2012年05月24日

桂小五郎〜吉田松陰の遺志を継いだ維新三傑〜

今回のTHEナンバー2は、”逃げの小五郎”です。

木戸孝允 (幕末維新の個性 8) [単行本] / 松尾 正人 (著); 吉川弘文館 (刊)
木戸孝允 (幕末維新の個性 8) [単行本] / 松尾 正人 (著); 吉川弘文館 (刊)
1833年6月26日、山口県萩市に生を受けます。
それは、大久保利通、西郷隆盛と並ぶ、明治維新の三傑の一人、桂小五郎(木戸孝允)です。
要衝の頃からずば抜けて聡明だった小五郎は、幕末には稀な、先見の明を持った人物でした。

西郷、大久保、坂本龍馬・・・明治維新に関わったほとんどの人が下級武士です。

一方、小五郎は、上級武士のエリートで、幕藩体制を守る立場にありました。
しかし、廃藩置県・版籍奉還・五箇条の御誓文・・・

武士の世を終わらせる政策を打ち出します。

この改革こそが、短期間で日本を近代化させる原動力となりました。

小五郎は、松陰に宛てた手紙に書いています。
「人の功を取って
  我が拙を捨て
 人の長を取って
  我が短を補う」    By桂小五郎。。。

吉田松陰の一番弟子と言われる小五郎。
吉田松陰が、長州藩の藩校・明倫館の時に、もう教えています。

久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文・・・松下村塾の塾生とは違うのです。

小五郎は、武士ではなく、医者の和田家に生まれます。
8歳の頃、200石の上級武士の桂家に養子に出されました。

武士になったことで、明倫館に通えるようになった小五郎、この明倫館で、自らのNo,1と出会います。
そこで兵学を教えていたのが吉田松陰でした。

剣の修業にも熱心に行った小五郎、20歳になると、藩で1,2を争うようになり江戸に剣術修行に。。。


江戸で小五郎が出会ったのが、神道無念流。
さらに、剣の腕を上げます。
しかし、最も感銘を受けたのが、神道無念流の思想でした。

「武」という漢字には、「戈(ほこ)」を「止」めるという意味が隠されている。本当に強い力は、相手を倒すのではなく、争いを止めることにある。という考え方をするようになります。
この慎重なところが、逃げの小五郎に繋がっていくのです。

江戸にいたことが、小五郎の運命を変えることになります。

1853年ペリー来航。
鎖国にこだわる日本が、時代遅れになっていることに気づきます。

この時代、日本の限界を感じている人が2人いました。一人は坂本龍馬、そしてもう一人は小五郎の師・吉田松陰。吉田松陰は、藩を代表する学者でしたが、ペリーを見に行き・・・

「どうしても欧米を見たい!!」

と、黒船に密航し失敗、投獄の憂き目にあいます。

一方、小五郎は、神道無念流の無謀を戒める教えを守ります。日本にいながら西洋を学ぼうとしました。

吉田松陰は獄中から、小五郎を登用するように長州藩に手紙を書きます。それがきっかけで、外交の重要ポストに就きました。
剣の道から、政治の道へと方向転換です。


吉田松陰は・・・
「俺は死んでもいいから、誰かがやらねばならぬ」
と、失敗を考えない人でした。そんな人間は臆病になる。。。と。

「かくすれば かくなるものと しりながら
                己むに己まれぬ大和魂」   By吉田松陰

この言葉が、松陰の人となりを良く表現しています。

そんな松陰は、長州に対して、小五郎の冷静で沈着な部分を推薦したのです。

藩の外交官となり、藩主・毛利敬親のNo,2を目指すことになります。

討幕を目論む長州藩の外交官・桂小五郎は、幕府にとってはとっても危険な人物です。

まず、「桂を斬る」と言ったのは、新選組でした。

その発端は、8月18日の政変。
長州では、討幕の機運が高まります。

新選組は、京都を取り締まっていました。長州・・・特に、小五郎をターゲットにしていました。

1864年新選組は池田屋を襲撃、世にいう池田屋事件です。

小五郎は、襲撃に気が付くと、仲間を見捨てて命からがら逃げだしました。
池田屋事件に怒った長州は、軍を率いて京都に上ります。
対立する会津・薩摩・幕府軍と戦うも、返り討ちに遭います。これが、禁門の変です。

この時も、小五郎は藩の中心人物であったにもかかわらず、最後まで姿を見せませんでした。

剣豪は一転、「逃げの小五郎」となったのです。
逃げれば逃げるほど執拗に幕府軍に追われる小五郎。。。
そんな小五郎の逃亡生活を支えたのが、芸者(のちに夫人)の幾松でした。
当時の旅館には、隠し扉などが残っています。

小五郎は、禁門の変は無謀だと思っていました。
もちろん、先頭に立っていた「久坂玄瑞」も。。。反対していた玄瑞は、負けると解っていても参加した組なのです。

この禁門の変は、非常にまずい事態を巻き起こしました。
御所に向かって発砲してしまったので、朝敵となってしまったのです。。。
川の下でのホームレス生活。。。筵にくるまって逃げまくる小五郎の姿がありました。

逃げに逃げる小五郎の、本当の勝負がここから始まりました。


それは、薩長同盟。この同盟が、265年続いた江戸幕府に終止符を打つ原因となりました。

この同盟には不思議な問題があります。。。
朝敵となってしまった長州が、薩摩と対等に近い同盟を結ぶことが出来たということです。。。
そこには、小五郎の交渉術がありました。

立場的には弱かった長州、大変難しいが、粘り強く交渉します。
その交渉が始まったのは、1866年1月。

上に立ちたい西郷からは、同盟を言い出しません。
小五郎から言い出した場合・・・藩の面目丸つぶれ、という苦しい立場にありました。
作戦は「だまる」こと10日以上。

悠然と余裕綽々と構える西郷に対して、針のむしろ状態の小五郎。。。


そこには逃げない小五郎の姿がありました。
長州の未来を懸けた沈黙。。。その間桂が待っていたのは坂本龍馬でした。

坂本龍馬が親交のあったグラバー。武器商人だったグラバー頼りの新型の武器。。。

龍馬が前に現れた時、小五郎は帰り支度を始めます。

「誇りを捨てて薩摩に媚びるくらいなら、長州は滅びても良いのだ!!」

桂の気迫が、龍馬に西郷を説得させ、薩摩から話を持ちかけさせるようにしたのです。

対等な同盟を求める小五郎に西郷は・・・一言。。。

「ごもっともでごわす」

この薩長同盟が、江戸の終焉を迎えさせ、明治維新へと繋がります。

しかし、難しい交渉でした。
禁門の変で長州の武闘派の殆どが薩摩にやられています。
おまけに指揮をとっていたのは西郷でした。
長州には、殺された者たちの親族がたくさんいました。
だから、頭を下げることは出来ないのです。
下手に出るわけにはいきませんでした。
この薩長同盟、小五郎でなければ結ばれることはなかったでしょう。

幕末維新、松下村塾の塾生が活躍します。

そして、維新後、日本の未来を小五郎が切り開きます。

初めの仕事は、五箇条の御誓文の最終添削。
また、武士の特権を削っていきます。

版籍奉還・廃藩置県

殿さまがいなくなりました。

当時は大義は国ではなく、藩の大名に対して尽くすもの。
それを国民が、日本を考えるようにしました。
国民が国のことを考えないと、近代化は出来ません。
選挙も出来ないのです。
これは、仕えていた藩主を含め、全ての大名の地位が無くなるものです。
心理的にかなりの抵抗があったと思われますが、近代化のためには必要でした。

武士だった小五郎・・・。
どうして既得権益を否定することが出来たのでしょうか?

それは、武士とか、身分制ごとかでなく、新しい価値観で世界を見、人間を見ていたからでしょう。

小五郎の思いが掛け軸にあります。

「我が国の前途は容易なものではない
 三千万人の人民をどのようにしてゆけば良いのだろうか。」

1871年岩倉使節団の一員として各国を回ります。
帰国後文部卿に・・・。

身分に関係なく、学校に通えるようにつくします。
それは、師・吉田松陰の夢の続きだったのかもしれません。。。


何故下級武士でもないのに、そんなことが出来たのでしょうか?
長州はもともと平等な国でした。
おまけに小五郎は医者の息子、医者にとって病人は平等です。

奇兵隊は身分に関係なくの隊ですが、関ヶ原までは武士だったという人が多いのです。
関ヶ原で負けた長州の人々は、武士を捨て、農民になった人も多かったので、身分制度もはっきりしていなかったのでしょう。
現在までの総理大臣に山口県の人が多いのも、松下村塾があった影響が強いと言えます。

武士の世を終わらせた桂小五郎。
武士として死んでいったかつての仲間たちへの思いが・・・

京都にある霊山護国神社。ここには、幕末の志士たちが多く葬られています。
その一番高いところに小五郎の墓があります。

それは、自らが望んだものでした。

池田屋事件・禁門の変で亡くなった人と共に・・・。

吉田松陰の考えを実践した小五郎は、仲間たちと共に眠っています。


桂小五郎さん、幕末維新にかけてのインパクトがあんまりないのですよね。。。
それはやっぱり”逃げの小五郎”だからかしら・・・。失恋
本当に、筵にくるまれて逃げているっていうか、ホームレスしているところか・・・
あとは、幾松にかくまってもらっているぐらいしか覚えていないんですよね。。。


まだまだ勉強不足かしら?

日本で初めての身分を越えた結婚をしたのが桂小五郎・・・
本当に最初の新婚旅行は桂小五郎が幾松と城崎温泉に行ったとか・・・。黒ハート

逃げてないじゃん!!小五郎!

新選組に代表される”滅びの美学”良いですよね。。。
でも、きっとそれじゃあ、国家は築くことは出来ないのは確かでしょう。黒ハート

小五郎さんも、頑張って勉強します。黒ハート

木戸孝允―「勤王の志士」の本音と建前 (日本史リブレット人) [単行本] / 一坂 太郎 (著); 山川出版社 (刊)
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よくわかる! 乙女の龍馬・新選組 [単行本(ソフトカバー)] / 歴女育成委員会 (著); エンターブレイン (刊)
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posted by ちゃーちゃん at 20:11| Comment(3) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

田原総一朗の仰天歴史塾 第5話太平洋戦争への道〜近衛文麿と東條英機

面白いのに、ほんと御無沙汰。久しぶりです。黒ハート

毎週でもしてほしいなあ・・・って思います。

今回は、「太平洋戦争への道〜近衛文麿と東條英機」です。

なぜ日本は「大東亜戦争」を戦ったのか [単行本] / 田原 総一朗 (著); PHP研究所 (刊)
なぜ日本は「大東亜戦争」を戦ったのか [単行本] / 田原 総一朗 (著); PHP研究所 (刊)

戦乱の時代・・・日本は、果てしなく続く戦争に突入していきます。

中国・東南アジアなど、アジア全域に広がる戦線、それは、破滅へと至る道でした。

大陸で渦巻く謀略、錯綜する外交、揺れ動く世界情勢に翻弄され、世界に翻弄されます。
軍の台頭、荒れ狂うテロ・・・

この激動の時代に日本の政治の舵を取ったのは・・・
近衛文麿と、東條英機。

揺れる近衛、突き進む東條・・・運命の御前会議・・・。

誰もが勝てないと解っていた戦争で、日本は完膚なきまでに叩き潰されます。
この戦争に突き進んだのは、誰だったのでしょうか?


大東亜戦争。。。
この時代、タイを除いてインドまで、全てのアジアが植民地という時代でした。

そのアジアを開放する・・・「大東亜解放戦争」という意味です。
こんな名前はけしからん!!と、アメリカが、「太平洋戦争」としました。

なぜ、負けると解っていて戦争をしたのか???

その、暴走した張本人と言われているのが、「東条英機」です。
だから、A級戦犯として処刑されています。

そして、その戦争をしたくなかったのが・・・「近衛文麿」です。

近衛文麿とは・・・
明治24年生まれの侯爵。
藤原鎌足を祖先とする、五摂家の筆頭です。
後陽成天皇12世の孫です。
細川護煕さんも、この家系です。
180pあって、東大・京大・・・草食男子、インテリで人気がありました。
が、強引さがない、読経のない、腹の座っていないところがタマにキズでした。

近衛が貴族院の副議長となり、戦争への階段を上っている頃、中国では、軍部による強引な紛争が起ころうとしていました。

1931年9月、柳条湖事件勃発・・・
関東軍は、中国によるものだとして攻撃を開始、
1931年9月満州事変が始まりました。

しかし、この柳条湖事件は石原莞爾の謀略でした。

石原の考えとしては、満州はソ連のすぐ南。。。ソ連に侵攻されると、朝鮮半島、日本海・・・と南下してくるかも???と、思っていたのです。
そのためには、満州がどうしても欲しかったのです。

若槻内閣としては、中国大陸での不拡大方針をとっていたにもかかわらず、石原は爆撃を敢行してしまいます。

そして、軍部は1932年満州国を成立させました。

関東軍が実権を握る、愛新覚羅溥儀の傀儡政権が誕生しました。
石原の目的は、世界最終戦争。。。


リベラリストの近衛文麿が、この満州事変を支持してしまいます。

どうして???

近衛は、ベルサイユ条約の時に、西園寺公望について行っています。
ベルサイユ条約には、今までの植民地はそのままで、今後の植民地化はしないでおこうという文言が入っていました。

そこに疑問を感じた近衛文麿は、「英米本位の平和主義を排す」という論文を書いています。

これは・・・日本をバカにした条約である!!

と、思っていたようです。


どうして、こんな侵略戦争をしてしまったのでしょう?
国際連盟を仕切っているのは、イギリス・フランス・・・イギリスは、日本を支持してくれていたのです。

満州事変の前後には、五・一五事件、二・二六事件など、テロが勃発・・・政治がテロに屈する時代が始まっていました。

わずか5年で、7人の政治家が殺されていました。政党政治は機能不全に陥ったのです。

そんな時代を背景に、近衛文麿に白羽の矢が立ちます。

1937年第一次近衛内閣発足。
高貴な家柄と、知識人という面から国民に人気がありました。
また、政党政治家と違い、政党争いや汚職とは無縁なイメージがありました。

政党の基盤がなく、軍の台頭に対峙しなければならない難しい局面の近衛を、昭和研究会が支えました。

昭和研究会は・・・
知的には支えられたが、政治的に支えているとは言えない。。。

近衛は問題が生じた時に逃げてしまう!!

しかし、内閣発足1か月後に。。。
1937年7月、盧溝橋事件が起こります。

これをきっかけに、中国を攻めようとするのです。マスコミもこれを支持します。


「やめろ」と言えなかった理由は、暗殺されるかも!!??っていう弱さです。

インテリの悪いところは、屁理屈をこねること・・・
蒋介石のせいにしてしまいます。
上海に終結した蒋介石率いる国民党軍が、日本軍を南部に引きずり出そうとします。


ここに、激戦が始まるのです。


しかし、近衛は、あえて軍を止めようとはしませんでした。
石原莞爾は、何とかまとめようとして、近衛・蒋介石のトップ会談を計画します。

しかし、近衛は、失敗を恐れて動きません。頓挫してしまったトップ会談。。。

石原は激怒します。
「この期に及んで優柔不断では、日本を滅ぼすのは近衛だ」

日本軍は、上海を制圧、南京へと進軍します。
1937年12月13日南京陥落。
南京に入城する日本人・・・
しかし、蒋介石は重慶に逃げてしまっていました。

日本人は誰が市民で誰が兵隊か分からない・・・
怖いものだから、虐殺してしまった・・・?
中国側は、20万、30万殺したと言っているが、10万以上はいないと思われます。
が、虐殺はあっただろうということです。

南京で勝ってしまった・・・。
日本は、いい気になって、「賠償金」や「謝罪」を蒋介石に要求してしまいました。

攻めている最中に、首相を辞めてしまいます。

日本が、中国で果てしない消耗戦をしている時・・・

ヨーロッパではナチスが台頭、ドイツ第3帝国を名乗り、米英と対立します。
日本もその波に呑まれていくことになります。。。

1939年ドイツがポーランドに侵攻したことによって第二次世界大戦勃発。
イギリスとフランスも宣戦布告します。

デンマーク・オランダと快進撃を続けるドイツによって、パリは陥落、唯一残ったロンドンも空襲にあって・・・

ヨーロッパにドイツの敵はいなくなってしまいました。


「ドイツに習え!!」

ここで、国民に人気の高い近衛文麿の再登場です。

ヒトラーに習え、と、国家社会主義を唱え、政党の解体に乗り出します。

1940年、神武天皇から2600年ということで、大々的に紀元2600年の式典が行われます。
その中心には近衛文麿がいました。

同年、外相・松岡洋右の手によって日独伊三国同盟が成立。
それは、米英と戦うことを意味していました。

松岡洋右・・・
最初は日独伊ソの四か国同盟にしたかったようです。
しかし、ドイツはソ連と戦争をしてしまったので、三か国になったのです。

悪化する日米関係を何とかするためにその職に就いた松岡、しかし、軍部のとおり枢軸国側に接近し、三国同盟成立させてしまいます。

そうなると、ドイツと対立するフランス・イギリス・イギリスを支えているアメリカと敵対することとなってしまいました。

近衛は本心では三国同盟に反対でしたが、あえて積極的に食い止めようとはしませんでした。
肝心なところで、軍や松岡洋右に引っ張られてしまったのです。


1941年10月大政翼賛会を作ります。

なぜ・・・
政党政治は政党争いばかりしていること。
財界から金をもらって腐りきっていっる!!
と、一国一党になることを図ったのです。
左翼も右翼も取り込んで、一致団結して戦おうということなのです。

そうなると、党利党略が無くなるので、何もかも早く決まります。


戦争に参加したかったアメリカは、日本と戦うことによって参加する機会を伺っていました。

日中戦争がおこり、石油を求めて南方に進出しようとする日本に対して、ABCD(アメリカ・イギリス・中国・オランダ)包囲網が出来ます。

運命の「御前会議」が始まります。

天皇も、近衛文麿も戦争反対。
推し進めたのは、陸軍大臣・東條英機でした。



東條英機は・・・
明治17年東京に生まれます。

56才の時に、第二次近衛内閣の陸軍大臣となります。

昭和天皇は、明治天皇が日露戦争が始まる時に詠んだ歌を詠みます。。。
「四方の海  
  みなはらまらと 思ふ世に
    など波風の たちさわぐらむ」

もちろん戦争反対の・・・。

昭和天皇は若いころ、イギリスに留学していました。

「君臨すれども 統治せず」

を、実践しようとしていたのです。

天皇は、近衛に「駄目」と、言ってほしかったのです。

しかし東條は、日清・日露の勝利の「運」にかけてしまいます。

その後、戦争回避をする決意をした近衛文麿は・・・
荻窪の自宅に陸海軍大臣を集めて話し合います。

話し合ったのは、ハル四原則

@各国の領土保全
A他国への内政不干渉
B通商上の平等の法則
C太平洋の現状を変革しない

@・・・東條はあくまで撤退を拒否。
海軍大臣は、開戦に消極的だったので、根回しをしていた近衛・・・
しかし、海軍は戦争に反対にもかかわらず・・・
及川海相は「総理に一任・・・」と逃げるのです。

東條は、「納得できる確信があるなら戦争準備はやめる」と言います。
納得できる確信はありません。。。
東條「駐兵は、陸軍の生命であって、譲れない。御前会議の時はどう考えていたのか?」

近衛「戦争に私は自信がない。自信のある人でおやりなさい」

東條「今になって不謹慎ではないか」

そして・・・首相を辞めてしまいました・・・。


もう一人の主役・東條にバトンタッチされてしまいました。
東條内閣発足。陸軍大臣も兼任という、はじめての首相でした。

これで、戦争に突き進む?

あえて東條を内閣総理大臣にしました。。。
天皇は、東條の考えを変えさせて、軍を抑えようとします。
もともと天皇の軍隊・・・おまけに東條は天皇崇拝論者。。。
東條は、天皇に言われたら断れません。。。

そして、項目再検討会議が行われました。

思惑は進んだように思われましたが、東條は買えられても、その下の軍部は変えることが出来ません・・・。

「裏切り」とまで言われてしまう東條。。。

しかし、東條が変わっただけでは、日本は変わらない・・・。

マスコミも世論も、開戦を望んでいました。
東條が本当はどう思っていたのか。。。それは謎なのです。。。


航空兵力・海軍力・陸軍力、負けると解っていた戦争。。。
おまけに石油の輸入を80%、アメリカに頼っていました。

会議で・・・東條は海軍は反対すると思っていました。
が・・・海軍は賛成。。。それは、予算折衝があったからだとか・・・。


東條が寝室で一人号泣した翌日・・・
1941年12月8日・・・真珠湾攻撃。太平洋戦争勃発。。。
日本が破滅に向かって突き進んだ瞬間でした。

東條は戦争を回避することが出来ませんでした。

日本は南方へ進撃、連戦連勝をおさめます。
しかし、7か月後のミッドウェーで敗北。虎の子の空母4隻を失って、躓きました。
圧倒的な物量のアメリカの前に、南方では玉砕。日本はじりじりと後退していきます。

サイパン玉砕。
B29による本土空襲。
本土の大都市が空襲にさらされます。

悲壮な総力戦に・・・
女性は軍需工場で働き、学生は学徒出陣で兵隊に・・・。
本土決戦が現実味を帯びてきました。

特攻作戦・・・必ず死ぬのに成功率の低い作戦・・・
広島・長崎に原爆投下。

天皇陛下は、終戦を発表します。8月15日、玉音放送です。

日本はポツダム宣言を受諾、無条件降伏をしました。


マッカーサーがやってきました。
戦争を起こした責任を・・・戦犯として捕まえました。
絞首刑・・・東條英機・広田弘毅・松井石根・土肥原賢二・板垣征四郎・木村兵太郎・武藤章
終身禁固・・・16名。

極東軍事裁判は、戦犯を裁くために後から法律を作ったので、フェアとは言えませんが、この「負けると解っていた戦争を始めた責任」はあるはずです。

本当ならば、日本国が総括して、あの戦争とは何だったのか?
誰に責任があるのか?
総括していません。。。

終戦後、近衛文麿はマッカーサーと会い、新憲法作りの約束をします。
アメリカと日本の開戦回避に尽力したこそあれ、戦犯として裁かれるとは思っていません。

しかし、マッカーサーは、この新憲法作成に参加させることなく逮捕します。

近衛は逮捕の前日、青酸カリを飲んで自殺しました。


マッカーサーに裏切られた・・・
「悲劇の人」と、思っていたようです。


一方東條は・・・
逮捕の前日、
東京裁判に出廷する前に、陸軍大臣に呼ばれ・・・
「天皇の身代わりになれ」と言われます。

「わかった・・・。しかし、自分のプライドが傷つけられたら分からない。。。」

逮捕の瞬間、自決を試みるも失敗!
公と私の狭間で苦しんだ東條・・・。
瞬間的に天皇を守ることを捨ててしまったのですが、裁判では一貫して天皇の戦争責任回避の為に発言しました。

天皇を守ったのです。

東條は12月23日、他のA級戦犯と共に、天皇を守って、絞首刑になるのです。

この日は、皇太子の誕生日です。。。
日本人に、この日を忘れないように。。。
アメリカの上手い戦術でした。



本当に、関東軍が悪かったのはそうですが、誰が悪くて、誰が悪くなかったのか・・・
本当に難しいですね。。。

私の祖父は陸軍のそれこそ職業軍人でした。
海軍と比べて、悪いとか、了見狭いとか言われますが、軍服を着て背筋の通ったおじいちゃんの写真は、カッコよかったのを覚えています。


私は日向ぼっこをしているおじいちゃんしか知りませんが。。。
島が変形するほど爆撃され、屈辱に耐え、捕虜になりながらも、生存率4%とも言われる島から帰って来てくれたことに感謝しています。黒ハート



誰もが書かなかった日本の戦争 [単行本] / 田原総一朗 (著); ポプラ社 (刊)
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