2012年05月31日

豊臣家のNo,2 真田幸村〜家康を震撼させた伝説の武将〜

今回は、豊臣家のNo,2 真田幸村です。

ああ、観終って、なんだかあまりのかっこよさに泣いてしまいました黒ハート
日本人はこういうのが好きですね。

忍術を操る猿飛佐助、霧隠才蔵、鎖鎌で敵を倒す由利鎌之助、三好清海入道・・・
六文銭の旗の下、変幻自在の戦いを見せる真田十勇士。

幾度も小説、画像化され、21世紀になった今もアニメやゲームで若者を魅了しています。
しかし、真田十勇士は実は架空の存在・・・
江戸・明治にかけて、講談から生まれた庶民のヒーローでした。
どうしてこのような荒唐無稽な物語が生まれたのでしょう。

そこには信長・秀吉・家康に負けず劣らず人気のあった稀代の武将がありました。

それは、真田幸村。

信州の小豪族に生まれながら、「日本一(ひのもといち)の兵」と讃えらた”真田戦法”。
生涯の敵となる家康。
家康を震撼させ、後に真田十勇士を生むこととなる真田マジックとは???


六文銭は、三途の川の渡し賃です。
死を怖れずに戦うという決死の覚悟が表されています。

仏教の前提となる考え方・六道・・・
「天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄」
人間は、この6つの道を輪廻転生する・・・という考え方です。
この三途の渡し賃が六文銭なのです。
そして、六文銭の旗印・・・
死ぬ時に、あの旗があればお金は要らないのです。

真田十勇士が架空どころか、学者さんは、真田幸村とは呼びません。
真田信繁というのが本名です。
この幸村は、講談が盛んとなる江戸から真田幸村と呼ばれるようになりました。

そして、真田十勇士はいませんでしたが、優秀な忍者はいたのは間違いありません。
しかし、スパイは名が残らないのです・・・。
真田軍が強かったのは、間違いありません。。。


戦国時代も佳境に入ってきていた1570年、信州上田の真田家に弁丸・・・のちの幸村がが生まれました。

父・昌幸は信玄に仕え、武田24将として甲斐から京を目指す信玄を支えていました。
しかし、武田が滅ぼされた後は、周りの大国、織田・徳川・北条・上杉に左右され生きていくことを余儀なくされます。

1585年当時、真田家は徳川に仕えていました。
そんな中、事件が勃発します。

家康が北条と厚く手を組むために、勝手に真田の領地を譲り渡す約束をしたのです。
真田は、上杉に後ろ盾になってもらおうと人質を出します。。。
それが幸村でした。

それを知った家康は、上田に兵を向けます。
上杉と同盟を結んだ昌幸に怒りを爆発させたのです。

上田の城に押し寄せた徳川軍7000、対する真田軍2000。
ここで、真田父子は戦国史に残る作戦を実行します。

「神川の合戦」(第一次上田合戦)
家康軍を城の近くにある神川に引き入れて、逃げるように一時退却・・・そうして町におびき寄せました。
城近くまで攻めさせて、城下にいた兵に、横やりでひっつかせます。
おまけに町の人を城内に入れ、城下町に火をかけました。

狼狽した徳川軍は、退却を始めると。。。「千鳥掛け」という障害をおいて逃げにくくします。
そこに長男・信幸軍が横から突っ込みました。
これにより、徳川軍は総崩れ。
この時の死者は、コ川が1000に対し真田軍40名。

これが、真田一族の名を全国に知らしめることになる真田戦法です。

これ以後真田家は秀吉に接近し、幸村を秀吉に預けます。
秀吉に目を懸けられた16歳の幸村は、北条征伐に父・兄と共に参戦します。
そこでは初陣とは思われぬ手柄を立てました。

誰が天下を取るかわからない時代、人質を預けることによって成りたっていた関係・・・しかし、人質といっても、近習として教育されることもありました。
幸村は、上杉で武術を、秀吉からは外交や戦術を学びました。
そして、政治の中央にある秀吉学校で学んだ幸村は、大谷吉継の娘を正室としました。

この秀吉学校・・・家康は譜代の家臣がいましたが、秀吉は一から家臣を作らないといけませんでした。
そこで、人質や遠縁の子を優遇して自分の腹心の部下にしようとしました。

天下人・秀吉の下で家臣として腕を振るう幸村・・・。
しかし、1598年秀吉はなくなりました。

そこで満を持して動き出す家康。
それを封じ込めようとする三成。。。

戦国の世がきな臭くなってきました。

その時、幸村は動きませんでした。
秀吉に恩義を感じてはいるものの、小大名の一武将・・・。
弱肉強食の世を見極めようとしました。

1600年、家康は上洛を勧めるも、かたくなに拒む上杉に対して出陣します。
しかし、それは、石田三成と上杉の家臣・直江兼続の策略で、徳川を叩くためのものでした。

その時、幸村は父・兄と共に上杉征伐に向かっていました。
その進軍途中、一通の書状が!!!
三成からの家康討伐の協力要請でした。

ここで、家族会議が始まります。
そして・・・
父と幸村は三成、兄は家康につくことになります。
兄・信幸は、家康の養女・小松姫を正妻としていたのです。

どちらが勝っても真田の血は残る・・・
その日のうちに、父と幸村は上田城に引き上げました。
これが有名な「真田父子犬伏の別れ」です。

幸村は、三成が挙兵すると上田城にこもって家康を牽制します。

そして、秀忠軍と激突します。

秀忠軍3万8000 VS 真田軍3000・・・

上田城で真田戦法が炸裂します。
秀忠からの降伏の使者にのらりくらりと時間稼ぎ。
それを籠城戦の準備に充てました。

「我をたばかったな!!」カッとなった秀忠は進軍、足軽たちは応戦に出てくるもあっさり城に引き上げます。
それを追って押し寄せた秀忠軍に、矢・銃弾を浴びせました。
慌てた秀忠軍に、城の外から攻撃軍が!!それは、幸村率いる小隊でした。

虚を衝かれた秀忠軍。

仕上げは神川・・・。

神川まで逃げてきた秀忠軍に、溜めていた水の堰を切り軍もろとも押し流したのです。

真田の謀略恐るべし!!

秀忠軍を上田に止まらせ、関ヶ原に行けなくしてしまいました。
家康は勝ったものの、またもや苦杯をなめることになりました。

しかし、最近の研究で、どうも秀忠軍が本軍だったらしいと解りました。
その本軍が関ヶ原に行けなかったのです。
秀忠、赤っ恥です。
つまり、この関ヶ原の戦いに、家康軍が負けていたとしたら・・・
秀忠のせいだったのです。

落とさなくてもいい城に、くぎ付けになってしまいました。。。

そして、上田を降伏開場せよと。。。
城を受け取りに行ったのは長男・信幸でした。
本来なら腹を切らされているところ、蟄居となったのは、兄・信幸が、
「私の褒美は要りませんから父と弟の命を!!」と、嘆願したのです。

兄の嘆願があって、和歌山県の高野山下、九度山に蟄居生活の身となります。
しかし、真田父子には過酷な運命がなっています。
真田軍は解体され、身の回りの世話をする人もいなく、寒い山の中で15.6年にわたる貧乏暮し・・・。

窮乏する父子・・・
将軍職は秀忠に。。。
失意のなか、昌幸は死んでしまいました。
義兄への手紙には。。。
「私なども、去年より急に年を取り
 ことのほか 病気になりました。
 歯も抜けました。ひげなども黒いところはありません」

まだ40代・・・九度山での生活はかなりの負担だったようです。

家康は、全国の大名に対し、豊臣討伐の号令をかけます。
豊臣も加勢を要請したましたが、加わる者もいませんでした。
天下はすでに徳川のものになっていました。

そんな中、大野治長が一縷の望みを懸けたのは幸村でした。
大野治長の使者が九度山に・・・

朽ち果てるのを待つ幸村の元に武将として働く最後の機会が与えられたのです。
しかも相手は仇敵・家康。

幸村が全てをかけて戦う大坂の陣が始まろうとしていました。

1614年10月、豊臣征伐に向かう家康に、真田が大坂城籠城の一報が入ります。
幸村が、秀頼についたとおののく家康。。。

11月19日、ついに雌雄を決する冬の陣勃発。

大坂城の秀頼に押し寄せる家康の大軍。
その大軍を押し返す要塞がありました。
”真田丸”です。
固めているのは幸村率いる5千の兵。

敵を挑発しては退き、引き入れては叩く、真田戦法が炸裂します。
内通者がわかると、それも利用して合図ののろしを揚げませました。
そして、弓・鉄砲を浴びせます。

この日の真田との戦いでの死者は、数百人とも千人ともいわれています。
これは冬の陣の総戦死者の4/5に当たります。

大打撃の家康!!
幸村を味方に引き込めないかと考えます。
使者を送り・・・
信州3万石を与えると申し出ます。

しかし、幸村は。。。
「秀頼公に働き場を与えていただいたことは、領地を与えられるよりありがたいこと。
 それを違えてそちらにつくことは出来ません」
と断ります。

「信州一国どころか、国の半分と言われても、この気持ちは変わりません。
 この戦は勝利できる戦ではないから、初めから討ち死に覚悟です。
 せめて一太刀浴びせる所存。
 そう家康公にお伝えくだされ」

幸村の寝返り工作に失敗した家康は、いったん和睦に持ち込みます。

しかし、この和睦、難攻不落な大坂城を落とすための作戦でした。

幸村も、和睦で休戦状態の今・・・
「今夜、敵が油断しているところを狙って攻め込めば、家康・秀忠を討ち取ることが出来ます。」

と、秀頼に進言します。

「首をあげるのは今しかない!!」と。

しかし、これは淀君と春信によって却下されてしまいます。

この時が、唯一真田マジックのチャンスだったのに・・・失ってしまいました。

冬の陣後の和睦の間・・・
淀と江は姉妹・・・。
やはり、戦うことにはためらいがあったのでしょうか。
つまり、よぼよぼの家康の死を願っていたのかもしれません。

豊臣を滅ぼそうとかかる家康!!
戦って家康の息の根を止めたい幸村!!


みるみる堀が埋め立てられ丸裸になってしまいました。
さらに、秀頼の国替えなど無理難題を押し付けられて・・・

大坂夏の陣へ。

幸村の活躍により、徳川軍を近付けさせることはなかったものの、敗戦色が濃く、万策尽きたと腹を決める幸村。

赤備えの甲冑で。。。
「茶臼山には真田が赤備
 つつじの花の咲きたるが如く
 堂々の陣を張る」

茶臼山からすさまじい勢いで本陣へ!!
一路、家康の元へ!!

本陣は、旗本陣に守られていたものの、散り散りに逃げ、残ったのは小栗久次たったひとり。。。
家康軍は、一瞬にして壊滅状態に!!

しかし、幸村の執念もここまで・・・
家康に援軍が来て、あと一歩で取り逃がしてしまいます。

「幸村、恐るべし奴!!」

最後の突破で深手を負った幸村。
茶臼山にたどり着くも、敵兵の太刀をかわす力は残っていませんでした。
46年の生涯でした。

この大坂の冬の陣、真田丸で4/5の痛手を負った家康軍でしたが、
もし、大野治長が幸村の力を買っていれば、真田丸ではなく、全軍を任せていたはずです。
昌幸が生きていれば、全軍を任せたかもしれませんが。。。
幸村が昌幸のNo,2だから、心底評価していなかったのかもしれません。

しかし、結果は
「親ゆずりですごい!!」

完全なNo,2にはなれなかったけれども・・・
最後まで巨大な敵に立ち向かった幸村。日本人の大好きなパターンです。

そんな幸村が、大坂夏の陣の後蘇えります。

島津の者が評しています。
「真田 日本一(ひのもといち)の兵
 古より物語にもこれなき由」

家康はその生涯のうち2回戦場で死の憂き目にあっています。
@武田信玄との三方が原の戦い
A幸村に大坂の陣で・・・

平和になっても幸村の任期は途絶えることなく、徳川の世に苦しむ庶民の心の中でふくらんで・・・
江戸中期にかかれた真田三代記では、戦死せずに鹿児島まで落ち延びたことになっています。

明治の講談本・立川文庫では、縦横無尽に戦う部下たち、真田十勇士が登場します。

家康相手に戦う幸村を助け、神出鬼没・変幻自在に戦う十勇士たち。。。
その姿は、戦場での幸村を投影したものだったのです。


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posted by ちゃーちゃん at 16:57| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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