1868年、戊辰戦争勃発!!
旧幕府軍VS新政府軍・・・政権の座を争い激戦を繰り広げました。
佐幕か討幕か・・・
どちらにつくか、全国の藩が迫られました。
そんな中、あえて中立という路線を築こうとした藩が・・・
石高7万4000石の越後長岡藩です。
この中立を、藩主に進言した男が、河井継之助。
負債総額14万両・・・荒廃寸前だった藩の財政を立て直し、約10万両の剰余金を持つまでにした継之助の藩政改革。
幕末の英雄はたくさんいますが、武装中立をを目指したのは長岡藩家老ただ一人です。
「兵馬の精強なくして
一藩の正義なく
独立なく
自尊なし」
討幕でも佐幕でもない、中立を選んだ男、越後長岡の河井継之助。日本人の発想の常識を超えた男の生き様です。
継之助が一般的に知られていないのは、それが日本が勝者の歴史だから・・・
賊軍の扱いは低いのが現状です。
彼が注目されたのは、司馬遼太郎の「峠」です。
峠|司馬遼太郎|新潮社|送料無料本来ならば、大河ドラマの主役になってもおかしくない人です。
それは、当時、長岡のように武装中立をしようとした藩がなかったからです。
そもそも、武装中立という発想がなかったと言えます。
そして、武装中立の為に、南北戦争で使ったガトリング砲・・・当時、日本に3門しかないのに2門も持っていたのです。
その日本人離れした継之助、幼いころは、親や先生の言うことを聞かない腕白な少年でした。
そして、王陽明の陽明学にはまっていました。
この陽明学は、「知行合一」をモットーとし、知識と行動は一つになるべきだと説いたものです。
これが、その後の性格の基盤となりました。
1852年26歳で江戸に遊学。3人の人物を師と仰ぎます。
古賀謹一郎
斉藤拙堂
佐久間象山
特に、古賀謹一郎の門を叩いたのが一番重要でした。
そこで「李忠定公集」と出会います。
「経済とは、経世済民の略。
すなわち、乱れた世を整え、困窮している民を救うことこそ経済の本質」
この本にとりつかれます。
それには、長岡が直面している困難がありました。
負債総額が14万両と多額の借金がありました。
信濃川の氾濫
火事による損害
藩士による浪費生活・・・
これらが財政を圧迫していました。
「藩の為に、藩の民の為に・・・
藩政改革を行いたい!!!!!」
10代藩主牧野忠雅に送った意見書が彼の目に止まり、御目付格評定方随役に任命されます。
藩の首脳部が会議に参加し、藩政の方針を決める際に意見を言う役目です。
これは、異例の抜擢です。江戸から長岡に帰ることになります。
しかし、世の中は甘くはなく、武士では中流の継之助、自分たちは良い生活をしたい上流階級・・・
何もできずに2か月で辞任します。
それは・・・
陽明学・・・これは、中国・王陽明が唱えた従学説です。朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説くものです。日本では、幕末に隆盛を誇りました。
しかし、陽明学は異端・・・普通家臣は朱子学を学びます。
というのも、知行合一するためには、反乱も辞さないという考えに行きつくからです。
戦国時代は・・・
「君 君たらざれば 臣 臣たらず」
でしたが、家康が平和な時代にするために
「君 君たらざるとも 臣 臣たらざるべからず」
と変えたのです。これは、林羅山の朱子学を取り入れたものです。
つまり、普通の家臣は朱子学を学んでいるので、仕組みと意識の壁が立ちはだかったのです。
政策として示すときに、具体的にどう実現すればいいのか・・・
若くて経験もなく、仲間作りも出来ていませんでした。
そして、これを機に西国へ遊学します。
ここで、運命を変える出来事が・・・
備中松山藩家老・山田方谷に会います。
山田方谷の藩政改革は・・・
特産物の考案
藩の商社化(貿易)
武士の俸禄削減
軍の近代化
身分秩序の見直し・・・
この改革を成し遂げるためには、封建制の今の世の中15年はかかるだろう・・・
「やさしいことから一つずつ成し遂げていけ」
何よりも大切なことは、藩民の信頼を得ること・・・
説明責任を果たすことが大切だと気付きます。
ここ松山で、6か月過ごし、方法論を見つけようとしました。
もう一つ影響を与えたのが・・・
長崎で見た「異国文化の脅威」でした。
東の方とは違い、西国は開国をしており、富国強兵・殖産興業が進んでいました。
「天下の情勢は、大変動の時期に来ている。
力を養う他に藩の生きる道はない・・・。」
このことが、長岡藩を大きく動かします。
260年の科学知識の遅れを身に染みて感じたのです。
1860年桜田門外の変・・・
井伊の死後、混迷を深める幕府・・・
そんな中、第11代藩主牧野忠恭が、京都所司代に・・・!!
慌てる継之助。。。
富国強兵を推し進めている西国に、幕府が勝てるわけがない・・・。
藩主に、「京都所司代の辞任」をするように説得し、「藩政改革」に取り組むべきだと訴えます。
しかし、京都所司代からもっと重要な老中になってしまいました。
長岡藩の生きる道は、中立の道・・・辞任するように頼みます。
あらゆる政治の流れから無縁になり、我が藩や民が豊かになる政治をする資金が必要なので、産業を起こすべきだ。
そして、西洋から大砲や銃を買って、軍の強化にあたるべきだ!!
藩政改革をしたい!!と、殿に申し出ます。
この訴えが通り、殿は老中を辞任。
藩政改革を決意します。
1865年すべてを任され、忠恭のNo,2となりました。
賄賂の禁止
遊郭の廃止
賭博の禁止
禄高の改正 をしました。
その改革は、ぜいたくを禁止したものの、下の者には篤く行いました。
2000石⇒500石
700石⇒300石
95石⇒100石。。。平均して100石に近づけました。
しかし、みんなからの反論もなく・・・というのも、継之助自身出世前と同じ120石のままでした。
「民衆こそ国の主役、役人は民衆によって雇われたものにすぎない」
藩政を改革すること3年・・・
身分秩序が薄くなり、町が活気づきます。
借金を返済しただけでなく、剰余金約10万両の藩となりました。
しかし・・・時代の大きな渦に飲み込まれていくのです・・・。
1867年10月、大政奉還が徳川慶喜により断行されます。
12月王政復古の大号令・・・
ここから旧幕府軍VS新政府軍の政権争いが始まりました。
1868年1月鳥羽伏見の戦い勃発。
全国を巻き込んだ戊辰戦争となります。
早くから強兵を育ててきていた新政府軍は、各地で勝利しながら勢力を伸ばし・・・
長岡へ!!
長岡のピンチに、江戸にいた継之助は、江戸藩邸を処分し、その家財を売却、そこで得た資金で外国商人からガトリング砲を購入します。日本に3門しかなかったガトリング砲を2門買いました。その威力は、1分間に200発の弾が撃てるというものでした。他にも最新式の小銃を手に入れます。
江戸で中立の準備をし、おまけに暴落していた米も購入、さらに銅銭を買い入れます。
しかし、陸路を使って長岡に運び入れることは出来なくなっていました。
海路で運搬します。外国人から船をチャーター、米不足の北海道で米を売り、新潟で相場の上がっていた銅銭を売り、帰る時にも軍資金を増やしました。
江戸を出発してから1週間、軍資金を携えて、越後に帰りました。
そんな中、新政府軍から恭順命令が!!
これを継之助は黙殺します。
お金と軍備で戦争を中止できるかも!?
1868年5月2日早朝、信濃川を南西に・・・そこにあるのは、小千谷市慈眼寺。新政府軍の本陣がありました。
そこに待ち受けていたのは、軍監の岩村精一郎。
戊辰戦争の中止の・・・長岡藩の中立をかけた一世一代の交渉が行われました。
小千谷談判です。
しかし、交渉決裂。
藩に戻って、全軍に出陣を支持します。
後に新政府軍・奥羽鎮撫総督参謀・品川弥二郎は・・・
「なぜあの時、岩村のような小僧を出したのか・・・
もし、河井の話をまともに聞ける人間が対応していれば、北越戦争は止められた」
といったとか。
長岡藩は、光福寺に本陣を置き、奥羽列藩同盟に加盟VS新政府軍の戦いです。
3か月に及ぶ北越戦争が、開戦しました。
長岡藩は、ガトリングで激しく抵抗します。
しかし、信濃川からの奇襲攻撃に、城は陥落・・・。
民の為にも歴代藩主の為にも城を取り返す!!
強い忠誠心を持って、落城から2か月後、八丁沖から襲撃し、城を奪い返します。
しかし、4日後にまたもや城は陥落・・・。
この時の戦いで、左足を負傷した継之助は、会津に向かいます。
南会津についたとき、その傷がもとで亡くなります。
そこで、部下たちに最後の指示をしました。
「いずれ奥州連合は敗れる。。。
その時、殿の世継ぎをフランスに逃がすのだ!!
その為の船は、外国商人に頼んである。
そして、私の棺を作ってくれ。
火を焚いてくれ。。。
私を焚く火を。。。
この首は、だれにも渡さん!!」
1868年8月16日享年42歳の生涯でした。
本当は戦いたくなかった継之助。
武装中立の武装は完ぺきでしたが、新政府軍はパスしてくれませんでした。
中立を武装によって守ることが出来なかったのです。
この北越戦争・・・
戊辰戦争の際、越後長岡とその周辺で戦われた戦。その戦死者は、両軍合わせて2200人を越えました。
越後長岡藩の敗北理由は・・・。
武装中立という考えが、長岡藩にも浸透していなかったのでは?
理念は前に走るも、家臣はついて行けなかったのかもしれません。
しかし、その忠誠心は、今も人々の心に受け継がれています。
遺骨は部下の手によって、妻の元へ。。。
長岡市栄涼寺、そこで、継之助は歴代藩主の墓を見守っています。
河井継之助 駆け抜けた蒼龍
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