2012年05月29日

幕末 知られざる決断 尾張藩主・徳川慶勝

「幕末 知られざる決断 尾張藩主・徳川慶勝」です。

写真家大名・徳川慶勝の幕末維新 尾張藩主の知られざる決断
写真家大名・徳川慶勝の幕末維新 尾張藩主の知られざる決断


今一つ知名度に欠ける徳川慶勝さんですが、意外や意外、良く知っていますよ。揺れるハート

時代は幕末、勤皇か佐幕か?!
揺れ動いた時代、徳川慶勝は、コ川御三家筆頭でありながら、討幕派に力を貸すこととなります。

何故慶勝は討幕を決意したのか?

弟は会津藩主・松平容保。容保は、幕府の為に最後まで戦いました。
弟と袂を分かって・・・二人の間には、どんな考え方の違いがあったのでしょうか?


幕末を語る手紙が発見されました。
それは、家康生誕の地岡崎を中心として、コ川の息のかかった人たちに、明治新政府につくように誓わせた誓約書です。

その数、なんと749通。
これを成したのは、尾張藩第14代藩主徳川慶勝です。

慶勝は、御三家筆頭の立場にありながら、幕府の息の根を止めた人物です。
幕末の日本、諸外国が虎視眈々と狙っていました。
日本が一つにならなければ、餌食になってしまう!!
内戦を避けるための、慶勝の戦いが始まります。


しかし、その道のりは、苦難に満ちたものでした。
幕府と対立し、藩主の座を追われることもありました。

明治新政府に頑強に抵抗した会津藩主・松平容保は実の弟でした。
会津藩
会津藩
慶勝には、写真家というもう一つの顔がありました。
幕末に貴重な作品1000点以上も残しています。

明治という新たな時代を導き出して、消えていった徳川慶勝、その知られざる素顔とは?


幕末における徳川慶勝に役割とは何だったのでしょう?
激動の時代に活躍した志士たち、その要には徳川慶勝がいました。

慶勝が藩主についたのは、幕末、鎖国を続けていた日本は、激動の時代を迎えます。
外国からの蒸気船がやってきていました。

中国は、イギリスとのアヘン戦争によって多額の賠償金と領地の割譲を行っていました。
西欧列強の脅威は間近に迫っていました。

そんな中、日本の将来を憂う人物が尾張藩主となりました。
1849年、高須松平家からやってきた徳川徳川慶恕・・・第14代尾張藩主・慶勝の誕生です。

御三家筆頭として、西欧列強に蹂躙されない強い国を造らなければ!!

そんな慶勝の下に・・・薩摩藩主島津斉彬からの書状が・・・
アメリカ海軍が江戸に向かおうとしている。
日本に通商を求めている・・・。
という内容でした。

かたくなに鎖国を続けようとしている日本に軍艦がやってくる・・・。

その為に、藩の改革を始めました。
財政の立て直し。。。お手元金は、1万9000両から20両に減らしました。
身を持って体験し、藩をあげての節約です。

防衛力に惜しみなくお金を使います。
知多半島に最新鋭の内海砲台を作り始めます。

さらに軍隊の統率に力を入れます。
天下太平の世で鈍ってしまった武士に喝を入れます。
軍事演習をチェック・強化に努めます。
さらに、リストラまでしています。
きめ細かくて厳しい上司だったようです。

そこには日本を導く強い責任感がありました。

「征夷」大将軍は、「征夷」(外国人)を打払わなければならない!!
外国人に侮られない国を造らなければ!!

1853年、情報通り”黒船来航”。

開国と貿易を迫ってきました。
江戸幕府は大混乱、慶勝は幕府に強く意見します。

「開国は時期尚早。信義をただし、程よくお断りするべきである。」

しかし、幕府は開国をしました。下田と函館の港を開き、燃料と水の補給場所としたのです。

そして・・・
大老・井伊直弼によって、通商条約が結ばれてしまいました。
朝廷に諮ることなく・・・。

開国を足掛かりに、貿易を強要するアメリカ・・・。
井伊に直談判するために、慶勝は江戸城へと向かいます。
しかし、井伊は姿を現しませんでした。。。
慶勝は隠居・謹慎の身となってしまいました。

安政の大獄が始まってしまいました。。。
この時35歳でした。


謹慎中に詠んだ和歌・・・

「浮き雲の 浮き世のなかに ときはにて
            昔かはらぬ 庭のまつが枝」

先見性にかけては幕末のNo,1、No,2とも言われながら、謹慎という身を憂いだ句です。

若くして隠居させられてしまった慶勝は、写真に傾倒していきます。
写真は、当時西欧からもたらされた最先端のテクノロジーでした。

写真や手紙、公文書などがたくさん残されている慶勝。
慶勝が最初に撮った写真は「自分自身」でした。

西欧列強の科学に驚愕し、攘夷攘夷と言っていることが焦燥感のようになっていたことでしょう。
道楽としての写真という以外に、写真という技術を通じて、日本の行く末を思っていたかもしれません。

蟄居から2年・・・。
桜田門外の変が勃発、井伊直弼が暗殺されました。
これを機に、幕府の権威が大きく失墜します。

朝廷が力を持ってきました。
尊王攘夷論が台頭してきました。
幕府としては、公武合体を目指していたのですが・・・。

そして、時の天皇孝明天皇から信頼を得た一人に徳川慶勝がいました。
下賜された刀が残っています。
孝明天皇は、朝廷と幕府を取りまとめられる人物としての期待を持っていたのです。

また孝明天皇は、慶勝を将軍補翼に任命します。

そして慶勝は、尾張藩の中でも返り咲くのです。
幼い息子が藩主に就任。その後見人となりました。


このころ、弟たちを撮影しています。
弟たちも優秀で、一橋当主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬。。。

この後、兄弟たちはそれぞれに幕末の役割を果たしていきます。

当時、京都には、損攘夷派の武士が天誅と称して暗殺を繰り返していました。
その治安維持の為に、京都守護職を設置、テロ行為を未然に防ぐのです。
これに任じられたのが、松平容保でした。
1000人の部下と共に、京都の治安維持に努めます。
また、桑名藩主の松平定敬も京都所司代に任ぜられ、治安維持に努めました。

1864年、池田屋事件勃発!!

この事件で長州藩士は怒り、京都に攻め上がります。
禁門の変です。

京都御所付近で戦いが始まります。わずか2000人の長州藩士を2万で撃退。
御所に向けて発砲した長州は朝敵とされ、幕府に長州征討の命が下ります。

幕府にとっては、240年ぶりの軍事行動でした。

国を二分する戦いが始まりました。
その指揮をとる適任者として慶勝が推挙されます。

諸藩の指揮と軍事の儀、幕府の全権委任を受けて重い腰をあげました。

内戦へと突き進む日本に対して・・・
全権委任で15万の軍勢の束ねる総督を引き受けた慶勝。
慶勝は行軍中も写真道具を持ち歩きました。
後世に残そうとしたのです。

知恩院・大坂城・・・長い軍議が続きました。

ゆっくりと進軍する慶勝。。。
まるでやる気がないような慶勝・・・。
しかし西郷を遣い、和平交渉をしていました。

広島に留まること1か月。西郷との交渉で、戦うことなく和平を結びます。
全権委任にこだわり、ゆっくりと進軍した慶勝の狙いはここだったのです。

今は、日本人同士で戦っている場合ではない!!という考えは、幕府には通用しませんでした。
それは、京の治安を守ってきた弟たちにもふがいないものでした。。。

しかし、「西欧に対抗できる国づくりをしなければ!!」

この時から、兄弟たちは道を分かつことになります。

1866年12月、公武合体を支持していた孝明天皇が突然崩御します。
薩摩は長州と薩長同盟を結んでいました。
これを機に、討幕の意見が強まります。

そこで、コ川慶喜は「大政奉還」をすることにしました。

これに対して、朝廷と薩長は「王政復古の大号令」発します。

慶勝は、新政府の要職「議定」に選ばれました。
総裁に続くNo,2のポジションでした。

ようやく有力な藩で西欧に対抗できる!!
と、思ったものの、慶喜は選ばれていませんでした。
それどころか、岩倉具視に、慶喜の領地と冠位の返上までも求められたのです。

この仕打ちに、旧幕府側の怒りが爆発!!

1868年1月、鳥羽伏見の戦い勃発!!

最新鋭の武器を持つ新政府軍と人海戦術の幕府軍、膠着状態のなか勝負を決定づけたのは、「錦の御旗」でした。


朝敵となった旧幕府軍は敗走・・・。

容保、定敬は、追われる立場になってしまったのです。

「錦の御旗」を使ったのは、岩倉具視。
岩倉は慶勝に迫ります。
新政府と幕府・・・どちらにつくべきか・・・。


慶勝が下した決断は・・・

保守派の一掃に踏み切りました。
斬首は14人、処罰は20人以上に上りました。

そして、全ての藩士たちに新政府への忠誠を誓わせます。
血判状です。


世間の目は、尾張は徳川につくだろうと思っていました。
しかし、徳川を守るというのではなく、日本を守るかじ取りをする道を取ったのです。

新政府軍につくように説得工作を続けます。
およそ750通にも及ぶ手紙が残っています。

大名・旗本・寺・・・着々と工作が進んでいきます。

御三家筆頭の尾張藩が、情勢を一気に変えていきます。
東海道、中山道の43の藩、447の旗本領が、新政府に忠誠を誓いました。

この結果、新政府軍は無駄な血を流すことなく江戸に向かいます。

1868年、江戸城無血開城。

江戸城を受け取ったのは、先頭を歩いていた尾張藩士たちでした。

この慶勝の決断がなければ、日本の近代化は遅れていただろうと言われています。
戦争が長引けば、外国につけ入られたり、戦争からの復興も遅れてしまいます。

利勝の決断は、大きな血を流すことなく実権を手に入れたかのように見えましたが、その矛先は、会津若松城に向かいます。

この時容保は、反逆罪に問われていました。
これに対し、容保に同情した東北32の藩が同盟を結び徹底抗戦の構えを見せます。
激しい戦闘が繰り広げられます。

ひと月後、会津若松城は落城。
会津藩の死者は3500に上りました。

降伏した容保はとらえられ、新政府軍の沙汰を待つ身となります。
定敬は函館まで行きましたが、やはりとらえられてしまいます。
最後まで徳川への義を貫いた弟たち・・・。


そして、日本は近代化を果たします。
西郷隆盛・坂本龍馬などの志士たちが人気を博します。

しかし、慶勝は功績にもかかわらず、殿さまであるがために、政府から黙殺されてしまったというのが現実かも知れません。

茂徳の助命嘆願のよって、定敬、容保の命は救われました。
容保は、謹慎の後に日光東照宮の宮司に、後に定敬があとを継いでいます。


1871年廃藩置県により、名古屋城を後にします。

この時期、集中的に名古屋城を撮影しています。

そして、新政府の助けとなるように、金のしゃちほこを寄付します。
しかし、このしゃちほこは新政府の力を誇示する見世物にされました。


名古屋城を明け渡したのち、東京に移り住みました。
すでに広大な屋敷は失われ・・・隅田川のほとりで晩年を過ごしました。

ここでも写真を撮り続けました。

ちょんまげを切った慶勝。。。町の人々を撮っていきます。
殿さまから市民となりました。

明治11年には慶勝の呼びかけで、4人の兄弟が集まりました。
一枚の写真の納まった4兄弟。。。

それぞれの志を持って幕末を駆け抜けた4兄弟の最初で最後の写真でした。

この5年後、生涯を閉じることになります。

北海道の八雲町。。。
ここは慶勝が、旧藩士授産のために士族を移住させた場所です。

ここには八雲神社があります。
移住者たちはその氏神とするため、翌1879年(明治12年)に故郷の熱田神宮神符と尾張徳川家歴代の神霊を板蔵の二階に祭り、のちに八雲小学校の一室に移し、産土神として崇拝していました。


そして、八雲にお金を送り続ける慶勝がいました。8万円・今に換算すると50億円。。。自分についてきてくれた藩士のことを気にかけていたのです。
尾張藩主たちの末裔は、八雲にとって大切な人だったということを忘れないように命日である8月1日には集まってくるのでした。


日本の時代を時に手を組み・時に袂を分かち、国のあり方、近代国家について考えた殿さま・・・それが徳川慶勝だったのです。

尾張藩幕末風雲録 血ぬらずして事を収めよ
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幕末の尾張藩
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posted by ちゃーちゃん at 14:37| Comment(0) | テレビ番組 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

城下町へ行こう!「上田の城下町」

今回は、信州・上田の城下町です。

真田幸村と大坂の陣―家康を震撼させた猛将の戦い (歴史群像シリーズ―新・歴史群像シリーズ) [ムック] / 学研 (刊)
真田幸村と大坂の陣―家康を震撼させた猛将の戦い (歴史群像シリーズ―新・歴史群像シリーズ) [...
上田城・・・といえば、真田幸村です。
真田ゆかりの街が、上田の城下町なのです。

真田家を祀る神社にその謎は隠されていました。


長野県上田市
人口16万2530人、面積552㎢、特産は上田紬、そば、みそです。
この町は江戸時代、北国街道の宿場や城下町として発展してきました。

上田城を築城し、城下町の基礎を築いたのは、真田幸村の父・智将・真田昌幸です。


戦国最強と謳われた武田二十四将として、数々の武功を立てた昌幸は、真田再興の地をここに築きました。

真田の紋は「六文銭」。
古くから、三途の川の渡し賃としてあった六文銭を旗印に・・・
後の世に語り継がれる武功を上げるのです。
徳川家康が最も恐れた武将・真田昌幸。。。

戦乱の世を疾風の如く走りぬけた真田一族、その一族が築いた城とは???

真田幸村、大坂夏の陣で家康をあと一歩のところまで追いつめたと言われる幸村。。。
「日本一(ひのもといち)の兵」と呼ばれました。

上田城を築いたのは真田昌幸。
天下統一を目指す家康に真向から立ち向かった智将・昌幸が遺した真田家の縁とは??


お城を作っている石垣、その要の石が「真田石」
直径3メートル。
戦国末期から江戸初期にかけて、石垣に巨石を装飾することが全国的に流行しました。
権力を示すためです。

しかし、この城下町、真田の城下町ではない??

「真田神社」・・・六文銭の入ったこの神社、真田家が作ったわけではなく・・・

上田城の敷地内にひっそりと建つ「真田神社」
真田一族を祀るのではなく・・・

以前は「松平(しょうへい)神社」でした。
上田城の歴代城主は・・・
真田氏2代40年間・仙石氏3代85年間・松平氏7代166年間の統治となります。
この松平氏の影響が強いと言われています。

この神社は、その旧家臣らによって明治12年に建てられたものです。
ところが・・・
「真田一族も祀りたい!!」と、市民運動が起こり、歴代当主三氏を祀る「真田神社」となったのです。

上田の城下町には六文銭が溢れています。
子供たちの野球のユニフォームまで・・・。
でも、どうして真田にこだわるのでしょう???
っていうか、みなさん、仙石氏のことは知らないようです。

博物館には、幸村の父・真田昌幸の掲げた六文銭の旗指物が残っています。
普段は見られないようです・・・。あせあせ(飛び散る汗)

この六文銭、三途の川の渡し賃として、古くから棺に納められてきました。
真田家はこれを家紋とし、戦では旗印としていつ何時でも死を覚悟し・不撓不屈・不惜身命で戦ってきた一族です。

この真田家の証、六文銭を、自身最後の戦い「大坂夏の陣」では使っていなかったと言います。

大坂夏の陣の屏風絵には、赤備えの幸村隊、鹿の兜をかぶった幸村には、六文銭が入っていません。
旗指物にも六文銭はついていません。

家康を最後まで苦しめた幸村、どうして六文銭を封印したのでしょうか?

天下分け目の関ヶ原で、真田一族が存亡の危機にさらされます。
家康の東軍に着くか?
三成の西軍に着くか?

真田父子による家族会議が開かれます。
「犬伏密談」です。
家康の東軍には長男・信之が、三成の西軍には父・昌幸と弟・幸村がつくことになりました。

真田一族は東西に分かれることを決定しました。
結果は、東軍の勝利、真田親子は九度山に流罪となります。

東軍となった長男・信之が真田家・六文銭を受け継いだのです。

そして、大坂の陣に参陣した時には、長男・信之に気を遣って旗印を使わなかったのではないか?と言われています。

六文銭は、死を覚悟して戦うという真田家の魂・・・しかし、それを封印して戦国武将としての誇りを胸に戦ったのが、大坂夏の陣でした。

こんな幸村の生き方が、上田の人々は大好きなのです。


真田魂・・・

城下町にある小学校では・・・真田陣太鼓を練習していました。
甲冑をまとって太鼓をたたくというのが、この陣太鼓だそうです。

かつて太鼓は楽器ではなく、戦の指示・命令を伝達する道具でした。
実際は、背負子で背負って使いました。

この六文銭魂は、いまも子供たちに受け継がれています。


北国街道は、追分から高田を結ぶ35里、約20か所の宿場を要する街道です。
江戸時代は、佐渡の金を江戸に運ぶ道として、五街道に次ぐ重要な街道でした。

この上田の街には、昌幸の戦略が隠されています。
というのも、上田は徳川家康に勝った城下町でした。

関ヶ原より15年前の天正13年、閏8月2日、
上田の地に徳川軍が近づきます。
徳川軍7000に対し、真田軍2000.
多勢に無勢、結果は明らかなように見えました。

が・・・。
昌幸は、この絶体絶命の中・・・
前代未聞の決断をします。
「信州上田を守るため、戦で功を成したものは、侍・百姓・町人の身分に関わらず知行・100石を与える」

身分を越えた戦いで、真田六文銭の旗印の下徳川軍に勝利するのです。
民衆をも味方に付けた戦略です。
昌幸の策略に大打撃を被った徳川軍、上田は民衆と共に真田が守った町でした。

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真田家発祥の地、真田町。

町には縁がたくさん見られます。

上田の合戦には、この真田町から農民が数多く参加したと言われています。
ここに生えている矢竹・・・これが、武器となりました。
矢竹の最大の特徴は、節目に凹凸が少ないため、矢に適しています。
幸村の祖父・幸隆の時代から武器として矢竹を栽培していました。
実際、幸隆の城跡には、現在でも矢竹が群生しています。
これを持って、戦の準備をしたのでした。


信州のおそば・・・。

そばの名産・信州では、5世紀・古墳時代からそばが食されていたようです。
平安時代までは、「そばがき」として食べられていましたが、天正2年には、そば切りを振る舞ったという日本最古の記録が残されています。
信州は、そば切り発祥の地でした。

真田家が気づいた城下町、信州上田城。
そこには、真田家と共に上田の城下町を守ってきたという人々の誇りが受け継がれていました。揺れるハート

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posted by ちゃーちゃん at 11:28| Comment(0) | 城下町へ行こう | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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