2012年05月24日

田原総一朗の仰天歴史塾 第5話太平洋戦争への道〜近衛文麿と東條英機

面白いのに、ほんと御無沙汰。久しぶりです。黒ハート

毎週でもしてほしいなあ・・・って思います。

今回は、「太平洋戦争への道〜近衛文麿と東條英機」です。

なぜ日本は「大東亜戦争」を戦ったのか [単行本] / 田原 総一朗 (著); PHP研究所 (刊)
なぜ日本は「大東亜戦争」を戦ったのか [単行本] / 田原 総一朗 (著); PHP研究所 (刊)

戦乱の時代・・・日本は、果てしなく続く戦争に突入していきます。

中国・東南アジアなど、アジア全域に広がる戦線、それは、破滅へと至る道でした。

大陸で渦巻く謀略、錯綜する外交、揺れ動く世界情勢に翻弄され、世界に翻弄されます。
軍の台頭、荒れ狂うテロ・・・

この激動の時代に日本の政治の舵を取ったのは・・・
近衛文麿と、東條英機。

揺れる近衛、突き進む東條・・・運命の御前会議・・・。

誰もが勝てないと解っていた戦争で、日本は完膚なきまでに叩き潰されます。
この戦争に突き進んだのは、誰だったのでしょうか?


大東亜戦争。。。
この時代、タイを除いてインドまで、全てのアジアが植民地という時代でした。

そのアジアを開放する・・・「大東亜解放戦争」という意味です。
こんな名前はけしからん!!と、アメリカが、「太平洋戦争」としました。

なぜ、負けると解っていて戦争をしたのか???

その、暴走した張本人と言われているのが、「東条英機」です。
だから、A級戦犯として処刑されています。

そして、その戦争をしたくなかったのが・・・「近衛文麿」です。

近衛文麿とは・・・
明治24年生まれの侯爵。
藤原鎌足を祖先とする、五摂家の筆頭です。
後陽成天皇12世の孫です。
細川護煕さんも、この家系です。
180pあって、東大・京大・・・草食男子、インテリで人気がありました。
が、強引さがない、読経のない、腹の座っていないところがタマにキズでした。

近衛が貴族院の副議長となり、戦争への階段を上っている頃、中国では、軍部による強引な紛争が起ころうとしていました。

1931年9月、柳条湖事件勃発・・・
関東軍は、中国によるものだとして攻撃を開始、
1931年9月満州事変が始まりました。

しかし、この柳条湖事件は石原莞爾の謀略でした。

石原の考えとしては、満州はソ連のすぐ南。。。ソ連に侵攻されると、朝鮮半島、日本海・・・と南下してくるかも???と、思っていたのです。
そのためには、満州がどうしても欲しかったのです。

若槻内閣としては、中国大陸での不拡大方針をとっていたにもかかわらず、石原は爆撃を敢行してしまいます。

そして、軍部は1932年満州国を成立させました。

関東軍が実権を握る、愛新覚羅溥儀の傀儡政権が誕生しました。
石原の目的は、世界最終戦争。。。


リベラリストの近衛文麿が、この満州事変を支持してしまいます。

どうして???

近衛は、ベルサイユ条約の時に、西園寺公望について行っています。
ベルサイユ条約には、今までの植民地はそのままで、今後の植民地化はしないでおこうという文言が入っていました。

そこに疑問を感じた近衛文麿は、「英米本位の平和主義を排す」という論文を書いています。

これは・・・日本をバカにした条約である!!

と、思っていたようです。


どうして、こんな侵略戦争をしてしまったのでしょう?
国際連盟を仕切っているのは、イギリス・フランス・・・イギリスは、日本を支持してくれていたのです。

満州事変の前後には、五・一五事件、二・二六事件など、テロが勃発・・・政治がテロに屈する時代が始まっていました。

わずか5年で、7人の政治家が殺されていました。政党政治は機能不全に陥ったのです。

そんな時代を背景に、近衛文麿に白羽の矢が立ちます。

1937年第一次近衛内閣発足。
高貴な家柄と、知識人という面から国民に人気がありました。
また、政党政治家と違い、政党争いや汚職とは無縁なイメージがありました。

政党の基盤がなく、軍の台頭に対峙しなければならない難しい局面の近衛を、昭和研究会が支えました。

昭和研究会は・・・
知的には支えられたが、政治的に支えているとは言えない。。。

近衛は問題が生じた時に逃げてしまう!!

しかし、内閣発足1か月後に。。。
1937年7月、盧溝橋事件が起こります。

これをきっかけに、中国を攻めようとするのです。マスコミもこれを支持します。


「やめろ」と言えなかった理由は、暗殺されるかも!!??っていう弱さです。

インテリの悪いところは、屁理屈をこねること・・・
蒋介石のせいにしてしまいます。
上海に終結した蒋介石率いる国民党軍が、日本軍を南部に引きずり出そうとします。


ここに、激戦が始まるのです。


しかし、近衛は、あえて軍を止めようとはしませんでした。
石原莞爾は、何とかまとめようとして、近衛・蒋介石のトップ会談を計画します。

しかし、近衛は、失敗を恐れて動きません。頓挫してしまったトップ会談。。。

石原は激怒します。
「この期に及んで優柔不断では、日本を滅ぼすのは近衛だ」

日本軍は、上海を制圧、南京へと進軍します。
1937年12月13日南京陥落。
南京に入城する日本人・・・
しかし、蒋介石は重慶に逃げてしまっていました。

日本人は誰が市民で誰が兵隊か分からない・・・
怖いものだから、虐殺してしまった・・・?
中国側は、20万、30万殺したと言っているが、10万以上はいないと思われます。
が、虐殺はあっただろうということです。

南京で勝ってしまった・・・。
日本は、いい気になって、「賠償金」や「謝罪」を蒋介石に要求してしまいました。

攻めている最中に、首相を辞めてしまいます。

日本が、中国で果てしない消耗戦をしている時・・・

ヨーロッパではナチスが台頭、ドイツ第3帝国を名乗り、米英と対立します。
日本もその波に呑まれていくことになります。。。

1939年ドイツがポーランドに侵攻したことによって第二次世界大戦勃発。
イギリスとフランスも宣戦布告します。

デンマーク・オランダと快進撃を続けるドイツによって、パリは陥落、唯一残ったロンドンも空襲にあって・・・

ヨーロッパにドイツの敵はいなくなってしまいました。


「ドイツに習え!!」

ここで、国民に人気の高い近衛文麿の再登場です。

ヒトラーに習え、と、国家社会主義を唱え、政党の解体に乗り出します。

1940年、神武天皇から2600年ということで、大々的に紀元2600年の式典が行われます。
その中心には近衛文麿がいました。

同年、外相・松岡洋右の手によって日独伊三国同盟が成立。
それは、米英と戦うことを意味していました。

松岡洋右・・・
最初は日独伊ソの四か国同盟にしたかったようです。
しかし、ドイツはソ連と戦争をしてしまったので、三か国になったのです。

悪化する日米関係を何とかするためにその職に就いた松岡、しかし、軍部のとおり枢軸国側に接近し、三国同盟成立させてしまいます。

そうなると、ドイツと対立するフランス・イギリス・イギリスを支えているアメリカと敵対することとなってしまいました。

近衛は本心では三国同盟に反対でしたが、あえて積極的に食い止めようとはしませんでした。
肝心なところで、軍や松岡洋右に引っ張られてしまったのです。


1941年10月大政翼賛会を作ります。

なぜ・・・
政党政治は政党争いばかりしていること。
財界から金をもらって腐りきっていっる!!
と、一国一党になることを図ったのです。
左翼も右翼も取り込んで、一致団結して戦おうということなのです。

そうなると、党利党略が無くなるので、何もかも早く決まります。


戦争に参加したかったアメリカは、日本と戦うことによって参加する機会を伺っていました。

日中戦争がおこり、石油を求めて南方に進出しようとする日本に対して、ABCD(アメリカ・イギリス・中国・オランダ)包囲網が出来ます。

運命の「御前会議」が始まります。

天皇も、近衛文麿も戦争反対。
推し進めたのは、陸軍大臣・東條英機でした。



東條英機は・・・
明治17年東京に生まれます。

56才の時に、第二次近衛内閣の陸軍大臣となります。

昭和天皇は、明治天皇が日露戦争が始まる時に詠んだ歌を詠みます。。。
「四方の海  
  みなはらまらと 思ふ世に
    など波風の たちさわぐらむ」

もちろん戦争反対の・・・。

昭和天皇は若いころ、イギリスに留学していました。

「君臨すれども 統治せず」

を、実践しようとしていたのです。

天皇は、近衛に「駄目」と、言ってほしかったのです。

しかし東條は、日清・日露の勝利の「運」にかけてしまいます。

その後、戦争回避をする決意をした近衛文麿は・・・
荻窪の自宅に陸海軍大臣を集めて話し合います。

話し合ったのは、ハル四原則

@各国の領土保全
A他国への内政不干渉
B通商上の平等の法則
C太平洋の現状を変革しない

@・・・東條はあくまで撤退を拒否。
海軍大臣は、開戦に消極的だったので、根回しをしていた近衛・・・
しかし、海軍は戦争に反対にもかかわらず・・・
及川海相は「総理に一任・・・」と逃げるのです。

東條は、「納得できる確信があるなら戦争準備はやめる」と言います。
納得できる確信はありません。。。
東條「駐兵は、陸軍の生命であって、譲れない。御前会議の時はどう考えていたのか?」

近衛「戦争に私は自信がない。自信のある人でおやりなさい」

東條「今になって不謹慎ではないか」

そして・・・首相を辞めてしまいました・・・。


もう一人の主役・東條にバトンタッチされてしまいました。
東條内閣発足。陸軍大臣も兼任という、はじめての首相でした。

これで、戦争に突き進む?

あえて東條を内閣総理大臣にしました。。。
天皇は、東條の考えを変えさせて、軍を抑えようとします。
もともと天皇の軍隊・・・おまけに東條は天皇崇拝論者。。。
東條は、天皇に言われたら断れません。。。

そして、項目再検討会議が行われました。

思惑は進んだように思われましたが、東條は買えられても、その下の軍部は変えることが出来ません・・・。

「裏切り」とまで言われてしまう東條。。。

しかし、東條が変わっただけでは、日本は変わらない・・・。

マスコミも世論も、開戦を望んでいました。
東條が本当はどう思っていたのか。。。それは謎なのです。。。


航空兵力・海軍力・陸軍力、負けると解っていた戦争。。。
おまけに石油の輸入を80%、アメリカに頼っていました。

会議で・・・東條は海軍は反対すると思っていました。
が・・・海軍は賛成。。。それは、予算折衝があったからだとか・・・。


東條が寝室で一人号泣した翌日・・・
1941年12月8日・・・真珠湾攻撃。太平洋戦争勃発。。。
日本が破滅に向かって突き進んだ瞬間でした。

東條は戦争を回避することが出来ませんでした。

日本は南方へ進撃、連戦連勝をおさめます。
しかし、7か月後のミッドウェーで敗北。虎の子の空母4隻を失って、躓きました。
圧倒的な物量のアメリカの前に、南方では玉砕。日本はじりじりと後退していきます。

サイパン玉砕。
B29による本土空襲。
本土の大都市が空襲にさらされます。

悲壮な総力戦に・・・
女性は軍需工場で働き、学生は学徒出陣で兵隊に・・・。
本土決戦が現実味を帯びてきました。

特攻作戦・・・必ず死ぬのに成功率の低い作戦・・・
広島・長崎に原爆投下。

天皇陛下は、終戦を発表します。8月15日、玉音放送です。

日本はポツダム宣言を受諾、無条件降伏をしました。


マッカーサーがやってきました。
戦争を起こした責任を・・・戦犯として捕まえました。
絞首刑・・・東條英機・広田弘毅・松井石根・土肥原賢二・板垣征四郎・木村兵太郎・武藤章
終身禁固・・・16名。

極東軍事裁判は、戦犯を裁くために後から法律を作ったので、フェアとは言えませんが、この「負けると解っていた戦争を始めた責任」はあるはずです。

本当ならば、日本国が総括して、あの戦争とは何だったのか?
誰に責任があるのか?
総括していません。。。

終戦後、近衛文麿はマッカーサーと会い、新憲法作りの約束をします。
アメリカと日本の開戦回避に尽力したこそあれ、戦犯として裁かれるとは思っていません。

しかし、マッカーサーは、この新憲法作成に参加させることなく逮捕します。

近衛は逮捕の前日、青酸カリを飲んで自殺しました。


マッカーサーに裏切られた・・・
「悲劇の人」と、思っていたようです。


一方東條は・・・
逮捕の前日、
東京裁判に出廷する前に、陸軍大臣に呼ばれ・・・
「天皇の身代わりになれ」と言われます。

「わかった・・・。しかし、自分のプライドが傷つけられたら分からない。。。」

逮捕の瞬間、自決を試みるも失敗!
公と私の狭間で苦しんだ東條・・・。
瞬間的に天皇を守ることを捨ててしまったのですが、裁判では一貫して天皇の戦争責任回避の為に発言しました。

天皇を守ったのです。

東條は12月23日、他のA級戦犯と共に、天皇を守って、絞首刑になるのです。

この日は、皇太子の誕生日です。。。
日本人に、この日を忘れないように。。。
アメリカの上手い戦術でした。



本当に、関東軍が悪かったのはそうですが、誰が悪くて、誰が悪くなかったのか・・・
本当に難しいですね。。。

私の祖父は陸軍のそれこそ職業軍人でした。
海軍と比べて、悪いとか、了見狭いとか言われますが、軍服を着て背筋の通ったおじいちゃんの写真は、カッコよかったのを覚えています。


私は日向ぼっこをしているおじいちゃんしか知りませんが。。。
島が変形するほど爆撃され、屈辱に耐え、捕虜になりながらも、生存率4%とも言われる島から帰って来てくれたことに感謝しています。黒ハート



誰もが書かなかった日本の戦争 [単行本] / 田原総一朗 (著); ポプラ社 (刊)
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2012年05月23日

中岡慎太郎〜幕末を歩き続けた黒子〜

幕末の動乱に、明治維新の礎となる薩長同盟を成立させた龍馬。

龍馬は国民的ヒーローとして名を残しましたが、中岡慎太郎はナンバー2として活動しながらも、ひっそりと隠れていました。

しかし、中岡慎太郎がいなければ、薩長同盟は締結しませんでした。

幕末 維新の暗号 [単行本] / 加治 将一 (著); 祥伝社 (刊)
幕末 維新の暗号 [単行本] / 加治 将一 (著); 祥伝社 (刊)


土佐の田舎で農民のように暮らしてきた男が、武士や公家たちと渡り歩くことになります。

討幕を考えている人はいたものの、当時はまだまだ幕府の力も強く、協力しないと討幕は無理でした。
おまけに、公家も一枚岩ではなく、2,3に分かれていたのです。

犬猿の仲だった薩摩と長州と・・・岩倉と三条を・・・中岡慎太郎が走り回ってまとめ上げました。

中岡慎太郎の原点は、高知県安芸郡北川村、26歳までここで過ごしました。
北上郷14カ村を抱えた大庄屋・中岡小傳次の長男として1838年に誕生。
58才で長男が生まれたということもあり、熱心に教育されました。
7歳になると、徒歩で往復3時間の山道を、塾に通わせました。

14歳で慎太郎は田野学館へ。。。
そこに先生としていたのが、武市半平太でした。
公武合体を支持する山内容堂に対して、下級武士・郷士は勤皇思想・尊王攘夷に目覚めていました。


これからというときに、父が病に倒れます。
20歳で妻をめとり、庄屋見習いのように村長となります。

村では地震や災害、飢饉を体験します。
民衆が安心して生活できる世の中に!!

時代は・・・
長州⇒尊王攘夷
薩摩⇒公武合体
土佐の武市半平太は、尊王攘夷を目的として「土佐勤皇党」を結成します。
賛同した192名、そのほとんどが、郷士や下級武士でした。

公武合体派の吉田東洋は、勤皇党によって暗殺。
土佐藩は尊王攘夷となります。
1862年、土佐勤皇党は、江戸に出発。それに洩れた慎太郎は50人組を結成し、自費で参加します。

江戸では、多くの若き志士に出会います。そして、佐久間象山とも・・・。
次の年には土佐藩の徒目付となり、警護や探索の任務に就きました。それは、山内容堂による大抜擢でした。

そんな時、1863年8月18日の政変により、「七卿落ち」がありました。

当時、龍馬は脱藩していました。
七卿落ちの知らせを聞いた慎太郎は、日本を立て直すために立ち上がります。
向かったのは、長州・巳田尻。ここは、尊王攘夷のアジトのようなものでした。

そこには、三条実美が都落ちをしてきていました。そして、土佐勤皇党の人間も、三条を守ってついてきています。

復権のチャンスを狙っている三条実美。
この三条実美と容堂の仲を取り持ったのが、慎太郎です。

三条実美の母は土佐藩主山内豊策の三女・紀子。
つまり、三条家と土佐藩には繋がりがあったのです。
勤皇党のバックには三条実美がいたということです。

三条に会うことで、慎太郎の視野が格段に広がります。
上級武士のシンボルは幕府。下級武士のシンボルは朝廷になっていきます。

朝廷とのつながりの出来た慎太郎。。。しかし、危機が迫っていました。

土佐藩では大混乱が起こっていました。
山内容堂による弾圧です。吉田東洋の暗殺を理由に武市半平太らを投獄。

危険を感じた慎太郎は、26歳で脱藩の決意をします。
巳田尻に戻り、偽名を使って、三条のNo,2としての生活が始まります。
石川清之助、大山彦太郎、横山勘蔵、寺下貫夫。

とにかく説得の上手だった慎太郎。各藩の有志達に三条の意向を訴え、返事を持ち帰ります。
京都・九州、飛び回る生活が続きます。しかし、それはいつも危険と隣り合わせの生活でした。

1864年6月5日池田屋事件で尊王攘夷派が多数死にました。

その中には、たくさんの長州藩の志士が。。。
憤慨し、戦いを決意する長州藩。

1864年7月禁門の変。
2000の長州に対し、会津・薩摩・幕府軍はその10倍。
御所に向かって発砲したために、朝敵となってしまった長州。
敗れた長州を追うように、長州征討令が出されました。
長州は、3家老の切腹と、4人の参謀の斬首を持って降伏します。

四面楚歌の長州に、更なる処分が。。。
三条ら五卿を長州の外に移動させることが言い渡されます。
しかし、三条らを失うということは、尊王攘夷のための大義名分を失うということでした。

この危機を乗り越えるために、慎太郎は、長州征伐の参謀・西郷隆盛に目をつけました。

何故西郷に目を付けたのか・・・
それは、禁門の変の時・・・。
西郷が言っていたのです。

「薩摩は 長州の敵ではなか
 禁門の変では長州が御門を攻撃したので
 お守りしただけのこと。」

と。
交渉の結果、
三条らを安全に太宰府に脱出させることと引き換えに、幕府軍を撤退してもらいます。
この対面で、西郷の本心を垣間見ることになりました。
すでに西郷は、勝海舟の主張する列藩同盟に興味を持っていました。

「西郷は、長州をやみくもに叩こうとしているのではない。」

薩摩と長州が手を組めば、幕府に対抗できる勢力になる!!
しかし、その道は甘くはありませんでした。

ここまで慎太郎は。。。
土佐勤皇党⇒山内容堂⇒三条実美⇒西郷隆盛

と、No,1を切り替えてきています。しかし、変節しても、みんなから信用されていました。
それは・・・

@私心がない
A金儲け・名誉欲がない
目の前の人に、忠実に仕える筋の通った男だったからです。


そんな慎太郎が、薩長同盟締結に向けて奔走します。

1865年下関。
薩摩の西郷と、長州の桂小五郎を引き合わせようとします。
が、失敗。半年近くの工作がパーになりました。

そこで、龍馬が亀山社中を使って、長州の為に薩摩が武器を購入することを思いつきます。

翌年1月22日、京都・薩摩藩・小松帯刀・坂本龍馬の下、西郷と桂の薩長同盟が成立しました。


しかし、そこには慎太郎の姿はなく。。。次の仕事にかかっていました。

三条実美と岩倉具視を協力させること。。。です。
この対立するふたりの間を書簡を持って奔走します。
この二人は、犬猿の仲。。。

岩倉は、薩摩に協力を仰ぎ、大久保と親しくなっていたことを利用して説得します。

中岡慎太郎の説はこうです。
「攘夷のための開国をしましょう。
 力をつけて、武器を手に入れることによって、外国に手を出させないようにする」

これが、攘夷である!!


しかし、この頃から慎太郎は龍馬と対立する道を歩むことになります。

1867年4月維新の真っただ中、脱藩の罪を解かれ、土佐藩からそれぞれ海援隊、陸援隊を作るように命じられます。
この頃から二人の違いが表面化します。

慎太郎は、武力で幕府を倒し、新政府を作ること。

龍馬は、あくまでも平和的に・・・。
龍馬が求めたのは、国を超えた自由な貿易でした。

慎太郎の書「時勢論」には、新しい国家が生まれるときには、戦いが必要だ・・・的なことが書かれています。

時代は・・・。
岩倉具視が大政奉還の建白書を提出し、討幕の密勅を画策し、武力討幕の準備が整ったとき、コ川慶喜は大政奉還をします。

そんな激動の時代のさなかに、2人の人生は幕を閉じます。

龍馬33歳、慎太郎30歳。
11月15日夜9時ごろに突然刺客が二人を襲います。
それは、王政復古の大号令で明治が始まる1か月前のことでした。

この近江屋事件、犯人は、京都見廻組とも、新選組とも、(加治将一さんは)中岡慎太郎自身とも言われています。


龍馬の理想と慎太郎の現実が、ともに歪を生み、引き裂いたのです。

2人はまるで、明治維新、近代日本の矛盾を象徴するかのように共に倒れました。

加治将一さんの作品では、慎太郎が龍馬を殺したという説になっています。

龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン (祥伝社文庫) [文庫] / 加治 将一 (著); 祥伝社 (刊)
龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン (祥伝社文庫) [文庫] / 加治 将...

それは、慎太郎が死ぬ半年間、岩倉具視・大久保利通ら薩摩藩と、討幕に向けて会談していました。
土佐藩も決起しようとしていたのです。

それは、板垣退助がトップとなって立とうとしましたが、龍馬や後藤象二郎らによって止められたのです。

岩倉と大久保に約束した以上は決起する!!


この近江屋事件に関しては、陸援隊や薩摩藩が暗殺現場に急行していること、「調べない・語らない・長所がない」と、不思議なことがありすぎるのです。

生きていれば、大久保・西郷・桂と共に、明治新政府を担うことになっていたであろう慎太郎。
命を懸けて奔走したその距離1万2000km。
この、中岡慎太郎の根底にあったものは、貧しく低い身分ながらのリアリズムだったのかもしれません。

あやつられた龍馬―明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン [単行本] / 加治 将一 (著); 祥伝社 (刊)
あやつられた龍馬―明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン [単行本] / 加治 将一 (著...

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2012年05月22日

中国”大スキャンダル”の真相。

今回は、なんと、池上彰さん。
そうだったのか!中国|池上彰|ホーム社|送料無料
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池上さんの気になっているニュース、「中国・大物政治家失脚事件」です。

舞台は、2011年11月、重慶で。

イギリス人実業家が、不審な死を遂げました。
容疑者は、中国次世代のリーダーと呼ばれた男の妻でした。

不倫疑惑の果ての殺害・・・
夫には28人の愛人・・・
不正蓄財1000億円・・・

いろいろな噂が出てきました。。。

これは、中国にとっては、共産党の体制がひっくり返るかもしれない大きな事件でした。

スキャンダルの裏には何が隠されているのか?


しかし、これは単なるスキャンダルではなく、
「中国・第3の動乱」だというのです。

では、第1の動乱は・・・「文化大革命」
第2の動乱は、「天安門事件」この歴史的事件と並ぶのだそうです。

重慶事件とは・・・

5年後、10年後の中国と、日本の関係が見えてきます。

重慶市は・・・
・世界一の都市人口・・・3300万人。
・驚異の経済成長率16.4%
・世界最大のノートパソコン基地

今回の主人公は、この前・重慶市共産党委員会書記”薄 熙来”です。

この薄 熙来とは・・・
大連市長の時に、日本企業を中心に、外資系企業を積極的に誘致、経済手腕と行動力で、大連を経済都市に発展させましたが、企業との癒着など、黒い噂が絶えませんでした。

そして、2012年2月、重慶で・・・
側近が、前代未聞の事件を起こします。

その側近とは・・・王立軍。
王は、身の危険を感じてアメリカ領事館に逃げ込みました。
一体何があったのでしょうか?

この王は、イギリス人実業家殺害事件を追っていました。
それに、薄 熙来夫婦が関与している疑いがあったのです。

殺されたヘイウッド氏は、息子の家庭教師でした。
それだけではなく、夫人と不倫?マネーロンダリング係?という疑惑までありました。

捜査の手が薄 熙来夫婦に伸びると、王の部下5人は拘束(うち3人は死亡)されてしまいます。

「このままでは、自分も殺される!!」

助けを求めて、アメリカ大使館へ逃げ込んだのです。
これを機に、夫婦の事件が、世界に知れ渡ることになるのです。

重慶の街を一望できるリゾートホテル・・・
このどこかで、ヘイウッド氏の遺体が発見されました。

遺体発見後、死因は「アルコールの過剰摂取」によるものとしてすぐに火葬されてしまいます。
しかし、ヘイウッド氏には、飲酒の習慣はありませんでした。

3月9日、渦中の薄 熙来氏が記者会見。
自信満々な薄 熙来でしたが、この後すぐに失脚。
王立軍の駆け込み事件は、中国共産党パンドラの箱を開けてしまいました。

しかし、あの事件は。。。
日本のように、すぐに警察が発表するということもないので、良く分かっていないのが現状です。

池上さんによると、この事件の裏には中国共産党内の「権力闘争」があるそうです。

今年は中国にとっては特別な年です。
5年に1度の共産党の党大会があって、トップが一新されます。

「誰がトップに立つのか?」

今年の秋に決着がつくのです。

そこで出てくるのが、中国第3の動乱。
薄 熙来VS胡錦濤・温家宝
という権力闘争です。


薄 熙来が君臨していた街・重慶。

社会主義中国の建国の父・毛沢東。
そこには、貧しくとも平等だった時代がありました。
重慶には、その時代への懐古主義が溢れていました。

それは、薄 熙来の行った「唱紅」キャンペーンです。
中国に拡大している貧富の差への不満を利用しようとしたのです。

中国には月収3万円にも満たない貧困層が、1億2800万人もいます。
彼らに目を付けたのです。

低所得者向けの住宅を安く貸し出して庶民の支持を得ました。
貧しい農民が都市に住めるようにしました。
人々は、薄 熙来に感謝していました。


貧富の格差が広がって、その人たちは、中国全土にいます。
革命的なキャンペーンを、全中国に広めようとしていました。。。
国家主席になりたいという野望を持っていたようです。


中国では、中国共産党が一番権力を持っています。
中国の憲法には、「中華人民共和国は、中国共産党の指導に従う」とあります。
みんな共産党の指示に従うのです。
軍も、国の軍ではなく、共産党の軍なのです。

日常のことは、政治局員25人で決めています。
そのうちの9人の合議制で、ほとんどすべてを決めていると言っていいのです。

彼らは、選挙で決まるわけではなく。。。自分たちで決めるのです。
そして、あの事件が利用されたのではないか?と、言われています。

薄 熙来は、5年前に入るのではないか?と言われるほどの実力者でした。
が・・・入れなかった。
だから、実績を上げようと思って・・・

もう一つのキャンペーン「打黒」。
黒い組織「打黒」、黒社会(暴力団)を摘発し、5000人以上を逮捕。
さらに、特権階級にメスを入れ、汚職容疑などで役人、資産家を逮捕しました。

しかし、薄 熙来失脚後、「打黒」の恐るべき実態が明らかになりました。
逮捕され死刑になったのは90人以上。
そこには拷問による冤罪も多かったとか・・・。
金持ちをマフィアに仕立てて財産を没収するのです。
それが「打黒」の目的でした。その総額3兆円に上ると言います。

中国では資産家から見ると、薄 熙来は文化大革命の悪夢。

薄 熙来の目指した、毛沢東の文化大革命とは?
1966年から11年間続いた革命運動です。

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毛沢東は、こう言いました。
「資本主義に向かうものを追放しよう」

標的となったのは、共産党幹部・知識人。
特権階級は、貧しい農村に送られ強制労働を強いられました。
さらに、拷問をうけたり、処刑されたりすることも多々ありました。
実行部隊は「紅衛兵」と呼ばれる学生たちでした。

10年間の革命で、投獄300万人、処刑50万人と言われています。

紅衛兵たちは、薄 熙来についてどのように思っているのでしょうか?
中国の党内腐敗は、当時よりも今の方が酷い状況になっています。
権力を乱用し、民衆を搾取し続けています。

もし、誰かが先頭に立ち、権力者たちを倒そうと叫べば、それを支持する人は必ず出てくるでしょう。

文化大革命も・・・
国家主席だった毛沢東と、劉少奇との権力闘争が原因でした。
その毛沢東失脚の原因は、大躍進政策の失敗にあります。
国家主席を退いた毛沢東・・・。
次々と政策を打ち出す劉少奇を、快しと思わなかった毛沢東が仕掛けた権力闘争だったのです。

ひとりの妬みによって、国民が振り回されたのです。


23年前のあの事件。。。
第2の動乱、天安門事件。
1989年民主化を求める学生たちの運動です。

彼らに対し、ケ小平がとったのは・・・
武力による弾圧でした。
北京は血に染まりました。

世界中から批判を浴びたこの事件、これも、中国共産党内の権力闘争が原因でした。

ケ小平は、天安門事件当時の最高実力者。「改革開放」政策を進めていたはずなのに・・・。
この、「改革開放」をどこまで進めるか?という対立だったのです。

ケ小平VS胡耀邦・趙紫陽(民主化を進めた)です。


この胡耀邦によって引き上げられたが「胡錦濤」
趙紫陽の秘書が「温家宝」です。

そして、ケ小平の後ろには政治の民主化を嫌う人たちがいました。
その中には・・・薄 一波・・・薄 熙来の父親がいました。

共産党の現在の執行部と薄 熙来は対立のタネを持っていたのです。

脈々と受け継がれる権力闘争・・・
現代の権力闘争は?

胡錦濤国家主席の「胡派」と、前国家主席・江沢民の「江派」に分かれています。
胡派は共青団と言われ実力派、江派は、「上海閥」「太子党」と言われ世襲派、この薄 熙来も江派なのです。

この9人のは年齢制限があり、今回は9人中7人が引退します。
残るのは、江派の「習近平」と胡派の「李克強」です。

今回、入るはずだったかもの薄 熙来・・・。
どうなるのでしょうか?


江沢民は、反日教育を進めていました。
でも、江派の力が少なくなれば・・・
反日から・・・親日でもない、実利的な関係に進んでいくのではないでしょうか?

ということでした。

これは、日本にとっては、良いこと?
きっと、中国は権力闘争で手一杯です。

日本の対中国のしたたか外交に期待します。黒ハート

ということでした。

本当に、したたかな外交が出来るようになるためには、人の良い日本人をやめないといけないのかなあ・・・?

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posted by ちゃーちゃん at 14:10| Comment(2) | 未来世紀ジパング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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