2012年05月14日

第18回「誕生、後白河帝」

第18回 「誕生、後白河帝」です。

「誕生、後白河帝」

こんなにしたいぐらいです。

待っていました!!

1154年、近衛天皇の容体がいよいよ深刻になってきました。母・美福門院得子は、一心不乱に祈とうする日々。父・鳥羽院は、崇徳院を遠ざけてきたことの報いではないかと、わが行いを省みます。


そんな反省するなら、最初からしないでね!!と思いながら、でも、当時は何でも怨霊ですからねえ・・・。
病気も祈祷で治すんだから、反省するでしょう。失恋


まあ、いつも言っていますが、日本の三大怨霊になられる方ですから・・・
そして、そうしたのは後鳥羽さんなわけで・・・。悔いて悔いても仕方のないくらいやっちゃっていますし、反省していますが、まだまだやりますよ。この人は!!

そして、その怨霊が移ったのか・・・鳥羽院の側近で、平氏とも親しかった藤原家成が病床に臥します。

見舞いにきた清盛に、家成は息子たちを自分と思い相談するようにと告げ、鳥羽院のことを託しました。
そして、予定通り家成は世を去りました。


ある日、清盛は崇徳院に招かれます。
崇徳院は近衛天皇が死去した後、わが子・重仁が天皇となり、自分が実権を持つ日も近いと考え、清盛に力を貸すよう説きます。

怖い野望が芽吹いてきました。。。失恋


がしかし、清盛、
「身に余るお言葉ながら、その儀ばかりは、お受け致しかねまする」

崇徳院「ガガガビ〜ン!!」

いつの間に、そんなに男前になったのだ、清盛!!

崇徳院は切れまくり。

「朕にこの醜き世をおもしろう生きよと言うたのは、そちではないか」と激高バッド(下向き矢印)

そこで見かけたお気楽にヒマしていた雅仁親王。

雅仁は、一介の武士に頼る崇徳院を落ちぶれたと非難します。
まあ、本当に、天皇になる望みは全くない人なのですから、「面白き世」ではないでしょうね。この時点では。

清盛は崇徳院ではなく武士の立場が変わったのだと言い返します。
そんなに威張れる要素がどこにあるの?
それは、お父さんの残してくれたお金だったりして・・・!?

その夜、平氏一門は集まり、崇徳院につくか、鳥羽院につくかを議論するが、収拾がつきません。
おじさん、なんか企んでそうです。。。あせあせ(飛び散る汗)

すると清盛は、鳥羽院と崇徳院の仲を取り戻させると一同に宣言します。そんなことが出来たら、これからの戦いも、南北朝もないんだよ!!ってことは言えます。黒ハート


そのころ、鎮西にある鳥羽院の所領を、弓矢が達者な巨漢が襲いました。

大鎧をつけて大地に立つ様は・・・

平安時代のモビルスーツ、ガンダム!!

ではなく、源為義の八男・為朝です黒ハート

素行が悪く鎮西に追放されていた為朝でしたが、おまけにこの一件で鳥羽院の怒りを買ったため、為義は右衛門尉の職をとかれてしまいました。

がびーん


為義が頼れるのは藤原摂関家だけとなってしまいました。どうする?摂関家は「悪ですよ、悪」あせあせ(飛び散る汗)

ある日、為義は比叡山の悪僧たちを頼長の前に連行します。
僧の一人、鬼若は以前頼長を助けた自分を見逃せと訴えるが、頼長は一切受けつけません。

綱紀粛正に厳しすぎる左大臣として「悪左府」という異名までついた頼長を忠実は心配しましたが、父といえども口出しすれば容赦しないと頼長は宣言してしまいました。

良いですね・・・。みんな脇をしっかり固めています。揺れるハート
小説でも、漫画でも、サブキャラの目立つのが良い作品だったりします。黒ハート
これで視聴率もUPしてくれないかなあ・・・。揺れるハート


近衛帝の容体が悪い中、関白・忠通は信西と密談中。

子のないまま近衛帝が亡くなったら重仁・崇徳院の親子が権力を持つ可能性が高く、崇徳院と関係が悪い自分は失脚してしまう!!

信西は忠通の不安に答えず屋敷に帰ると、雅仁が訪れていました。

信西は雅仁の乳父です。
そう、雅仁をこんなにしてしまったのは、信西です。たらーっ(汗)

やる気満々になってきて、可哀想にも見える崇徳院の近くにいるのが嫌なのか、信西の妻・朝子をともない美濃の青墓宿へ行くのだとか。

近衛帝の危機に京を離れることを止める信西でしたが、雅仁は関係ないと言い捨て、旅立ってしまいました。


1155年、近衛帝の容体はますます悪化、得子はますます多くの僧を集めて祈とうさせ、義朝は大きな護摩壇を寄進しました。やります、義朝。

清盛は鳥羽院に謁見し崇徳院との和解を勧めます。鳥羽院の心は大きく動いていました。
やったな、清盛!!


芸事の盛んな場所である青墓宿を訪れた雅仁は、そこで出会った妖怪・・・もとい、白拍子・乙前の今様に、強く心を揺さぶられます。

るんるん「遊びをせんとや生まれけむ」るんるん

雅仁
「この歌の如き男が京におる…。重き定めを背負うておりながら、軽やかに、おもしろう世を生きておる男が…」

雅仁は乙前に「遊びをせんとや生まれけむ」という今様の歌のように、生き生きと生きる男を誰もが頼りにするが、自分は誰からも相手にされない、とさびしい真情をさらした。

乙前は雅仁の中にみなぎる力がやがて世を動かすといい、雅仁の心を癒やすのです。


近衛天皇はついに17歳の若さで世を去ってしまいました。

平氏一門が動揺する中、清盛はこのことは鳥羽院と崇徳院の争いのはじまりではなく、和解のきっかけになると告げます。この数日前、妻を亡くし喪に服していた頼長は次の皇位継承者を決定する会議に出席できなかった。
会議には鳥羽院や信西、忠通などが集まり議論を重ねています。弔問に訪れた清盛は内裏の一角で、またもや雅仁に会いました。

これも、きっと運命!!

この人に使い捨てられるのよ!!清盛!!

雅仁は帝の崩御について、生まれることがすでに博打だが、生まれてこなければ勝負にならない、と告げ今様を歌いだしました。

雅仁
「まさか帝が、あんなにも母君に望まれ、慈しまれて生まれてきた我が弟・体仁が、あんなにも早う、はかな くおなりとはのう…。やはり人は、生まれ出ずることが既に博打じゃ。…だが、生まれてこなければ、勝つ も負けるもない…
 それではおもしろうない!」


その今様は清盛がまだ物心つく前に実母が歌っていたものであり、清盛は不思議な懐かしさを感じます。

会議では鳥羽院が崇徳院の子・重仁を推し、崇徳と和解し共に政治を行いたいと述べます。

鳥羽法皇
「朕は…重仁を即位させる!いや、いっそ上皇を再び即位させてもよいと考えておる!」

でも…
信西が猛反対!!
信西
「今さら詫びたところで上皇様はお許しになるはずもなく…
 鳥羽の法皇様につくものと、上皇様につくもの、 国は大きく二つに別れましょう。
 天下の権を握るはあくまで、鳥羽の法皇様。
 法皇様は、自在に操れるお方を、帝の座におつけになるべきです。
 さもなくば、いずれ天下大乱となるは必定にございましょう!」

崇徳上皇が復権すれば鳥羽院を許すはずはなく、大乱になってしまうと!!
あくまで鳥羽院が扱いやすい方を帝にすべきと主張するのです。

そうなんだ・・・この、信西が、崇徳を怨霊化させるんだ・・・
鳥羽上皇じゃないんだ・・・。あせあせ(飛び散る汗)

そして、後継者は・・・もちろん・・・。

つ、ついに、この時が!!

ジャジャ〜ン!!

雅仁が即位し、後白河天皇が誕生したのでした。

これから、即位することがなかった男の大反撃です。黒ハート

政治を引っ掻き回し、院となってからも34年間にわたって権勢を振るう、台風の目が誕生しました。黒ハート

いよいよですよ。黒ハートこれからが、楽しみです。揺れるハート

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ラベル:平清盛 後白河帝
posted by ちゃーちゃん at 19:58| Comment(0) | 平清盛 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今いてほしい!?日本を変えたリーダーたち〜保科正之〜

地方政治のリーダーで、民のための善政に励み、江戸幕府混迷の時代を安心の世に導いた知られざる名君、会津藩主・保科正之です。

保科正之のすべて
保科正之のすべて


会津と言えば、幕末のイメージが強いです。
白虎隊、頑固、不言実行、謹厳実直、悲劇のイメージですが、江戸時代は日本一安心な国でした。

会津を一代で築いたのが、保科正之です。

会津藩主でありながら、三代将軍・家光の閣僚、四代将軍家綱の後見人でもありました。
三大美事を行い、武断政治から文治政治へ導きました。

その保科正之、将軍の子でありながら人目を忍んで生きた数奇な運命を持っていました。
晩年は自分の記録を焼却し、陰に徹しました。


江戸時代の副将軍格で活躍したのは、この人ぐらいです。
立場は、内閣総理大臣でありながら福島県知事。最も尊敬できる日本人の一人です。
もし、保科正之がいなければ、徳川家は存続しなかったかもしれません。

首都の中心の皇居、その前は江戸城でした。

そこには城の象徴・天守閣がありません。
今から350年前の火事で天守閣が焼失しました。
再建中止を決めたのは、保科正之。
その秘密は史上空前の大火災、明暦の大火にありました。

@災害時のリーダーシップ。
将軍・家綱非難問題

明暦3年1月18日、火の手は江戸城にも迫って来ていました。
将軍をどこに避難させるのか?
老中・松平信綱は火事の風上にあった上野の寛永寺。
大老・酒井忠勝や井伊直孝は、それぞれの別荘へ。そうなると、大名たちの門閥闘争が起こるかもしれません。。。

そこで

保科正之は・・・
「本丸に日がうつったら西の丸に、さらに西の丸が焼けたら本丸の焼け跡に陣を立てればよい。
 場外へ将軍を動かすのはもってのほかだ。」

リーダーが軽々しく動くものではない。。。災害本部を明確にしました。
そこには、徳川家の存在意義を示す結果にも一役買いました。

災害時のリーダーシップA
浅草米蔵消火問題

その火の手は、幕府財政の要、浅草の米蔵へ・・・
当時はまだ町火消しはいません。大名火消しなので出払ってしまっています。
そこで、「米蔵の米取り放題!!」という御触れを出したのです。

国家の金庫を開放したのです。
飲まず食わずの町人たちは、米欲しさに必死に消火活動をしました。

鎮火・・・

被災者が火消しとなり、その米が救済米となります。一石二鳥でした。
そこには、正之の人間に対する鋭い観察眼がありました。

人の気持ち、動機づけの要因がわかっている人でした。

10万人もの死傷者を出し、焦土と化した江戸の町。。。
正之は火事に強い不燃都市を目指します。

幹線道路の拡張、上野広小路はこの時に作られました。

被害状況を調べた結果、逃げ惑う場所が無くなり、隅田川に飛び込んで溺死していたことが解りました。
当時は、防犯上、川にはあまり橋が架かっていませんでした。
そこで、「両国橋」を建設、軍事より市民の安全を優先しました。

今までの武家政権では幕府の安定を無条件に優先していましたが、ここにきて初めて、庶民の利便性を優先させたのです。


災害時のリーダーシップB
江戸城天守閣再建問題

最大の議論となったのが、焼け落ちた天守閣の再建。。。
天守閣は武家政権の象徴です。
土台の石垣が完成しましたが・・・
正之は、

「天守閣は、ただ遠くを見渡すための物見櫓にすぎない。
 今は、江戸の町の復興を優先すべきである。」

と、反対し、その費用は、復興資金に回されました。
そして、そこに市民の政権への信頼が誕生しました。

保科正之の江戸復興計画とは・・・

計画には、16万両のお金を出しました。
「それではご金蔵が空になってしまいます!!」
という反対意見に、
「ご金蔵のお金は、非常時に使うために貯めてある。
 こういう時に使わないのであれば、貯めなければよかった。」と言ったとか。


大災害を逆手に取り、民の安全を第一とした新しい街づくり、100万都市へと発展していきます。


福島県会津若松市、戦国の世から江戸時代にかけて、伊達、上杉と言った有力大名が治めた要の地です。
1643年、保科正之が会津藩へお国入り。

前藩主の厳しい年貢の取り立てや寛永の大飢饉で国土は荒廃。
正之は、領民の生活の安定を考えます。

検地をし直しました。
その結果、前藩主が2万石多く取り立てていた不正が発覚しました。
年貢を低く修正。
そうしたことで、農民側も「隠田」を申告、その石高は2万3000石となり、プラスとなりました。


明暦2年に、会津藩正史「家世實紀」に書かれている・・・
「社倉制度」を飢饉に備えて作ります。
社倉とは、米蔵のことで、藩が米を備蓄して、凶作や飢饉のときに被災者に貸し出しました。
貸し出された米は、利息2割で豊作の時に返せばよいというものでした。

会津藩ではこの結果、度重なる東北の飢饉でも、餓死者を出すことなく、安定した生活ができるようになりました。

餓死者が出るのは、国の責任。

福祉政策も始めます。
誰でも無料で医者に診てもらえる制度。それは、領民だけでなく、旅人を含みました。
その結果、多くの旅人や商人が訪れるようになりました。

もっともユニークな福祉制度が養老扶持。
働けなくなった老人がお荷物とされた時代、大事にせよと90歳以上は老人年金をもらえたというものです。
おかげで会津の人口は、1648年に11万人だったものが1718年には17万人と、安心の国になりました。

年金保険を初めてやったのはビスマルク、1989年ドイツ帝国が先駆けとなっていますが、それを遡ること200年、しかも掛け金なしで行っていました。

会津政権を刷新し、幕政も取り仕切るスーパー名君、保科正之。
その才能の裏には、複雑な出生がありました。

1611年神田白銀町に生まれました。幼名幸松。
母お静は、浪人の娘。父親とは生涯対面することはありませんでした。
その父親とは、二代将軍徳川秀忠。
将軍の御落胤でした。

本来なら大奥で育てられるはずだった正之。
その理由はお江。
嫉妬深いお江に見つかれば、命はなかったかもしれません。
そんな二人を支えたのが、武田信玄の娘・見性院。
お江に渡すことをきっぱり断ります。
そんな正之を形成したのは、武田家の雰囲気でした。
見性院と実母の欲のない生活。。。

1617年、見性院は武士の教養を身に着けさせるため、元武田の家臣、高遠藩藩主・保科正光に預けます。
石高わずか3万。
裕福ではないまでも、武田の土木技術がふんだんに使われています。

この高遠藩・保科家で、民のための政治を学んだと言われています。
領民の協力があって、藩が成り立っている。と。
高遠で地方政治の基本を身に着けて、1631年高遠藩の藩主となります。


高藤藩主として江戸城に登城。
一番下座に座ります。
家光は、その謙虚な態度に好感を持ちました。

あくまでも臣下に下って貫いた・・・それこそが、正之の人間性です。
政治手腕を発揮し、抜擢されていく正之、26歳で山形20万石に転封。
石高7倍増の異例の出世です。

1637年島原の乱勃発。
迫害を受けたキリシタンや農民が武装して蜂起しました。
幕府は12万の軍勢で一揆軍3万を鎮圧。

この反乱の大きな原因の一つに藩主の圧政、厳しい年貢の取り立てがありました。
島原藩主・松倉勝家、唐津藩主・寺沢堅高はお家断絶となります。
これが、地方行政に計り知れない衝撃をを与えました。

「圧政が原因で反乱が起きれば、領主も民も傷つく・・・」と。

ここが、日本史の転換点でした。

民のための政治を!!

高遠藩主・山形藩主・会津藩主、わずか12年で3つの国を渡り歩いた正之、その家臣団も、現地採用された寄せ集め集団でした。

家臣団をどうまとめて機能させるか。。。
正之は、卓越したマネジメント術を生み出します。

@能力主義。
この時代、譜代を重要視しないのは違法行為のようなもの。
しかし、知行制を蔵米制に変更、能力に応じたサラリー制にしました。

A家臣団の人事配置
ピラミッド状の家臣団を、禄高を平等にしてたくさんの人を雇いました。

1651年三代将軍家光病没。
家光は臨終に際し、
「家綱をたのむ・・・」

この遺言によって、四代将軍家綱の後見人となった正之。
家光の恩に報いるために身命をうって幕府の為につくします。

家光の死から3か月後・・・
慶安の変。
幕府転覆を図ったもので、由井正雪を首謀者とし、1500人の浪人が関わっていたのではないか?と言われている反乱。。。

直前に発覚し、事なきを得ます。

三代家光までは武断政治でした。大名改易などで、131の大名がおとり潰しとなりました。
その為、職にあぶれた牢人が溢れていたのです。将軍家を恨む反乱分子がたくさんいました。

そこで、、、
三大平和政策を行います。

@1651年末期養子の禁の緩和。
末期養子を認めることで、諸藩との共存共栄を図りました。

A1665年大名証人制の廃止。
大名の家族や家臣を人質としてとる制度を廃止。
これで、幕府の平和路線を図りました。

B殉死の禁止。
実際に家光の死後、老中・堀田正盛、阿部重次が殉死しています。
殉死は人に対する忠義。これからは、藩に対して、社会システムに対して忠誠心を持ってほしい。。。


これらが文治政治へと導いたのです。
正之は、武士の生き方を根底から覆しました。
戦う集団・兵を、人間の生きる規範としたのです。

武士のあり方、幕府のあり方をかえ、その後に続く200年の平和の礎を築きました。


1669年家光の遺言を守って幕府のかじ取りをしてきた正之、59歳で隠居をします。
その時、自らの記録文書を焼却、正之の手柄は、家綱の功績として語り継がれます。

会津に帰った正之は、すでに病で目が見えなくなっていました。
後年は、人材育成に力を入れます。
身分の隔てなく教育を施す「稽古堂」これは、後に藩校「日新館」へと発展します。

一身をなげうって尽くした保科正之、1672年死去、享年62歳でした。

地元の学校では、10年前からある取り組みが・・・。
「あいづっこ宣言」

poster[1].jpg

これは、保科正之の教えに基づいています。

会津藩家訓十五か条。
この第一条には・・・
「将軍家を大切にして、何があっても絶対に忠誠を尽くすべし。」
と記されています。

しかし、強固に根付いてしまった家訓が悲劇を招きます・・・

幕末に京都守護職に選ばれたのは、松平容保。
迷っていた容保に・・・
「藩祖 正之公の教えをお忘れか・・・」

最後まで明治新政府に抵抗し、江戸幕府と一緒に滅亡の道へと進んでいくのです。

薩長の最大の敵は会津藩、だから、今まで評価されなかった名君なのです。

保科正之 徳川将軍家を支えた会津藩主
保科正之 徳川将軍家を支えた会津藩主
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posted by ちゃーちゃん at 15:24| Comment(2) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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