2012年05月31日

豊臣家のNo,2 真田幸村〜家康を震撼させた伝説の武将〜

今回は、豊臣家のNo,2 真田幸村です。

ああ、観終って、なんだかあまりのかっこよさに泣いてしまいました黒ハート
日本人はこういうのが好きですね。

忍術を操る猿飛佐助、霧隠才蔵、鎖鎌で敵を倒す由利鎌之助、三好清海入道・・・
六文銭の旗の下、変幻自在の戦いを見せる真田十勇士。

幾度も小説、画像化され、21世紀になった今もアニメやゲームで若者を魅了しています。
しかし、真田十勇士は実は架空の存在・・・
江戸・明治にかけて、講談から生まれた庶民のヒーローでした。
どうしてこのような荒唐無稽な物語が生まれたのでしょう。

そこには信長・秀吉・家康に負けず劣らず人気のあった稀代の武将がありました。

それは、真田幸村。

信州の小豪族に生まれながら、「日本一(ひのもといち)の兵」と讃えらた”真田戦法”。
生涯の敵となる家康。
家康を震撼させ、後に真田十勇士を生むこととなる真田マジックとは???


六文銭は、三途の川の渡し賃です。
死を怖れずに戦うという決死の覚悟が表されています。

仏教の前提となる考え方・六道・・・
「天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄」
人間は、この6つの道を輪廻転生する・・・という考え方です。
この三途の渡し賃が六文銭なのです。
そして、六文銭の旗印・・・
死ぬ時に、あの旗があればお金は要らないのです。

真田十勇士が架空どころか、学者さんは、真田幸村とは呼びません。
真田信繁というのが本名です。
この幸村は、講談が盛んとなる江戸から真田幸村と呼ばれるようになりました。

そして、真田十勇士はいませんでしたが、優秀な忍者はいたのは間違いありません。
しかし、スパイは名が残らないのです・・・。
真田軍が強かったのは、間違いありません。。。


戦国時代も佳境に入ってきていた1570年、信州上田の真田家に弁丸・・・のちの幸村がが生まれました。

父・昌幸は信玄に仕え、武田24将として甲斐から京を目指す信玄を支えていました。
しかし、武田が滅ぼされた後は、周りの大国、織田・徳川・北条・上杉に左右され生きていくことを余儀なくされます。

1585年当時、真田家は徳川に仕えていました。
そんな中、事件が勃発します。

家康が北条と厚く手を組むために、勝手に真田の領地を譲り渡す約束をしたのです。
真田は、上杉に後ろ盾になってもらおうと人質を出します。。。
それが幸村でした。

それを知った家康は、上田に兵を向けます。
上杉と同盟を結んだ昌幸に怒りを爆発させたのです。

上田の城に押し寄せた徳川軍7000、対する真田軍2000。
ここで、真田父子は戦国史に残る作戦を実行します。

「神川の合戦」(第一次上田合戦)
家康軍を城の近くにある神川に引き入れて、逃げるように一時退却・・・そうして町におびき寄せました。
城近くまで攻めさせて、城下にいた兵に、横やりでひっつかせます。
おまけに町の人を城内に入れ、城下町に火をかけました。

狼狽した徳川軍は、退却を始めると。。。「千鳥掛け」という障害をおいて逃げにくくします。
そこに長男・信幸軍が横から突っ込みました。
これにより、徳川軍は総崩れ。
この時の死者は、コ川が1000に対し真田軍40名。

これが、真田一族の名を全国に知らしめることになる真田戦法です。

これ以後真田家は秀吉に接近し、幸村を秀吉に預けます。
秀吉に目を懸けられた16歳の幸村は、北条征伐に父・兄と共に参戦します。
そこでは初陣とは思われぬ手柄を立てました。

誰が天下を取るかわからない時代、人質を預けることによって成りたっていた関係・・・しかし、人質といっても、近習として教育されることもありました。
幸村は、上杉で武術を、秀吉からは外交や戦術を学びました。
そして、政治の中央にある秀吉学校で学んだ幸村は、大谷吉継の娘を正室としました。

この秀吉学校・・・家康は譜代の家臣がいましたが、秀吉は一から家臣を作らないといけませんでした。
そこで、人質や遠縁の子を優遇して自分の腹心の部下にしようとしました。

天下人・秀吉の下で家臣として腕を振るう幸村・・・。
しかし、1598年秀吉はなくなりました。

そこで満を持して動き出す家康。
それを封じ込めようとする三成。。。

戦国の世がきな臭くなってきました。

その時、幸村は動きませんでした。
秀吉に恩義を感じてはいるものの、小大名の一武将・・・。
弱肉強食の世を見極めようとしました。

1600年、家康は上洛を勧めるも、かたくなに拒む上杉に対して出陣します。
しかし、それは、石田三成と上杉の家臣・直江兼続の策略で、徳川を叩くためのものでした。

その時、幸村は父・兄と共に上杉征伐に向かっていました。
その進軍途中、一通の書状が!!!
三成からの家康討伐の協力要請でした。

ここで、家族会議が始まります。
そして・・・
父と幸村は三成、兄は家康につくことになります。
兄・信幸は、家康の養女・小松姫を正妻としていたのです。

どちらが勝っても真田の血は残る・・・
その日のうちに、父と幸村は上田城に引き上げました。
これが有名な「真田父子犬伏の別れ」です。

幸村は、三成が挙兵すると上田城にこもって家康を牽制します。

そして、秀忠軍と激突します。

秀忠軍3万8000 VS 真田軍3000・・・

上田城で真田戦法が炸裂します。
秀忠からの降伏の使者にのらりくらりと時間稼ぎ。
それを籠城戦の準備に充てました。

「我をたばかったな!!」カッとなった秀忠は進軍、足軽たちは応戦に出てくるもあっさり城に引き上げます。
それを追って押し寄せた秀忠軍に、矢・銃弾を浴びせました。
慌てた秀忠軍に、城の外から攻撃軍が!!それは、幸村率いる小隊でした。

虚を衝かれた秀忠軍。

仕上げは神川・・・。

神川まで逃げてきた秀忠軍に、溜めていた水の堰を切り軍もろとも押し流したのです。

真田の謀略恐るべし!!

秀忠軍を上田に止まらせ、関ヶ原に行けなくしてしまいました。
家康は勝ったものの、またもや苦杯をなめることになりました。

しかし、最近の研究で、どうも秀忠軍が本軍だったらしいと解りました。
その本軍が関ヶ原に行けなかったのです。
秀忠、赤っ恥です。
つまり、この関ヶ原の戦いに、家康軍が負けていたとしたら・・・
秀忠のせいだったのです。

落とさなくてもいい城に、くぎ付けになってしまいました。。。

そして、上田を降伏開場せよと。。。
城を受け取りに行ったのは長男・信幸でした。
本来なら腹を切らされているところ、蟄居となったのは、兄・信幸が、
「私の褒美は要りませんから父と弟の命を!!」と、嘆願したのです。

兄の嘆願があって、和歌山県の高野山下、九度山に蟄居生活の身となります。
しかし、真田父子には過酷な運命がなっています。
真田軍は解体され、身の回りの世話をする人もいなく、寒い山の中で15.6年にわたる貧乏暮し・・・。

窮乏する父子・・・
将軍職は秀忠に。。。
失意のなか、昌幸は死んでしまいました。
義兄への手紙には。。。
「私なども、去年より急に年を取り
 ことのほか 病気になりました。
 歯も抜けました。ひげなども黒いところはありません」

まだ40代・・・九度山での生活はかなりの負担だったようです。

家康は、全国の大名に対し、豊臣討伐の号令をかけます。
豊臣も加勢を要請したましたが、加わる者もいませんでした。
天下はすでに徳川のものになっていました。

そんな中、大野治長が一縷の望みを懸けたのは幸村でした。
大野治長の使者が九度山に・・・

朽ち果てるのを待つ幸村の元に武将として働く最後の機会が与えられたのです。
しかも相手は仇敵・家康。

幸村が全てをかけて戦う大坂の陣が始まろうとしていました。

1614年10月、豊臣征伐に向かう家康に、真田が大坂城籠城の一報が入ります。
幸村が、秀頼についたとおののく家康。。。

11月19日、ついに雌雄を決する冬の陣勃発。

大坂城の秀頼に押し寄せる家康の大軍。
その大軍を押し返す要塞がありました。
”真田丸”です。
固めているのは幸村率いる5千の兵。

敵を挑発しては退き、引き入れては叩く、真田戦法が炸裂します。
内通者がわかると、それも利用して合図ののろしを揚げませました。
そして、弓・鉄砲を浴びせます。

この日の真田との戦いでの死者は、数百人とも千人ともいわれています。
これは冬の陣の総戦死者の4/5に当たります。

大打撃の家康!!
幸村を味方に引き込めないかと考えます。
使者を送り・・・
信州3万石を与えると申し出ます。

しかし、幸村は。。。
「秀頼公に働き場を与えていただいたことは、領地を与えられるよりありがたいこと。
 それを違えてそちらにつくことは出来ません」
と断ります。

「信州一国どころか、国の半分と言われても、この気持ちは変わりません。
 この戦は勝利できる戦ではないから、初めから討ち死に覚悟です。
 せめて一太刀浴びせる所存。
 そう家康公にお伝えくだされ」

幸村の寝返り工作に失敗した家康は、いったん和睦に持ち込みます。

しかし、この和睦、難攻不落な大坂城を落とすための作戦でした。

幸村も、和睦で休戦状態の今・・・
「今夜、敵が油断しているところを狙って攻め込めば、家康・秀忠を討ち取ることが出来ます。」

と、秀頼に進言します。

「首をあげるのは今しかない!!」と。

しかし、これは淀君と春信によって却下されてしまいます。

この時が、唯一真田マジックのチャンスだったのに・・・失ってしまいました。

冬の陣後の和睦の間・・・
淀と江は姉妹・・・。
やはり、戦うことにはためらいがあったのでしょうか。
つまり、よぼよぼの家康の死を願っていたのかもしれません。

豊臣を滅ぼそうとかかる家康!!
戦って家康の息の根を止めたい幸村!!


みるみる堀が埋め立てられ丸裸になってしまいました。
さらに、秀頼の国替えなど無理難題を押し付けられて・・・

大坂夏の陣へ。

幸村の活躍により、徳川軍を近付けさせることはなかったものの、敗戦色が濃く、万策尽きたと腹を決める幸村。

赤備えの甲冑で。。。
「茶臼山には真田が赤備
 つつじの花の咲きたるが如く
 堂々の陣を張る」

茶臼山からすさまじい勢いで本陣へ!!
一路、家康の元へ!!

本陣は、旗本陣に守られていたものの、散り散りに逃げ、残ったのは小栗久次たったひとり。。。
家康軍は、一瞬にして壊滅状態に!!

しかし、幸村の執念もここまで・・・
家康に援軍が来て、あと一歩で取り逃がしてしまいます。

「幸村、恐るべし奴!!」

最後の突破で深手を負った幸村。
茶臼山にたどり着くも、敵兵の太刀をかわす力は残っていませんでした。
46年の生涯でした。

この大坂の冬の陣、真田丸で4/5の痛手を負った家康軍でしたが、
もし、大野治長が幸村の力を買っていれば、真田丸ではなく、全軍を任せていたはずです。
昌幸が生きていれば、全軍を任せたかもしれませんが。。。
幸村が昌幸のNo,2だから、心底評価していなかったのかもしれません。

しかし、結果は
「親ゆずりですごい!!」

完全なNo,2にはなれなかったけれども・・・
最後まで巨大な敵に立ち向かった幸村。日本人の大好きなパターンです。

そんな幸村が、大坂夏の陣の後蘇えります。

島津の者が評しています。
「真田 日本一(ひのもといち)の兵
 古より物語にもこれなき由」

家康はその生涯のうち2回戦場で死の憂き目にあっています。
@武田信玄との三方が原の戦い
A幸村に大坂の陣で・・・

平和になっても幸村の任期は途絶えることなく、徳川の世に苦しむ庶民の心の中でふくらんで・・・
江戸中期にかかれた真田三代記では、戦死せずに鹿児島まで落ち延びたことになっています。

明治の講談本・立川文庫では、縦横無尽に戦う部下たち、真田十勇士が登場します。

家康相手に戦う幸村を助け、神出鬼没・変幻自在に戦う十勇士たち。。。
その姿は、戦場での幸村を投影したものだったのです。


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2012年05月30日

夢と野望のクリエーター@ 「平賀源内 江戸の最先端を突っ走れ」

BS歴史館、平賀源内さんです。
本草学者 平賀源内 (講談社選書メチエ) [単行本(ソフトカバー)] / 土井 康弘 (著); 講談社 (刊)
本草学者 平賀源内 (講談社選書メチエ) [単行本(ソフトカバー)] / 土井 康弘 (著);...
エレキテルと土用のウナギぐらいしか知りません。。。あせあせ(飛び散る汗)

平賀源内、エレキテルを作った発明家、日本で初めて油絵を描いたアーティスト、土用の丑の日という宣伝で、ウナギを食べる習慣を根付かせました。

コピーライターであり、イベントプランナー、物産博覧会主催に、ベストセラー作家・・・まさに、マルチクリエーターでした。

エネルギッシュな国際都市江戸。。。そんな江戸の中でも一番豊饒な時代。
平賀源内は、そんな時代の江戸のダビンチでした。

1603年に江戸幕府は成立しました。が・・・政治の中心であるとはいえ、文化の中心はまだまだ京都でした。
日本古来の雅な文化。。。100年後の元禄文化でさえも、上方の大坂の裕福な商人たちの豪華な文化でした。


江戸で文化が発達するのはその50年後、18世紀後半の自由経済推奨時代。
経済的中央集権を勧めた田沼の時代でした。

この田沼の時代、幕府の大きな転換点となります。
それまでの吉宗の時代、新田開発に造成、倹約令・・・米中心の経済です。
その後に登場した田沼は、商品経済・貿易・産業振興策を求めていました。
規制緩和が進み、時代が大きく変わります。
そうして、田沼の時代、江戸の人口は100万人を超え、世界最大の都市へと変貌していきます。

そして・・・源内は、規制の隙間を突き破っていきます。

本来鰻の旬は脂ののる冬・・・夏にはなかなか売れませんでした。
そんな鰻にコピーをつけます。
このことによって、鰻屋は大繁盛することとなるのです。

「飛花落葉」に書かれている源内のコピー。。。

”清水餅”
『そも我が朝のならわしにて、めでたき事に、餅鏡
 子もち、金もち、屋敷もち、・・・・
 家持(やかもち)歌に名高く、惟茂(これもち)武勇かくれなし・・
 器物もさっぱり清水餅、味はもちろん良い良いと・・・
 ワタシ身代もちなおし、よろしき気持ち心もち、
 婦(かか)もやきもち打ち忘れ、尻もちついてうれしがる・・・』

”麦飯の引札”
”菅原ぐし”という櫛を考案し、花魁につけてもらって大ヒットを飛ばします。

江戸前・江戸っ子堅気が出てくるこの時代・・・
「宵越しの銭は持たない」とか、きっぷがよくって粋な時代となってきました。
源内は、その先端を行っていました。

江戸をえ江戸たらしめたのは源内かも知れません。

18世紀後半、源内を先駆けに、トレンドの発信都市・江戸の原型ができたと言えるでしょう。
評判づくりや話題作りの手法に長けていて、広告コピーライター第1号と言えるでしょう。

本人も言っています。

「針を棒のように言いなすことが肝心である」と。

確信犯でした。

そこには江戸の人たちのセンスも感じられます。
江戸自体の庶民文化もレベルアップ。
広告の華が開いた田沼時代は、江戸はもう消費社会でした。
富裕層もたくさんあって、米の年貢だけでは限界がありました。

そんな中、田沼は重商主義を推し進めます。
商業や貿易などを通じて、国家財政を支える経済政策をしようとしました。


米中心の経済から商品中心の経済へ・・・
株仲間を作り、上納金を納めさせ、商人から税をとる。

それに加えて、それまでの鎖国政策からの転換を図ろうとしました。

田沼時代は賄賂の時代と言われていますが、当時は賄賂は当たり前のもので、金がものを言う時代になっていました。
そんな時代だからこそ、源内が存在した。源内は、田沼時代の申し子でした。
文化というのは、人がヒマだということ。源内はトップバッターであり、4番バッターでした。

18世紀後半の江戸、世界の最先端情報が集まる町となっていました。
それを背景に、商品プランナー源内が浮かび上がります。

源内焼には、アルファベットやアメリカ大陸が書かれています。ブランド品の海賊版を作ったり、油絵にはオランダ人が持ち込んだ「プルシアンブルー」が使われました。
このプルシアンブルーは、後に江戸文化を代表する浮世絵師・葛飾北斎の版画にも登場することになります。

「鎖国」の時代、長崎の出島を通じてわずかに中国・オランダから外国の情報が入ってきていました。

遠く離れた江戸で、どうやって情報を手に入れていたのでしょうか?

それは、神田白壁町にある源内の家のすぐ近く、「長崎屋」からでした。

都市は、成長するとき、先鋭的な知識分子を集めます。
源内の長屋がサロンとなります。
そこには、解体新書を訳した杉田玄白・江戸を代表する浮世絵師であり東錦絵の創始者・鈴木春信がいました。春信に多色刷りのヒントを与えたのは源内です。これが、歌麿や写楽に発展していきます。

「生まれながらにして理にさとく、俊才にして時流にかなった人物である」と、杉田玄白は評価しています。

西洋の学問、珍しい道具を自分たちのものにしたい!!

田沼の時代は、蘭学を学ぶことに対して緩やかでした。取り入れて国産化しよう!!

玄白は小浜藩の藩医、源内は高松藩出身の浪士、春信は父の代まで旗本でした。
江戸の最先端は、武士だったのです。戦いがなくなりヒマになった武士たちが、芸術を生み出していきます。
文芸・化学・医学・・・江戸のルネサンス期だったのです。

香川県志度町という宿場町に高松藩の御蔵番の子として生まれます。
身分は低いものの、米蔵の番を任され裕福でした。

子供の頃から人を驚かせるのが大好きな好奇心旺盛な少年で、のめりこんだのは本草学と呼ばれる博物学でした。

1749年家督を継ぎ、高松藩に仕えます。
博物学に詳しかったので、藩主・松平頼恭に重用されます。
この松平頼恭、オランダかぶれで蘭癖大名と言われていました。

藩の薬草公園(栗林公園)の管理を任され、図鑑にまとめます。

当時の日本は、大博物館ブーム。
食品・薬品・鉱山開発。
大名たちもブームにのめり込みます。

が・・・これは世界的ブーム。
1753年大英博物館設立
S772年フランスでは百科全書編纂

スェーデンのリンネ、フランスのルソー、それを感じられるのは、唯一長崎でした。

1752年長崎に遊学、1年後故郷へ・・・しかし、高松藩は源内にとって狭苦しい場所になっていました。

1754年高松藩の役を辞職。
これは前代未聞のことで、家督も義弟に譲ります。

そして、江戸に飛び出しました。

「湯上りや 世界の夏の 先走り」

殖産興業や産業革命を起こしたい!!という気持ちと、

「井の中の 離れかねたる かわずかな」

と故郷を離れる不安・・・。

全てを捨てて江戸へ向かった29歳のことでした。


当時は博物館ブームで、島津藩主の高輪の藩邸には、動植物園・・・イグアナまでいたそうです。
この日本の博物館ブームが外国にも紹介されています。
書いたのはツュンベリー、この本を読んで、シーボルトが日本に来ることになります。

江戸についた源内は

1756年人参博士の田村元雄に入門。
1757年湯島聖堂で儒学を学びます。

そして、芒硝という鉱物を発見。
これは、漢方薬の原料で、中国から輸入されているものでした。
この働きが田沼の目に止まり、公式に採取する任務に就きます。
田沼が貿易赤字を解消させるための手段でした。

田沼に認められた!!源内の中に、学問を国の為に生かしたいという野心が生まれます。

1762年東都薬品会を開催します。
全国の珍しい薬品や物産を集めたもので、日本の博覧会の先駆けといえます。
この時の展示物は全国からなんと・・・1300種類。


目的は
「中古以来、我が国人は、その薬料を、
 わが身で吟味し、活用することを知らず
 専ら中国などからのものを当てにし
 国産品は舶来品とのあてずっぽうな推量で使うにすぎなかった
 我が大日本は、山川は秀麗 動植鉱物の薬料となるべき点の産物に恵まれている
 それを開発することは、国の益でもある。」

博物学と国益を結びつけたものでした。


しかし・・・
自分の好きな学問を深く究めたい
自由の身でありたい
国の為に大きな仕事がしたい

この3つの欲望が悩みとなって葛藤し、源内を追い込んでいきます。

1766年鉱山開発に着手。
その背景は、幕府の財政悪化にありました。
金銀銅が、貿易で海外に流出していました。鉱山は枯渇の危機に瀕してたのです。

これに先立ち田沼は、
1763年銅山振興令を発布していました。
各地で地質調査、開発が行われていました。
しかし、いっこうに鉱脈は見つかりません。

キャッチコピーで得たお金も、開発に回しました。

しかし、
1774年鉱山開発を断念。
その時源内に残ったのは、2億円の借金でした。
源内は山師と悪口を叩かれます。

高松藩としては、帰ってきてほしかったようですが、これを拒みました。

「放屁論」には・・・
「浪人の気楽さは、財産というものがない代わり、
 ケチな知行の米粒が 足の裏に引っ付かず、
 行きたいところを 駆け回り、
 ともかく一生の間 自分の体を自由にできるだけでも もうけというものだ。
 こうしてヒマなのを幸いに 少しは国恩に報いたい」
とあります。

凄いと言われたい!!自由でいたい!!と思っていた源内が、国益を考えてしまった不幸がここにありました。

どんな制約にも縛られたくない源内。
それと国家の利益とは相いれないものでした。

当時は砂糖も白いのは輸入品・薬品も輸入品。
国産にしたかったのです。
もしかすると、緩やかに開国しかねない時代でした。


1776年起死回生で取り組んだのが、「エレキテル」の政策です。
壊れたこの箱の復元に試みます。
これは当時、医療用だったそうですが、どうやって医療に使うのか分からなかった源内、結局「エレキテル」は見世物となってしまいました。

しかし、このエレキテルを弟子・弥七が模造し、勝手に見世物としてしまいます。

1778年エレキテル偽造を幕府に訴えます。
捕まった弥七は不運にも獄中死・・・

源内のせいだと噂が広まって・・・山師と罵られます。

「私が財産を使いつくし、考え出したものは
 エレキテルだけではないのです。
 しかし、世間のためを思い、せっかく骨を折っても
 人は私を山師だとそしる
 今日からはエレキテルを ヘレキテルと名前を変え
 へっぴり芸の仲間入りをして
 ひりかたを学ぼうと思うのです。」

精神を病むようになっていた源内は、、、
ついに事件を起こします。

1779年 書類が紛失します。
友人がとったと思い違いをし、斬ってしまったのです。
投獄された源内は、人を殺したことを恥じて絶食して自殺したとも、破傷風とも言われています。

享年52歳。悲劇の最期でした。

東京下町にある墓・・・その墓の隣には、友人であった玄白の言葉が遺されています。

「ああ非常の人、
 非常のことを好み、
 行いこれ非常、
 なんぞ 非常の死なる」

安定のない不安定な精神・・・それは近代の精神です。
自由であることの危険、しかし、自由を手に入れることの出来る自由。。。

このあと・・・好きなことを積み重ねて、江戸文化の大輪の花が開きました。
その土壌を耕したのは、間違いなく平賀源内でした。

翔んでる!平賀源内 [DVD] / 西田敏行, 薬丸裕英, 大沢逸美, 高橋元太郎, 小松政夫 (出演); 山内鉄也、矢田清巳、金 鐘守 (監督)
翔んでる!平賀源内 [DVD] / 西田敏行, 薬丸裕英, 大沢逸美, 高橋元太郎, 小松政夫...
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2012年05月29日

幕末 知られざる決断 尾張藩主・徳川慶勝

「幕末 知られざる決断 尾張藩主・徳川慶勝」です。

写真家大名・徳川慶勝の幕末維新 尾張藩主の知られざる決断
写真家大名・徳川慶勝の幕末維新 尾張藩主の知られざる決断


今一つ知名度に欠ける徳川慶勝さんですが、意外や意外、良く知っていますよ。揺れるハート

時代は幕末、勤皇か佐幕か?!
揺れ動いた時代、徳川慶勝は、コ川御三家筆頭でありながら、討幕派に力を貸すこととなります。

何故慶勝は討幕を決意したのか?

弟は会津藩主・松平容保。容保は、幕府の為に最後まで戦いました。
弟と袂を分かって・・・二人の間には、どんな考え方の違いがあったのでしょうか?


幕末を語る手紙が発見されました。
それは、家康生誕の地岡崎を中心として、コ川の息のかかった人たちに、明治新政府につくように誓わせた誓約書です。

その数、なんと749通。
これを成したのは、尾張藩第14代藩主徳川慶勝です。

慶勝は、御三家筆頭の立場にありながら、幕府の息の根を止めた人物です。
幕末の日本、諸外国が虎視眈々と狙っていました。
日本が一つにならなければ、餌食になってしまう!!
内戦を避けるための、慶勝の戦いが始まります。


しかし、その道のりは、苦難に満ちたものでした。
幕府と対立し、藩主の座を追われることもありました。

明治新政府に頑強に抵抗した会津藩主・松平容保は実の弟でした。
会津藩
会津藩
慶勝には、写真家というもう一つの顔がありました。
幕末に貴重な作品1000点以上も残しています。

明治という新たな時代を導き出して、消えていった徳川慶勝、その知られざる素顔とは?


幕末における徳川慶勝に役割とは何だったのでしょう?
激動の時代に活躍した志士たち、その要には徳川慶勝がいました。

慶勝が藩主についたのは、幕末、鎖国を続けていた日本は、激動の時代を迎えます。
外国からの蒸気船がやってきていました。

中国は、イギリスとのアヘン戦争によって多額の賠償金と領地の割譲を行っていました。
西欧列強の脅威は間近に迫っていました。

そんな中、日本の将来を憂う人物が尾張藩主となりました。
1849年、高須松平家からやってきた徳川徳川慶恕・・・第14代尾張藩主・慶勝の誕生です。

御三家筆頭として、西欧列強に蹂躙されない強い国を造らなければ!!

そんな慶勝の下に・・・薩摩藩主島津斉彬からの書状が・・・
アメリカ海軍が江戸に向かおうとしている。
日本に通商を求めている・・・。
という内容でした。

かたくなに鎖国を続けようとしている日本に軍艦がやってくる・・・。

その為に、藩の改革を始めました。
財政の立て直し。。。お手元金は、1万9000両から20両に減らしました。
身を持って体験し、藩をあげての節約です。

防衛力に惜しみなくお金を使います。
知多半島に最新鋭の内海砲台を作り始めます。

さらに軍隊の統率に力を入れます。
天下太平の世で鈍ってしまった武士に喝を入れます。
軍事演習をチェック・強化に努めます。
さらに、リストラまでしています。
きめ細かくて厳しい上司だったようです。

そこには日本を導く強い責任感がありました。

「征夷」大将軍は、「征夷」(外国人)を打払わなければならない!!
外国人に侮られない国を造らなければ!!

1853年、情報通り”黒船来航”。

開国と貿易を迫ってきました。
江戸幕府は大混乱、慶勝は幕府に強く意見します。

「開国は時期尚早。信義をただし、程よくお断りするべきである。」

しかし、幕府は開国をしました。下田と函館の港を開き、燃料と水の補給場所としたのです。

そして・・・
大老・井伊直弼によって、通商条約が結ばれてしまいました。
朝廷に諮ることなく・・・。

開国を足掛かりに、貿易を強要するアメリカ・・・。
井伊に直談判するために、慶勝は江戸城へと向かいます。
しかし、井伊は姿を現しませんでした。。。
慶勝は隠居・謹慎の身となってしまいました。

安政の大獄が始まってしまいました。。。
この時35歳でした。


謹慎中に詠んだ和歌・・・

「浮き雲の 浮き世のなかに ときはにて
            昔かはらぬ 庭のまつが枝」

先見性にかけては幕末のNo,1、No,2とも言われながら、謹慎という身を憂いだ句です。

若くして隠居させられてしまった慶勝は、写真に傾倒していきます。
写真は、当時西欧からもたらされた最先端のテクノロジーでした。

写真や手紙、公文書などがたくさん残されている慶勝。
慶勝が最初に撮った写真は「自分自身」でした。

西欧列強の科学に驚愕し、攘夷攘夷と言っていることが焦燥感のようになっていたことでしょう。
道楽としての写真という以外に、写真という技術を通じて、日本の行く末を思っていたかもしれません。

蟄居から2年・・・。
桜田門外の変が勃発、井伊直弼が暗殺されました。
これを機に、幕府の権威が大きく失墜します。

朝廷が力を持ってきました。
尊王攘夷論が台頭してきました。
幕府としては、公武合体を目指していたのですが・・・。

そして、時の天皇孝明天皇から信頼を得た一人に徳川慶勝がいました。
下賜された刀が残っています。
孝明天皇は、朝廷と幕府を取りまとめられる人物としての期待を持っていたのです。

また孝明天皇は、慶勝を将軍補翼に任命します。

そして慶勝は、尾張藩の中でも返り咲くのです。
幼い息子が藩主に就任。その後見人となりました。


このころ、弟たちを撮影しています。
弟たちも優秀で、一橋当主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬。。。

この後、兄弟たちはそれぞれに幕末の役割を果たしていきます。

当時、京都には、損攘夷派の武士が天誅と称して暗殺を繰り返していました。
その治安維持の為に、京都守護職を設置、テロ行為を未然に防ぐのです。
これに任じられたのが、松平容保でした。
1000人の部下と共に、京都の治安維持に努めます。
また、桑名藩主の松平定敬も京都所司代に任ぜられ、治安維持に努めました。

1864年、池田屋事件勃発!!

この事件で長州藩士は怒り、京都に攻め上がります。
禁門の変です。

京都御所付近で戦いが始まります。わずか2000人の長州藩士を2万で撃退。
御所に向けて発砲した長州は朝敵とされ、幕府に長州征討の命が下ります。

幕府にとっては、240年ぶりの軍事行動でした。

国を二分する戦いが始まりました。
その指揮をとる適任者として慶勝が推挙されます。

諸藩の指揮と軍事の儀、幕府の全権委任を受けて重い腰をあげました。

内戦へと突き進む日本に対して・・・
全権委任で15万の軍勢の束ねる総督を引き受けた慶勝。
慶勝は行軍中も写真道具を持ち歩きました。
後世に残そうとしたのです。

知恩院・大坂城・・・長い軍議が続きました。

ゆっくりと進軍する慶勝。。。
まるでやる気がないような慶勝・・・。
しかし西郷を遣い、和平交渉をしていました。

広島に留まること1か月。西郷との交渉で、戦うことなく和平を結びます。
全権委任にこだわり、ゆっくりと進軍した慶勝の狙いはここだったのです。

今は、日本人同士で戦っている場合ではない!!という考えは、幕府には通用しませんでした。
それは、京の治安を守ってきた弟たちにもふがいないものでした。。。

しかし、「西欧に対抗できる国づくりをしなければ!!」

この時から、兄弟たちは道を分かつことになります。

1866年12月、公武合体を支持していた孝明天皇が突然崩御します。
薩摩は長州と薩長同盟を結んでいました。
これを機に、討幕の意見が強まります。

そこで、コ川慶喜は「大政奉還」をすることにしました。

これに対して、朝廷と薩長は「王政復古の大号令」発します。

慶勝は、新政府の要職「議定」に選ばれました。
総裁に続くNo,2のポジションでした。

ようやく有力な藩で西欧に対抗できる!!
と、思ったものの、慶喜は選ばれていませんでした。
それどころか、岩倉具視に、慶喜の領地と冠位の返上までも求められたのです。

この仕打ちに、旧幕府側の怒りが爆発!!

1868年1月、鳥羽伏見の戦い勃発!!

最新鋭の武器を持つ新政府軍と人海戦術の幕府軍、膠着状態のなか勝負を決定づけたのは、「錦の御旗」でした。


朝敵となった旧幕府軍は敗走・・・。

容保、定敬は、追われる立場になってしまったのです。

「錦の御旗」を使ったのは、岩倉具視。
岩倉は慶勝に迫ります。
新政府と幕府・・・どちらにつくべきか・・・。


慶勝が下した決断は・・・

保守派の一掃に踏み切りました。
斬首は14人、処罰は20人以上に上りました。

そして、全ての藩士たちに新政府への忠誠を誓わせます。
血判状です。


世間の目は、尾張は徳川につくだろうと思っていました。
しかし、徳川を守るというのではなく、日本を守るかじ取りをする道を取ったのです。

新政府軍につくように説得工作を続けます。
およそ750通にも及ぶ手紙が残っています。

大名・旗本・寺・・・着々と工作が進んでいきます。

御三家筆頭の尾張藩が、情勢を一気に変えていきます。
東海道、中山道の43の藩、447の旗本領が、新政府に忠誠を誓いました。

この結果、新政府軍は無駄な血を流すことなく江戸に向かいます。

1868年、江戸城無血開城。

江戸城を受け取ったのは、先頭を歩いていた尾張藩士たちでした。

この慶勝の決断がなければ、日本の近代化は遅れていただろうと言われています。
戦争が長引けば、外国につけ入られたり、戦争からの復興も遅れてしまいます。

利勝の決断は、大きな血を流すことなく実権を手に入れたかのように見えましたが、その矛先は、会津若松城に向かいます。

この時容保は、反逆罪に問われていました。
これに対し、容保に同情した東北32の藩が同盟を結び徹底抗戦の構えを見せます。
激しい戦闘が繰り広げられます。

ひと月後、会津若松城は落城。
会津藩の死者は3500に上りました。

降伏した容保はとらえられ、新政府軍の沙汰を待つ身となります。
定敬は函館まで行きましたが、やはりとらえられてしまいます。
最後まで徳川への義を貫いた弟たち・・・。


そして、日本は近代化を果たします。
西郷隆盛・坂本龍馬などの志士たちが人気を博します。

しかし、慶勝は功績にもかかわらず、殿さまであるがために、政府から黙殺されてしまったというのが現実かも知れません。

茂徳の助命嘆願のよって、定敬、容保の命は救われました。
容保は、謹慎の後に日光東照宮の宮司に、後に定敬があとを継いでいます。


1871年廃藩置県により、名古屋城を後にします。

この時期、集中的に名古屋城を撮影しています。

そして、新政府の助けとなるように、金のしゃちほこを寄付します。
しかし、このしゃちほこは新政府の力を誇示する見世物にされました。


名古屋城を明け渡したのち、東京に移り住みました。
すでに広大な屋敷は失われ・・・隅田川のほとりで晩年を過ごしました。

ここでも写真を撮り続けました。

ちょんまげを切った慶勝。。。町の人々を撮っていきます。
殿さまから市民となりました。

明治11年には慶勝の呼びかけで、4人の兄弟が集まりました。
一枚の写真の納まった4兄弟。。。

それぞれの志を持って幕末を駆け抜けた4兄弟の最初で最後の写真でした。

この5年後、生涯を閉じることになります。

北海道の八雲町。。。
ここは慶勝が、旧藩士授産のために士族を移住させた場所です。

ここには八雲神社があります。
移住者たちはその氏神とするため、翌1879年(明治12年)に故郷の熱田神宮神符と尾張徳川家歴代の神霊を板蔵の二階に祭り、のちに八雲小学校の一室に移し、産土神として崇拝していました。


そして、八雲にお金を送り続ける慶勝がいました。8万円・今に換算すると50億円。。。自分についてきてくれた藩士のことを気にかけていたのです。
尾張藩主たちの末裔は、八雲にとって大切な人だったということを忘れないように命日である8月1日には集まってくるのでした。


日本の時代を時に手を組み・時に袂を分かち、国のあり方、近代国家について考えた殿さま・・・それが徳川慶勝だったのです。

尾張藩幕末風雲録 血ぬらずして事を収めよ
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幕末の尾張藩
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posted by ちゃーちゃん at 14:37| Comment(0) | テレビ番組 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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