2012年04月20日

井伊直弼〜死によって歴史を変えた大老〜

日本の政治の中枢・国会議事堂・・・ここからわずか600mにある桜田門。

ここで、1860年3月3日、一人の男が暗殺されました。
井伊直弼、徳川幕府のNo,2でした。

家康の徳川四天王と呼ばれた井伊直政を祖先に持ち、譜代筆頭の家に生まれた井伊直弼。
ペリー来航に揺れる時代に、幕府のNo,2として奔走します。
そして、この男が暗殺されると、幕府は衰退し、武士の世が終わることになりました。

この井伊直弼と切っても切れない深いかかわりを持つのが徳川斉昭。最後の将軍慶喜の父にして、徳川家のNo,2に君臨した男です。

No,2VSNo,2の戦いのゴングは、黒船の来航によって叩かれました。

井伊直弼のイメージが悪いのは、安政の大獄で吉田松陰を死刑にしてしまったためです。
吉田松陰は、明治政府にとって多くの元勲を輩出しました。西郷や大久保、新政府の伊藤博文や山縣有朋などです。
勝てば官軍・・・最大の理由は、明治政府は吉田松陰の弟子が作ったためでした。

桜田門外の変で井伊直弼の首をとったのは、薩摩藩出身の有村次左衛門ですが、攘夷派の水戸浪士の犯行でした。徳川斉昭が陰で操っていたという証拠はありませんが、安政の大獄で斉昭が失脚させられたのを恨みに思った志士の犯行だったようです。

では、2人の確執はどこから始まったのでしょうか?

ROUND1
1853年6月3日黒船来航。
ペリーが開国を求めるアメリカの親書を持ってやってきます。期限は1年後。。。
筆頭老中阿部正弘が各大名に尋ねたところ、攘夷がほとんどでした。
その先頭が斉昭で、彼は、海防参与も兼ねていました。

これに対して真向から異を唱えたのが、彦根藩主井伊直弼でした。
かれは、日本も大型船を作り、航海術を学び、外国と交易する・・・開国を唱えていました。
しかし、斉昭は直弼を鼻であしらいます。
それは、藩主になってからも日が浅く、14男。彦根藩の家臣ですら見向きもしていなかった男だったのです。

32歳まで過ごした彦根市にある埋木舎。そこからは彦根城が見えましたが、登城も許されない部屋住みの身分でした。それは、他の兄弟たちは他家へ養子に行く中、直弼にはお声もかからなかったからです。

埋木舎と井伊直弼
埋木舎と井伊直弼

年老いた家来と、わずかな捨扶持での生活。もはや当主になろうとは本人も思っていなかったでしょう。
「世の中を
  よそに見つつも  
   うもれ木の
 埋もれておらむ
   心なき身は」
花を咲かせることも出来ない人生・・・。
養子の口でもない限り、正式な奥さんももらえない生活。。。
しかし、直弼には寵愛する「村山たか」がいましたが、彼女の身分は低く、藩主になると正室には出来ない存在でした。

そんな中、藩主の兄が57歳で亡くなります。
で・・・直弼に白羽の矢が立ったのです。

直弼が江戸に出て親しくなったのは3人。
当代きっての名君・松平容敬、佐賀藩主にして蒸気機関車を作った・鍋島直正、佐倉藩主にして幕閣一の西洋通・堀田 正睦。
この3人から世界常識を学んだ直弼は、開国の必要性と攘夷の無謀さに気づきます。

1年後、約束通りペリーが7隻の軍艦を率いてやってきます。
幕府は、開国か鎖国かでもめます。
鎖国派・斉昭VS開国派・直弼。。。
斉昭は、面々から鎖国継続に自信を持っていました。が、この日大名たちが出した結論は、「開国」
直弼が大名たちを説得していたのです。

1854年3月3日、日米和親条約締結。下田・函館を開港。
アメリカは、日本に来るときは、大西洋を通りインド近くを通り、中国を通ってやってきていました。しかし、太平洋を渡ると日本はアジアの入り口、アジアの近道をするためには石炭や水の補給地が欲しかったのです。

ROUND2
病弱な家定の後継者争い。
斉昭が推すのは、一橋慶喜・19歳。
斉昭の7男で評判も高く、水戸藩から将軍を出したいと御三卿の一つ、一橋家に養子に出していました。

直弼が推すのは紀州藩の徳川慶福・10歳。
12代将軍の弟であり、家定のいとこに当たりました。

混乱した時代に10歳の将軍?

斉昭は、薩摩藩主・島津斉彬や土佐藩主・山内容堂ら外様大名と手を組み、慶喜擁立運動をしますが、これが裏目に出、先送りに・・・。

そんな中、1857年10月アメリカが、日米修好通商条約を打診してきました。

ROUND3

直弼としては、開国した以上貿易は仕方がない。これには多くの大名も同意していました。
が、修好通商条約の締結には孝明天皇の許可が必要でした。

斉昭は、これを後継者争いに利用します。
大公と義兄弟というコネを使って・・・鷹司に使者をだし、「勅許が欲しければ将軍後継者を慶喜にしなさい。」と、天皇に行ってもらおう。と画策します。

直弼は、関白に慶喜擁立に反対する理由を書状にしたためます。
@後継者を決めるのは将軍であり、外様や公家ではないということ。
A「慶福に決めている」と、将軍が言っている。


この後継者争いは、突然決着します。家定は、「慶福に!!」(のちの家茂)と宣言します。
そして、直弼を大老に任命します。
この時直弼は幕閣のNo,2となり、徳川家のNo,2斉昭と対等に戦える存在となったのです。

当時は、10歳であろうと、血筋が濃いかどうかで将軍は決まりました。おまけに、家定やその母に嫌われていた斉昭。。。直弼は斉昭をつぶすために、家定が大老に任じたのです。


正真正銘のNo,2となった直弼。しかし、開国を阻む最大の難関が・・・。

修好通商条約の締結に関して天皇の許可をもらうこと・・・です。

第2次アヘン戦争に勝利したイギリス・フランスの連合艦隊軍40隻が、日本に来るという情報が入りました。
ハリスは、修好通商条約を締結してくれたら、日米安全保障条約を付ける。つまり、イギリスやフランスから守ってくれるというのです。

植民地化を防ぐため、直弼は汚名をかぶります。
1858年6月19日、勅許のないまま日米修好通商条約締結。。。


ROUND4
勅許のないまま修好通商条約を締結したことに腹を立てた斉昭は、直弼に切腹させるため江戸城に・・・
しかし、直弼は公務を盾に現れず、時間だけが過ぎていきました。

夕方ようやく姿を見せた直弼。しかし、斉昭に朝の勢いはなく、押しかけ登城の責任を負わされ謹慎。
直弼に軍配があがったかに見えました。

2か月後の8月18日。
京都から書状が・・・
そこには、大老の直弼を無視して、斉昭に勅書が送られたことが書かれてありました。
「戊午の密勅」です。これは、勅許をとらなかった幕府をとがめ、水戸を中心に尊王攘夷行動するように書かれたものでした。

幕府としては、ショック!!戊午の密勅を無効にします。「天皇を無効にしていいのか!!」と、反発を食らいます。

これが、安政の大獄へと繋がっていきます。
安政の大獄では、水戸家老が切腹、勅書を届けた人間を死罪。そのほか、逮捕されたもの百余名、命を落としたもの14名にも上りました。
直弼は、その苛烈さから「井伊の赤鬼」と呼ばれることになります。

その意図は、禁中並びに公家諸法度で管理されている筈なのに。。。
当時天皇は、「開国はしたくなかった」ので、公家や水戸・志士が組んだことに直弼としては
「天皇を政治に利用するとは何事だ!!」と怒ったからです。
そして、天皇から水戸に直接はおかしい、やはり将軍を通すべきだ!!
将軍家を立て直すため、譜代の筆頭としての痛切な使命感から赤鬼になったのです。

1860年3月3日江戸城出仕の前の直弼に一通の書状が・・・
それは、早朝屋敷に投げ込まれたもの。
内容は、水戸浪士が大老襲撃を決行しようとしているので、出仕を控えるように。とありました。

しかし、直弼は出仕します。

井伊家から桜田門までおよそ500m。付くのは侍26名を含む総勢60名。

雪煙の中で斬り合いが・・・。

襲撃したのは水戸脱藩浪士17名、薩摩脱藩浪士1名。およそ15分前後。。。

暗殺の理由は、勅許なくアメリカと条約を結んだこと。
天皇の意向を汲まず、安政の大獄でたくさんの人を殺したこと。

井伊直弼の首―幕末バトル・ロワイヤル (新潮新書) [新書] / 野口 武彦 (著); 新潮社 (刊)
井伊直弼の首―幕末バトル・ロワイヤル (新潮新書) [新書] / 野口 武彦 (著); 新潮社...

彦根藩の若い藩士は水戸襲撃を主張しますが。。。
上層部は家名存続を優先します。というのも暗殺されるということは、士道不覚悟で、藩がおとり潰しになってしまうからです。幕府も戦を怖れ、お互いに隠ぺい工作がなされます。

「襲撃されるも撃退。しかし、けがをして出仕できないので、本日出仕を取りやめる。」としました。
翌日幕府側は、病気見舞いと称して朝鮮人参を持った使者を藩邸に。。。

直弼が生きているという茶番劇が行われました。
町人でさえ知っていたというのに。。。

直弼の墓に刻まれた命日は、3月28日。。。
つまり、井伊家は直弼の息子の直憲に家督相続をさせることを幕府に認めようとさせ、幕府は水戸藩に放棄するよう求めた。ようやく決着がついたときの埋葬だったので、タイムラグが生じたのです。


桜田門外の変のリーダーは関鉄之助。後に首を斬られます。
罰したのは斉昭。関与していたからそれを隠すためとも、関与していなかったので憤慨したとも言われています。
直弼の死から半年後の8月15日。水戸藩邸で斉昭が急死しました。あまりの急なことに彦根藩士による暗殺説も出たほどでした。
しかし、その真相は定かではありません。

幕府は軍事政権です。だからこそ、井伊直弼暗殺は幕府の権威が徹底的に失墜した事件でした。
そして一気に討幕へ・・・。

最近、直弼のラブレターが発見されました。
20代後半の時に書いたものです。
「名もたかき
  今宵の月は
   みちながら
 君を知らねハ
  事かけて見ゆ」
たかに宛てたものです。
直弼は、和歌も、歌も、書も・・・芸術的な人だったようです。
だから、たかも身分は低かったもののそんな直弼の相手となれるような賢い人だったと言われています。

たかは、直弼が江戸に行った後京に行き、勤皇の志士たちの情報を直弼に知らせていました。
暗殺されると尼となって、生涯位牌を守り続けました。

赤鬼と呼ばれた男、本当に極悪非道だったのでしょうか?

陽だまりの樹 5原作:手塚治虫 <TV>
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posted by ちゃーちゃん at 14:19| Comment(0) | THE ナンバー2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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