2012年05月30日

夢と野望のクリエーター@ 「平賀源内 江戸の最先端を突っ走れ」

BS歴史館、平賀源内さんです。
本草学者 平賀源内 (講談社選書メチエ) [単行本(ソフトカバー)] / 土井 康弘 (著); 講談社 (刊)
本草学者 平賀源内 (講談社選書メチエ) [単行本(ソフトカバー)] / 土井 康弘 (著);...
エレキテルと土用のウナギぐらいしか知りません。。。あせあせ(飛び散る汗)

平賀源内、エレキテルを作った発明家、日本で初めて油絵を描いたアーティスト、土用の丑の日という宣伝で、ウナギを食べる習慣を根付かせました。

コピーライターであり、イベントプランナー、物産博覧会主催に、ベストセラー作家・・・まさに、マルチクリエーターでした。

エネルギッシュな国際都市江戸。。。そんな江戸の中でも一番豊饒な時代。
平賀源内は、そんな時代の江戸のダビンチでした。

1603年に江戸幕府は成立しました。が・・・政治の中心であるとはいえ、文化の中心はまだまだ京都でした。
日本古来の雅な文化。。。100年後の元禄文化でさえも、上方の大坂の裕福な商人たちの豪華な文化でした。


江戸で文化が発達するのはその50年後、18世紀後半の自由経済推奨時代。
経済的中央集権を勧めた田沼の時代でした。

この田沼の時代、幕府の大きな転換点となります。
それまでの吉宗の時代、新田開発に造成、倹約令・・・米中心の経済です。
その後に登場した田沼は、商品経済・貿易・産業振興策を求めていました。
規制緩和が進み、時代が大きく変わります。
そうして、田沼の時代、江戸の人口は100万人を超え、世界最大の都市へと変貌していきます。

そして・・・源内は、規制の隙間を突き破っていきます。

本来鰻の旬は脂ののる冬・・・夏にはなかなか売れませんでした。
そんな鰻にコピーをつけます。
このことによって、鰻屋は大繁盛することとなるのです。

「飛花落葉」に書かれている源内のコピー。。。

”清水餅”
『そも我が朝のならわしにて、めでたき事に、餅鏡
 子もち、金もち、屋敷もち、・・・・
 家持(やかもち)歌に名高く、惟茂(これもち)武勇かくれなし・・
 器物もさっぱり清水餅、味はもちろん良い良いと・・・
 ワタシ身代もちなおし、よろしき気持ち心もち、
 婦(かか)もやきもち打ち忘れ、尻もちついてうれしがる・・・』

”麦飯の引札”
”菅原ぐし”という櫛を考案し、花魁につけてもらって大ヒットを飛ばします。

江戸前・江戸っ子堅気が出てくるこの時代・・・
「宵越しの銭は持たない」とか、きっぷがよくって粋な時代となってきました。
源内は、その先端を行っていました。

江戸をえ江戸たらしめたのは源内かも知れません。

18世紀後半、源内を先駆けに、トレンドの発信都市・江戸の原型ができたと言えるでしょう。
評判づくりや話題作りの手法に長けていて、広告コピーライター第1号と言えるでしょう。

本人も言っています。

「針を棒のように言いなすことが肝心である」と。

確信犯でした。

そこには江戸の人たちのセンスも感じられます。
江戸自体の庶民文化もレベルアップ。
広告の華が開いた田沼時代は、江戸はもう消費社会でした。
富裕層もたくさんあって、米の年貢だけでは限界がありました。

そんな中、田沼は重商主義を推し進めます。
商業や貿易などを通じて、国家財政を支える経済政策をしようとしました。


米中心の経済から商品中心の経済へ・・・
株仲間を作り、上納金を納めさせ、商人から税をとる。

それに加えて、それまでの鎖国政策からの転換を図ろうとしました。

田沼時代は賄賂の時代と言われていますが、当時は賄賂は当たり前のもので、金がものを言う時代になっていました。
そんな時代だからこそ、源内が存在した。源内は、田沼時代の申し子でした。
文化というのは、人がヒマだということ。源内はトップバッターであり、4番バッターでした。

18世紀後半の江戸、世界の最先端情報が集まる町となっていました。
それを背景に、商品プランナー源内が浮かび上がります。

源内焼には、アルファベットやアメリカ大陸が書かれています。ブランド品の海賊版を作ったり、油絵にはオランダ人が持ち込んだ「プルシアンブルー」が使われました。
このプルシアンブルーは、後に江戸文化を代表する浮世絵師・葛飾北斎の版画にも登場することになります。

「鎖国」の時代、長崎の出島を通じてわずかに中国・オランダから外国の情報が入ってきていました。

遠く離れた江戸で、どうやって情報を手に入れていたのでしょうか?

それは、神田白壁町にある源内の家のすぐ近く、「長崎屋」からでした。

都市は、成長するとき、先鋭的な知識分子を集めます。
源内の長屋がサロンとなります。
そこには、解体新書を訳した杉田玄白・江戸を代表する浮世絵師であり東錦絵の創始者・鈴木春信がいました。春信に多色刷りのヒントを与えたのは源内です。これが、歌麿や写楽に発展していきます。

「生まれながらにして理にさとく、俊才にして時流にかなった人物である」と、杉田玄白は評価しています。

西洋の学問、珍しい道具を自分たちのものにしたい!!

田沼の時代は、蘭学を学ぶことに対して緩やかでした。取り入れて国産化しよう!!

玄白は小浜藩の藩医、源内は高松藩出身の浪士、春信は父の代まで旗本でした。
江戸の最先端は、武士だったのです。戦いがなくなりヒマになった武士たちが、芸術を生み出していきます。
文芸・化学・医学・・・江戸のルネサンス期だったのです。

香川県志度町という宿場町に高松藩の御蔵番の子として生まれます。
身分は低いものの、米蔵の番を任され裕福でした。

子供の頃から人を驚かせるのが大好きな好奇心旺盛な少年で、のめりこんだのは本草学と呼ばれる博物学でした。

1749年家督を継ぎ、高松藩に仕えます。
博物学に詳しかったので、藩主・松平頼恭に重用されます。
この松平頼恭、オランダかぶれで蘭癖大名と言われていました。

藩の薬草公園(栗林公園)の管理を任され、図鑑にまとめます。

当時の日本は、大博物館ブーム。
食品・薬品・鉱山開発。
大名たちもブームにのめり込みます。

が・・・これは世界的ブーム。
1753年大英博物館設立
S772年フランスでは百科全書編纂

スェーデンのリンネ、フランスのルソー、それを感じられるのは、唯一長崎でした。

1752年長崎に遊学、1年後故郷へ・・・しかし、高松藩は源内にとって狭苦しい場所になっていました。

1754年高松藩の役を辞職。
これは前代未聞のことで、家督も義弟に譲ります。

そして、江戸に飛び出しました。

「湯上りや 世界の夏の 先走り」

殖産興業や産業革命を起こしたい!!という気持ちと、

「井の中の 離れかねたる かわずかな」

と故郷を離れる不安・・・。

全てを捨てて江戸へ向かった29歳のことでした。


当時は博物館ブームで、島津藩主の高輪の藩邸には、動植物園・・・イグアナまでいたそうです。
この日本の博物館ブームが外国にも紹介されています。
書いたのはツュンベリー、この本を読んで、シーボルトが日本に来ることになります。

江戸についた源内は

1756年人参博士の田村元雄に入門。
1757年湯島聖堂で儒学を学びます。

そして、芒硝という鉱物を発見。
これは、漢方薬の原料で、中国から輸入されているものでした。
この働きが田沼の目に止まり、公式に採取する任務に就きます。
田沼が貿易赤字を解消させるための手段でした。

田沼に認められた!!源内の中に、学問を国の為に生かしたいという野心が生まれます。

1762年東都薬品会を開催します。
全国の珍しい薬品や物産を集めたもので、日本の博覧会の先駆けといえます。
この時の展示物は全国からなんと・・・1300種類。


目的は
「中古以来、我が国人は、その薬料を、
 わが身で吟味し、活用することを知らず
 専ら中国などからのものを当てにし
 国産品は舶来品とのあてずっぽうな推量で使うにすぎなかった
 我が大日本は、山川は秀麗 動植鉱物の薬料となるべき点の産物に恵まれている
 それを開発することは、国の益でもある。」

博物学と国益を結びつけたものでした。


しかし・・・
自分の好きな学問を深く究めたい
自由の身でありたい
国の為に大きな仕事がしたい

この3つの欲望が悩みとなって葛藤し、源内を追い込んでいきます。

1766年鉱山開発に着手。
その背景は、幕府の財政悪化にありました。
金銀銅が、貿易で海外に流出していました。鉱山は枯渇の危機に瀕してたのです。

これに先立ち田沼は、
1763年銅山振興令を発布していました。
各地で地質調査、開発が行われていました。
しかし、いっこうに鉱脈は見つかりません。

キャッチコピーで得たお金も、開発に回しました。

しかし、
1774年鉱山開発を断念。
その時源内に残ったのは、2億円の借金でした。
源内は山師と悪口を叩かれます。

高松藩としては、帰ってきてほしかったようですが、これを拒みました。

「放屁論」には・・・
「浪人の気楽さは、財産というものがない代わり、
 ケチな知行の米粒が 足の裏に引っ付かず、
 行きたいところを 駆け回り、
 ともかく一生の間 自分の体を自由にできるだけでも もうけというものだ。
 こうしてヒマなのを幸いに 少しは国恩に報いたい」
とあります。

凄いと言われたい!!自由でいたい!!と思っていた源内が、国益を考えてしまった不幸がここにありました。

どんな制約にも縛られたくない源内。
それと国家の利益とは相いれないものでした。

当時は砂糖も白いのは輸入品・薬品も輸入品。
国産にしたかったのです。
もしかすると、緩やかに開国しかねない時代でした。


1776年起死回生で取り組んだのが、「エレキテル」の政策です。
壊れたこの箱の復元に試みます。
これは当時、医療用だったそうですが、どうやって医療に使うのか分からなかった源内、結局「エレキテル」は見世物となってしまいました。

しかし、このエレキテルを弟子・弥七が模造し、勝手に見世物としてしまいます。

1778年エレキテル偽造を幕府に訴えます。
捕まった弥七は不運にも獄中死・・・

源内のせいだと噂が広まって・・・山師と罵られます。

「私が財産を使いつくし、考え出したものは
 エレキテルだけではないのです。
 しかし、世間のためを思い、せっかく骨を折っても
 人は私を山師だとそしる
 今日からはエレキテルを ヘレキテルと名前を変え
 へっぴり芸の仲間入りをして
 ひりかたを学ぼうと思うのです。」

精神を病むようになっていた源内は、、、
ついに事件を起こします。

1779年 書類が紛失します。
友人がとったと思い違いをし、斬ってしまったのです。
投獄された源内は、人を殺したことを恥じて絶食して自殺したとも、破傷風とも言われています。

享年52歳。悲劇の最期でした。

東京下町にある墓・・・その墓の隣には、友人であった玄白の言葉が遺されています。

「ああ非常の人、
 非常のことを好み、
 行いこれ非常、
 なんぞ 非常の死なる」

安定のない不安定な精神・・・それは近代の精神です。
自由であることの危険、しかし、自由を手に入れることの出来る自由。。。

このあと・・・好きなことを積み重ねて、江戸文化の大輪の花が開きました。
その土壌を耕したのは、間違いなく平賀源内でした。

翔んでる!平賀源内 [DVD] / 西田敏行, 薬丸裕英, 大沢逸美, 高橋元太郎, 小松政夫 (出演); 山内鉄也、矢田清巳、金 鐘守 (監督)
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posted by ちゃーちゃん at 15:51| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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