2012年04月11日

紙幣を見れば世界がわかる

今日もこちらのブログの方かなあ・・・。と思ったので、こちらに書きました。

地獄の沙汰もこれ次第?
お札のはなし その歴史、肖像と技術/植村峻
お札のはなし その歴史、肖像と技術/植村峻
我々の生活に欠かせない「お金」です。

昔は、貝殻や石を使っていましたが、文明の真価と共に変化して、現在は紙・紙幣が主流です。

紙幣には、人物の肖像が書かれていることが多いのです。
日本でも、2000円札以外は肖像画が、アメリカの紙幣でも有名な政治家などの肖像画が、イギリスに至ってはエリザベス女王が書かれています。

しかし、世界には、肖像画のない紙幣もありました。

ガーナの紙幣には、ぎっしり6人の人が映っています。
image[3].jpg
これは、ガーナ独立の立役者たち。初代大統領を含む6人で、誰ひとり外すことは出来なかったのです。

南太平洋のクック諸島では、サメと少女の神話が書かれています。
imageCA2HBBBR.jpg

海の神様を篤く信仰し、神話を代々伝えていくという意味が含まれています。

インドでは・・・。
表にはガンジーが、裏には15の言語で額面が表示されています。
そこに、英語とヒンドゥー語が追加されています。

その国を知りたければ、まずその国の紙幣を見ろ!!というぐらいに、いろいろなことが解ります。
紙幣を知るということは、その国の歴史・文化・人々の想いなどを知る一番の近道なのです。

世界の紙幣の種類や取引金額をまとめたカタログが、アメリカで発売されていて、切手のようにコレクターなんかもいるとか。

その小さな紙の上には、大きな世界が広がっています。

南アフリカ共和国、大自然の宝庫。そこに描かれているのは、全部動物です。
imageCAXNN0AB.jpg

しかし、どうしてライオンよりバッファローやヒョウの方が額面が高いのでしょうか?
それは、ハンターが仕留めにくい動物の順番なのです。

もう一つの理由は、南アフリカの暗い歴史、「アパルトヘイト」にあります。
白人が黒人を徹底的に差別することを認める非道の世界です。
1994年アパルトヘイト廃止。それを機に白人がデザインされた紙幣を見なおすことになりました。
が、今まで差別社会であったことから特定の人物を選ぶことは不可能だったのです。

だから、人ではなく動物がデザインされました。
それから17年、新しい幕開けが・・・。
12月から流通する紙幣には、ネルソン・マンデラが紙幣の顔になります。
これは、平和と平等への大きな一歩となるでしょう。


世界一おしゃれな紙幣・スイス。
世界的にも珍しい縦型。
imageCAYASHRF.jpg

描かれている人物は、彫刻家・小説家。歴史家・建築家・作曲家・芸術家でいっぱいです。
この紙幣は、世界一偽造しにくい紙幣だそうで、世界最先端の偽造技術が使われています。

予にも切ない紙幣・クウェート。
どこにでもあるようなものが印刷され、肖像画はありません。
それは、イスラム教の国だから。偶像崇拝の禁止された国だからです。

んな中、楽しそうに遊ぶ子供たちが書かれるようになりました。それは、湾岸戦争・・・あんなことが二度と起こらないように未来を託した子供たちが書かれています。

世界の紙幣には日本が描かれていることもあります。

カンボジアの紙幣には、工事中の絵が描かれています。
カンボジアの発展の為にたくさんの援助を行ってきた日本。
1966年に建設された日本橋。プノンペンと東北地方を結ぶ橋です。
この橋のおかげで経済が発展しました。

しかし、1973年激しい内戦・カンボジア紛争がありました。物流の要であるこの橋を破壊しました。橋は放置され、経済も発展しません。
時のフンセン首相が日本に依頼し、1993年橋修復のプロジェクトが開始されました。
カンボジアに乗り込んだのは大林組。
日本から来たスタッフは通訳も含めて数人、その前には様々な困難が立ちはだかりました。

雨季までに完成すること。
でも、土を掘り返すと地雷が・・・。当時、カンボジアには、至る所に地雷が埋まっていました。
その数1000万個。

軍による地雷撤去ののちにしか橋を造ることが出来ない。
おまけにカンボジアの技術者は、殆ど殺されてしまっていました。
そこで、元兵士をスタッフに採用することにしましたが・・・。
日本の規則は通じませんでした。

雨季まであと3か月・・・。
しかし、日本人の厳しい口調や態度は、カンボジア人にとって耐えられないものだったのです。
どうしても、ポル・ポト時代の強制労働を思い出してしまうのです。

言葉ではなく、直接技術を教え、規則も意味から丁寧に教えました。
労働者たちは、自ら働くようになりました。

そんな矢先・・・

「建設中の日本橋を新たな標的とする」

過激派ポル・ポトはの爆破予告が来たのです。
実際に日本人も殺されると、みんな帰国を始めました。

このままカンボジアに残るのか、日本に帰るのか?

「橋ができるまで、俺たちは帰らない!!」

ここで帰ればすべてが水の泡となる。カンボジアに残る決意をしました。

厳重に警備を固めながら、橋の建設が進みます。

そして、1994年2月日本橋完成。
その後も橋を架け続け、その数はカンボジア国内に13も出来ました。
そんな男たちの姿を紙幣に描きました。



日本は、たくさんの国に援助をしているので、このようなことも良くあるということでした。


いろんなことで、世界に参加して、存在感が表せるといいのですが・・・。黒ハート
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ラベル:紙幣
posted by ちゃーちゃん at 17:46| Comment(0) | ビーバップ・ハイヒール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

平清盛・勝利のカギは経済戦略!〜武士とお金の意外な物語〜

相変わらず、大河ドラマ「平清盛」、視聴率悪いですよね。
私はとっても楽しみにしているのですが黒ハート
面白いですよねるんるん
少年漫画っぽくって黒ハート

戦国時代、日本を大きく変えた革命児・織田信長、この英雄が名乗ったもう一つの名前は・・・「平信長」。
もしかすると、信長は400年前の改革者を思い描いて「平姓」を名乗ったのかもしれません。

革命児・平清盛は、日本を変革した男です。
時は平安末期、貴族が支配する時代、武士でありながら強大な軍事力で出世の道を上り詰め、ついには日本で初めて武士による政治を実現しました。

清盛の成功のカギは、画期的な経済戦略でした。
祖父・正盛、父・忠盛、子・清盛、三代かけて築いた出世街道、その方法とはどんなものだったのでしょうか?

清盛は、都で政治を支配するようになると、日本の改革を始めます。
その新たな活動は、アジアの先進国、中国・宋との貿易でした。
それまで300年以上途絶えていた国交を回復、宋の船を都の近くまで引き込もうとしました。


栄華を極めた平家一族。
しかし・・・
「奢れる者も久しからず・・・」
清盛の死後わずか4年で力を失い、壇ノ浦で滅亡します。
なぜこれほど早く滅んだのか・・・。
そこには経済戦略の失敗があったのかもしれません。
栄光と破滅の、その真相とは・・・?
経営者・平清盛の失敗 会計士が書いた歴史と経済の教科書 [単行本(ソフトカバー)] / 山田 真哉 (著); 講談社 (刊)
経営者・平清盛の失敗 会計士が書いた歴史と経済の教科書 [単行本(ソフトカバー)] / 山田 ...

「武士は食わねど高楊枝」これは、江戸時代に出来たものです。それまでは、西日本の武士は経済を重視し、勘定高い武士でした。文化は西からやってきます。おのずと西は先進地域となり、東はどん詰まりの関東となるわけです。つまり、洗練された平家と田舎っぽい源氏。という地域差もありました。

清盛は、武士の力と金の力を結びつけて勝利を掴んだ男です。
古い伝統の世に、新しい経済を持ち込んだ男でした。

長く続いた貴族の時代、平清盛が台頭してきます。
その要因となったのは、1156年保元の乱、1159年平治の乱でした。
この、都を舞台にした権力争いで、圧倒的な軍事力を持って勝ち残り、実力を見せつけて貴族社会の頂点に駆け上がりました。

平氏の強大な武士軍団、この大勢の武士を抱えることが出来たのが、お金。三代に渡って積み上げた努力の賜物でした。

武士は平安時代、弱い立場でした。
都の武士とは、武芸に秀でた下級貴族です。天皇や上級貴族の身辺警護や下働きをしていました。
立場は、番犬のようなもの。

そんな中、祖父・正盛は出世のチャンスを掴みます。

院が、従来の勢力に対抗するために武士たちを取り立てたのです。
つまり、天皇の元には、藤原摂関家と武士。これに対抗するために武士を傭兵として積極的に登用したのです。これが、平家や源氏となりました。

正盛は、白河院に土地を寄進して取り入ります。
そして、「従四位下」という異例の出世をしました。平家隆盛の基礎固めをしたのです。

忠盛はこれをもとに、経済の力をもって発展させます。
九州博多には、古より中国から最先端の文化が入ってきていました。
経済の力を使って利用したのか唐物・・・当時なら白磁でした。

当時は、年に一度、宋から船が来ていました。が、博多に住む宋の商人が窓口となって、大陸との取引がなされていました。しかし、これでは日本人の儲けにはなりません。

が、自ら博多に赴き、「唐物」「書物」を手に入れ、都の上級貴族に献上しました。
そうすることで、貴族が忠盛を目にかけるようになります。
「国司任命」・・・現在の県知事の地位を次々と与えました。
手に入れたのは五つの国「越前国」「尾張国」「播磨国」「備前国」「美作国」・・・豊かな土地ばかりで、それをもとに、莫大な財産を築いたのです。

この白磁、戦国時代には「茶器」が相当します。
珍しい「唐物」。しかし、貴族は貿易には手を出しません。
というのも、貴族は世襲制、新しいものが入ってくるということは、自分たちのシステムが崩れるということ。実力主義になっては困るものの、「唐物は欲しい」ので、武士を便利扱いしたのです。

忠盛は努力家で、歌人としても有名です。
書道にも通じる教養人でもあります。位を上げるために、涙ぐましい努力をしていたことが解ります。
しかし、貴族社会の壁は厚く、忠盛は「従四以上」で終わります。

清盛は、この財力をもとに、兵を雇って軍事力を強化、都で最大の武士集団となりました。

1156年保元の乱。朝廷内の権力争いに、武士の軍事力が利用されました。これを清盛は、大軍団を率いて勝利し、存在感を表します。
1159年平治の乱。源義朝を打ち破り、最強の存在へとのし上がります。
軍事力を盾に、発言力を強め・・・
一族悲願の出世、太政大臣「従一位」に上り詰めます。もしかすると、保元の乱、平治の乱がなかったら、この地位はなかったかもしれません。

平氏も源氏も世界的に見れば傭兵です。ものすごい力を持っているのに、立場的には弱い・・・。
貴族は情報を占有し、武士たちは自分の力がわかっていない時代でした。
時代の変化をとらえ、経済力を蓄えて実行力を身に着ける、長年の戦略が実を結びました。

豊かな財力と、圧倒的な軍事力で権力の座についた清盛。
時代は清盛を中心に、栄華を誇るようになります。
弟や息子たちを政治の中枢へ・・・一族による独占体制が作られていきます。
それは、「平氏あらずんば人にあらず」と言われるほどでした。

わが世の春を謳歌する清盛。
51歳の時、出家します。総領となり、政治の表舞台から身を引きました。
ここから清盛の新たな挑戦が始まったのです。
「日本経済を根本的に変える」
誰も行ったことのない改革でした。
これまでの宋宋貿易では、儲けに日本人が入り込む余地は少なかったので、日宋貿易となるように改革します。

日本人が管理する新しい港を建設します。「大輪田泊」です。ここでは、権益を日本が手に入れます。
莫大な私費を投じて瀬戸内海航路の開発も行いました。

「音戸の瀬戸」は、大きな宋の貿易船が入れるように、人工的に作った運河とされています。
その最終目的地は、忠盛が手に入れていた「播磨国」今の神戸・大輪田泊です。
大きな船が停泊できるように、石造りの人口埠頭「経が島」を作ります。
埋め立てに使った岩の総量は、200t以上と言われています。


さらに大きな改革を行います。
宋銭の導入です。
当時の南宋は、市場経済が発達していました。
進んだ経済と日本を繋げば、国内の商業が発展できるというのです。
清盛の経済戦略のカギとなる宋銭を、大量輸入しました。


平安時代の貨幣の代わりは、「米や絹」でした。
つまり、物品貨幣だったのです。
これは欠点が沢山ありました・・・。
@重くて運ぶのに不便
A長期の保存に適していない
B価値にばらつきがある

それに比べて貨幣は・・・。
@価値が一定
A簡単に数えることが出来る
B持ち運びに便利
C余ったお金は富として蓄えることが出来る

金属貨幣は、日本の流通を大きく発展させる可能性を秘めていました。
これには、貴族社会の構造にも影響がありました。
宋銭と比べると、不便な物品貨幣。おのずと米・絹の価値は下がります。貴族は損害を被り、没落していきました。
つまり、宋銭の導入は、平家と貴族社会の地位を逆転させた可能性があったのです。
平家は銭の価値を認識していました。銭に軸足を置いた経済は今までにありませんでした。
まさに、画期的な改革者でした。


しかし、平家は滅びます。
平家滅亡の悲劇は壇ノ浦で・・・。
平家が滅んだのは、清盛の死からわずか4年・・・
何故急速に滅んだのでしょう?

1179年清盛は独裁体制を固めます。平家の意向に反対する上級貴族を40名解任しました。
反対勢力の土地を奪い、一門で独占。。。全国の知行国の半数を独占しました。

1180年大輪田泊に近い福原に遷都します。これには、貴族や寺社勢力から不満が高まりました。
反平家の暴動が内乱へと発展します。
源頼朝が旗揚げ。
清盛は熱病で倒れ、一族はうろたえます。
清盛はこの熱病のため亡くなります。64歳でした。

清盛の死後、藩平家は広がる一方。圧倒的な経済力と軍事力で対抗できるはずだったのに・・・。
ここには、清盛の作った経済に落とし穴があったようです。

当時、西日本では大干ばつ、飢饉が起こりました。物の価値が変わって、”米が一番大事”となります。
経済に大きく影響し、貨幣価値が下がってしまったのです。

平氏家の周りの武士達は、資産を大幅に減らし、平氏から離れていきました。

それに比べて頼朝は、朝廷より関東の土地を管理し、分配する権限を持っていたので、武士の支持を集めます。
経済の力で武士を従えた平家とは対照的に、揺らぐことのない土地の権限をもって、武士の支持を集めたのです。

2軍は激突し、平家は滅亡します。

平家の経済ビジョンに対する反発と、憎しみが、平家に集中。。。既成の勢力を敵に回してしまった清盛の栄華は、清盛の死後4年で終わってしまいました。

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ラベル:平清盛
posted by ちゃーちゃん at 12:04| Comment(0) | BS歴史館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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