2012年05月09日

天皇に忠義を貫いた男〜楠木正成〜

THEナンバー2、天皇に忠義を貫いた男〜楠木正成〜です。

今から700年前、三大改革の一つに挑んだ男の物語です。
楠木正成 [ハードカバー] / 童門 冬二 (著); 致知出版社 (刊)
楠木正成 [ハードカバー] / 童門 冬二 (著); 致知出版社 (刊)
時は鎌倉時代、幕府の権力は失墜していました。
その原因は、2度にわたる蒙古襲来。
幕府は蒙古を何とか防いだものの、財政難に陥り・・・機能を失っていきました。

それを立て直そうとしたのが二人の男・・・
革命の首謀者は、南北朝時代、南朝を樹立したナンバー1・後醍醐天皇。
そして、後醍醐天皇を支えたのが大阪の河内で悪党と呼ばれていたナンバー2・楠木正成です。

天皇と悪党と呼ばれていた男・・・天と地ほど身分の違う2人が目指した。。。

それこそが、646年大化の改新、1868年からの明治維新と並ぶ三大改革の一つ、建武の新政です。
武家政権である幕府を倒し、天皇が政治を行う天皇親政を復活させる一大改革です。

正成は、公家や武士という中間搾取者をなくす政治を目指していました。
大阪の地方自治から国政をひっくり返そうと考えていました。

そこに現れたのが第三の男、幕府最強の武将・足利尊氏。。。
この男の登場で波乱の展開となるのです。

朝廷VS武士、国中を巻き込んだ政権争いの始まりです。

正成が呼ばれていた悪党とは・・・
当時は土地を管理する荘園領主や地頭に反抗し、年貢を略奪する集団を悪党と呼んでいました。
その多くは農民や地侍たち・・・。その悪党を河内で束ねていたのが正成でした。

「何もしないで年貢を取り立てている幕府や公家こそが泥棒だ!!
 奪った年貢は農民たちに返してやれ!!」

悪党と呼ばれていた正成でしたが、千早赤阪村は棚田の名所。狭い土地を耕す貧しい農民からは慕われる存在でした。

当時幕府の実権を握っていたのは、鎌倉幕府第14代執権北条高時。
しかし、その権力は陰りを見せ、各地で悪党による略奪行為が横行していました。

そこに異例の天皇が現れます。
第96台後醍醐天皇です。
幕府を倒し、自ら政治の実権を握ろうとします。

この後醍醐天皇が不満を持っていた制度は皇位継承に関するものでした。
御嵯峨天皇の2人の皇子、
後深草天皇(持明院統・北朝)と亀山天皇(大覚寺統・南朝)の皇位継承争いに幕府が仲裁に入り、両党が10年ごとに皇位を継承すると取り決められました。

「10年では短すぎる!!」と、後醍醐天皇は、一気に討幕へと傾くのですが・・・
しかし、兵力を持たない天皇が幕府と戦うためには、武士ではない新しい兵力が必要でした。
そこで目を付けたのが幕府に反抗していた悪党!!

正成に白羽の矢が立ちます。

後醍醐天皇は、正成に使者を送ります。
正成は感激し、「この手で国を改めてやる!!」
と、京の都を離れ笠置山で兵を集めていた後醍醐の元へ・・・

正成はここで初めて天皇に謁見。
その時天皇自らが夢を語ります。

「そちが楠木か・・・おもてをあげよ。
 朕は・・・そちの夢をみた。」

その夢とは・・天皇の前には一本の大木があり、現れた二人の童子が告げます。

「帝がお座りになる場所は、この木の下しかございません。」
その木は南の方角にありました。「南」にある「木」、つまり「楠」。
『くすのき』こそ、わが力になる人物の名だ。」

正成はここでひるまずに答えます。

「兵力だけを申せば、わが軍勢は少数。
 到底、幕府には勝てません。
 だが、この正成が、知略をふるえば、どんな大軍でも勝つことは不可能ではありません」

「天皇」と「悪党」と呼ばれた男。「天」と「地」ほど、身分が違う2人の夢がひとつに結ばれた瞬間でした。

後醍醐天皇の命を受けた正成は、いよいよ立ち上がります。

わずかな兵の正成が、どのようにして立ち向かったのでしょうか?

1331年9月正成は討幕の兵を挙げます。

悪党の数わずか500人。
それに対する幕府の実権を握る北条高時は、六波羅探題や鎌倉から80万の軍勢で対抗します。
これは本当?日本の人口が700万〜800万と言われた時代。80万の軍勢が作れるわけがありません。かなりの誇張があるかと思われます。

しかし、幕府最強の武将・足利尊氏、新田義貞も出陣します。
でも、どうして尊氏や義貞が寝返ったのでしょうか?
そこには鎌倉幕府のねじれに対する不満がありました。
鎌倉幕府・・・源氏の将軍は3代で終わっています。
北条の摂関政治に対する不満から、北条にとって代わりたい!!
尊氏・義貞ともに源氏の出だったのです。


押し寄せた大軍は、笠置山の後醍醐天皇を包囲。天皇は脱出に失敗し、隠岐の島に流されます。

残るは河内の正成。山の上に築かれた貧弱な城。それを見た幕府は一日で落とせると高をくくります。
そこに正成の奇襲作戦が炸裂します。

金剛山に山城を築き、ゲリラ戦を展開します。
奇想天外だったのが、千早城の戦い。
当時は1対1がメインの戦いの時代に・・・
水鉄砲に油を仕込んで火を付けたり、石を投げたり・・・
正成の活躍は天下に轟き、日本中の悪党が立ち上がりました。

1331年2月、名和一族が後醍醐天皇を救出。
全国の武士や悪党に綸旨を書きまくります。
それが足利尊氏を動かしました。幕府最強の武将が反旗を翻したのです。

尊氏は、2万5000の兵を京に・・・六波羅探題を陥落させ、京を制圧しました。
上野国でも新田義貞が寝返り、鎌倉幕府を直接攻撃、1333年に北条高時は自害。
ここに、150年続いた鎌倉幕府が滅亡しました。

討幕を果たした後醍醐天皇は、京へ凱旋。
その途中、正成と再会しました。
正成は、天皇を護衛しながら京へ。。。

1333年6月新政権樹立。建武の新政の始まりです。。。が、本当の戦いはこれからでした。

建武の新政のうまくいかなかった理由は・・・
当時の恩賞は土地でした。
その功績と恩賞が比例していなかったことが原因といえます。

不満は、二条河原に掲げられました。
「このごろ都にはやるもの
    夜討 強盗 偽綸旨
        俄大名 迷者」

卑しい正成・・・と、正成の出世を妬むものもありました。
朝廷で妬まれる正成。。。
天皇としては、正成にも正当なポストについて欲しかったのですが、公家たちの手前があって上手くかみ合いませんでした。

そんな中、人々が頼りにしたのが源氏の血を引く尊氏でした。
尊氏もまた、後醍醐天皇に冷遇されていました。
源頼朝以降、武士たちの将の称号である「征夷大将」を尊氏に与えなかったのです。

それは、尊氏が強大な勢力を持つことを・・・幕府を作るのを怖れたのです。
「この戦いは、武士政権を滅ぼすための戦いだったはず。。。それなのに、征夷大将?!」
と、思う後醍醐天皇に対して、武士の棟梁としての立場がある尊氏。。。

最初から二人の思惑は違っていました。
後醍醐天皇と一致していたのは、正成ぐらいです。

尊氏には、武士全体の代表となってしまったという責任が・・・
それに比べて正成は、ポストもない気楽な立場。。。

武士の協力があってこその「建武の新政」なのに・・・
尊氏の周りには、公家たちに対する不満が充満していました。

そこに反乱が・・・
鎌倉に出陣した尊氏が、京に戻ってこなくなったのです。
さらに幕府の後地に新居を構え、ついに後醍醐天皇に反旗を翻したのです。

後醍醐天皇は、新田義貞に尊氏討伐を命じます。
1335年12月、箱根で激突!!
勝利した尊氏軍は、京に攻め上ります。

後醍醐天皇は、東北の公家・北畠顕家に追撃させます。
今日の正成にも出陣を命じました。

京都で激突し、何とか勝利を手にした正成。
負けた尊氏軍は、九州へ逃げ落ちます。
そこで。。。
正成は追撃せずに、兵を引挙げてしまいました。

「尊氏と和睦すべきです。」

はじめて天皇の意向に反した正成。そこには固い決意がありました。
それは・・・「公武合体」

源平時代から力をつけてきた武士。。。もう、武士を無視できなくなってきているという事実。
そこには、正成の純粋に建武政権を維持させたい忠誠心がありました。

1336年4月尊氏挙兵。九州から京へと上ります。
大義名分の欲しかった尊氏は、後醍醐天皇と対立する光厳上皇から「新田義貞を討て」という院宣をもらいます。

つまり、ここに官軍・賊軍という区別はなくなり、

北朝=光厳天皇=足利尊氏
南朝=後醍醐天皇=楠木正成

という形が出来上がりました。

この戦いで正成の戦略は、
帝を京から退去させ、足利尊氏を京都に誘い込み、その間に尊氏の水軍を壊滅させるというものでした。
そうして、物流で孤立した尊氏を全軍で叩く!!という大胆な戦略でした。

が、この作戦に対して後醍醐天皇は・・・権威が地に落ちる、と、
義貞と共に出陣させました。

「最後までこの方の為に戦おう」

ここで有名なのが「桜井の別れ」。

正成は死を覚悟し、湊川の戦場に赴くことになりました。

その途中、桜井の駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げました。
「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は、

「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ。帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族朗党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭し、形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げたのです。

1336年5月25日。正成は湊川でわずか700の兵で6時間に及ぶ死闘を演じました。しかし、平地では得意のゲリラ戦も生かせず。。。

自身の弟と「七生滅敵」・・・七回生まれ変わっても敵を滅ぼす!!
天皇への忠誠心を誓って自害しました。享年43歳。

1338年尊氏は征夷大将軍に任命され室町幕府が誕生しました。

敗れた後醍醐天皇は吉野に逃れ、南朝を開きます。
これより朝廷を真っ二つに分けた南北朝時代が始まりました。
そして、ビミョーに始まった室町時代は、激動の戦国時代へと突入していくのです。

もし、正成の案が採用され、尊氏を京都に誘い込んでいたならば、勝つ可能性があったかもしれません。。。
そこには正成の、尊氏に対する「武家政権を否定する気持ち」があったからです。

1339年8月15日、後醍醐天皇が病に倒れます。
最後まで北朝を睨んで崩御しました。


室町時代の軍記物語『太平記』には、正成について「智・仁・勇の三徳を備え、命をかけて善道を守るは古より今に至るまで正成ほどの者は未だいない」と刻んでいます。
私利私欲もなく後醍醐天皇の為に戦った楠木正成。人気がありますよね。
その割には何をしたのかあまり知られていないというか・・・。
その人気を思うと、南北朝のマイナーさが寂しく思われます。

っていうか、大河でも「天皇の戦い」はご法度なのかしら?
足利尊氏の時に天皇の争いを書いたのにびっくりしたのを覚えています。
まあ、足利尊氏もあんまり人気ないからなあ・・・。視聴率悪かったような気もします。。。
でも、何でもありの南北朝時代にあって、自分の遺志を貫き通した楠木正成は、やっぱりヒーローなのでしょうね。
判官びいきや忠義者は、日本人は大好きです。揺れるハート


悪党の裔〈上〉 (中公文庫) [文庫] / 北方 謙三 (著); 中央公論社 (刊)
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posted by ちゃーちゃん at 17:08| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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