2012年06月19日

出陣!! 縁起を担いだ儀式と禁忌。

織田信長は、桶狭間の奇襲攻撃において、熱田神宮の神殿に願文を納め、戦勝祈願したと言われています。

神宮の門を出ようとしたその時、二羽の白鷺が、敵方向へ向かって旗先を飛び去って行きました。
これを見た信長は、熱田神宮の加護を示す吉兆と断じ、家来を奮い立たせました。

これは、信長の作戦にのっとって、熱田神宮の大宮司が一芝居打ったのだとか。

だって、信長は、信じていないでしょう?神を!!

でも、このおかげで、家来たちは怯えを払い、士気を鼓舞して戦うことが出来ました。

このように、戦場は、生と死の極限状態の世界です。
侍たちは、常に、死と背中合わせに生きているのです。
これを払拭するために、理屈を超えた神秘的な、呪術的なものに縋ろうとしました。

そう、勝つことが出来るなら、どんなものにでもすがりつき、縁起を担いだのです。


出陣にあたっては、大将は様々な儀式を執り行いました。
代表的なのが、「三献の儀式」
出陣の門出を祝う酒の肴として、三つ重ねの盃と一緒に、三方に乗った打鮑(打つ)・勝栗(勝つ)・混布(喜ぶ)が大将の前に置かれます。
つまり、「打ち勝って喜ぶ」と縁起を担いだのです。

この祝い酒を飲み終えると、右手に弓をとり、左手に軍配を開きもち、「えいえい」と勇ましく叫び、兵が「おう」と声を和して応じました。


また、出陣の3日前から正室・側室をはじめ、女性を近付けることは禁忌とされていました。
女性に接すれば、未練が残り、精力を消耗し、戦場での働きに差支えがあるからです。

出陣の日取りは、吉日を選び、凶日とされる往亡日は避けられました。
往亡日とは、文字通り、亡びに往く日のことで、陰陽家は、春は7、14、21日、夏は8、16、24日、秋は9、18、27日、冬は10、20、30日がこれに当たりました。

方角は、死者を北枕にするところから、北を避け、出陣の方角を東、または南に当たるようにしました。

大将は、顔が東か南に向くように床几に腰を下ろし、武具も同様に置きました。


なんて忙しいんでしょう。あせあせ(飛び散る汗)
ほんとに戦ってる???

戦国の軍隊: 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢 [単行本] / 西股 総生 (著); 学研パブリッシング (刊)
戦国の軍隊: 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢 [単行本] / 西股 総生 (著); 学研パブ...
図説・戦国武将118―決定版 [ムック] / 学研 (刊)
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2012年06月16日

第23回 「叔父を斬る」

第23回 「叔父を斬る」

保元の乱の後始末から始まります。

清盛「身内を斬るとは、非情にすぎる!
もとは、王家・摂関家の争いに駆り出され命がけで戦うた武士が、なにゆえこの上左様な苦しみを背負わねばならぬ!」

信西「それはそなたたちが武士であるゆえじゃ」

清盛「いつまで武士を犬扱いするおつもりか!」と激昂する清盛

信西「従わぬなら官位も領地も私財も召し上げる」

動揺して必死に文句を言っております清盛ですが信西には通じません。

清盛は平氏の後ろ盾となってくれていた藤原家成の息子・成親にとりなしを頼むが、成親は泣きながら自分の力では無理だと断ります。しかし清盛が出ていくと、その目には涙ひとつなかった。

なんと、その姿、成親も自らは手を汚さないという鉄則を理解した真っ黒黒公家になってきたのでしょうか???

信西の仕打ちは源氏に対しても同じでした。信西は義朝に、父・為義や弟たちが死罪だと告げました。
必死に許しをこう義朝に信西は、清盛は今後のことを考えて叔父を斬ると伝えます。

少年漫画のように、ライバルを対立させています。
この対立が、お互いの力をそぐことであるとも知らずに苦悩する義朝です・・・。

怒りに我を失った義朝は、館にもどると由良をたたき、なぜ父を連れ戻したりしたと責めます。その様子を為義はぼう然と見つめていました。


清盛の館では平氏一門が今後の策を議論するがまとまらりません。清盛は意を決して、忠正に斬首の沙汰を告げます。。。

清盛「…されど…従う気はございません。すぐに手立てを」

忠正「承知した。いつ、斬られる?」

清盛「…叔父上!!」

忠正「わしが何より恐れておるのは、己が平氏の災いとなることじゃ」

清盛「…両2日のうちには、行えとの仰せにございまする」

忠正「お前が斬れ。見届けてほしいと言うたな。己が平清盛であるということを。ならば、お前が斬れ!!」

そう、この叔父を越えていくのだ!!!!


一方、義朝の館では悩み苦しむ義朝に為義が静かに語りかけます。

自分の悲願だった殿上人に義朝がなったことを親孝行だとほめ、義朝に源氏重代の家宝である刀で自分を斬ってくれと頼みます。
由良は鬼武者に義朝が為義を斬ることを告げ、その場を見届けろと命じました。

ああ・・・由良は、本当に武士の妻なのですね。バッド(下向き矢印)
恐ろしいというか・・・
こうやって、日本史上10本の指に入る悪人が生まれるのか・・・(ザ・今夜はヒストリーより。)

忠正が上皇方につく原因となった清盛の弟・頼盛は、忠正に涙ながらに謝罪するが、忠正は平氏のためになら喜んで自分は斬られると静かに語ります。


運命の日。。。忠正の屋敷。。。そこへ何も知らない清盛の三男・清三郎が、忠正が作ると約束していた竹馬が完成したかをたずねてきました。


忠正は帰ったらつくると告げ、一門が見送る中、処刑場の河原に向かいました。


河原で西行も見守る中、清盛は宋剣を抜くが忠正の首へ振り下ろすことができません。
忠正が何度も斬れと叫んだ末、清盛は叔父や、その子らを斬りました。

一方、義朝も為義を斬るのをためらっています。為義の斬れという叫びにも義朝はこたえず泣き崩れてしまいました。やがて義朝の忠臣・鎌田正清が刀をとり、為義やその子らを斬っていったのです。

ああ、こんな壮絶な大河、久しぶりです。
人が人を殺すって、こういうことなのよ。

ただ、清盛は叔父さんじゃん!!って、思ってしまいました。
鬼のように・・・修羅の如く戦ってきた義朝でも、やはり父は斬れないのだ!!!
って、人間味を出していますよね。

「最後の頼みも聞けなかったお前が父と呼ぶな!」

なんか、武士道って、感じです。

当時は、切腹って考えはまだなくて、一番最初に切腹っていうか、割腹自殺したのは、義朝の弟のガンダム・為朝です。

まあ、この人たちは罪人なので処刑になるのかもしれませんが、処刑と言っても当時は出家するか、島流しが関の山だったようで、由良が探させたのは浅はかとは言い切れなかったかもしれません。

清盛のように、棟梁のすることではないかもしれないですが・・・。あせあせ(飛び散る汗)

藤原師光から処刑の結果を聞いた信西は、冷静に首をさらすよう命じました。
師光は信西の真意を見抜き、藤原摂関家を弱めるため為義を殺さねばならず、そのために平氏も源氏も両方血を流すことを求めたのだと感服した口調で話します。信西はそっと涙を流していた。

使命を終えた清盛を待っていたのは後白河天皇からの勝利の宴への誘いでした。

清盛、なんか顔つき変わっていますよ。
これが、松ケンのいいところなんでしょうね。
顔がコロッと違います。黒ハート

かつては武士を軽んじていた関白・藤原忠通でしたが、今は武士の力を認めざるを得ないとして清盛に杯をあたえます。

後白河天皇は白拍子を呼んで舞歌わせました。
ほんとに、白拍子の舞が大好きなようです。
祝いが華やかになるほど心が暗く沈んでいく清盛は、やがて怒りをおしとどめ、後白河天皇に招待のお礼を言上します。

大人になってきましたよ、清盛。

宴の後、その場に残り怒りを吐き出す清盛に、信西は「すべての重き荷を背負ってこの国の宝となれ」とさとし、信西の知力と清盛の武力で世を変えようと語りかけました。


そのころ、悲劇を通して棟梁の妻としての自覚ができた時子は妹の滋子につとめにでるよう命じました。

清盛も棟梁として成長しましたが、時子も成長して来ていますね。黒ハート

そうです。滋子が宮中に上がらないと、お話になりません。

そして、由良は常盤のもとを訪ねて・・・
由良「どうぞお優しい子にお育てなさいませ・・・。私は鬼武者を、強い男子に育てねばなりませぬゆえ。」

そう、血も涙もない男を育てるために、立ち上がるのです。揺れるハート

そして、息子の鬼武者も覚醒したようです。

義朝が為義を斬れずにいた一部始終を見ていた鬼武者は義朝に、元服して父を支えたいと申し出ます。

その言葉に義朝は思わず鬼武者を抱きしめ涙を流しました。

鬼武者は「源頼朝」と名乗ることになりました。

本当に、丁寧に人物を描いていると思います。
最近の大河ドラマの中ではぴか一の作品だと思うのです。
視聴率ばかり気にしているのだったら、戦国と幕末をすればいいのですよ。バッド(下向き矢印)
あ・・・来年の大河がそうか・・・。
でも、山本八重子大好きです。揺れるハート

清盛は平氏一門を集め、平氏は一蓮托生であり、一門の繁栄を築きあげるのが一人一人の使命だと改めて宣言しました。


そう、悲劇に向かって、突っ走ろうとしています。

キーとなる言葉は、一蓮托生。。。

一蓮托生だからこそ、滅亡してしまうのに。。。清盛。

これからしばらく、悪の権化の手足として働くのですよ。黒ハート


で、今回、私の好きな崇徳上皇は出てこなかったので残念です。。。バッド(下向き矢印)

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ラベル:平清盛
posted by ちゃーちゃん at 18:25| Comment(0) | 平清盛 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月15日

古代ミステリー・邪馬台国の魔力に迫る。A

昨日の続きです。るんるん

研究最前線 邪馬台国 いま、何が、どこまで言えるのか (朝日選書) [単行本] / 石野博信, 高島忠平, 西谷 正, 吉村武彦 (編集); 朝日新聞出版 (刊)
研究最前線 邪馬台国 いま、何が、どこまで言えるのか (朝日選書) [単行本] / 石野博信,...


この邪馬台国、三国志の執筆者陳寿にとっては、重要な意味を持つ国でした。
だから、記録に残ったのです。

「三国志」と「邪馬台国」の関係とは???
「魏志倭人伝」は、魏呉蜀の戦乱を書いた「三国志」の一章です。

魏が、外交関係を持っていた倭国の記録です。
魏の立場に立って考えると・・・

三つの国が、激しい戦いを繰り広げていました。
魏としては、蜀と呉に対して、その背後に味方になる国を探していました。

そんな時に、海を渡り、卑弥呼の使者が魏の都・洛陽へ・・・

これを喜んで、「親魏倭王」として「金印」を授けたのです。

中国の皇帝は、周辺国の支配者を王と認め、金印を授けて味方につけていました。
この「金」印は、破格の扱いで、卑弥呼・・・邪馬台国は、重要視されていました。

同じように金印を受け取った国、「クシャーナ朝」は、蜀のはるか東・・・
ライバル蜀の後ろにあり、蜀の牽制を・・・同じ役割を、邪馬台国に期待したのです。

宿敵・呉を牽制するために・・・
呉を挟み撃ちに出来る場所にあると思い込んでいた可能性があるのです。
”呉の背後に邪馬台国がある!!”という希望が、事実とは異なる記述になった可能性があります。
だから、現実とかけ離れてしまったとか・・・。

三国志は、正史と言いますが、「正統性を示すための歴史書」ということを、考えなくてはなりません。
中国の天子は、天下を支配している。遠くから民族が来るほど徳が高いのです。

背後が重要・・・呉と戦うとき、「赤壁の戦い」で魏は水上戦に敗北、魏は騎兵隊なので、水に弱いのです。
南の水上に、味方の国があってほしい・・・

魏らしい中華思想に基づいて、周辺諸国を支配していたのかもしれません。

おまけに、邪馬台国は、不思議な国だったようです。
中国にいない”女王”・・・

当時の世界観を知ったうえで、「魏志倭人伝」を読むと解るかもしれません。

考古学的には、沈黙している物証をどう語らせるか!!文献を物証でひっくり返せるか???

邪馬台国は近畿?それとも九州?その出土品から見ると。。。
これが発掘されれば卑弥呼がいた場所を確定する”決めて”は・・・

@金印
A装封・・・重要な贈り物が、勝手に開けられないようにした泥の封のこと。

この二つは、まだ発見されていません。

有力な出土品としては・・・

九州では。。。
壱岐島で・・・原の辻遺跡
鉄の延べ棒が、発見されています。
これは、鉄の素材として持ち込まれたもので、それまでは青銅を使っていました。
ここは、大陸と日本を結ぶ、重要な場所だったのです。

鉄から剣・矢じりを作り。。。出土も九州が圧倒的です。
そこからは、九州が先進文化の中心地だったことが解ります。


近畿では。。。
奈良県天理市にある黒塚古墳から・・・1997年に34枚という大量の銅鏡が発見されました。
一か所からの発見では最多。
三角縁神獣鏡です。
鏡を使って宗教的な儀礼が行われていたと思われます。

「魏志倭人伝」には・・・
「景初三年魏は卑弥呼に銅鏡百枚を贈った」とあります。
「卑弥呼に、我々魏と国交を結んだことを国中の人に知らしめるよう申し伝えた」
このことから、卑弥呼は、魏から送られた銅鏡を日本中に配布したと考えられます。
近畿で銅鏡が多いのは、邪馬台国が近畿にあったかあら・・・?


しかし、この三角縁神獣鏡は、中国からは出土していません。
本当に中国せいなのでしょうか???
その鏡を作ったであろう遺跡も、中国・日本ともに発見されていません。


博多遺跡では。。。
朝鮮半島から鉄の陸揚げをし、加工していた場所が発見されました。
近畿の人は、鉄を買いに来ていたようです。
つまり、この当時すでに行き来があったようで、緩やかな連合であったようです。


「金印」については・・・
金印は、普通死後、中国に返却していたようですが・・・模造品は作っておいてあることもあります。
つまり、本物か、レプリカ、どちらかが出てくる可能性があります。


ここで・・・
日本の歴史の始まりを大きく左右する二大遺跡が発見されます。

日本の原点・・・

1989年 吉野ケ里遺跡
この遺跡の姿は、魏志倭人伝の邪馬台国を彷彿させるものでした。
楼観、城柵を厳かに設け、常に兵士が守っている・・・
 
おまけに、集合全体を覆う環濠が、南北1キロにわたり広がっていました。
これは3世紀では、日本最大級です。
堅い防御が必要な場所だったのです。

「倭国大乱」の時代。
この戦いの後、ひとりの女を立てて王とした。
名を卑弥呼という。

吉野ケ里こそ邪馬台国である!!
九州にあった!!
加熱したマスコミ報道がありました。

考古学的には、九州北部で数百年続いた文化圏があったことは確かです。
BC6世紀ごろから古墳時代まで、連綿と続く継続した珍しい集落・・・という貴重な遺跡でした。   

2009年、卑弥呼の宮殿??が、発見されました。
古代都市遺跡・・・奈良県桜井市にある纏向遺跡です。
ここは、ヤマト王権発祥の地です。

南北19.2m、東西12.4m。
当時の日本で最大の面積を誇るものです。
出土したのは、巨大な館の跡でした。

掘り進むにつれて、4つの建物が発見されました。
東西一直線に建てられていました。
日本最古の方位を意識した建物群でした。
”都市整備”という、中国や朝鮮半島から入ってきた思想が導入されています。

出土した土器は様々で、日本各地で焼かれて、持ち込まれたものです。
纏向は、列島各地のリーダーが集い、大陸の影響下で、計画的に築いた都市でした。

この2つの遺跡。。。

その発掘がもたらしたものは・・・
日本の始まりの姿です。

3世紀には、九州にも文化圏があり、近畿でも計画都市が作られ、この近畿がヤマト王権⇒飛鳥⇒奈良・・・と、続いていくのです。

日本の空白部分が埋まってきました。

しかし、邪馬台国はどこにあるのでしょうか???

弥生時代には、九州が大陸の文化を取り入れる玄関口でした。

BC6世紀・・・・・・筑紫時代(九州中心)
3世紀〜19世紀・・・ヤマト時代
現在・・・・・・・・アズマ時代

に分けられます。
が・・・

九州は、経済的な中心。
近畿は、政治的な中心。

と、思われます。

内容性質の異なる中心が並び立っている時代だと思われます。

日本人の”原始的なところ”を掘り当てる、隣国から文化を学んで”クニ”から”国”へ変化していく時代だったことは間違いありません。

金印が見つかっても、その場所が邪馬台国だとは限りません。。。

邪馬台国は・・・99%謎のままなのではないでしょうか???
その方が、魅力的なのかも???

邪馬台国論争と古代天皇の年代
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