・・・
「景初三年魏は卑弥呼に銅鏡百枚を贈った」とあります。
「卑弥呼に、我々魏と国交を結んだことを国中の人に知らしめるよう申し伝えた」
このことから、卑弥呼は、魏から送られた銅鏡を日本中に配布したと考えられます。
近畿で銅鏡が多いのは、邪馬台国が近畿にあったかあら・・・?


しかし、この三角縁神獣鏡は、中国からは出土していません。
本当に中国せいなのでしょうか???
その鏡を作ったであろう遺跡も、中国・日本ともに発見されていません。


博多遺跡では。。。
朝鮮半島から鉄の陸揚げをし、加工していた場所が発見されました。
近畿の人は、鉄を買いに来ていたようです。
つまり、この当時すでに行き来があったようで、緩やかな連合であったようです。


「金印」については・・・
金印は、普通死後、中国に返却していたようですが・・・模造品は作っておいてあることもあります。
つまり、本物か、レプリカ、どちらかが出てくる可能性があります。


ここで・・・
日本の歴史の始まりを大きく左右する二大遺跡が発見されます。

日本の原点・・・

1989年 吉野ケ里遺跡
この遺跡の姿は、魏志倭人伝の邪馬台国を彷彿させるものでした。
楼観、城柵を厳かに設け、常に兵士が守っている・・・
 
おまけに、集合全体を覆う環濠が、南北1キロにわたり広がっていました。
これは3世紀では、日本最大級です。
堅い防御が必要な場所だったのです。

「倭国大乱」の時代。
この戦いの後、ひとりの女を立てて王とした。
名を卑弥呼という。

吉野ケ里こそ邪馬台国である!!
九州にあった!!
加熱したマスコミ報道がありました。

考古学的には、九州北部で数百年続いた文化圏があったことは確かです。
BC6世紀ごろから古墳時代まで、連綿と続く継続した珍しい集落・・・という貴重な遺跡でした。   

2009年、卑弥呼の宮殿??が、発見されました。
古代都市遺跡・・・奈良県桜井市にある纏向遺跡です。
ここは、ヤマト王権発祥の地です。

南北19.2m、東西12.4m。
当時の日本で最大の面積を誇るものです。
出土したのは、巨大な館の跡でした。

掘り進むにつれて、4つの建物が発見されました。
東西一直線に建てられていました。
日本最古の方位を意識した建物群でした。
”都市整備”という、中国や朝鮮半島から入ってきた思想が導入されています。

出土した土器は様々で、日本各地で焼かれて、持ち込まれたものです。
纏向は、列島各地のリーダーが集い、大陸の影響下で、計画的に築いた都市でした。

この2つの遺跡。。。

その発掘がもたらしたものは・・・
日本の始まりの姿です。

3世紀には、九州にも文化圏があり、近畿でも計画都市が作られ、この近畿がヤマト王権⇒飛鳥⇒奈良・・・と、続いていくのです。

日本の空白部分が埋まってきました。

しかし、邪馬台国はどこにあるのでしょうか???

弥生時代には、九州が大陸の文化を取り入れる玄関口でした。

BC6世紀・・・・・・筑紫時代(九州中心)
3世紀〜19世紀・・・ヤマト時代
現在・・・・・・・・アズマ時代

に分けられます。
が・・・

九州は、経済的な中心。
近畿は、政治的な中心。

と、思われます。

内容性質の異なる中心が並び立っている時代だと思われます。

日本人の”原始的なところ”を掘り当てる、隣国から文化を学んで”クニ”から”国”へ変化していく時代だったことは間違いありません。

金印が見つかっても、その場所が邪馬台国だとは限りません。。。

邪馬台国は・・・99%謎のままなのではないでしょうか???
その方が、魅力的なのかも???

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posted by ちゃーちゃん at 14:08| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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